4:滅びた街のかつての少年
この世に楽園があるとすれば、それは故郷の王国に他ならない。
幼い頃のパウロはそう信じて疑いもしなかった。
王国は海運を支配し、産出される塩や香辛料、運ばれる鉱石や宝石も莫大な富をもたらした。相次ぐ戦争の需要で国庫は巨万の富で満たされ、周辺諸国との盤石の結びつきは恒久の平和を信じさせた。
海を渡りもたらされるのは物品にとどまらず、世界中の知識や娯楽が国中に溢れている。世界中のあらゆるすべてを集めた理想郷。日が落ちても街は灯りに満たされ、人々の笑い声は昼夜を通じて絶えることはない。
黄金で築かれた尖塔が国の象徴として光輝く、夜を乗り越えた不夜の国。
パウロが産まれた七十年前、王国はまさに繁栄の頂点にあった。
孤児だったパウロは国の保育施設で七つまで育てられ、楽器職人に引き取られて弟子となった。生来の耳の良さと優れた指先の感覚で、パウロは職人の技と瞬く間に吸収する。彼の作る楽器は並の楽器職人をはるかに凌駕し、師ですら舌を巻くほどの出来栄えだった。
パウロの楽器は宮廷に献上され、宮廷音楽家を始めとした王侯貴族も狩れの楽器を好んだ。十五を迎える頃には天才職人パウロの名は国中に響き渡り、師が死んでからはたった一人で工房を切り盛りした。
パウロの楽器に惚れこんだ貴族の一人に、とある少女がいた。
少女の名はニコラ。数々の宮廷音楽家を輩出した名家の、十二番目の娘がニコラだった。
初めて会った時、ニコラは一人の男性に連れられていた。男はパウロの客で、以前にも楽器を売ったことがある。
「彼女にチェロをつくって欲しいんだ」と、その男は言った。
「おれの妹でね。チェロを演ると言って聞かない。頼まれてくれないか」
「チェロ、ですか?」
チェロは座ったままで演奏し、両足で楽器を挟んで固定する必要がある。小柄なニコラが演奏するには難しいのではないかとパウロには思えた。
「ちょっとお時間が掛かりますよ。ここ最近、定期の船便の到着が大幅に遅れているので弦も木材も使える物が少ないんです。それか輸入の品で良ければ、サイズの小さなチェロもあったと思いますが」
「キミに作ってもらいたいんだよ。おれ自身がキミを買っているというのもあるが、ニコラの希望でね。時間も金もいくら掛かっても構わない」
「そう仰っていただけるなら、お作りしますよ。お嬢様に合わせてつくるなら、採寸をしなければなりませんが……」
パウロは工房の惨状を思い出した。散らかり放題で、とても貴族の立ち入るような場所ではない。
「明日にでも、お宅へ伺わせていただきます。それと、採寸のためにお身体に触れさせていただく必要がありますが、大丈夫でしょうか。その、お嬢様にですが」
いくら天才職人ともてはやされようと、パウロは平民出身の少年に過ぎない。貴族の、それも未婚の女性に触れるなんて当時の考えでは許されることではなかった。
「触れなきゃつくれないでしょ? 当たり前じゃない」
ところがニコラは気にも留めず、そんなことを言った。
彼女は応接間のイスから立ち上がると、隣接する工房のドアを勝手に開けた。
「ここで楽器をつくっているの?」
乱雑に散らかった工房に入ると、彼女は書き掛けの図面を興味深そうに眺め、工房に並んだ楽器を熱心に観察している。
「お嬢様、そちらは散らかっていますから……」
やんわりとパウロが止めようとする、彼女は不服そうに眉根を寄せた。
「どうして? わざわざ屋敷に戻ることなんてないわ。ここで採寸すればいいじゃない。違う?」
「それは……まあ、そうですか」
「引き受けてくれるのでしょう? それなら、さっさと始めましょう。わたしは演奏がしたいの。一日も早く、わたし用のチェロを作ってちょうだい」
