4.加賀(かが)教諭の証言
ええ、そうです。淫行です。
中学生に、それも教え子に淫らな行為をしたわけですから。
性的虐待と言い換えてもいい。
確かに、
若くて綺麗な女教師に憧れを抱くなんてことは、思春期の男子ならよくあることです。
でも、それは憧れているだけで、肉体関係を望んでいるわけじゃない。
淫らな想像をして、自慰行為をしていたとしても、それはただそれだけのことです。
ポルノグラフを見てするのと変わらない。
わかるでしょう?
それをあの女は――、おっと失礼、櫻宮先生は草壁が自分を自慰行為のネタにしていることを知って、それに付け込んで淫らな行為に及んだのです。
心も身体も未発達な中学生を、欲望のままに弄んだんです。
これは、犯罪ですよ。
純粋な子どもの心を踏みにじるなんて、許せません。
ええ、そうです。
だから、僕は櫻宮先生を告発することにしたんです。
あの日、僕が美術室を訪れたのは、下校時間が過ぎて、校内に生徒が誰も残っていないのを確認してからでした。
美術室では、櫻宮先生がひとりで絵を描いていました。
なんでも、コンクールが近いとかで、先生が連日夜遅くまで美術室に残っているのを僕は知っていました。
「精が出ますね」
「ええ、締め切りが近いものですから」
先生は、ペインティングナイフで余計な絵具を削りとっているところでした。
無礼にも、僕へと振り返ることもなく作品の方を向いたままで応えたのです。
ええ、まあ、それも締め切りが近いということで焦っていたのでしょう。
先生の無礼な態度は不問にすることにして、僕は続けました。
「先生、お話しがあるのですが、よろしいでしょうか」
「できれば今度にしていただけますかしら、
「草壁健司のことなんですが」
僕が
先生は、中学校の教師としては不適切と思える、真っ赤なルージュをしていました。
見ると、ペインティングナイフを持つ指の爪も唇と同じ赤い色のマニキュアが塗られていました。
「作業しながらでもよろしければお聞きしますわ」
「勿論です」
そう言って、作品に顔を戻して絵具を削り始めた櫻宮先生に向けて、僕は笑顔を作りました。
「草壁は櫻宮先生のことが好きだった。入学してからずっと憧れていた。ご存知でしたか?」
「あら、そうなんですの? ちっとも気がつきませんでしたわ」
本当は知っているくせに、いけしゃあしゃあととぼける先生に、
「それで、加賀先生はどうしてそのことを知ったんです?」
「本人から聞いたんですよ」
絵具を削るペインティングナイフが、ピタリと止まります。
「本人って、草壁君から?」
「ええ、そうです」
作業をする手を止めて、櫻宮先生は再び僕の方へ顔を向けました。
「草壁君は他になんて言っていましたの?」
その質問には答えず、僕は逆に聞き返しました。
「先生は、あのスケッチブックをご覧になったんでしょ?」
「スケッチブックって――」
「ほら、赤い表紙のスケッチブックですよ」
ペインティングナイフを持つ手に、ギュッと力が入るのが見えました。
「実にけしからん絵でしたが、巧いもんでしたよ、あの絵は」
「先生」
「写真でも撮って模写したんでしょうかね、顔も髪型もそっくりで」
「加賀先生」
「身体の方はビーナス像そのまんまなんでしょうがね」
「先生は、何がおっしゃりたいんですの?」
険しい顔で、先生が僕を見つめます。
「先生はこの美術室に草壁を呼び出し、あの絵をネタにして無理やり関係を持った。そうでしょう?」
「無理やりだなんて、そんなこと」
「分別のない未成年なんですよ? 教え子なんですよ?」
「私は、何もやましいことは――」
「これは、立派な犯罪です」
真っ赤なルージュを引いた唇を、先生がキュッと噛みました。
