6:幻影を走る望郷の少年
空には満月が輝き、その下を虹色の幕が覆っている。
一夜の復活を遂げた街の住民たちは、自らの異変に気付くこともなくかつての日常を過ごしている。幼い兄弟が通りを走り回っている。少女が花壇の淵に腰かけてレモネードを飲んでいる。ガラガラと音を立てて馬車が通り抜けていく。何もかも変わらない。滅びる直前の姿のまま。
ああ、そうだ。わたしの故郷だ。あの日に失われた姿のままだ……。
パウロは虹色に輝く空とその下に蘇った街の姿を眺める。もう二度と見られないはずの光景を脳裏に焼き付けるように。
貴族たちの暮らす高級住宅地に近付くと、人通りは少なくなった。石畳の轍を走る馬車も国営の巡回馬車ではなく、貴族の所有する高級なものが多くなる。染みやほつれのない幌に大きく家紋が縫い付けられていた。
敷地を囲む鉄門を開き、屋敷へと走る。見覚えのある庭師の老人――当時は老人だと思っていたが、今のパウロの年齢よりもずっと若い――がパウロに声をかけた。
「忙しないな、パウロ。そんなに急いでどうしたんだ」
庭師の優しい声、笑顔。当時の記憶が蘇る。そうだ、彼はいつもパウロを気遣ってくれた。平民が貴族と行動を共にすることの難しさを良く知っている人だった。
「ニコラに会いに来たんです」
息せき切って、パウロは答えた。
「ニコラお嬢様か。どこかお出掛けなさったみたいだけどな」
「いないんですか? どこへ行ったかわかりませんか?」
「さあ、お嬢様はすぐに行方をくらますから。お嬢様のお転婆っぷりにはご主人も手を焼いているよ。まあ、そういう天真爛漫なところがみんなに好かれるんだけどな。戻って来るまで待つか? ちょうど休憩しようと思ってたんだ。良い茶葉を貰ったから、一緒に飲もう」
老人が親し気にパウロの肩を叩いた。ゴツゴツとしたその手のひらの感触も、肩に触れた体温も本物だった。
「……ありがとうございます。でもぼくはニコラを探しに行きます」
「そうかい? そりゃ残念だ。じゃあ次に来た時にでも茶をご馳走するよ」
パウロは頷き、屋敷の庭を後にした。それから庭の小屋に戻ろうとする老人に振り返り、もう一度大きな声で礼を言った。
彼もあの日この場で命を落としたのだろう。彼だけではない。パウロによくしてくれた屋敷の人々、市場の商人たち、同じ地で暮らした街の住民。友や恩人、名も知らない隣人たち。
多くの命があの日、炎と共に消えた。
彼女の幻を探して、パウロは街中を走り回った。彼女の行きそうなところは見当もつかなかった。何しろニコラは良家のお嬢様でパウロは職人の徒弟だ。身分がまるで違う。そんな二人が偶然にも接点を持って、パウロはわずかな時で彼女に心を奪われた。
失われたはずのニコラを探し、宛てもなく走り回った。パウロには縁のない貴族御用達の衣装屋に花屋。彼女の父が所有する馬小屋に楽器店。彼女はどこにも見つからない。
港には船が停まっていた。黒々とした夜の海を遠目に眺める。あの日、水平線の向こうから軍艦がやって来て、街を火の海に変えた。だが今は海も薙ぎ、真夜中の水平線は月夜に隠されて見えない。ニコラはどこにもいない。
パウロはかつて自分が暮らした工房へ向かった。工房の中には、若き日の自分自身が作業していた痕跡がはっきりと残っている。テーブルの上に置かれた図面に、切り出された木材。弦の切れ端も床に落ちたままだった。だが、工房にもニコラの姿はなかった。
パウロはイスにへたり込んだ。
彼女が最期に行こうとしたのはどこなのか、わからない。もしかしたら館へ戻ろうとしていた途中で、戦闘が始まったのかも知れない。
ヨハネスは魔法を一夜限りの奇跡だと言った。もしもこの夜にニコラと会えなかったら、こんなチャンスは二度と訪れない。
だが、どうやって……
テーブルの上に残したままの図面を見る。ニコラのために作ろうとした最高傑作のチェロ。あの時に感じたような、燃えるような情熱はパウロの心でまだ燻っていた。
街が紅蓮の炎に焼かれ、故郷が廃墟へと化した時に、パウロの心に大きな穴が空いた。彼の親代わりであった師匠の別れとは違う。いずれ訪れる死で失われたのではなく、あり続けるはずだったすべてが、突如として消え失せた。
パウロはニコラの死を認められなかった。生き残った人々が現れるのを期待して、何日も何日も国境線で待ち構えていた。痺れを切らして故郷へ戻った時、占領軍さえいなかった。敵国は勝手に瓦解し、パウロの国を滅ぼした兵隊たちも散り散りに逃げていた。死体もすべて焼却されたのか、街の外に焼け焦げた骨が山積みになっていた。命の痕跡はそれだけで、廃墟に人の気配はどこにもない。
あの光景を見た瞬間、ニコラは死んだのだと悟った。
月日を重ねるたびに絶望や悲しみは薄れて行った。親しかった者たちの顔や名前も思い出せなくなっていき、今では過不足なく生きられる日常に幸福を感じている。
だが自らの内側に目を向ければ、黒々と空いた心の穴が残っている。大きく開いた穴は何をしようと埋め合わされることもなく、時は空しく通り過ぎて行った。
幼い日の自分が、まだその穴の淵で佇んでいる。パウロは心の穴を見ないようにして、忘れるために楽器作りに没頭した。どれだけの楽器をつくり、あの頃よりも慣れた手付きでチェロを作ろうと、焼け落ちた故郷に残した最高傑作に届く物は結局、一度としてできなかった。彼女のために作った、最高のチェロ。
パウロはハッとして、工房を見回した。
チェロがない。
若き日のパウロがつくりあげたチェロが。
テーブルには図面が放り出されている。足元には切り落とした木片が落ちている。ニスの壺も弦の切れ端もそのままだ。戦火で焼け落ちる直前の人々、そして街の姿も復活している。それなのにどうして、チェロだけが?
完成したチェロを、パウロは工房に置き去りにしていた。彼女を呼ぼうとしたのか、それとも彼女に届けるための馬車を手配しようとしたのか。細かいことは思い出せない。
だが街の燃え落ちるあの瞬間、チェロが工房にあったのは間違いない。それが今、工房にないのだとしたら。
工房から持ち出すような者は一人しかいない。
ニコラが、あのチェロを持っているはずだ。
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