パウロや他の職人たちにとって工房は聖域だが、貴族の子女からしてみれば木くずが散らばりニスの臭いが充満する部屋などゴミ溜めと同じだろう。しかしニコラは意にも介さない。まるで美術品の博覧会にでも来たかのように、目を輝かせて工房を観察している。
「妹はこういうやつでね。一度決めたら考えを曲げないんだ。おれの真似をしてチェロを演ると言い出すし、他の楽器じゃ納得しない。挙句、キミのつくった楽器じゃないとダメだって聞かないんだ。頼まれてくれるか、パウロ」
結局は押し切られる形で、その場でチェロの採寸を始めた。
「それじゃあ、座ってください」
彼女を椅子に座らせて、見本用のチェロを持たせる。やはり小柄なニコラに比べるとチェロはかなり大きく見える。
厚みのあるチェロは他の楽器に比べて弦が遠い位置にある。音階を抑える左手は肘を曲げて拳の位置にナットが来るようにサイズを測る。右手に弓を持たせ、彼女にとって理想の形を模索する。
採寸し、パウロが図面を描いている間、ニコラは勝手にチェロを演奏し始めた。数百年前の音楽家が作曲した、チェロの独奏曲。
ニコラの演奏するチェロは、小柄な身体には不釣り合いなほど大きい。演奏はどこかもどかしく、抑圧されたような息苦しさを感じる。
「聞いての通り、腕前は凡以下だけどな」
男性が苦笑して言う。
同じ楽器で同じ曲を演奏しても、印象はその時々で違う。初めて聞いた彼女の音色は、確かにお世辞にも上手いとは言えなかった。
だが、彼女の演奏はパウロの心をうずかせた。
たった一度、不器用な演奏を聞いただけで鳥肌が立った。ニコラの腕前が悪いのではない。ただ楽器と彼女がうまく馴染めずにいるだけだ。たどたどしい演奏の奥底に潜む何かをパウロは感じとった。
チェロが彼女の腕の延長になれば、彼女の音色本来の輝きを取り戻すに違いない。ニコラは素晴らしい力を秘めている。何としても彼女のために、最高の楽器を用意しなければならない。
その日から、パウロは彼女のための楽器つくりを始めた。図面を頭の中で組み立て、音色を想像し、調整する。試作品をつくって演奏してみたが、彼女にぴったりとハマる音ではなかった。特注で小さくしたことで音色の響きが大きく変わる。前例のないサイズ調整で製作は難航した。日中は他の注文や調律を済ませ、夜になると工房で一人、彼女のための楽器をつくり続けた。
製作中、ニコラは何度も工房を訪れた。ほとんどは彼女の兄や使用人たちが一緒だったが、時には彼女ひとりきりで姿を見せることもあった。
「お嬢様。おひとりで来られたのですか?」
「わたしだけよ。勝手に家を抜け出して来たの」
「それは……家の方々が心配するのでは?」
「バレたらね。けど大丈夫よ。だって館には兄様が五人と姉様が六人、それから妹が二人もいるんだもの。一人くらいいなくたって、誰も気付きやしないわよ」
ニコラは変わり者だった。丹念に編まれた栗色の長髪も染み一つない青色のドレスも、彼女の見た目は貴族のお嬢様だった。だがドレスの中に収められた彼女は深窓の令嬢には似つかわしくない、活動的なエネルギーに満ちていた。貴族としての常識やしがらみが彼女の小さな身体を縛り付け、溢れ出る魅力を抑えているような窮屈さを感じる。彼女の演奏と同じだ。身分に縛られず自由を与えられたら、彼女はもっと輝くだろう。
「早くパウロの作る楽器が弾きたいの。ねえ、まだ時間が掛かるの?」
「図面は出来上がっていますが、なかなか良い木材が入らなくて。戦争の影響か、最近じゃ輸送船も港に来ないことが多いですし。材料の入荷が間に合ってないんです」
「知ってるわ。兄様の演奏旅行もそれで中止になったもの」
戦線の西進は国中にきな臭い空気を漂わせていた。それでもパウロにとって戦争は遠い国の出来事で、自分自身が被害に遭うなんて考えたこともなかった。
「工房に残っている材料でもよければ、すぐに作ることはできますが」