「加賀先生、先生はどうするおつもりですの?」
「告発します」
僕は端的に答えました。
「先生は教師失格だ」
「私は、ただ指導しただけで」
真っ赤な唇が言い訳を並べ立てます。
「不適格者だ」
「やましいことは何もしてません」
赤いマニキュアを塗った指が、しっかりとペインティングナイフを握り
「先生がしたことを教育委員会に告発します」
「だから、そんな――」
握りしめた手に、更に力が入り、そして
「告発して、教師を辞めていただきます!」
「そんなことさせない!」
そう叫んで、櫻宮先生は急に僕に襲い掛かって来たんです。
手にはしっかりとペインティングナイフが握られていました。
絵を描く道具とは言え、鋭いブレードで切られたら、場所によっては怪我をするどころではすみません。
僕は切られまいと、必死で櫻宮先生の手をとりました。
それから、揉み合いになって
無我夢中で
気がつくと、櫻宮先生が倒れていました。
首の頸動脈がパックリと切れて
そこから夥しい量の血が噴き出していて
辺りに血だまりが出来ていて
それで――
「なるほど、それで怖くなってその場から逃げ出したというわけですか。加賀先生」
「ええ、そうです。刑事さん」
取調室で二人の刑事相手に、加賀教諭はそう答えた。
話し役の体格のいい初老の刑事と、その横でずっと調書を取り続けている淵なし眼鏡の若い刑事だ。
「それで、慌てて職員室に戻った先生は、大分時間が経ってからようやく落ち着いて、職員室の電話を使って救急車を呼んだと」
「そうです」
「救急車が駆けつけたときには手遅れで、相手の女先生は失血性ショックで既に亡くなっていたと、こういうことですね?」
「ええ」
「つまりこれは正当防衛で、悪くても過失ってことで殺人ではないと」
「はい、その通りです」
その返事を聞いて、初老の刑事は白髪交じりの頭を掻いた。
「おかしいですねぇ」
「何がです?」
初老の刑事のつぶやきに、加賀教諭は釣り気味の目を細めた。
「もう一度確認させてもらっていいですか、加賀先生」
「いいですよ。何度でも」
「あなたは最初に城ヶ崎愛美、次に櫻宮京子、最後に草壁健司の順にそれぞれの話を聞いた。ここで私たちに聞かせてくれたとおりの話を」
「ええ、そうです」
加賀教諭がひとつ頷く。
「三人の中で最初の二人、城ヶ崎愛美と櫻宮京子はあなたに嘘をついていた」
「ええ」
「そして、草壁健司だけがあなたに本当のことを話した」
「そうです」
「それが、おかしいですよ。腑に落ちない」
初老の刑事は、白髪交じりの頭をがりっと掻いた。
「いやね、先生は、なぜ、草壁健司が嘘を吐いていないってわかったのかと思いましてね」
「それはわかりますよ」
「他の二人が本当のことを言っていて、草壁健司の方が嘘を言っていたとは思わなかったんですか?」
「ええ」
またひとつ頷いて、加賀教諭が付け加える。
「教師ですから」
「なるほど」
初老の刑事は、またひとつがりっと頭を掻いて続けた。
「あの日あなたは、下校時間が終わって、生徒が全員いなくなったのを確認してから、亡くなった女先生がいる美術室へ行った。草壁健司に対する淫行を咎めるために。間違いないですか?」
「間違いないです」
「うーん。そこなんですがね、先生」
初老の刑事が、がりがりと白髪交りの頭を掻く。
「亡くなった女先生が、美術室で絵を描いているわけはないんですよ」
「いや、でも、僕は確かに――」
「あの学校に美術の教師は、先生、あんたしかいないんです」
「え?」
刑事の言葉に、加賀教諭は驚いて細い目を見開いた。
「だから、美術室にいる加賀先生を訪ねて来ることはあっても、その逆はまずあり得ないんです」
「いや、僕は確かに」
「それに、先生の証言に出て来た、美術部は先生の学校にはないんですよ。十五年前に廃部になってます」
