温かな、甘い匂い

HiraRen

温かな、甘い匂い



 昨日の夜、僕はあるアニメを見た。それは深夜に地方局で放送しているもので、十七歳にもなった男が午前二時とか三時にやっているアニメを見るということは、あまり前向きな受け取られ方をしないだろう。さらに補足をすると、そのアニメは学園モノで日本の高校と大差ない風貌をして、特に取り柄もない主人公の男子学生が同級生や妹や幼馴染などに世話を焼かれながら、文化祭や体育祭、さらには夏には海へ行ったりする物語だ。その主人公は、よく肩を寄せて「やれやれだな」と言うが、そんな毒にも薬にもならないアニメを深夜に見ている自分自身が、「やれやれ」だと思った。

 教室の窓から見える首都高速は、梅雨の晴れ間に抱かれて気分が良さそうに見えた。その証拠に、今日はあまりクラクションの音が聞こえてこない。日本史の授業が始まると、決まって首都高速は機嫌の悪いクラクションを放ち始めるのだ。

 黒板ではカブトムシの幼虫が眠っていそうな朽ち果てた灌木みたいな色をしたスーツを着た日本史の教科担当が、鎌倉幕府の成立について板書していた。

「以前は『1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府』と覚えていましたが、最近の研究では1185年ごろから鎌倉幕府は成立し、北条氏が権力をもっていたのではないかと考えられています。ですので、皆さんの教科書には――」

 彼の声はペンギンの手のように平坦で、とっかかりがない。NHKのニュースキャスターとしては有能かもしれないが、テレビ朝日のキャスターとしては向いていないだろう。そして鎌倉幕府の成立時期の表記変更は、大して僕の興味をそそらなかった。

 僕はしばらく昨晩のアニメの筋を頭の中で思い返しながら、鎌倉幕府と北条氏の関係を解説する灌木のようなスーツを着た教科担当を眺め続けた。

 この教室の中に鎌倉幕府に興味を持っている人間がどれぐらいいるのだろうか。たぶん、せいぜい二、三人といったところではないか。大概の男子は漫画と部活と異性のことを考えながら、この退屈な時間を過ごしているに違いない。では、女子はどんなことを考えて過ごしているのだろうか。首都高速が機嫌よく沈黙を保っている日本史の時間を。

 それとなく教室の中に視線を配ると、黒板の文字を書いている人間と退屈そうにうつむいている人間がいた。大勢は退屈そうにしているが、顔をあげて板書をしている女子の中で僕の性欲を掻き立てるようなクラスメイトはいなかった。僕は大概、授業中に途方もない退屈を感じるとクラスメイトの女子を相手に性的な妄想にふける。当然のことながら、妄想にふけるだけだ。これを嫌悪的に受け取る人間がいるだろうが、事実として僕はそういう人間なのだ。そして顔をうつむけている同級生の男子は、大概そういう事を一度や二度は行っている。極端にいえば、いま、この退屈な日本史の時間中に顔をうつむけて沈黙している男子は、みなクラスメイトの異性の裸体を妄想しながら鎌倉幕府と北条氏の話題が過ぎ去るのを待っている。ハリケーンがアメリカ中西部の町を何事もなく過ぎ去ってくれるのを祈るように。


**


 休み時間になると一瞬の開放的な空気が教室に満ちる。

 マラリアに冒されてうつろな眼をしていた連中も、この時間になると健康そうな声を張り上げて笑い出す。

 僕は「やれやれだ」と思いながら、机の中からブックカバーを付けた漫画の単行本を取り出して、それを読み始めた。これは昨晩に見たアニメの原作というやつで、同級生のAが貸してくれたものだ。もともとアニメや漫画に深い関心があったわけではない僕に、例の深夜アニメを紹介してくれたのは同じバスケ部に所属しているAの影響が大きい。

 これまで週刊誌の冒険モノやバトルモノばかり見ていた僕に、彼は日常学園モノという新たなジャンルを提供してくれた。最初は絵柄にも物語にも抵抗があった。それはつまらないというよりも恥ずかしいという部分が大きかった。だが、読み進めていくうちに、ある種の魅力に取りつかれた。

