十二月第四土曜日
特別な日には、特別な食べ物を。たぶんそれは、ずっとずっと昔から、それこそ言葉もない時代からそうだったのだろう。そして、ずっと未来になっても、人間は特別な日には特別な食べ物でお祝いをするのだろう。
特別な日の特別な食べ物は、いつもと違って甘かったりすっぱかったりで、いやに記憶に結びついて、時間が経ってもその味だけ覚えていたりする。舌の記憶。
「エレンくん、メリークリスマス!」
苺の乗った定番のショートケーキ、シャンパン、それと僕へのプレゼント。
「どうしてもエレンくんとクリスマスが過ごしたくて、ずっと前から予約してたんだよ。二十三日だけど、でももう日付も変わってるから二十四日だよね。クリスマス・イヴだ、やった」
さとみさんはそう言って笑う。
ちょっと早口で、嬉しそうだけどどこか不安そう。
さとみさんは常連のお客さんで、二か月に一度くらいのペースで予約してくれる。本当はもっと頻繁に呼びたいのだけど、僕の予約はいつも埋まっていてなかなか取れないそうだ。僕は土曜日にしか出勤しないし、予約に関しては店長に任せているから、実際にどれくらいさとみさんが熱心に電話を入れてくれているのかは自分では知らない。
「でも、ちょうどいいのかも。ほら、二か月に一回くらいじゃないと、私もお金がもたないし」
以前、さとみさんはそう言っていた。そう言って、困ったような顔で曖昧に笑っていた。だいたいいつも、さとみさんは曖昧に笑っている。
「エレンくん、ケーキの苺はいつ食べる派?」
「最初かな」
「そうなんだあ、私、最後まで取っておく派だなあ」
さとみさんは曖昧な笑いを浮かべたまま、苺をよけてケーキを食べた。
僕は宣言通り、真っ先に苺を突き刺して食べた。すっぱい。
「ケーキに乗っている苺って、どうしてこんなにすっぱいの」
「あ、それはね、ケーキの甘さが引き立つように、すっぱい苺を使うんだって」
へえ。
「でねでね、あまおうって苺あるでしょ?」
あまおう。
「おっきくて真っ赤で、見た目がとってもイチゴらしい苺」
「知らない。初めて聞いた」
「ふふ、エレンくん、そう言うと思った。そのあまおうはね、赤くて大きくてすごく見た目がいいんだけど、実はそこまで甘くない品種なんだって。だからね、ケーキに乗っている苺はあまおうが多いんだって」
「へえ、さとみさん、物知り」
「そんなことないよお」
「このケーキに乗ってるのも、あまおう?」
「ごめん、でも私、食べてあまおうかどうかまでは分からないんだ。でもきっと、これはあまおうだと思う!」
「あまおう、って名前なのに、甘くないんだね。甘さの王様じゃないのかな」
「それもね、ちゃんと名前の由来があるらしくて、あまおうは『あかい』『まるい』『おおきい』『うまい』の頭文字をとって『あまおう』なんだって。だから、甘いとは一言も言ってないんだよ」
「なるほど。すごいね、さとみさん、本当に物知り」
「たまたまだよお」
また、曖昧に困ったような笑い顔。
「さとみさん、インターネットみたい」
「えっ? インターネット?」
「うん、インターネットって魔法みたいに何でも答えてくれるでしょ。四角い窓に文字を入れたら、一瞬でたくさん答が出てきて。あれみたい」
「私、そんなに賢くないよお」
「でも、多分今日さとみさんが教えてくれなかったら、僕はずっとあまおうのことを知らずに、どうしてケーキの苺はすっぱいんだろう? と思いながら生きていったんだと思うよ」
「ええ、なにそれ、嬉しいかも」
「おじいちゃんになっても、どうしてケーキの苺はすっぱいんじゃろう? って思ってたかも」
「えへへ、おじいちゃんのエレンくんって想像できないけど」
「僕だってちゃんと年を取るよ」
「不思議。エレンくんはずっと今の可愛いエレンくんのままみたいな気がする」
「もしそうだったら、さとみさんもずっと今のままだよ」
「うわあ、そうならいいなあ。私、もう年取りたくないもん。だってもう四十だよ、考えたくない」
時々僕は、女の人たちのエキスを吸って、自分が年を取らなくなっているんじゃないかって錯覚する。女の人から、気持ちやお金や若さを奪う化物。
「年も取りたくないけど、ずっとこのままだといいなあ……。エレンくんとこうやって恋人みたいにケーキ食べてシャンパン飲んで、メリークリスマスって言って」
