十二月第二土曜日

 ホテルの部屋は、便利だ。自宅と違って掃除しなくてもいい、汚してもいい、隣人に気を遣う必要もない。大抵の場合ベッドは自宅のものより大きくて柔らかいし、浴室も広くて清潔。ホテルのグレードによっては食事や夜景まで楽しめる。何よりそこでは、どれだけ自分を偽っても誰にも咎められることはない。

 だからだろうか、ホテルでは多くの女性が開放的になり、そして時におしゃべりになる。

「エレンくんはさー、ふだん何してんの」

 行為の後、僕の鎖骨あたりをそろそろとひっかきながら、ちさとさんは聞いてきた。

「お昼はお昼の仕事をしてるよ」

「それは知ってるー」

「編集プロダクションのアルバイトだよ」

「それも知ってるー。で、そこがけっこう暇であんまお金になんないのも知ってるー」

 だよね。ちさとさんは何度も同じ質問をする。僕は昼の仕事について、これまで何度もちさとさんに話している。それでも、ちさとさんはいつも行為の後に「昼は何してるの」と聞いてくる。

「そうじゃなくてさ、けっこう暇なんでしょ? 仕事以外は何してんのって聞いてんの」

「えっとねえ、何してんのかな」

 だから僕は、編集プロダクションで昼間働いていて、そこがけっこう暇でお金にならなくて、だけど楽だし人間関係も問題ないので辞める理由が見つからずとりあえず続けているという話を、ちさとさんに何度も聞かせている。

「インドア? アウトドア? あ、待って、当てる。エレンくん見るからにインドアっぽいけど、そう見せかけてアウトドアと見た。ボルダリングとかやってそう」

「なにそれ」

「やってるでしょ、ボルダリングとかフットサルとか」

「だからなにそれ。ぽるたる?」

「ボ・ル・ダ・リ・ン・グ。壁、登るやつだよ。ちょっと前から流行ってるでしょ。知らない?」

「へえ、知らなかった。もうひとつのは?」

「え? フットサル? ちょっと待って、エレンくんフットサル知らないの?」

「知らない。それも何かを登るの?」

 はしごとか、大きな樹とか。それとも、蜘蛛の糸とか。

「うっそでしょ? フットサル知らないの?」

「うん」

 本当に知らない。僕は女の人にたくさんの嘘をつくけど、フットサルを知らないのは本当だ。

「うっわ、うすうす思ってたけど、エレンくんってもしかしてバカ?」

 ちさとさんがニヤニヤと嬉しそうに笑う。

「ちょっと待って、フットサル知らないだけで馬鹿とかひどいよ、ちさとさん」

 僕も、なぜか嬉しそうに笑ってしまった。

「だってフットサルは常識の範囲でしょ。じゃあさじゃあさ、エレンくんはどんなのだと思う? フットサル」

「スポーツなんだよね?」

「うん」

「何かを登るの?」

「のぼりません」

 フットサル。ふっとさる。

「フットは、足のフット?」

「おおー! そうだよ! 意外と賢いじゃん。そこまで来たら正解は近いよー」

「さすがにフットくらい分かるよ。えーと、フットが足で、サルでしょ」

 サル。さる。猿?

「足で……野山を駆け回って、それで、たくさんバナナを取った人が勝ち」

「エレンくん、あのさ」

「うん」

「フットサルのサルは動物の猿じゃないからね。絶対、それから考えたでしょ」

「違うの?」

「正解は、少人数でやるサッカーでしたー。さすがにサッカーは分かるよね?」

「うん、さすがに。で、フットサルのサルってなんなの」

「そんなの私も知らないよー」

 そう言って、ちさとさんは僕の胸のあたりに潜りこんだ。頭を振って匂いをこすりつけるみたいにしてから、僕にしがみつく。僕はそんなちさとさんを抱えこんで、ホテルの大きなベッドでホテルの真っ白いシーツに包まれていて、かいこまゆみたいだって思う。

 繭から顔を出したちさとさんが、「トイレ」とだけ言って何の未練もなさそうにベッドから出て洗面所へ行く。部屋は強めに暖房が効いていて、裸でも平気でうろうろできる。窓の外は十二月のはずなのにここだけは南国みたいで、つかの間の南国でちさとさんは開放的になる。テーブルの上にはちさとさんが頼んだ食事が、お酒以外ろくに手を付けられずにそのままになっている。

