8:終わる奇跡と夢の跡

 チェロの音色が、パウロの耳に届いた。


 馬の蹄が石畳を叩く音。馬車の車輪が回る音。人々の話し声、笑い声。屋根に停まる白いハトの飛び立つ音。

 喧騒を通り越して、チェロの音色が聞こえて来る。

 低く、貫くような、人の歌声のような、身体中を震わせるチェスの音色。

 黄金の尖塔が空に向かって突き立っている。

 その根元に、街の中心であった広場がある。

 演奏はそこから聞こえる。


 始めは確かめるようにゆっくりと、少しずつ慎重に。手探りで一歩一歩を進むような音色だった。音色は大きくなっていく。チェロの独奏が風に乗って広がっていく。動き始めた船が大海を切り裂いて進むように、徐々に、力強く。


 パウロは走った。馬車を追い抜き、人々をかき分けて、広場へと駆ける。

 階段に座り込む少女が、大きなチェロを演奏している。

 左手で弦を操り、右手で弓を弾く、青いドレスを着た少女の姿。栗色の髪にリボンを飾り、長いまつ毛が琥珀色の瞳を隠している。彼女の姿は楽器と一体になっているように見えた。


 少女の心臓の鼓動とチェロの呼吸、操る弦の奏でる音色が混ざり合って夜の空へと溶けていく。まるで雨音や波の音のように、彼女の演奏は自然で、完璧なものだった。抑圧も束縛もない。彼女の内側から溢れる光が自由奔放に飛び回り、暗闇の空を駆けまわっている。空を覆う虹色の幕が、彼女の演奏に合わせて歌っている。


 蘇った廃墟の街も黄金の尖塔も、パウロの目には何も見えなくなった。

 パウロの作り上げた最高のチェロと、最高の演奏をする彼女。

 目を閉じてすべての感覚をチェロの音色に傾ける。

 音の波長とすべてが一つになり、自分という存在すら見失う感覚。

 本当に優れた演奏家だけが奏でる、至福の音楽。

 彼女にはそれだけの力があると信じていた。

 あのチェロを彼女が奏でれば、誰にも負けない最高の演奏になると信じていた。

 すべてが戦火に消えた廃墟で、パウロの願った夢は現実のものとなった。

 彼女が演奏を終える。

 余韻だけがいつまでも、残響のようにパウロの心に響いている。


 パウロは目を開いた。まだ奇跡の夜にいた。虹色の空と復活した街の中に。

「……パウロ?」

 少女の琥珀色の瞳が揺れている。

「パウロなの? そこにいるのは……」

 少女が立ち上がった。

「そうだよ。ニコラ、ぼくだ」


 パウロも彼女に近付いた。身体が震えて、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。 ゆっくりと近づき、ニコラの手を取る。体温を感じる。白く柔らかい手のひらに汗をかいている。

 夢でも幻でも良い。生きていた頃と同じ姿で、ニコラが今ここにいる。


「会いたかった、ニコラ。ずっとキミに会いたかったんだ。街が焼け落ちてから六十年……ぼくはずっとキミのことだけを想っていた。記憶が色褪せて何もかもが風化していくのに、キミを喪ったことだけが忘れられなかった。ぼくはキミを愛していたんだ。キミを喪って生きるくらいなら、共にあの時に死んでしまえばよかった。ぼくはキミを助けることもできずに一人で逃げてしまった。ぼくを許してくれ、ニコラ」