 自分と同じような立場の高校生が、自分が妄想する世界で、理性を失わないよう必死にセーブしながら懸命に生きている。それなのに、作中に登場する妹や同級生や幼馴染は狙いすましたかのように手を握ったり、ときには胸を押しつけたり、半裸の状態で出くわしたりするわけだ。

 その状況は漫画で見ても、またアニメで見ても、僕の心をぐっと押しつけるように圧迫し、また強くつかんで離さなかった。

「高田くん、ちょっといいかな?」

 漫画に夢中になっていたとき、ふと声をかけられ僕は顔をあげた。

 そこにはクラスメイトの江藤さんが複数のノートを胸に抱えて立っていた。僕の机には現代文のノートが置かれていて、彼女が配ってくれたのだとすぐに理解した。

「どうしたの?」

「このノート、誰のかわかる?」

 彼女はそう言って、僕の机に見知らぬノートを置いた。

 表紙に『現代文』と黒いマジックで書かれているのは書かれているのだが、水性で書いたせいか所々がスレている。もともときれいな字ではなく、ミミズが這ったような『現代文』で、僕は眉を寄せてしまった。肝心の名前は『現代文』の文字よりも小さく書かれていて、不運なことに読み取るのが困難だった。水性がスレ消えている上に、一画目と二画目が融合してしまっているとでもいうのだろうか。漢字が漢字の体を成していなかった。

「こんな汚いのは男の字だよな」

 僕はひとりでに呟きながら、だから江藤さんが聞きに来たんじゃないか、と自分を咎めた。ノートのページを開き、パラパラとめくってみると汚い字が不潔な口内映像のように白い紙上にべっとりと書かれていた。

 そんな不潔なノートの内容をざっと見ていると、プロ野球のオーダー表らしき落書きがあることに気付いた。一番に福本、四番にイチロー、そして投手にダルビッシュと書かれている。あまり野球に詳しくない僕でも、イチローとダルビッシュぐらいは知っている。

「プロ野球のメンバー表みたいなのが書いてあるから、野球部の誰かじゃないかな。あいつに聞いてみたらどうだろう?」

 僕がそう言って坊主頭の野球部員を顎でしゃくって示すと、江藤さんは「メンバー表?」と不思議そうな声を出してぐっと身を乗り出してきた。

 ノートの紙面を覗き込むようにする彼女の顔が、僕の目と鼻の先に近づいた瞬間だった。長い黒髪の先端が、ノートを押さえていた僕の手の甲に触れ、こそばゆい刺激をした。

 ぐっと覗き込む彼女の身体からは、石鹸のような匂いと不思議な甘い香りがして、僕は虫の居所が悪くなるのを感じた。それはこの場から撤退するか、もしくは今すぐにでも彼女を抱きしめて、そのちょっとだけ先端のとがった耳の裏や長い髪に隠されている首筋のにおいを思う存分かいでみたかった。

 机の上に垂れた髪の毛を耳の上を通して背に流すような動作をして、「メガネ忘れちゃって、よく見えないんだけど、これがそれなの?」と問いかけてきた。

 僕は彼女の匂いを、そして僅かに聞こえる衣擦れの音と手の甲にあたる呼吸の規則的な風を感じていた。それから僕はなんと言ったか覚えがないが……。彼女は「そうなんだ」と相槌を打つようにして顔をあげ、先ほどと同様に長い髪を肩の後ろに追いやってから「ありがとう」と言って踵を返した。

 確かに彼女はいつもしているメガネをしていなかった。よく漫画の描写でメガネをとると美少女になるという表現があるが、江藤さんにそのような現象は起こっていなかった。ただ、いつもの彼女とは違う雰囲気の、もっと純朴で洒落っ気の薄い少女的な丸顔が、いつまでも僕のまぶたの裏から消え去らなかった。それは彼女が発する甘く不思議な匂いが、原因だったのかもしれない。


**


 人間には感覚的に生まれもった『距離感』というものがある。

 大概の人間は許容範囲内でその距離感を調節するが、なかには距離感を調節できないものもいる。どうしてそんな遠くで話を聞いているの? と思うときが、ときどきあるからだ。それはバスケ部の後輩によくいえることで、円陣を組んでミーティングをしているときに、なぜもっと中心点に集まらないんだ、とキャプテンのBは怒鳴ることがある。

