十二月第五土曜日
最後はきっと、音が吸い込まれるようにして、静かに静かに終わるんじゃないかな。
僕はそう思う。
「こんばんは、お待たせしました。エレンです」
ホテルの部屋に入って挨拶をすると、女性は点検するみたいにゆっくりと僕を上から下まで見た。そして、何が面白かったのか、「ふふ」と笑い、そのまま部屋の奥に招かれた。
部屋の真ん中にダブルベッド、その奥に丸テーブルと一人掛けのソファが二つ。そこまで広くはないけれど、ラブホテルやビジネスホテルほど狭くはない。暖色系の抑えた照明で統一された、隠れ家みたいなアーバンリゾート。
「そこ、座ってて」
言われた通りソファに腰かけると、彼女はボトルとグラスを持ってきた。
「ちょっと付き合ってくれる? 飲める人?」
僕がうなずくと、彼女はグラスに赤ワインを注いだ。
グラスを合わせずに軽く掲げて乾杯する。
彼女は一口飲んでから、隣のソファに座って言った。
「何だかね、パーっと遊びたくなって」
聞きながら僕もグラスに口をつける。苦くて、赤より黒に近い色で、でも不思議と飲みやすいワインだった。
「年末大放出で、自分にご褒美してんの」
彼女はイタズラ好きの子どもみたいに、にやりと笑った。
「仲良い女友達と忘年会だ、って嘘ついてね。夫には」
「ご褒美、どんなことしたの?」
「んーとね、友達と年末セールをひやかして、美味しいお寿司食べて、このホテルを押さえて、そんで今、可愛い男の子を呼んだとこ! あ、だから友達と忘年会っていうのは半分ホントね。夫には朝までその子と一緒って言ってある」
「僕も、ご褒美に入ってるんだ」
「そうだよー。あ、実はこのお店のこともその友達に聞いたの」
「そうなんだ」
たまにそういうことはある。男は口が固い人と軽い人がいるけど、女の人はみんな口が固いところと軽いところを使い分けている。絶対口外しないことと簡単に言ってしまうことの線引きが、女の人によって全然違う。
「安心して、友達はキミのお客さんじゃないらしいから。私もあの子と姉妹はイヤだし、あの子のお気に入りの人以外から選びました。一番グッときたのが、キミ」
「グッときていただき、ありがとうございます」
僕は口角をグッと上げて笑う。これはまだ、サービスの笑い。
「うん、イメージ通りって言うか、なんだかキミ、少女漫画に出てきそう」
「褒められてるのかな」
「うーん、褒めてもけなしてもない。ただそう思っただけ。でも、私はそういう感じが好きだなと思ったから、グッときた」
そう言われて、僕はさっきよりも幾分自然に笑顔をつくる。僕を呼ぶ女の人たちがそうであるように、僕も少しずつ心をほどく。
「お姉さんがそう思ってくれたなら、良かった」
「友達から聞いたんだけど、してもしなくてもいいんだよね?」
彼女はそう言って、またワインを飲んだ。彼女の方が、減りが早い。
「もちろん。お好きなように」
「良かった。勢いもあって呼んでみたんだけど、本当にしたくなるかどうかわからないんだ。もしかしたら何もせずに酔っ払って寝ちゃうかもしれない。そんなのでも大丈夫?」
「うん。それでご褒美になればいいんだけど」
「酔って寝たら寝たで、それだけキミに安心したってことだろうし、それもアリかな。友達から安全なお店だと言われてても、さすがに初対面の男性と二人だもん、警戒心はあるから。本当には寝ないと思うけど。……そんなわけだから、もうちょっとお酒付き合ってもらっていいかな?」
僕は笑ってうなずき、もう底のほうに残っているだけになっていた彼女のグラスにワインを注ぐ。
「気が利くね。ありがとう」
彼女が笑う。
「あのね。実はホテルに来る時点でもけっこう飲んでて。私、今だいぶ楽しいのね」
「うん、なんかそんな感じする」
「そうー? ウザくない?」
「本当にそんなことないないよ、僕もお姉さん見てると楽しい」
嘘じゃない。
「おお、さすがホスト! 言うねえって、ホストとは違うのかな。ごめんね」
「謝らなくていいよ。出張ホストって言われ方もするし、デリボーイとか、いろいろ呼び方があるし……。僕も、正しい呼ばれ方がわからないけど」
「へえ。じゃあ、キミはなんて呼ばれるのが一番しっくりくるの?」
問われて、僕は少し考える。
「うーん……、男娼とか」
僕の答を聞いて、彼女は楽しそうに手を叩く。
「男娼! いいね、古風で。えーとじゃあ、キミは男娼……ごめん、名前なんていうんだっけ」