 パウロはニコラの身体を抱きしめた。ニコラもおずおずと、彼の背中に手を回す。

 叶わないはずの願いが叶った。これが夢でも幻でもいい。今日まで生きて来たことのすべてが報われた。

 涙で滲むパウロの視界に、黄金の尖塔が滲んで映った。

 尖塔だけではない。絵の具が溶けて流れ出すようにすべての景色が滲んでいく。霞む視界の向こうで、空が白んでいるのが見えた。


「夜が明ける。魔法が終わるぞ」

 ヨハネスの声が聞こえた。


 パウロはもう一度強く、彼女を抱きしめた。まだニコラはここにいる。彼女の体温はここにある。せめて最後の瞬間まで、彼女の傍を離れたくはなかった。


「パウロ……許してなんて言わないで。わたしもアナタに会いたかった。アナタを忘れたことはほんの一時もない。わたしもアナタを愛している。今でもずっと」


 白光が目蓋に突き刺さる。夜明けの太陽が水平線から姿を見せた。

 幻の時は終わり、栄華の都は再び横たわる廃墟へと姿を変える。

 一夜の奇跡が終わる。

 太陽がその光で地上を照らした時、すべての魔法は消えた。


 パウロが最初に感じたのは身体中の痛みだった。

 全身にずしりと圧し掛かる、馴染んだはずの疲労感。枯れ木のような指先が冷え切っている。

 かつての少年だった自分ではなく、年老いた老人のパウロに戻っている。

 一夜の夢、魔法の奇跡。自分が立つのは滅びた故郷の土の上。

 魔法が消える直前。彼は愛する少女の幻影を抱きしめた。

 その腕の中にまだ彼女のぬくもりと――。


「パウロ?」


 抱きしめた腕の中に、一人の女性がいた。痩せ細った身体に皺だらけの顔。琥珀色の瞳――老いた美しさの中に見間違えようのない、ニコラの面影がハッキリと残っている。

 老婦人は痩せた手で、パウロの頬を撫でる。偽物でも幻でもない。その細い手から彼女の体温を感じる。

「ずいぶんと老けたわね、パウロ。すっかりおじいさんになってしまったわ」


「ニコラ……ニコラ? どうして? キミは……だって、キミは死んだはずでは?」

「おかしな人ね」

 老婦人は笑った。

「わたしはここにいるわ。アナタも」


 パウロは困惑し、振り返ってヨハネスを見た。

「おれをウソ吐きだと思うなよ。死んだ人間は生き返らない。過去は変えられない。不老不死も存在しない。おれはこの街の記憶を呼び覚まして、あの日の戦いで死んだ人間をひとり残らず再現した。だがニコラなんて少女は見当たらない。妙だと思ったよ。彼女は死んでなかったんだ」

 オークウッドの杖を持った少年はパチンと指を鳴らした。杖の先端に吊るされたランタンから灯りが消える。

「魔法なんかじゃない。アンタの目の前にいるのは、本物のニコラだ」


「そんな……そんな、ことが」

 パウロは彼女を見つめた。

「キミは、あの日の戦火を生き延びたのか?」

「館は焼け落ちて、家族は誰も助からなかったわ。わたしはたまたまアナタの工房へ向かう途中で……煙に巻かれて港へ逃げたの。身代金目当ての占領軍に捕まって船に乗せられたのだけど、戦争が終わったあとに救助されたわ。それからは親戚を頼ってずっと隣国に暮らしていたの。パウロ、アナタも死んだと思っていたから……」

 年を経ても変わらない、ニコラの美しい瞳が涙に濡れている。

「昨日の夜、わたしはベッドで寝ていたはずなの。でも気が付いたらここにいて、わたしはあの頃の姿で、工房には完成しているチェロがあって……夢だと思ったわ。だって、何もかも全部あの時に消えたはずだもの。夢か、そうでなければ天国からアナタが迎えに来たのだと思った」

 すべては消えたはずだった。一夜限りと願ったはずの夢も消えて、滅びた故郷と共に再び永遠の眠りについた。それなのに彼女は今、ここにいる。


「アンタの願いはニコラにもう一度会う、だったからな。魔法を使って彼女にお越しいただいたワケさ。ちょっとサービスし過ぎたかも知れないが……」

 悪戯っぽく、ヨハネスが唇を歪めて笑った。

「奇跡を起こすのが魔法使いの役目だからな」


 起こるはずのない奇跡、叶うはずのない願い。

 あとはただ緩やかに死んでいくだけだった人生に、最後に希望の火が灯った。

 遥か昔に流し尽くしたはずの涙が、パウロの頬を一筋伝った。


 パウロは再びニコラを抱きしめた。

 折れそうなほど細い彼女の身体は、確かな熱を帯びていた。


【了】

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夢の跡 鋼野タケシ @haganenotakeshi

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