「ダメよ。最高の素材でなくちゃ。だってアナタの楽器には神様が宿るんでしょ? それなら一番の素材を使わないと、音楽の神様に失礼だわ」
「ぼくにはそんな実力があるのかわかりません。まだ未熟者ですから」
「謙遜のつもり? こんなに良い楽器をつくっているのに」
完成品として並んだヴィオラを手に取り、ニコラが言う。音楽家の一門らしく彼女はどんな楽器にも精通していた。
「ぼくの楽器に神様が宿るのなら、お嬢様の演奏には命が宿っていますよ」
パウロの言葉を聞き、ニコラは弓を操る手を止めた。何度も瞬きをしてパウロを見る。
「どういう意味?」
「え、その……なんと言いますか、失礼しました。妙なことを言いました」
「ううん。いいのよ。ねえ、わたしの演奏はヘンってこと? 兄様たちもみんな、わたしの演奏は力が入り過ぎだとか奇妙だって言うし」
「そんなことありません。ニコラお嬢様の演奏は……」
誰もわからないのだろうか。ニコラの奏でる音の魅力を。彼女が音色を奏でている時、彼女を装飾するドレスやコルセットに隠された彼女自身の輝きが浮かび上がる。ヴィオラの呼吸と弦の振動、ニコラの心臓の鼓動がすべて一体となって空間に放たれていく。ただ、本当に一瞬だ。一体感はすぐに薄れていく。彼女の魅力は抑圧されて本当の力を発揮できずにいる。楽器も音色も生きているのだ。真に優れた演奏家は自らの手を通じて楽器の鼓動と自身の息吹をすべての人々に伝えることができる。
きっとニコラにもできるだろう。彼女にぴったりの楽器があれば、楽器と一体となった最高の演奏が。
伝えたいことが言葉にできず、パウロは首を横に振った。
「……その。上手く言えません」
「まあいいわ。気を遣わなくていいのよ。ヘタクソだってのはわかってるんだから」
ニコラは気を悪くしたようで、唇を尖らせていた。
「そんな、そんなつもりで言ったのでは……」
「でもいいのよ。わたしは兄様みたいな凄い演奏家を目指すつもりなんてないの。お庭とか広場にチェロを持って行って、そこで演奏するの。庭師のみんなや通りがかった人たちに演奏を聞かせるの。そうしてみんなと一緒に楽しむのよ。素敵だと思わない? でもお父様に話したら、そんなバカなことをって笑われたわ。淑女のすることじゃないって」
青空の下でチェロを演奏するニコラ。きっと似合うだろう。様式に囚われない自由奔放な発想は、不似合いなチェロを選ぶ彼女らしい。
彼女には力がある。才能もある。他の誰も気付いていないとしても。
どうすれば彼女に伝えられるのだろうか。自分にできるのは最高の楽器を作り、彼女に渡すことだと思った。
ニコラの夢を叶えるために最高のチェロをつくりあげよう。
職人としての使命感か、それとも彼女に感じる愛情か。
パウロの胸の内に、ニコラへの想いが熱を帯びていた。
ようやく材料が届いたのは翌週のことだった。
パウロは予め作成していた図面の通りに木を組み合わせ、削り、彼女の音色とクセを思い出しながら弦の調整を加える。不眠不休で製作を続け、三日目の朝に彼女のためのチェロを完成させた。あとは実際に演奏してもらい、細かい調整をするだけだ。
彼女はこのチェロでどんな音色を奏でるのだろう。ニコラがしなやかな指で弦を操るところを想像した。弓を弾くところを。いつかニコラが語ったように、あの黄金の尖塔が輝く広場でたくさんの聴衆に向かって音色を響かせるニコラ。きっと素晴らしい演奏になる。
最高の一日になるはずだった。故郷の国を楽園だと信じて疑わなかったように、その日の終わりが当然に訪れるなど思ってもいなかった。
工房を出たパウロの耳に飛び込んで来たのは、砲撃の音と人々の悲鳴だった。
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