「美術部が――ない?」
呆然とする加賀教諭に、初老の刑事は続けた。
「美術室で絵を描いていたのは加賀先生で、そこに女先生が訪ねて来たんじゃないですか?」
「でも、確かに櫻宮先生は美術室にいて――」
「そう、それもだ」
加賀教諭の言葉に、初老の刑事が割って入る。
「美術室で亡くなったのは、
それから上着のポケットに手を突っ込んで一枚の写真を取り出すと、初老の刑事は加賀教諭の前に置いた。
「亡くなったのはこの女性です」
「この?」
「ええ」
写真の女性は若くて美人ではあるが、写真からはどちらかというと親しみ易い庶民的な印象を受けた。
「
「はぁ」
目の前に突き付けられた写真を見ても、加賀教諭は気の抜けた返事をしただけだった。
「先生の証言通り、竹之内先生は首の頸動脈を切られて亡くなったんです。加賀先生、あんたのペインティングナイフでね」
「この人が?」
「そうです。竹之内響子って音楽の女先生が、です」
平静を保とうとしているが、初老の刑事は明らかに苛立っていた。
「加賀先生、あんたは怖くなって逃げ出したって言ってましたが、それにしちゃおかしなことがありましてね」
「はぁ」
「救急隊員が駆け付けたとき、既に亡くなっていた竹之内先生の唇と爪に、べっとりと血がついてたんですよ。口紅だかマニキュアだか塗ったみたいにね」
「そうなんですか」
「商売柄、今まで何体も仏さんを拝んできましたがね、死を覚悟して
「なるほど」
「誰かがやったんだ。瀕死の竹之内響子に、血で死化粧したヤツがいたんだ」
「それで?」
「あんただろ! あんたがやったんだろ! 加賀ッ!」
両手で机をバンと叩いて、初老の刑事が吠えた。
「あんたが殺して、塗りたくったんだろうがッ! 吐けッ!」
「止めてください、山さん! 落ち着いて!」
初老の刑事が食って掛かろうとするのを、黙って調書を取り続けていた若い刑事が割って入った。
「山さん、被疑者を脅しちゃだめですって」
「わかってるよ」
淵なし眼鏡の若い刑事になだめられて、山さんと呼ばれた初老の刑事はがりがりと白髪交じりの頭を掻いた。
すると
「でも、この人じゃない」
「あーん?」
加賀がつぶやいた台詞に、初老の刑事がぞんざいに応える。
「この人は、櫻宮先生じゃない」
「あんた、まだそんなこと言ってんのか」
初老の刑事は、呆れたように続けた。
「美術の先生はあんただけだっつったろ? あの学校に櫻宮京子なんて美術の女先生は、今はいないんだよ」
「でも、櫻宮先生はいたんです。美術部の顧問で、若くて、綺麗で、男子生徒の憧れの的で」
「ああ、いたよ。十五年前にね」
「十五年……前?」
加賀が
「あんたが言ってる櫻宮先生ってのは、この人だろ?」
「
初老の刑事がテーブルに置いた写真を、加賀は食い入るように見つめた。
写真の女性は加賀が表したように、綺麗で、清楚で、凛とした印象の美人だった。
「櫻宮京子。享年二十五歳。十五年前に亡くなってる」
「十五年前に先生が亡くなってる?」
加賀のその反応を見て、初老の刑事は小さく舌打ちをした。
「あんたの言う通り、十五年前、櫻宮京子はあの学校で美術の教師をしていた。若くて美人の先生だ、そりゃあ思春期真っ盛りの男子中学生から人気があったそうだよ。だが、ある事件があって、教師を辞めなきゃならなくなった」
そこまで一気に言ってからひと息つくと、初老の刑事は続けた。
「顧問だった美術部の男子生徒に手を出したんだ。淫行だよ」
「淫行……」
また加賀が、刑事の言葉を鸚鵡返しに繰り返す。