話しながら、さとみさんはケーキを食べる。苺は横に大事そうに皿の端に置かれていて、おおきくて、あかくて、まるくて、ルビーみたいだ。
「私、弟がいるんだけど」
「うん」
「子どものころ、家族でクリスマスケーキを食べてて、今みたいに苺を最後のお楽しみにとってたらね、弟に横からひょいって取られて、泣いちゃったことがあって。しかも、そのとき私もう中学生だったんだよ。弟はまだ小学一年生で、だから親にも、もう大きいんだから泣かないの、って逆に私が怒られちゃって」
そこでまた困ったような顔をして、さとみさんは笑った。曖昧な彼女の笑顔は、笑う直前に泣くみたいにくしゃくしゃになる。僕は、それがけっこう好きだ。
「クリスマスケーキを食べると、いっつもそれを思い出すの」
さとみさんはケーキを食べ終え、お皿の上には苺だけになっていた。
フォークを置くと、彼女は僕に体を向けた。
「エレンくん、お願いがあります。クリスマスだから、叶えてくれますか?」
「なんだろう? がんばってサンタさんになってみるね」
さとみさんは、うつむいて口元を両手で覆った。そしてしばらくしてから、そのまま上目遣いで言った。
「あの……、苺をね、あーんって食べさせて……ほしい、です」
僕は曖昧さのない、はっきりした笑顔で返事する。
「いいよ」
苺をフォークに刺し、そのまま彼女の口元に持っていく。
「はい、あーん」
「んっ」
さとみさんは頬を赤くして、困り眉になりながら、苺をぱくり。
またうつむいて口元を両手で覆い、ゆっくり味わって飲み込んでから、彼女は言う。
「……ちょう、しあわせ」
「あはは、そんなに喜んでもらえると思わなかった」
「え、だって、すごく憧れてたの! 好きな人にクリスマスケーキをあーんって食べさせてもらうの。なんかもういい年して恥ずかしいんだけど、でもずっとずっと憧れで」
僕は笑ったまま、さとみさんの頭を優しく撫でる。
「ああ~、エレンくんズルいよお~、何そのコンボ!」
さとみさんは口元を覆ったままブンブンと首を振る。その反応は、漫画とかドラマとかそういうもので学んできたありきたりな仕草なのかもしれないけど、そういう背景がある彼女を、僕は少しうらやましく思う。
しばらくブンブンした後、さとみさんはもう一度上目遣いでつぶやいた。
「もうひとつお願いがあって……」
そして彼女は顔を上げ、今度はしっかりと僕の目を見た。
眉がハの字になって、口がヘの字になった、困り顔。仕草だけじゃなくて、表情までさとみさんは漫画やドラマで学んできたのかもしれない。そうやって、自分をつくってきたのかもしれない。
さとみさんが、言う。
「そっ、外で、会ってもらえませんか」
僕は、さとみさんをマネて困ったような曖昧な笑顔をつくる。
「それは、予約して外でデートするっていうことかな」
「じゃ、なくてっ、お……お店を通さずに、プライベートで、会え、ない、ですか……」
さとみさんの声がだんだん弱くなり、それと一緒に顔もまたうつむいていく。
僕は少しだけ時間を置く。
そして、答える。
「さとみさん、ごめんね。それは、できません」
「そう……だよね」
さとみさんが黙る。
僕は、もう一度彼女の頭を優しく撫でる。
「……さっきと別の意味でズルいよお……それ」
そう言われても、僕はやめない。
「……あの、外で会おうって言わないから、でも、本当に辛いときだけ、返事しなくてもいいから、ラインだけでも、聞いちゃダメ?」
「ごめん」
「……だよね」
しばらくしてから、さとみさんは顔を上げ、いつもの困ったような曖昧な笑顔を浮かべた。
「困らせちゃって、ごめんね」
「ううん」
「今のは、忘れて」
僕がうなずいたのを見てから、さとみさんは、芝居がかった仕草で手を叩き、全然似合わないハッキリした笑顔をつくって言う。
「あ、そうだ! エレンくんにプレゼントもあるんだよお、開けてみて開けてみて!」
「ありがとう。嬉しいな」
僕は何事もなかったフリで、さとみさんの今だけの恋人に戻る。
口の中に苺のすっぱさが残っていて、そう言えば僕はケーキ部分にほとんど手をつけていなかったことを思い出した。
そしてふと、この苺の味はもしかしたら何年も覚えているかもしれないな、と思った。
メリークリスマス、さとみさん。
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