切り株のある丘で(くき)

 次の日から、少年は別人になった。


 目に輝きがやどり、猫背だったのが木の幹のようにまっすぐになり、朝は五時半に起きるようになった。生き生きと学校へ行き、狂ったように勉強し、四か月分の遅れを一週間で取り戻した。

周りの誰もが目を見張った。


 しかし、それ以上に、身だしなみが見違えるほどになった。

碌に寝ぐせもなおさず、たてがみのようだった髪の毛を毎日ブラシでとかした。

薬局でコンディショナーと整髪料を爆買いし、ニキビ薬を塗りたくり、一日に最低五回は歯を磨くようにした。


 部活を再開し、顧問も驚愕するほどの成績の伸びをみせ、毎日十キロを走り、家では気絶寸前まで筋トレにいそしんだ。生卵を呑み、牛乳をがぶ飲みし、その体はみるみるうちに引き締まっていった。


 学校へ来るたび、こう言われるようになった。

「おまえ、一体どうしたんだ」

少年は何も答えなかった。

しかし、心の中は、いつも思っていた。

―お前に分かってたまるかと、と。



 すべては、夕日が沈むまでの十分間の楽しみのために。



「遅くなってゴメン」

いつもの場所に、彼女は待っている。

少年の方が先に到着したことは、一度たりともなかった。


「おっけーだよ。こんにちは」

いつもと変わらない、少女のおっとりとした微笑みが、俺を待っている。

人里離れた山奥にひっそりとたたずむ、清楚な白いユリのような微笑みが。


「がっこう、どう?今日はなにかあった?」

毎日の学校生活での出来事を話すのが、日課になっていた。


「部活のチーム決め、もう少しでレギュラーになれそうだ」

少女は顔をパッと輝かせた。

「よかったじゃん!そのちょうしだよ」


 少年が一方的に喋るのを、少女はずっと、飽きもせずに聞いていた。

ところどころで表情を変えたり、気の利いた相づちを入れるのも忘れなかった。


 最初のうち、彼は上機嫌になって、終始自分の話ばかりしていた。

少女に会えるのも、そのために自分が変わってゆくのも、全てが嬉しかった。

その喜びを分かち合いたくて、一心不乱に話し続け、彼女もまた、それを楽しんでいるように見えた。


 しかし少年は、徐々に複雑な心境にもなった。


 彼女は、自分の自慢話ばかり聞いて、退屈していないだろうか。

本当は、自分の話も、聞いて欲しいんじゃないのだろうか。

だから、思い切って訊ねてみることにした。


「……あのさ」

「うん?どしたの?」

「―いや、お前さ、昼間は何をしてんの?」


 少女は一瞬だけ視線を宙に彷徨わせ、それから首をかしげた。

「うーんとね、へへへ」


 兄弟はいるのか、趣味は何か、好きな食べ物、好きな俳優、好きなゲーム、将来の夢、そして名前……。

彼女との会話を続けたくて、ありとあらゆることを聞いた。


 本当に、体重と胸のサイズと下着の色をのぞいた、すべてのことを質問したかもしれない。


 しかし、少女からの返答は決まっていた。

「うーんとね、へへへ」


 数日間、何度も何度も、質問しようと試みた。

彼女から、何かしら情報を聞き出したい。全ては、二人の会話を楽しむため。


 しかしそのうち、彼女は笑いながらこう答えるようになった。

「ぜんぶ、知ってるくせに」


 それでも、質問をやめることはできなかった。

そして、二人の沸点は唐突に訪れた。


「はぁ……どうして何も教えてくれないんだよ?俺、何か一つでも、答えたくないような質問したかな?」

「……ほっといてよ」


 少年はハッとして彼女の顔を見る。

いつもとは明らかに違う、張り詰めた表情。

今まで笑った顔しか見たことがない彼にとって、それは衝撃だった。


「ずっと言わないようにしてきたのに。きみにおしえたくないわけじゃない。いいたくない、ただそれだけ。なのにどうして、むりやり聞こうとするの?」


「意味が分かんねえよ!」

少年はムキになって言い返した。

「好きな食べ物も、好きな色も、家族も、今日の朝起きた時間だって、全部『言いたくないこと』なのかよ!」


 少女は、彼に詰め寄った。

顔と顔の距離が数センチまでせまる。

糸がはち切れそうな空気が漂った。すこし空いて、彼女は退き下がった。

そして、驚くほど抑揚のない低い声で、早口に告げた。


「かぞく?私のお父さんは、一年前に死んでるんですけど、それが何か?」

そう言うが早いか、彼女は踵を返し、足早に歩み去っていった。



 その日から、学校帰りに丘を通っても、少女は待っていなかった。

日が沈むまで、ずっと丘で立ち尽くしていた。彼女が来ることを願いながら。

それなのに、少女はその姿すら、見せることはなくなった。


 今日こそ来てくれ。いや、今日こそは!