「被害者の男子生徒が学校に訴え出て、教育委員会の知るところになって、懲戒免職だ。櫻宮京子自身は最後まで否定して再調査を願い出たが、決定はくつがえらなかった。学校を去る日、櫻宮京子は自殺したんだよ。あの美術室で、愛用のペインティングナイフで、頸動脈を切って」
そこでまた、初老の刑事はひと息ついて、更に続けた。
「第一発見者は、皮肉にも淫行の被害者の男子生徒だった。男子生徒は血まみれの死体を目の前にして、奇行に走った。死んだ櫻宮京子の唇と爪に血を塗りたくって、絵に描いたんだ。血で化粧した死体をスケッチしたんだよ」
初老の刑事は加賀の様子を窺ったが、加賀は櫻宮京子の写真を見つめるばかりだった。
「思春期の多感な時期だ。死体を見てショックを受けたんだろうってことで、男子生徒はお咎めを受けることなく、代わりに、何回かのカウンセリングを受けることとなった。学校は美術部を廃部にし、事件のあった美術室は封鎖された。加賀先生、三年前、あんたが美術教師として赴任してくるまでね」
櫻宮京子の写真を見つめ続ける加賀に向かって、初老の刑事は聞いた。
「ねえ、先生。今回の事件と十五年前の事件。亡くなった竹之内響子と自殺した櫻宮京子の奇妙な共通点は、どう説明すればいいんでしょうね?」
「…………」
「おまけに字は違うが、亡くなった二人とも読みは同じ『きょうこ』だ」
「…………」
「生徒たちからは、親しみを込めて『きょうこせんせい』って下の名前で呼ばれてたらしいですよ。二人ともね」
「……きょうこせんせい」
「そう、『きょうこせんせい』だ」
初老の刑事が鋭い眼光で見つめる。
「先生は、さっき櫻宮京子の写真を見て『
「……僕は」
「教えてくれませんかねぇ、加賀先生」
「僕は、草壁を助けようと思って、それで告発を」
「いい加減、とぼけるのは止めろッ!」
初老の刑事が、またテーブルを叩いて吠えた。
「
「山さん! 落ち着いて!」
淵なし眼鏡の若い刑事が割って入ったが、今度は収まらなかった。
「中学を卒業したあと両親が離婚して、あんたは母方の加賀姓を名乗るようになった。あんたと十五年前に淫行を受けた草壁少年は同一人物だ! 警察の捜査力を舐めんな!」
「落ち着いて、山さん!」
「今回の事件は、十五年前の再現だ! 櫻宮京子が自殺したのと同じ場所で若い女教師を殺して、同じように血で死化粧したんだろうが! このサイコ野郎が!」
「止めてくださいよ、山さん! お願いだから、落ち着いて!」
「あんたのスケッチブックから、死体の絵が見つかってるんだ! 十五年前と同じように死体をスケッチした絵がな!」
「山さん!」
山さんと呼ばれた初老の刑事は、羽交い絞めにされて暫く揉み合った後、ようやく落ち着いたのか、背中の若い刑事に向かって言った。
「わかったよ。もうしねぇから、放せよ、ハセ」
「本当に、頼みますよ、山さん。また、始末書を書くはめになりますからね」
「わかったから、放せ」
「あと、僕は
「わかった、わかった」
それでやっと解放されると、初老の刑事は上着の襟を直して、改めて聞いた。
「なあ、先生。本当のことを言ってくれねぇか? 悪いようにはしねぇから」
脅したりなだめたりは、昔ながらの取り調べの
「あんた、殺す気だったんだろ?」
すると
「僕は」
加賀健司が重い口を開いた。
「僕は、
櫻宮京子の写真を見つめたままではあったが、ぽつり、ぽつりと話しはじめ
「入学してからずっと、憧れていました。美術部に入ったのも、絵が好きで、先生が好きで、大好きな
やがて、釣り気味の細い目に涙がたまり
「僕は、先生のことが好きで、好きで、ただ、先生のことが好きだっただけなのに」
それが、溢れてぽろぽろと零れ
「だのに、先生は……
まるで中学生の子どものように、
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