雪うさぎに南天はいらない

田所米子

雪うさぎに南天はいらない

かおるねえさん、見て!」

 うつらうつらと舟を漕ぐ私の惰眠を破ったのは、耳慣れた少女の足音と歓声だった。

「十六にもなって廊下を走るなんてはしたないわよ、柴乃しの

 太陽が天頂に差し掛かる正午になってもいぎたなく布団にしがみ付いていたという事実は棚に置き、片方の眉を吊り上げる。

「あなたも私も、本当なら然るべき方に嫁いでいても可笑しくない年なんだから」

 天真爛漫な我が従妹殿は細やかな当てこすりなど意に介さず、蒼白い頬をにんまりと緩めた。

「でもねえさん、雪が降ってきたんだよ!」

 開け放たれた襖の向こうの中庭。きらきらと円らな目を輝かせる少女の指の先を辿ると、成る程ちらほらと白いものが舞っていた。

 西洋との貿易でちょっとした財を成した父が丹精込めて――実際に椿の苗木を植えて石を運んで池に錦鯉を放ったのは、きりりと締めた鉢巻の白さが眩しい、日に灼けた園丁たちだったけど――作り上げた庭園が白で埋め尽くされる。この離れに閉じ込められる私たちの心情を想ってか、元来色彩に乏しい庭をこれ以上侘しくしてくれなくてもいいのに。

 見る見るうちに雪化粧が施される中庭からは、「血」を連想させる一切が遠ざけられている。春に咲く桜は薄紅の染井吉野ではなくて、黄色の御衣黄。楓は秋の紅葉を忌避され植えられず、椿もまた白い品種のみが選んで据えられていた。そんな頑固を通しても、私たちの病は治らないのに。

「雪、積もったらいいなあ。そしたらうさぎが作れるのに」

 小さな桜色の唇をきゅっと持ち上げる柴乃の仕草はあどけなく、鹿威しの水も凍る二月の寒気に蝕まれた私の胸を温もらせた。

「柴乃。ちょっとこっちに来て」

 温かな身体を抱き寄せる。か細いうなじから漂うミルクの香りには、幽かな血の匂いが混じっていた。

「あのねえ、柴乃。あなた、自分が重病人だってこと忘れてるんじゃないの?」

 愛用の藍色の半纏を華奢な背に投げつける。

「薫ねえさんだって重病人でしょ!」

 かつては野山を駆け巡り真っ黒に焼けていたお転婆娘の肌は、雪のように白く透き通っていた。

「だから私は、病人らしく部屋でおとなしくしてたのよ」

「嘘だあ。朝寝坊しただけのくせに」

「煩いわねえ。……生意気言う子には、こうしてやるわ!」

 ぐいと引いた頬が、また薄くなっている。

「いたい。やめてよ、ねえさん!」

 きゃははとはしゃぐ柴乃の身体は、折れんばかりに細い。

『これからはずっと一緒にいられるね、ねえさん』 

 柴乃が、女学校を放逐され、婚約者からも破談を言い渡されたと微笑みながら挨拶に来た時。私は、この子の目を見ることができなかった。

 長く肺病を患い隔離される私の下に、こっそり野の花を届けに来てくれた柴乃。父母の制止を物ともせず、片手の指を超える歳月に覆われ朧になった「外」の出来事を語ってくれた可愛い妹に、私が病をうつしてしまったなんて。

「薫ねえさん」 

 借りてきた猫のようにおとなしく縮こまっていた従妹の身体が腕の中からすり抜けると、言い知れぬ寂しさが胸に積もった。

「なあに?」

「雪、積もってる。きれいだね」

「でも、うさぎは作れないわよ」

 ここには難を転ずる赤い実がないんだから。そうつんと尖らせた私の唇を柔らかな熱が包んだ。蕩けるようなそれは、不遇をかこつ娘へのせめてもの慰みとして、父が届けてくれたマシュマロに似ている。けれども柴乃の唇はむせ返るような鉄錆の味がした。

「あたしたちには、南天がなくてもこれがあるでしょ?」

 とうに慣れ、今や親しみを覚えるまでになった生臭さは、幼き日の私たちの舌の上で儚く蕩けた菓子ではない何よりの証だ。

「ねえさん」

 私のあばらが浮いた貧相な胸は、敏い従妹の耳から荒れ狂う心音を隠してはくれないだろう。

「あたし、この病気になって良かったと思ってる」

「ばか」

「だって、薫ねえさんとこうしてずっと一緒にいられるもの」

「……ばか」

 藍色の半纏から伸びた小さな手がこけた私の頬をそっと撫でる。

「ね、雪うさぎを作ろう。今年も来年も再来年もその先も――ずっと、ずっと二人だけで」

 再び重ねられた唇はべたつく緋で濡れている。それが私のものであるのか、柴乃のものであるかは分からなかった。    

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雪うさぎに南天はいらない 田所米子 @kome_yoneko

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