 だが、江藤さんが発した距離の違和感は、その逆だった。

 彼女は近かった。

 僕に自らの匂いが分かるぐらい、ぐっと近づいてきたのだ。

 それは僕にとって驚きだったし、戸惑いでもあった。

 これまで漫画の中の主人公に感じていた一種の羨望は、怒涛の興奮によって押し流され、あの魅惑的な興奮(江藤さんによる)を、また味わいたいとさえ思ってしまった。

 あの日から一週間とちょっとがたった。

 江藤さんと僕が会話することはなかったし、彼女が吹奏楽部に所属していること、あまり交友が広そうではないこと、成績は中の上(僕よりは当然頭がいい)ということは把握できた。だが、それ以外の事は全くわからないし、彼女がどこに住んでいて、休日はどのように過ごして、オナニーはどれほどの周期で行っているのかといった内容は、まったく謎のままだった。

 彼女と会話がしたい。そう思うようになると、僕のオナニーの回数は増えたし、同級生の裸体を妄想するときには、頻繁に江藤さんが登場するようになった。Aから借りた漫画の主人公と自分を重ね、そのヒロインが江藤さんであるという仮定の下で物語を読み進める技法を、ひそやかに編み出したりもした。そして自宅に帰ってオナニーをした。

 自分でも、バカだと思う。人に知られたくないことだ。

 でも、江藤さんには知っていてほしいと思った。なにをどう具体的に知ってほしいのかはわからない。僕はずっと江藤さんを見ている。江藤さんのことをよく考えるようになった。江藤さんでオナニーをする機会が増えた……どれを彼女に伝えたとしても、きっと嫌われてしまうし、不自然な『告白』に他ならない。だが、このような『告白』を行いたいという奇妙な好奇心のようなものが胸の中の趨勢を占めていた。

 とても曖昧で、ドロドロとした思考の中に息苦しさが満ちている。

 深夜アニメは水着回を境に勢いを失い、同クールに放送していたSF・ロボットアニメは途中参入の視聴者を拒絶するように難解な物語を展開していた。今日も首都高速は梅雨の雨にぬれ、不機嫌そうなクラクションを鳴らし、日本史の教師は灌木のような色のスーツを着てよくわからないことを話し続けていた。

 そんな息のつまりそうな日々の中で、僕にとって決定的な出来事が起こった。それは梅雨でぬかるんだグラウンドの上で行われた体育の授業で、憤りを露わにしたテレビコメンテーターが眉間と顎に寄せるような不愉快な雲に覆われた午後の事だった。

 男子と女子でグラウンドの半面を使う授業で、体育教師は球技週間だから、フットサルをやると言った。最初僕らは、こんなぬかるんだグラウンドでフットサルをやるなんてどうかしている、と抗議の声を上げたが、五名ずつのチーム分けを行い、半面をさらに二面に割った小さなコートでフットサルを始めると、当初の文句を言うものはほとんどいなくなった。

 僕は試合がない時間をグラウンドの植込みに腰掛けて待機していた。そこには多くの同級生が待機していて、各々雑談しながら出場試合を待っていた。女子のほうへ目を向けると、同様に二面のコートを設置してフットサルをしていた。女子のほうがキャーキャーと甲高い声を出している。

 見れば、手前側のコートで江藤さんがボールを追っていた。

 彼女はほかの女子に比べれば少々肉付きが良いようだ。それは紺色のハーフパンツから延びる緩やかなカーブを描く太ももが、ほかの子よりも太く、また走ったときに、足の速い女子よりも胸の揺れ幅が大きかったからだ。

 江藤さんの足元にボールが転がってきた。彼女はそれを相手ゴールに向かって蹴ろうとしたが、そのキックは惜しくも空振りして、相手のチームの女の子にボールを奪われてしまった。

 どんまい、という声と、まえまえ、と指示を出す声が交錯する中で、しっとりとした綿っぽい材質の体育着を着た彼女は僕のほうへ振り返り、ぺろっと舌を出したのだ。そのとき、僕は全身の血が沸騰するようにカッと熱くなった。

 彼女は明らかに僕に向かって可愛らしく舌を出した。なぜなら、彼女はこちらに『振り返り』、舌を出したのだから!