「エレン」
「男娼エレンか。すごい、本当に少女漫画みたいだよ」
「少女漫画に男娼って出てくるの?」
「どうだろう、でも女の憧れるシチュエーションとしてはあるんじゃない? 美しい美少年がオジサマ相手に春を売る……あ、これBLだね。しかも美しい美少年って、あはは」
BLは前に誰かに教えてもらった。たしか男性同士の恋愛漫画。
「男娼エレン、あのさ」
「はい」
「酔っ払ってるから、色々支離滅裂だと思うんだけど、しゃべらせて。友達とも色々しゃべったんだけど、私なんか全然しゃべり足りなくて」
「いくらでも聞くよ」
そう言って、僕ももう一口ワインを飲む。
彼女ももう一口飲み、それで勢いをつけたように話しはじめた。
「あのね、私、全然不満とかないんだよ。仕事はマジ面倒って思うことやムカつくことも多いけど、楽しいしお給料もけっこうもらってて。で、結婚してて夫のことは好きだし。今日キミをホテルに呼び出しといて説得力ないけど、浮気なんて今までしたことない」
彼女は僕の目を見ようとするけど、酔いのせいか、少し視線が定まらない。
「それでもね、なんか馬鹿みたいに耐えられなくなるときがあるんだ」
ふらついていた彼女の目が、すっと一点で止まる。
「なんか、無茶苦茶に食べたり飲んだり遊んだりしないと死にそうな気分のときがあって。贅沢だな、わがままだなって自分でも思うけど、そういうのって本当自分で止められないし、あと、女がそういうことをしてると、すごく変な目で見られるんだよ」
彼女はそこまで言って、グラスに口をつけた。
僕は彼女から目を離さない。
「この女は寂しいんだなとか、不幸なんだなとか。勝手なこと言って、笑っちゃうよね。別に幸せで満たされてても、ちょっとしたつまずきみたいなもので死にたくなることって、全然あるのに」
僕はうなずきかけて、でもそうすると嘘になるような気がしてやめた。
「こうやってお金で体を買うのも、もちろん男がしても批難はされやすいけど、女がしたらもっともっと比べ物にならないくらい、それこそ人格否定されるくらい言われかねない。結婚してる男の人がちょっと風俗に行っても、たまには仕方ないよね、みたいなことを言う人はそれなりにいるけど、私みたいに結婚してる女がこうやってキミみたいな男の子を買うのは、それを知ったら私を死ぬまで叩いてくる人はきっとたくさんいる。そんなの本当は、私の夫以外には何も言われる筋合いのないことなのに」
そう言って彼女はまたワインを飲んだ。それからエネルギーが切れたみたいに、くったりとソファにもたれかかった。落としたりしないように、彼女のグラスとワインボトルを、少し僕のそばに移動させる。
「大丈夫? ベッドに運ぼうか?」
僕が言うと、彼女は無言でうなずいた。
彼女を抱きかかえ、ベッドに仰向けで寝かせる。布団をかけ、苦しくないよう、髪に少しふれる程度で頭を撫でる。
しばらくそうしていると、彼女が言った。
「……ねえ、男娼エレン」
「なに」
「あのね。私、たぶん子どもができない体なんだ」
「そうなの」
「うん。女に生まれたことは後悔してないし、子どもが産めないことも受け入れたけど、時々どうしてこんなに生きづらい世界なんだろうなって、思わず呪っちゃうよ」
僕はさっきよりもちゃんと彼女の頭にふれて、撫でる。
「あなたのせいじゃないよ」
「知ってるよ。……ふふ、もっと気の利いたこと言ってよ、男娼エレン」
「ごめん」
「いいよ。……ああ、ごめん、あんなこと言っておいて、本当に寝ちゃいそう……」
「大丈夫だよ。眠かったら眠って。朝までちゃんと隣にいるから」
「ありがとう……なかなか素敵なご褒美だよ」
彼女は目を閉じて、それからもいくつか途切れ途切れにしゃべり続けた。
なんだか、人が穏やかに亡くなるときってこんな風なのかも。僕はそんなことを思った。
「ねえ、キミさ……」
「なに」
「世界ってさ、どんな風に終わると思う?」
「うーんと、そうだね……」
僕が質問の答を話しはじめたときには彼女は眠っていて、僕は夢へと落ちていく彼女の頭を撫でながら、世界の終わりについて語り続けた。
話し終えてから、枕元の時計を見て、僕は今年がもう残り一日を切っていたことに気付いた。
窓の外では、音を吸い込むような白い雪が、静かに降っていた。
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