男娼日記
野々花子
十二月第一土曜日
ドアの前で呼び鈴を鳴らして、待つ。しばらく間があり、やがて足音がし、おずおずとドアが開く。
どんな女性でも、初めての時は必ず、呼び鈴が鳴らされてから数秒間は息を殺し身をひそめている。あきらめたように立ち上がってからも、足音はふだんよりもずっと忍ばせる。自分の部屋なのに、まるで追手から逃げ隠れていたかのように。そして、ドアをためらいがちに開け、一瞬だけ合わせた目を外してから「……どうぞ」と言う。
今夜の女性もそうだった。
「お邪魔します」
僕はいつの間にか身に付いた特別に柔らかい声で言う。目尻が下がり、口角が上がり、喉の奥から低すぎない音で、だけどはっきりと鳴る声。
物の少ない清潔なワンルームに招き入れられ、彼女がクッションを指し示す。
再び「……どう、ぞ」と消えそうな声で言ってから、彼女はベッドにトスン、と腰かけた。
「ありがとう」
そう言って僕はクッションに座る。彼女は胸元にひきよせた枕をぎゅっと抱きしめ、僕を見る。
そんなに警戒しなくていいのに。ほら、怖くない、怖くない。
と言いたくなるけど、言わない。
僕は目尻と口角の距離を縮めたままで彼女を見つめ、彼女のほうから口を開くのを待つ。彼女の目ではなく、わずかにその下あたりを見る。
やがて。
「……エレンって、本名ですか」
枕で鼻から下を隠したまま喋るので、彼女の声はくぐもっていた。僕はさっきよりもほんの少しだけ、彼女と仲良しになりたい気持ちを込めて、話す。
「まさか。源氏名だよ」
「……げんじな……」
「偽名。お店での名前」
「へえ……。あの、それってやっぱり、……進撃の巨人からとったんですか?」
「漫画? うん、そうみたい。うちの店長が漫画や小説から源氏名をつける人でね。でも僕、その漫画読んだことないんだけど」
「え、そうなんだ」
「あんまり漫画とか読まなくって」
「ありますよ、うちに。……全巻」
そう言って彼女は視線を本棚に向けた。僕もならって本棚を見る。
「えと、一番上の段にある、黒い表紙の……」
「あ、分かった。へえ、たくさん出てるんだね」
「面白い、ですよ」
「そうなんだ。似てる? 僕、そのエレンに」
「…………」
彼女の眉にしわが寄った。
「……似てない、です。ごめんなさい」
「ははは、謝ることじゃないし。こっちこそ似てないのに名前借りちゃってごめんね。もしかして、好きなキャラクターだった?」
「いえ、私はジャン……えっと、別のキャラの方が好きです」
「ジャン」
僕がその名前を拾うと、彼女は、ぽすっと枕に顔をうずめた。
「ジャンには似てる? 僕」
「……もっと、似てないです」
枕の向こうから、さっきよりもくぐもった、圧縮しすぎたmp3みたいな声で彼女が答えた。
「てゆうか」
彼女が再び枕から顔の上半分だけを出す。
「漫画のキャラに似てる人なんて、いません。二次元と三次元は違うし……。どんなイケメンでも、漫画のキャラとは比べるのは、ちょっと難しい……」
なるほど、もっともだ。僕は頷いて笑う。
「お兄さん……えっと、なんて呼べばいいんだろう」
「エレンでいいよ」
「え、それは、いきなりは無理……」
「お兄さんでも、君とか、あなたとか、お前とかでもいいよ」
「じゃあ、お兄さん……かな。えと、お兄さん、イケメンだから緊張する……てゆうか、あの、私こういうの使うの初めてで、やり方が分かんないんですけど、あ、えっと、違う、その前にお金? 先に払う……ですか?」
「お金はいつでもいいよ。最初でも、最後でも」
「じゃあ、先に払う……忘れると困るし」
忘れないよ、と思いながら僕はニコニコする。彼女はカバンから白くて大きな長財布を取り出し、その中から一万円札を数枚と千円札を数枚、僕に手渡そうとする。僕はお辞儀をして受け取る。
「ありがとうございます」
「合って、ますか」
彼女が聞く。
「うん、大丈夫」
僕はニコニコする。お金をもらう時の笑い方だけは、いつまでたってもわからない。
彼女はまだ笑ってくれなくて、再び枕をだきしめ、緊張した声で言う。
「この後は……どうしたら、いいのかな」
「あなたの、好きなように。そうだ、僕はなんて呼んだらいいかな?」
「えっ……あ、ごめんなさい、えっと、岸本、です」
それを聞いて、僕は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、上の名前でいいの?」
「あれ? えっと、間違えた……えーと、その」
「本名じゃなくても、あだ名とかでもいいよ」
「じゃあ……えり、で」
「エリ」
「うん」
「エリちゃん」
「うー、うん? どうかな……」
「エリさん?」
「ちゃん、よりは、さん、の方がいいかも」
「エリさん」
「はい」
「エリさんがしたいことは、なに?」
「えっ」