 僕はひそかに彼女を観察していた。それは、あのノートを配ってくれたときからはじまった新習慣だった。一方的なこの習慣を、江藤さんは気が付いているのだろうか。いや、気が付いていなければ、あんな行動はとらないはずだ。僕が彼女に意識を向け、彼女が走るたびに綿っぽい体育着越しに揺れる胸を見たり、太ももの太さに着目したり、その枯葉色のひざの裏に性的な高まりを感じていたりすることを……彼女は気が付いているのではないか。

 だとしたら、きっと彼女は不快なはずだ。

 だって、僕は明らかに変態的な視線で彼女を見ていたし、性的な対象として見ていた。それを是として受け入れてくれる女の子が(僕がイケメンで、御曹司なら話は別だろうが、そうではないので)いるわけがない。

 でも、いまの舌をぺろっと出した行動の意図はなんだ。僕に対して舌を見せ、失敗しちゃった、といった表情を浮かべた彼女の胸の内は、一体なんだというんだ。

 そこまで考えたところで、僕が所属するチームが試合に呼ばれた。

 僕は考えるのをやめ、フットサルコートへと入った。

 そして学校が終わると、自宅のベッドの上で江藤さんを考えながらオナニーした。


**


 僕が江藤さんを意識していることは、ここで改まって言うことはない。けれども、あの体育の一件以来、『江藤さんも僕を意識しているのではないか』と思い始めた。

 そして、それを裏付けるようなことが家庭科の時間に起こった。

 蒸し暑い気温の日が続く梅雨明け目前の木曜日……。その日は朝から力ない雨が降り、アスファルトをしっとりと湿らせていた。

 三時間目が始まっても、その雨の勢いは強まることも弱まることもなく降り続いていた。それは木の根や家々の土台を腐らせていく悪夢のような雨に似ている。

 僕はその日、三時間目から始まった調理実習で江藤さんと同じ調理班になることとなった。病欠が一人いるせいかと思ったのだが、どうやらアレルギー関係で食材だか調味料にNGをいう人間がいて、彼らは彼らで無害な――まるで僕らの食べ物はとても有害なようであるが――食材で実習をするというのだ。

 その日のテーマである『アップルシナモンスライス』という聞きなれない料理のどこにアレルギーが関わるのか、それは僕にはわからないことだった。ただ一つだけ言えることは、アレルギーを持つ同級生は事前の申請に基づいて、正当な権利主張をするかのように席を移り、無害なオーガニック食品を楽しむ品評会の会員のような顔をして実習に取り掛かったということだ。

 そんな彼らに反感を抱くものは当然いないし、僕も内心で皮肉ることはあるかもしれないが、怒りを覚えるようなことはなかった。ただ、強いて言うなら感謝している。

 彼らが正当な序列からすっと抜けたおかげで、江藤さんと同じテーブルを囲むことになったのだ。

 梅雨どきのじめっとした湿気が実習室の中に漂っている。そのせいで、江藤さんの体にワイシャツはぴったりと張り付き、彼女の動作によってはブラジャーの肩ひもが背に浮かんだ。また乳房を抱えているワイヤーの堅い輪郭線も、目撃することができた。だが、それはあくまでエプロンをつける前――レシピの説明を静かに聞いているときにだけ、盗み見ることができるものだった。

 やはり、江藤さんの胸は他の女子に比べても大きい。

 僕は胸の内を悟られないよう、極めて冷静かつ平穏に作業に取り掛かった。

 班には五名おり、大して仲のよくないサッカー部員と無毒な放送部員のような色白な男子が僕の隣には並んでいた。また女子の側には江藤さん、それから背が小さく、鼻の穴が大きい女が同じテーブルを囲んでいた。

 傍から見れば僕らは『楽しく、安全に』実習を進めたし、目立ったアクシデントもなくアップルシナモンスライスは完成に向かって進み続けていた。

 そんな作業の途中で、僕の隣に江藤さんがやってきた。

 そのとき、僕は無意識的に他の面々の様子を盗み見ていた。男子二人は互いに雑談をしながらオーブンの中で焼きあがるアップルシナモンスライスを監視していた。また、鼻の穴の大きい女子は仲のよい友達が固まっているテーブルに行ってしまって、ここにはいなかった。

「ねえねえ、高田くん」

 隣にやってきた彼女は、そんな他愛ない声をかけながら僕のポケットに中指か人差し指をひっかけるようにして、くいくいと引っ張ったのだ。その行動に、胸の内が激しくかき乱された。