「何の話してたっけ」

 戻ってきたちさとさんが言いながらベッドに潜りこんでくる。今度は僕の胸までは潜ってこない。

「フットサル」

「その前」

「ふだん何してるか」

「あ、そうだ。で、何してんの」

「えっとねえ、なんだろう、僕ってふだん何してるのかな」

「言いたくない?」

「そういうわけじゃないけど、本当に何してるのか、ちょっと自分でわかんないかも」

「趣味とかないの」

「うーん、思いつかない」

「スポーツは?」

「しない」

「映画とかドラマとか、読書とか音楽とか」

「どれもそんなに見ないかな」

「旅行いったり、美味しいもの食べたり」

「あんまり興味ないかも」

「えー、エレンくん、好きなものとかないわけ?」

 この話、前にもちさとさんとした気がするけど、もしかしたら違う女性としたのかもしれない。だけど、何回同じことを言われても、僕は毎回その時に思ったままのことを答えるだろう。

「好きなもの……女の人かなあ」

「あははっ、じゃあエレンくん、この仕事天職だね」

 その言葉には僕は上手に答えられなくて、微笑んでしまう。こういうのが、僕が女性につくたくさんの嘘のひとつ。

「ちさとさんは、すごく好きな趣味とかあるの?」

「え、いいじゃん別に、私のことは」

 ちさとさんはちょっと嫌そうな顔をした。

「それに仕事も忙しいしさ」

「お医者さん」

「そうそう、もはや現代人はみんなうつ病だよ」

 ちさとさんは心の風邪を治すお医者さんをしているらしい。

 一回目に呼ばれた時、今日と同じホテルでセックスをして、その後に教えてもらった。セックスが終わるまでちさとさんは全然喋らなかった。二回目もこのホテルに呼ばれて、その時は初めからよく喋った。その時に「医者としても、君の心には興味津々だよ」と言われた。

「だからさ、エレンくん、儲かるでしょ」

「どういうこと」

「現代は心の病んだ人が多いから、エレンくんみたいな人を求めてる人間が多いってこと」

「そうなのかな」

「そうだよ」

「でも僕には心の風邪は治せないよ。ちさとさんみたいにお医者さんじゃないから」

「私にだって治せないよ」

「でもお医者さんでしょ」

「お医者さんでも、治せるものと治せないものがあるの」

「じゃあ、お医者さんはなにをするの」

「お手伝いだよ。その人が自分の力で治るように、治らなくても生きていけるように、生きていくのが嫌にならないように、お手伝い。そのためにお薬出したり、話を聞いたり、時には無理矢理入院させたりするの」

「心の風邪って治らないの」

 僕の言葉に、ちさとさんは少し考えてから答える。

「そうだね……エレンくん、風邪ひいたことある? 普通の体の風邪」

「あるよ。今年はまだひいてないけど」

「うむ、大変よろしい。寒くなってきたから気をつけようね。でね、今まで風邪が治らなかったことってある?」

「ない」

「ないよね。長引くことや、その風邪のせいで他の病気になって悪化したりはあったかもしれないけど、風邪自体が治らなかったことってないよね?」

「うん」

 僕が人生でひいた一番ひどい風邪ってどれだっただろう、とぼんやり思い返しながら僕は答えた。

「逆にさ、この先の人生でもう二度と風邪にかからない自信や保証ってある?」

「それはないかな」

 僕の答えを聞いて、ちさとさんは目を細めて笑った。

「心の風邪もね、おんなじ」

 僕はなるほど、と思って目を丸くした。

「うわあ、ちさとさん、お医者さんみたい」

「失礼な、お医者さんだよ」

 でも僕はほら、ホテルの中のちさとさんしか知らないから。南国で裸でセックスをして、お酒をよく飲んで、ご飯をあまり食べないちさとさんしか知らないから。

 その後もう一回して、シャワーを浴びて、ちさとさんがうとうとし始めるまで添い寝して、明け方に一人でホテルを出た。

 眠りかけたちさとさんを起こさないように、慎重にベッドから出て服を着ているとき、テーブルの隅にあったルームサービスの請求書が目に入った。そこにはちさとさんとは全然違う名前が書かれていて、きっとそれがお医者さんの名前なんだろう。もしかしたら、お医者さんとは全然違う仕事をしている誰かの名前かもしれない。

 僕は部屋を出る前にベッドの脇まで戻り、ちさとさんの布団をかけ直した。

 ちさとさんがこのままぐっすり眠れますように。

 風邪をひきませんように。

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