5.放課後の美術室で何が起きたのか

 警察署の屋上に設置された喫煙スペースで、初老の刑事はベンチに腰掛けて煙草をふかしていた。

 喫煙スペースと言っても、ひさしの下に、灰皿と水の入ったバケツとベンチが一脚置いてあるだけの簡易なものだった。


「山さん、またこんなところに居たんですか」

「煙草吸えるのがここしかねぇんだから、しょうがねーだろう」


 公共機関における昨今の禁煙の潮流は、警察署にも容赦なく押し寄せ、今の署長に変わったときに、署内は全館禁煙とあいなった。屋根があるとは言え、屋上のふきっ晒しに設けられた喫煙スペースは、文字通り喫煙者に対する風当たりの強さを示していた。

 山さんと呼ばれた初老の刑事は、ふーと青い空に向かって煙を吐くと、ちびた煙草を灰皿にギュッと押し付けた。


「おう、ハセ。生徒への聞き込みはどうだった?」

長谷川はせがわですってば、勝手に短くしないで下さい」

「どっちだっていいだろ、そんなの」

「よくないです」

「わかった、わかった」


 不満げな長谷川刑事を尻目に、初老の刑事はもう一本煙草を取り出した。


「いや、もう、大変でしたよ。学校に生徒からの聞き込みの許可をもらうのに苦労しました」

「で、なんかわかったんだろ? その顔は」

「かなわないなぁ、山さんには」

「勿体つけてないで、話せよ」

「それなんですけどね」


 長谷川刑事は上着の内ポケットから手帳を取り出して、ぺらぺらとめくった。


「数人の生徒から聞いたんですけどね」

「おう」

「亡くなった竹之内響子たけのうちきょうこが教え子の男子生徒と付き合ってたって、噂があったらしいんです」

「付き合ってた? 中学生と?」

「噂ですよ。ただの噂です」


 淵なし眼鏡をクィッと上げて、長谷川刑事が更に手帳をめくる。


「噂になってた男子生徒なんですけど、竹之内響子が顧問をしていた吹奏楽部の部長でしてね。これが熱心な子で、コンクールの課題曲だとか練習のスケジュールだとか、部活動の時間が終わっても、遅くまで残ってよく竹之内響子に相談していたそうです」

「ほう」

「実際に会ったんですが、女子にモテそうなジャニ系のイケメンでしたよ」

「イケメンねぇ」


 そうつぶやくと、初老の刑事は煙草に火をつけた。


「女子に人気のあるイケメン君と、若い女先生が、しょっちゅう遅くまでいっしょにいるもんだから、お前みたいにモテないやつが、二人はデキてるなんて無責任な噂を、やっかみ半分で流したってとこか」

「山さん。僕を引き合いに出すのは止めてください」


 長谷川刑事の抗議を無視し、山さんと呼ばれた初老の刑事がひと息煙草を吸って、ふぅと吐き出す。

 その煙を手で追い払いながら、長谷川刑事は続けた。


「その噂話っていうのがですね、放課後の音楽室で二人がキスしてたのを見たなんてのはまだいい方で、先生が男子生徒に口で奉仕してたとか、男子生徒を押し倒した先生が上にまたがって腰を振ってただとか、まあ、中学生にしちゃ過激でして」

「最近の中学生はませてるねぇ」

「今は、ネットで何でも見れちゃいますからね」

「しかし、先生も随分と恨まれたもんだな。よっぽどイケメンだったんだな、その男子生徒」


 初老の刑事がもう一度吸って、また白い煙を吐き出す。

 それをまた手で追い払い、長谷川刑事が続ける。


「加減のわからない中学生がやっかみで流した噂話なんでしょうけど、加賀健司かがけんじにとってはシャレじゃ済まなかった。十五年前と同じ名前の女先生が男子生徒と不適切な関係を持ったと聞いて頭のネジが飛んで、凶行に及んだってとこでしょうか」

「呼び名が同じ『きょうこせんせい』ってだけじゃ弱いと思ったが、まあ、きっかけとしちゃぁそんなとこかもな。やるじゃねぇか、ハセ」

「だから、僕は長谷川です」


 一応抗議しておいて、長谷川刑事は片手でクイッと眼鏡を持ち上げた。


「十五年前のことは自殺ですから直接手を下したわけではないけど、加賀健司と関わりのあった、櫻宮京子さくらみやきょうこ竹之内響子たけのうちきょうこ、二人の女性が命を落としたことになる」