 レシピの書かれたプリントを眺めてみた僕の隣に立ち、「案外簡単だったね」と言いながらも、僕のポケットの入り口を指先でなぞったり、ときには軽く引っ張ったりする。その行動が何を意味しているのかはよくわからなかったが、「うん、簡単だった」と答えるので、僕は精いっぱいだった。

「高田くんって、シナモン得意?」

「じ、実は……ちょっと苦手で」

「やっぱりね。わたしも苦手なの。さっきさ、シナモン見て嫌そうな顔してたもんね」

 彼女はそう言って両方の口角にえくぼを作って笑いかけてくる。

「なんだ……ちょっと見られてたのか」

「見てたよ。おもしろかったもん」

 彼女はそう言って、ポケットの入り口を探っていた指をちょっとだけ中に押しいれた。じめっと蒸れた腰つきに、彼女のあたたかくてかたい指がぴくんとあたる。それは単なる接触であったのに、僕は声が漏れてしまいそうなほど敏感な刺激に感じられた。

 江藤さんはポケットの中にハンカチが入っているのを指先で確認すると、ちょいとそれをつまんで取り出すような動きをした。ハンカチがポケットの中でせり上がり、僕の大腿部の一部を軽く刺激したかと思うと、彼女はその手を離して「あとは焼けるのを待つだけだもんね」と両手でプリントを持って(僕のポケットをまさぐるのをやめてしまって!)笑った。

「わたしね、シナモンの匂いがダメなの。あの甘ったるい薬品みたいな匂いが。だからね、シナモンをふりかけるとき、右の隅だけほとんどかけなかったの。自分が食べようと思ってたから」

 彼女はそう言ってから「高田くんも、かかってないほう食べる?」と首をかしげてきた。僕は確かにシナモンが嫌いだった。だけれども、そんなことはもうどうでもよかった。いま目の前にいる江藤さんの提案よりも、彼女が発する甘い匂いとあたたかい体温、そしてちょっとだけ感じる汗のにおい。背中に浮かぶブラジャーの肩ひもの線……。

 それらを目と鼻でしっかりと感じながら「かかってないほう、ちょっともらいたいな」と答えていた。

 彼女は僕の意見を聞くなり「高田くんって可愛いね」と言い、プリントを置いたその手を、机の上にあった僕の手にそっと重ねた。

 えっ、という声にならない驚きが喉の奥で起こった。僕の手に自らの手を重ねた江藤さんは、じっとこちらをその一対の瞳で見つめてから、何も言わずにきびすを返して立ち去って行った。

 僕らが手を重ねていたのは、ほんの五秒か、六秒程度である。だが、その数秒の間、僕らの視線は濃厚に交わり、あの一対の黒い瞳の中に幾多の感情が吸い込まれていった。

 そのとき、僕は多くの混乱を起こしながらも、彼女がなぜ、こんな突飛な行動に出るのかということを考えた。

 興味のない男に、女の子は自ら手を重ねるだろうか。ポケットの入り口をまさぐったりするだろうか。体育のときに感じた疑念は僕の中で大きく、そしてしっかりとした輪郭を持ち、『彼女は僕に興味があるのではないか』という結論に変わりつつあった。それは嬉し過ぎるものだし、いますぐ合意文書に調印する準備が僕のほうにはあった。しかしながら、そのタイミングがよくわからない。

 アップルシナモンスライスが焼きあがると、あちこちから温められたシナモンの強い香りが実習室の中に漂った。

 そんな世界で江藤さんは何事もなかったかのように右端にあったアップルシナモンスライスを僕の皿に盛り付け、何事もなかったかのように自分のぶんを食べ、何事もなかったかのように調理実習は終わった。

 僕はそのときから、江藤さんという女の子以外に、女というものは不要なのだと思った。なぜなら、僕の食べたアップルシナモンスライスは、まったくシナモンの風味がしなかったのだから。


**


 ある程度の手応えがある。

 僕は生れてはじめて、異性に関してその言葉を使うことができた。

 明らかに江藤さんは僕に意識を向けているし、僕が意識を向けていることも知っている。僕が彼女を見ようと顔を上げたとき、彼女の眼がこちらに向いているのに気づくときがたびたびあった。