時間が止まったみたいに、エリさんは驚く。
止まった時間の中で、エリさんは、さらにぎゅっと強く枕をだきしめて小さくなる。でも、視線だけは僕をとらえていて、怯えたような、期待するような、それでいて今にも泣きそう。
やがてまた、くぐもった声がする。
時間が動く。
「……もう少し、おはなししてても、いいですか」
「もちろん」
「あの……こういうのって、みんな、セックスするんですか」
「しない人もいるよ。話すだけでいいっていう人や、添い寝だけしてほしいっていう人もたくさんいる」
「でも、したく、ならないんですか……? お兄さんの方が」
「エリさんがしたくないことは、しないよ」
「…………」
エリさんがまた黙る。
僕は、また笑う。女の人の言葉を待つとき、僕はいつも笑うようにしている。
そしてまた、エリさんが話し出す。さっきより少し顔が枕から出て、鼻が全部見えた。声もほんの少しクリアになる。
「たとえば……たとえばですけど、ずっと、今みたいに話すだけ、みたいなのも大丈夫ですか……?」
「大丈夫だよ」
「……逆に、これから時間が来るまで、ずっと黙って、そこにいてください、とか……そういうのも、大丈夫、ですか」
「うん、大丈夫だよ」
僕は微笑んで、頷く。
そしてエリさんは、また黙る。
僕も黙る。
枕はまたもや強く抱きしめられ、苦しそう。
やがて。
「ごめんなさい……やっぱり、黙らないで……ください」
「うん、わかった。なにか、話する?」
「うん……。でも、ええと、私、話すの下手だから、お兄さん、楽しくないかもしれないし、意味、わかんないかもしれないけど」
「だいじょうぶ。このまま聞く?」
また怯えたような期待するような、それでいて泣きそうな目で僕を見たまま、エリさんは自分の隣をポンポン、と小さく叩いた。
僕は立ち上がって、エリさんの隣に腰かけた。
「お邪魔します」
「……どうぞ」
ふわ、と、あまたるくて重みのある匂いがした。
僕はたぶん、女の人の何が一番好きかと言われたら、匂いだと答える。
僕は少し体を傾けてエリさんの方を向くけど、彼女は正面を向いて枕を抱いたままで、話し出した。
「あの……ね、色々、ね……あったの。すごい、プライベートなことで、でも、誰にも言えなくて、友達にも言えなくて、てゆうか、私、友達とか、いない……気が、するし」
「うん」
「で、でね、お兄さんにこんなこと言うのおかしいんだけど、本当に誰かに聞いてほしくて。一緒に、いて、ほしくて。……でも、その人は、私のことなんか、全然、知らないで、ほしくて」
「うん」
「私のことなんか、気に留めてほしく、なくて。でも、今日だけ、今だけ、甘えさせてほしくて」
「うん」
「でも、でも、私……ホント最悪なんだけど、それって、そういうのって、男の人に、して、ほしくて」
「全然、最悪じゃないよ」
僕はエリさんの肩を抱く。
一瞬、彼女の体に力が入り、僕も少し力を強める。
「あ」
エリさんの体から力が抜けて、僕はそのまま彼女を抱き寄せる。
「嫌なら、離れるよ」
「イヤでは……ない、です」
エリさんはそのまま黙る。やがて、言葉のかわりに、しがみつくみたいにして彼女の力が強くなる。僕はぼんやりと、さっきの枕はこんな気持ち、と思う。
「…………あたま、……なでて、ください」
僕の胸のあたりに顔を押しつけているから、エリさんの声はさっきよりもずっとくぐもっていて、それはまるで別の世界から聞こえてくるみたいで、実際に彼女はこことは全然別の場所で苦しんでいるのかもしれない。
僕はゆっくりと、こわれやすいものを扱うようにして、彼女の頭を撫でる。
「…………う、うう、ああ、あああああああ」
エリさんが嗚咽をあげる。
僕は、こわれやすいものに、できるだけ大切にふれる。
やがて。
「ああああ……、あああああああ!」
別の世界にいるかもしれないエリさんが、大きな声で泣く。
その声が直接僕の体に響いて、別の場所とこの場所を隔てるガラスのようなものに、ひびを入れようとする。僕にはそのガラスを割ることができなくて、それを割ることができるのはエリさんだけなんだけど、ガラスはなかなか割れてくれない。そんなことを考えながら、僕はこわれやすいものにもう一度さわろうとする。
十二月の土曜日。
夜は深く寒い。真っ暗で空気がぴしっと張りつめてガラスみたいで、割れそうだけど割ることはできない。エリさんはさらに大きな声で叫ぶみたいに泣く。
子どもみたいに、わんわんと泣く。
だけど、その泣き声は世界で僕以外には知られることがない。
だから。
「安心して。エリさん、安心して」
僕が今夜、彼女の枕よりもずっと柔らかく、優しくなれますように。
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