「いや、三人だよ」

「三人?」

「ああ」


 そう言って初老の刑事は、燃え尽きて今にも落ちそうだった煙草の灰を、ぽんぽんと灰皿に落とした。


「三人って、他に誰が?」

城ヶ崎愛美じょうがさきまなみだよ」

「ああ、加賀の証言の中で、最初の方に出て来た子でしたね」


 長谷川刑事は記憶を確かめるためパラパラと手帳をめくり、目的のメモを読み直した。


「取調べの中で加賀は、城ヶ崎愛美、櫻宮京子、そして草壁健司の話しを自分が相談を受けたこととして証言したんでしたよね」

「ああ」

「でも、捜査を撹乱しているのか本人が錯乱しているのかわからないけれど、加賀の証言には事実と妄想とが入り混じっていた。実際、草壁健司は中学生時代の加賀本人ですからね。相談なんか受けられるわけがない」

「まあ、そうだな」


 初老の刑事が軽く頷く。


「その同じ美術部にいたっていう女の子も、加賀の妄想だったんじゃないんですか? 城ヶ崎愛美って名前は、卒業名簿には載っていませんでしたよ」

「そりゃ載ってないだろ。卒業してないからな」

「卒業してない?」

「二年の終わりに転校したんだ」

「えぇー、そんなー」

「だからお前は、半人前だってんだよ」


 まだ若い長谷川刑事がしゅんとするのを尻目に、初老の刑事は続けた。


「城ヶ崎愛美は、加賀健司――当時は草壁健司くさかべけんじと、同じ美術部に所属していて、二年生のときには同じクラスになっている。加賀の証言通りな」

「はあ」

「だが、二年の二学期も終わりのごろ、櫻宮京子の自殺と前後して突然学校に来なくなった。いわゆる不登校ってやつだ」

「え? それって――」

「両親や担任の先生は、理由を聞いたが、城ヶ崎愛美は口を閉ざして何も言わず、不登校を続けた。まあ、所属していた美術部顧問の櫻宮京子の自殺の件もあったし、周りもそれ以上深くは追及しなかった。難しい年頃だしな。それで娘を心配した両親は三年になるのを期に、別の学校へ転校させたんだが、結局転校先の中学へは一度も登校することはなく、そのまま卒業した」


 今や半分になった煙草を吸って、また白い煙を吐き出す。


「その後、城ヶ崎愛美は高校へも進学せず、家出と自殺未遂を繰り返して、三度目に自殺を謀ったときに亡くなっている。家出して県外の違法風俗店で働かせられているときに、寮としてあてがわれたアパートの浴室で手首を切ってな。享年十九歳。まだ二十歳はたち前の娘に先立たれたんじゃ、親御さんもさぞかしやり切れなかったろうよ」

「山さん。城ヶ崎愛美が不登校になったのって、当時中学生だった草壁健司がヌードモデルになるのを無理強いしたのがきっかけですかね?」

「さてな」


 初老の刑事の指先で、短くなった煙草がゆらゆらと煙を上げていた。


「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」

「いや、でもそう考えると辻褄が合うじゃないですか」

「まあ待て。もうひとつ見せるもんがあってな」


 そう言って、初老の刑事は上着の内ポケットから、一枚の写真を取り出した。


「これって?」

「加賀の自宅を家宅捜索したときに出て来たもんだ。古ぼけた青い表紙のスケッチブックに描かれていた絵さ」


 それは、一糸まとわぬ裸の少女を描いた絵だった。

 芸術的であるかは置いておいて、その絵は実に丁寧にち密に描かれていた。

 息づかいが聞こえるような少女の表情

 膨らみかけた胸の膨らみ

 そして、大きく開いた脚のその奥までが微細に写実的に描かれていた。

 絵の中の少女の目からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れていた。


「中学生の城ヶ崎愛美――ですか?」

「生憎と家出するときに本人が写真を全部処分しちまったらしくてな。自宅には一枚も残ってなかった。代わりに働いてた風俗店に残ってた写真と比べたんだが、面影はあった」

「じゃあやっぱり決まりじゃないですか! 中学生だった加賀健司――当時の草壁健司は、城ヶ崎愛美が自分に想いを寄せているのをいいことに、ヌードモデルになることを強要した。一度は言いなりになってヌードモデルになったものの、そのことを後悔した城ヶ崎愛美は美術部顧問の櫻宮京子に相談し、それを受けた櫻宮教諭は草壁を呼び出して城ヶ崎をヌードモデルにしたことを咎めた。憧れの京子先生に自分のしたことを咎められた草壁は、それを逆恨みして、櫻宮京子に淫行されたと学校に訴えたって、こういう筋書きだったんじゃないですか?」