 梅雨明けの遅れた陰鬱な数学の時間帯も、野焼きの後みたいな黒い色のスーツを着た教師が日本史を解説している時間も、廊下を歩いている何気ないときも、僕は江藤さんの視線を感じ、また僕も江藤さんを探していた。

 僕は家のベッドの上で江藤さんのことを思いながらオナニーした。きっと彼女も僕のことを思いながらベッドの上でオナニーをしているのだと想像しながら、胸の中にたまった息苦しいストレスを射精という形で体外に吐き出し続けた。しかし、なにをどう頑張っても、そのような方法で胸の中にある有毒なもやもやは解消されない。

 眠るときも、バスに乗っているときも、授業を受けているときも、彼女のことを考えるようになっていた。

 自分の部屋の姿見の前に立ち、Tシャツを脱いだ。

 僕の上半身は色白く、筋肉質とは言い難いが肥満体形とも言い難い。バスケ部に籍は置いているものの、レギュラーというわけでもない。スポーツが得意とは口では言えるが、実際はもっとうまいやつがたくさんいて、僕はあまり歯が立たない。

 それでも、自分の姿を鏡で見つめ続けていると『こう無毒で誠実そうな男もそうそうにいないのではないか』という結論が見え始めた。もしかしたら、江藤さんは強引で筋肉質な男よりも、僕のような無毒で誠実そうな男のほうが好みなのではないだろうか。だから彼女は僕に対してアプローチをかけてきたのだ。

 あまり活発そうには見えない江藤さんだ。きっと懸命に気を引こうとポケットの入り口を引っ張ったり、わざと肩ひもが浮きやすいブラジャーをつけてきたのかもしれない。でも、彼女ができるのはたぶんそこまでで、江藤さんから僕に告白するということは……できないのだろう。そこまでの勇気を求めるのは、ちょっと酷だし、傲慢すぎる。やはり、僕のほうから告白してあげないと、男らしさがない。

 姿見に映る自分と会話をするような心持ちで、僕はそのようなことを考え続けた。

 それから私服に着替え、財布を握り締めて、池袋へと出かけた。

 あまり洋服を買うようなことはしなかったが、これからは洋服が重要になってくる。もしかしたらピアスをあける必要性も出てくるかもしれない。コンドームの厚さや伸縮性についての考察もしなくてはいけなくなるかもしれない。となると、池袋にあるラブホテルの価格帯や営業時間を知る必要もあるのではないだろうか。

 僕は決めた。

 新しい洋服を選び、レジを通し、その代金を支払っているときに、決めたのだ。

 学校で江藤さんに告白して、来週の週末には一緒に池袋に行こう。最初は映画とか水族館とか喫茶店とか……無毒で無害な施設を回遊魚みたいに時間をかけて回ろう。それが第一歩だ。

 洋服を買ったその足で、僕は映画館に入り、興味のないフランス映画を見た。生れてはじめて字幕で見て、大して面白くなかったけれども、話題が広がりそうな感想を考えた。この映画を江藤さんと来週見よう。そしてこの感想を言って、そのあとはあのレストランに入って……。

 計画はばっちりだった。

 十七年間生きてきた中で、これほど熱心に計画を練ったことはなかった。

 計画が出来上がると、それ自体も『手応え』の中に繰り入れて、準備は万全になった。

 そして翌日、僕が学校で江藤さんに「放課後、ちょっと話がしたいんだけど、いいかな」と声をかけた。

 彼女は「ちょっとだけなら。吹奏楽のコンクールが近くて、いろいろ大変なの」と笑った。その笑みに、僕は『欲しがっている、告白を欲しがっている』という意思表示を感じた。

 浮足立つ心を抑えながら、放課後を待ち、僕は彼女と二人で学校の屋上にほど近い階段の踊り場で、端的な言葉で告白した。

 多くの言葉はいらない。

「キミが好きです。付き合ってください」

 たったそれだけだった。

 僕はしっかりと腰を折って頭を下げた。

 江藤さんは笑った。

 とても楽しそうに笑った。それから、答えた。

「高田くんって面白いね。ホントに」

 彼女はそれだけ言うとくるりときびすを返して、立ち去って行った。

 返答は? 答えは?

