5:よみがえる街と奇跡の夜

 魔法使いのヨハネスと共に、年老いたパウロは故郷へ向かった。

 馬車を乗り継ぎ、もはや誰も通らない街道跡を辿り、老骨に鞭を打ち、数日を掛けてようやくたどり着いた。

 かつて朝日の輝きと共に眺めた黄金の尖塔を、今は真夜中の月の下で眺めている。塔も輝きも痕跡すらなく、ただ朽ち果てて雑草の這い回る土台だけが残されている。


「ここだ……ここが街の中心、黄金の尖塔の建っていた広場だ。間違いない。工房は通りを曲がってすぐそこのはずだ。戦争で何もかも破壊されてしまったが」 


 昔を想い、年老いた目を細める。崩れた瓦礫の上に風で運ばれた土や砂が堆積し、植物が芽吹いている。この荒れ果てた丘にかつて栄華を誇った大都市があったなど、誰も想像しないだろう。ニコラと過ごした短い時を昨日のように思い出せるのに、気付けばあの日から六十年が過ぎている。


「戦線が近付いていることをわたしは知らなかった。思い返せば街中にキナ臭さが漂っていたが、わたしはほんの子供に過ぎなかった。無邪気にも国の力を信じ、何も心配していなかったよ。軍は最終防衛線の海峡を守り切れなかったのだろう、大船団が国に接近していたのだ。あの日のことは今でも夢に見る。あの砲撃の音と悲鳴は」

「争いは人の愚かさの象徴だな」

 魔法使いの少年があざ笑う。

「奪う方も奪われる方もいずれ滅びるのに」


「キミの言う通りだ。わたしたちの国は滅びた。敵国が滅びたのもそれからわずか数日後だ。内乱が起こり鎮圧できず、その隙にまた他の国に滅ぼされた。わたしの仲間や街の住民たちは何のために殺されたんだ? 破壊され、略奪され、誰も勝利を得ずに何もかもが滅びてしまった」

「あらゆるものは産まれ、成長し、成熟し、やがては年老いて衰退する。そして滅びるんだ。命も国も変わらない。かつてここに命や夢があったことを知るのは廃墟の瓦礫と雑草だけってワケだ。それとおれたち魔法使いか」

 トン、と音を立ててヨハネスがオークウッドの杖で地面を突いた。まるで突き刺さったかのように、ヨハネスが手を放しても杖は自立している。鉄のランタンが風に揺れ、不規則に揺らめいている。


「じゃあ、そのニコラってお嬢さんに会いたいんだな? 街のどこで死んだのか、わかるか?」

 ヨハネスの問いかけに、パウロは首を横に振った。


 あの日、パウロは混乱と混沌の中を逃げた。砲撃に砕け散る瓦礫。爆ぜる炎。絶え間ない悲鳴と鳴り続ける警鐘。あたりには焼け落ちた建物と人々の死体が転がっている。目の前で黄金の尖塔が崩れ落ち、何人もの人々が下敷きになった。血と、死者の肉体の一部がパウロの身体にも浴びせかけられた。やがて砲撃に銃声が加わった。風の音が死者の怨嗟に聞こえる。パウロは逃げ惑う群衆の一部になって、迫りくる炎と銃撃から逃げた。煙に激しくせき込みながら城門の瓦礫を乗り越え、息も絶え絶えに何十マイルも歩き続けた。


 あの夜は星も月も見えなかった。故郷を焼く炎が沈む夕陽のように、地平線を焼き尽くしていた。わずかに逃げ延びた同胞たちは力なく、誰もがうなだれていた。街の焼け落ちる音と人々の慟哭がいつまでも響いていた。


「……わたしは彼らの間を歩き回った。彼女の名を呼びながら。だがニコラの姿はなかった。彼女の家族も屋敷に仕えていた者の姿も。ニコラが館の中で死んだのか逃げる中で力尽きたのか。わたしにはわからない」

