2:出会う老人と魔法使い
夜が明けるよりも早く、パウロは目を覚ます。
寒さに身震いし、自らのぬくもりが残る毛布を身体に引き寄せた。冬の寒さが老骨に突き刺さる。白髭に覆われた口から、深々と溜息を吐き出した。
このまま待っていたところで眠りは訪れそうにもない。パウロは諦めてベッドを降りた。カーテンを開けても外はまだ薄暗い。朝日はまだ遠く、山々の稜線の向こうにかすかに白んだ空が見える。
冷え切った手に息を吐きかけ、震える指でマッチを擦る。何度も擦っては失敗し、ようやくキッチンストーブに火を入れた。静まり返った室内に、火の爆ぜるパチパチという音だけが響く。
汲んだ水を手鍋に入れ、キッチンストーブにかける。湯が沸騰するのを待つ間、ブリキのカップにコーヒー粉を入れ、石のように固い黒パンをナイフで切る。
熱いコーヒーを飲む内に身体が暖まり、眠気も少しずつ消えて行く。黒パンを二切れ、ミルクに浸して食べた。若い頃はこの硬さに何も感じなかったが、今では文字通り歯が立たない。二切れも胃に収めると、もうそれだけで腹もいっぱいだ。
すっかり老いぼれている。視力も衰え体力も落ちた。今では市場まで歩くだけで息が切れて膝が痛む。そうなると痛みが引くまで関節を曲げることもできなくなる。
「仕方がない。誰だって年を取るんだ、パウロ。もう若くはないさ」
老人は独り言をつぶやいた。
この街に定住して五十数年、パウロはずっと一人で暮らしている。孤独に寂しさや虚しさを感じることはないが、独り言はいつの間にかクセになっていた。
老いていく悲しみはある。だが楽器職人としての仕事は続けられている。楽器をつくり、修繕し、調律する。時は無慈悲に若さを奪っていくが、手先の感覚と聴力だけは鈍らない。折に触れてパウロはそのことを神に感謝していた。弦楽器はわずか数オンスの重さで音色が変わる。重さ、形、そして音。このすべてを正確に捉えられなくなっては楽器職人を廃業するしかない。
今日やるべき仕事を考える。仕掛かり中のバイオリンを完成させたい。音がひずみ始めたチェロもある。頼まれていたピアノの調律にも向かわなければならない。やるべきことは山積みだ。ぐずぐずしてはいられない。すぐに工房に移動して――物思いにふけるパウロの耳に、何かの倒れるような音が聞こえた。
重たい木の枝が落ちるような音。それから何かの金属が街路の石畳にぶつかるような音。聞き違いではない。物音は外から聞こえた。まだ点灯夫も起き出す前のこの時間に。
パウロは迷ったが、ドアを開けて外の様子を伺った。
ドアを開けてすぐの街路、向かいの塀に寄りかかるようにして灰色ローブの少年が座り込んでいた。栗毛の頭と細い手足。まだ幼さの残る顔つき。少年の背丈よりも大きなオークウッドの杖が、彼のすぐそばに落ちている。杖の先端には鉄製のランタンがぶら下げられていた。パウロが聞いたのはどうやら、杖が倒れた音だ。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
声をかけると、少年はちらりとパウロに目を向けた。
金色の髪に緑の瞳。顔色は悪く、真っ青な唇が震えている。目の下に酷い隅がある。少年はやつれきっていた。羽織ったローブも薄汚れ、強行軍の長い旅を終えて来たばかりのように見える。
「中に入りなさい。そこは寒いだろう。立てるか?」
パウロは答えを待たず彼に近付き、座り込んだままの少年に肩を貸した。
「ありがとう」少年がささやく。
「気にするな。西から来たのか? 向こうは争いが絶えないからな」
少年を家へ招き入れ、キッチンストーブの前に座らせる。
「たいしたものはないが、何も食べないよりはマシだろう。待ってろ、今コーヒーを淹れるから」
残っていた黒パンと、ブリキのカップに水を入れて渡す。少年はよほど飢えていたのか、一塊ある黒パンをがつがつと食べ始めた。
不法入国する戦争難民は跡を絶たない。街を囲む塀の外には今も、故郷を焼け出されて行く場所もなく、寒空の下で震えている者たちがいる。治安の悪化や戦争に巻き込まれることを恐れ、難民を追い出すべきと主張する者もいる。だがパウロは彼らに対して同情的だ。ずっと昔、パウロ自身も戦争難民だった。戦火に追われて逃げる恐怖も覚えている。
「ちょっと待ってろ。今、キミの杖を……」
言いかけたパウロの眼前に、少年の杖があった。
テーブルに立てかけられている。背の高いオークウッドの杖。
さっきまで路上に落ちていたはずだ。
少年が立ち上がる時に持っていただろうか? 数分前の記憶を辿る。大きなオークウッドの杖は確かに、少年がへたり込むすぐ傍に横倒しになっていた。
「助かったよ。アンタ、親切だな」
少年が言った。
子供らしからぬ冷たい口調。まだ甲高いその声は間違いなく少年だが、まるで世に擦れた老人のような印象を覚えた。
「昨日の晩に街へ着いたんだが、なかなか人に会えなくて。おれはただ食料を分けて欲しいだけなのに、みんなおれを警戒するんだ。まあ夜中に叩き起こしたおれも悪かったと思うが、野良犬みたいに追い払われたよ。パンの一かけらすら分けてもらえなかった」
「それは……街のみんなも余裕がないんだ。戦線は近づいて来るし、最近では食料も何もかも高騰している」
「わかってる。なのにアンタはおれを助けてくれた。このご時世で他人に親切にできるなんて珍しいぜ。まだ人間の世も捨てたもんじゃないな」
少年が立ち上がる。
印象がまるで違う。パウロの前にいるのは、寒さに凍え飢えていた難民の少年ではない。薄汚れた灰色のローブの中に得体の知れない何者かがいる。
「命は奪えない。人からものは奪えない。そして、約束は守る。そういうルールがおれたちにはある。だから食べ物を得ようと思えば人から分けてもらわなくちゃならない。ああ、ルールって言っても規律のことじゃない。雨は空から降る。太陽は東から登る。法則だから破れないんだ。おかげで飢え死にするところだった。間抜けな話だろ? 奇跡を起こせるはずの魔法使いが、食べ物を見つけられず飢えて死ぬなんてさ」
少年が手を伸ばす。彼の細い指に吸い付くように、オークウッドの杖が飛んだ。
パウロは何度も瞬きをした。幻覚でも目の錯覚でもない。離れたテーブルに立てかけてあった杖が、少年の手に収まっている。
緑色の瞳に強い力を感じる。魅力か、あるいは魔力か。新月の真夜中に感じる暗闇への畏怖に似ている。人間を超越した何かを、目の前の少年から感じた。
「キミは……キミは、いったい何者だ」
パウロの問いに、少年が答える。
「おれはヨハネス。魔法使いのヨハネスだ。助けてくれた礼に、アンタの願いをひとつだけ叶えてやる」
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