「しかしだ、この絵は中学生だった草壁が妄想で描いたものかも知れないじゃないか」

「いや、でも――」

「中学生の男子が、同級生の女子を自慰行為のネタにするなんざ、お前も覚えがあるだろ」

「そりゃ、まあ、そうですけど」

「だから、この絵が妄想で描かれた可能性も捨てきれない」


 初老の刑事が、短くなった煙草を吸って白い煙を吐き出す。


「山さん、いったい何に引っかかっているんです?」


 煮え切らない態度に、長谷川刑事がしびれを切らして聞くと


「色だよ、色」

「色?」

「ああ、スケッチブックのな」


 初老の刑事は、苦虫を噛み潰したような顔で応えた。


「加賀の証言では、スケッチブックの表紙の色は『赤』だった」

「え? あ、ああ、そうですね」

「だが、実際にはスケッチブックの表紙は『青』だった」


 長谷川刑事が、手帳のメモを確認して答えると、初老の刑事は短くチビた煙草を最後に吸って、それを灰皿にギュッと押し付けた。


「ただの思い違いじゃないんですか?」

「俺もそれは考えたんだがな」


 もう一本吸おうと煙草の箱を探るが、しかし、中身は空だった。どうやら、さっきのが最後の一本だったらしい。

 空の箱をくしゃりと潰し、初老の刑事は話を続けた。


「加賀が行った美大の先生に聞いたんだが、加賀はとにかく『赤』の使い方が巧かったんだってよ」

「赤ですか?」

「ああ」


 ひとつ頷いてから潰した箱を灰皿に捨てようとするのを、長谷川刑事が止める。


「赤い色に執着し、それを巧みに操った。美大の先生が、他の色も使ったらどうかとアドバイスしても、赤にこだわって受け入れなかったんだとさ」

「なるほど」

「加賀にとって『赤』は特別な色だったんだ。あの日、美術室で自殺した櫻宮京子が血の海の中に倒れているのを目の当たりにしてからな。感受性の強い思春期の中学生に強烈なイメージを残したんだろうよ」

「だから、青い表紙だったスケッチブックの記憶が、赤に変わったと?」

「だろうな」


 初老の刑事が、潰した箱をギュッと握りしめる。


「加賀の証言じゃぁ、嘘を吐いているのは城ヶ崎愛美と櫻宮京子で、草壁健司と自分は真実を語っていることになっている。しかし、それはあり得ない。城ヶ崎愛美も櫻宮京子もとうに亡くなっているし、草壁健司に至っては中学生時代の加賀本人だからな」

「時系列がめちゃくちゃですね」

「ああ」


 長谷川刑事に、初老の刑事は頷いた。


「しかし、加賀の中では全てが証言通りなのかも知れない。十五年前も、今回の事件も」

「スケッチブックの色が、『青』から『赤』に変わったのと同じようにですか?」

「そういうこった」


 初老の刑事が、またひとつ頷いて返す。


「全ては放課後の美術室から始まった。そして、加賀はいまだにあの美術室にいるんだ。十五年前からずっと変わらず、中学生の草壁健司くさかべけんじのままで」


 それから煙草の箱を握りしめた手を、そのままズボンのポケットに突っ込むと、初老の刑事は踵を返した。


「行くぞ、ハセ。取り調べだ! 関係者が全員亡くなっている以上、ヤツから真実を聞き出すしかない。今日こそ加賀の野郎を、美術室から引っ張り出してやる。本当のことを、洗いざらい吐かせてやるんだ!」

「あ、はい! って、僕は長谷川ですってば、山さん!」


 そう言って、二人の刑事は屋上の喫煙スペースを後にした。

 残された灰皿から、最後に消したはずの吸い殻の煙が、ひと筋立ち昇っていた。

 しかし、それも次第に薄くなり、遂には何も無くなった。




 了

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赤いスケッチブック へろりん @hero-ring

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