「そうか。それは難しいな」

「できないか? キミの魔法でも。わたしの膝は簡単に治してくれたのに」

「アンタの膝はサービスだ。願いを叶えるためにここまで歩かせなきゃならなかったからな」

 ヨハネスが思案するように細いアゴを撫でた。


「無理だと言うなら、別に構わない。もうずいぶんと奇跡を見せてもらった」

「バカ言うな。アンタの願いを叶えるって約束だからな。それに、奇跡を起こすのが魔法使いだって言ったろ? まあ、見てなよ」

 地面に突き立てたオークウッドの杖が、輝き始めた。赤と青の光が幾何学模様のように表面を走る。杖が細かく振動を始める。ヨハネスがその杖を掴み、空高く掲げた。


 赤と青、二条の光が杖から放たれた。光は天空を貫き、空から虹色に輝く雨が降る。染料が溶け出すように、虹色の雨はゆっくりとパウロに、大地に、朽ち果てた廃墟の街にしみこんでいく。滅びた世界が虹色の光に満たされる。眩しさにパウロは目を閉じた。閉じた目蓋の向こうで、輝きが増していくのがわかる。

「これでいい。目を開けて確かめてみな」

 ヨハネスの声が聞こえる。


 恐る恐る、パウロは目を開けた。視界に飛び込んできたのは、太陽の光を照り返す黄金の尖塔だった。


 シャボン玉の内側から眺めているように、空を七色の光が覆っている。立ち並ぶ煉瓦作りの商店、かつて少年時代を過ごした工房が通りの向こうに見える。黄金の尖塔を中心に放射状に広がる石畳の道路。そして行き交う人々に、活気に満ちた喧騒。崩れた瓦礫も死んだ街を埋めた土砂も何もかもが消えて、パウロの目の前に故郷が蘇っている。

「ああ、これは……なんということだ。これは……こんな、こんなことが」

 感動は言葉にならなかった。滅びた街が蘇り、パウロはその中にいる。かつて楽園と信じた故郷の街に。


 魔法使いのヨハネスは杖の石突で地面を二、三度叩いた。

「魔法が保つのは一晩で、夜明けの太陽が昇る頃に魔法は消える。まぁ数時間ってところだ。ペテンと思われたくないから最初に教えておくが、この光景は廃墟の記憶を再現しているだけだ。戦火の日に死んだ人間は全員、街のどこかにいる。アンタはこの記憶に触れることもできるし、今はもういない者たちと会話もできる。だがあくまでも過去の記憶だ。死の運命に有る者を街から連れ出したところで、そいつが死んだという過去は変わらない。夜明けになればすべて消える。それを忘れるなよ」


 平然と行われた奇跡に言葉を失い、パウロはまだ震えていた。自分の口元を抑える。そしてその手が皺と傷に塗れた老人のものでなく、少年のものであることに気付いた。

 自分自身の身体を見下ろす。まだ街で職人の見習いとして生きていた頃の恰好に戻っている。麻のズボンにニスの染み付いたシャツをサスペンダーで留めている。恰好だけでなく身体まで、十代の頃に若返っている。強行軍の疲れも消えて、肉体が生命力に満ち溢れていた。


「それもサービスだ。一夜限りのな。さあ、ニコラってお嬢さんを探しに行け。急がないと夜が明けちまうぜ」

「あ……ああ」

 パウロは震える拳を握りしめた。


 せめてもう一度だけ、一瞬の幻でも良い。ずっとパウロは考えて来た。もう一度彼女に会えるのなら、何を犠牲にしてもいい。

 喪われたはずの街の中をパウロは歩く。すべてがあの日の記憶のまま、滅びた街が色褪せることなく蘇っている。

 歩みが速くなった。肉体の若返りに伴って、老いた頭の奥底にしまわれていた記憶が濁流のように溢れ出す。心のどこかで長い眠りに就いていた、ニコラへの想いも。

 気付けば走り出していた。通りを駆け抜け、彼女の屋敷へ続く坂道を進む。


 今夜は奇跡が起こる。ニコラに会える。あの日、永遠に別れてしまったニコラと。

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