会えることを信じて、毎日のように足を運んだ。

でも、そこに少女はいなかった。


 少年は、また独りになった。


 罪悪感に打ちひしがれていた。

どうして、あんなに質問攻めにしてしまったんだろう、俺は。


 ―雨が降っている。

もう梅雨の季節か……。

窓の外のどんよりとした空を見上げながら、少年はすすり泣いた。

またしても、自分に残された唯一の生きがいを失ってしまった。

それも、よりにもよって自分の手で。

―どうしてなの?

俺は、何を生きがいにすればいいの?


 目を閉じると、”後悔”という名の津波が、押し寄せてきた。

あの時、無理やり彼女のことを聞き出そうとしていなければ。

あの時、素直に謝っていれば。

あの時、去り際の少女を呼び止めていれば。


 ああしておけばよかったのに、こうしておけばよかったのに!


 空が、哭いていた。

降りやまない雨が、天の慟哭となって日本列島全体を包み込んでいた。


 その日は、一日中土砂降りだった。

『―列島を覆った梅雨前線は、太平洋高気圧の影響も受け、ますますその勢力を拡大しています。多い所では、一時間に八十ミリ、最大瞬間風速二十メートルを超す、猛烈な雷雨となっており―』


 今日の部活動は中止だ。

教室でスマホを片手にニュースを眺めながら、少年はやきもきしていた。

暴風のせいで電車が止まっているため、帰れない。


 学校の最寄から電車で十分、そこからあの丘を通る道を真っ直ぐ行くと、彼の自宅だ。

電車ではすぐに行ける距離でも、歩けば相当な時間がかかる。

この天気ではなおさらだ。


 でも。


 彼は、心配でならなかった。

今日こそは、彼女が来ているのではなかろうか。

冷たい雨に濡れながら、俺が来るのを、待っているのではないだろうか。

いや、もしかすると、彼女も今帰る途中で、なすすべもなく立ち往生しているのだとしたら……!


 それが可能か不可能かを考えるまもなく、彼は教室を飛び出した。

半分転がり落ちるように階段を下り、傘を差さずに駆けだした。傘をさすと、走るときに邪魔になるからだ。

外に出た瞬間、上からバケツの水を浴びせられたようになった。

制服が重くなる。


 彼は東の空を見上げた。

雲に覆われてよくわからないが、日没までの時間は長くなさそうだ。


 それでも、少年は走った。

道路は川になっていた。階段は滝になっていた。

くるぶしまで雨水に浸かりながら、それでも彼は走った。

やがて、学校の最寄り駅が見えてきた。

案の定、仕事終わりのサラリーマンや、学生たちが右往左往している。


 それらの人混みをしり目に、彼は線路の高架線にそって走った。

やがて、小高い山が見えてきた。線路は、いつもここでトンネルに入るのだ。

少年は身震いした。

あの山を越えるなど、自殺行為も甚だしい。

いつどこで土砂崩れの餌食になるか、分かったものではない。


 それでも彼は駆けだした。

山にしがみつき、喰らいつくような勢いで登った。

それほど高い山でも、急な山でもない。どこにでもあるような、ちょっとしたものだ。

しかし、地面はぬかるみ、崖の上からは頻繁に石ころが落ちてくる。


 はるか前方から、くぐもった音が聞こえてきた。

ごうごうと何かが崩れるような音。木の裂ける、メリメリという音。

かすんだ視界の隅に、土砂崩れの山が見えた。

落石や土砂の塊のうえに、倒木が幾重にも折り重なって道を封鎖している。


 天の神は少年を、少女に引き合わせないことに決めたらしい。


 喧嘩上等だ。ならば受けて立つ。


 少年は、取りつかれたように土砂の山を登り始めた。

落石の角にあたり、足が切れる。

倒木の裂け目にあたり、顔が切れる。

それでも彼は、一心不乱に登り続けた。


 一心不乱!それこそ、彼の心象を表すに足る言葉ではなかろうか。


 ああ、どれくらいが経っただろう。

彼の足は棒になっていた。体力も、ほとんど残っていない。

膝ががくがくと震え、手はかじかむ。

それでも、少年は山を越えることに、辛くも成功した。


 山を越えればもうすぐだ。

やがて、高架線の先に、駅が見えてきた。

あそこまで辿り着けば、あとは丘まで一直線。


 少年は、見えない綱に引っ張られるかのように、または見えない手に背中を押されるように、吹き付ける風よりも速く走った。

沈みゆく太陽の、十倍も速く走った。

走れ、俺。お前は英雄だ!国語の授業を思い返しつつ、彼はそう言い聞かせた。


 やがて、丘が見えてきた。

本当に、やっと見えてきた。



 丘の上には、少女が立っていた。

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