 そんな疑問が頭の中をぐるぐる駆け巡って、「ちょっと待ってよ」と後を追いかけたら、彼女はすでに他の生徒たちがたくさん行き交う廊下をすたすたと歩いていた。僕はその後ろ姿をじっと見つめたきり、追いかけることができなくなって、無性に悲しくなって、奥歯を噛んで涙をこらえた。

 何もかもが、よくわからなくなっていた。


**


 梅雨が明け、試験前のとげとげしい時期がやってきた。

 照りつける太陽へ抗議するように首都高速は今日も機嫌が悪くクラクションの音を上げていた。

 灌木のようなスーツを着た日本史の教師が、スズメとシナイ半島の関連性を述べるみたいに退屈な週末の出来事を簡単に話していた。僕はその間、神妙な胸の内でクラスメイトの女の子の裸体を妄想し、ときにグラビアアイドルに囲まれている情景を思い浮かべた。もう、僕の妄想の中に江藤さんは常時出演しなくなっていた。

 ただ、それでも彼女に未練はある。

 あの子に迫られて、あの子とキスをして、あの子とセックスができたら……。

 そんなことを、やっぱりまだ考える。

 僕がふと前のほうに座る江藤さんを見たとき、彼女は軽く口元から可愛げな舌をぺろっと出して、なまめかしく微笑んだ。それは僕が梅雨の日にグラウンドで見た、その表情に他ならなかった。しかし、今回は『僕に向けたもの』ではなかった。

 いったい誰に向けて、舌など出していたのだろう。もしかしたら、単に唇が渇いただけなのかもしれない。僕はそう言い聞かせて、胸の中を落ち着けようとしたが、やっぱり腑に落ちなかった。

 江藤さんはときどきどこか教室の一部にちらちらと目を配っていて、誰に対してそのようなことをやっているのかと僕は眉をぐっと寄せて注目した。すると少々離れた座席に座っている同級生のCが、江藤さんの視線に呼応するかのように顔を下げたり、また上げたりしていた。

 僕はその光景を前にして、不思議と納得がいった気がした反面、奇妙な徒労感が胸の中に広がった。いろいろな不確定要素がちらばった梅雨時であったが、その梅雨が終わって確実に言えることは、彼女の標的は『もう僕ではなかった』ということだ。

 そう、『今回は』もう僕に向けられたものではなかったのだ。

 あの彼女の匂いも、積極的な行動も、なにもかもが今となっては味気なくなっていて、唯一残っているのは、異性に対する性的な欲求だけだった。それは江藤さんであろうと鼻の穴が大きいクラスメイトの女子であろうと、誰でもいいものだ。言い方はひどいかもしれないが、女ならば誰でもいいという無責任な欲求が、僕の中でしっかりと芽生えていた。

 恋を失った青少年の胸には、どうしてもそのような気持ちが芽生えるのだろう。

 そんなくだらないことを考えていたとき、あの調理実習で作ったアップルシナモンスライスには、最初からシナモンなどふりかかっていなかったのではないだろうかと思われた。なぜならば、シナモンをふりかける担当は江藤さんだったのだから。

 退屈な日本史の教師の話は未だに続いており、僕は窓の向こうに目を向けた。

 梅雨の抜けた東京の空は、思った以上に広く見える。都心へと伸びていく高速道路はその空を歓迎するように、胸の躍るようなクラクションの音を上げて喜びを表現しているようだった。

 しかし、冷静に考えてみれば、高速道路はクラクションを鳴らさないし、感情を表現したりはしない。当然、機嫌の善し悪しなどあるわけがない。

 僕は当然のことを当然と見抜けなかった自分自身が哀れに思えた。梅雨のじめっとした空気は、流行り病の終息とともに遠い彼方へと去って行った。それは僕の頭が健全な思考を取り戻すきっかけとなるもので、高速道路が決して鳥のように啼いたり、女のように不機嫌になったりしないことを判断する力を呼び戻した。

 それは同時に、江藤さんという女性がどのような人間であるかを正確に理解する力を有した頭脳であった。ただ、僕はその頭脳を取り戻すのが、ちょっとだけ遅れてしまったのだ。あの梅雨の霧雨が、僕の頭から正しい判断能力を奪っていたのかもしれない。

「――ということです。では、授業を始めます」

 日本史の教員はそう言って立ち上がり、今日も板書を始めた。

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