一月第二土曜日

 暗闇で、嘘を聞く。真っ暗闇の中で上手な嘘を聞く。

 暗闇の中では魔法がかかって、その嘘は本当になる。

 ひとたび暗闇から出てしまうと、その嘘は煙のように消えてしまう。

 最初から何も無かったみたいに。


「明けましておめでとう、エレン。だけどまあ、年が明けて十日も経っていちゃ、こういう挨拶も白々しくなってしょうがないね」

 そう言って川原さんはコーヒーの入ったカップを口に運ぶ。ひげも髪も白く染まっているが、顔つきが若々しいから、そんなに老けては見えない。実際、五十歳くらいだったと思う。

「前に来てもらったのは……」

 上を向いて彼は考えた。でも、天井に答が書いてあるわけじゃない。

 だから、僕が答える。

「七月」

「ああ、そうか。そんなに前だっけ」

「川原さん、Tシャツだったよ」

 有名な海外の画家の絵がプリントされたTシャツだと、自慢気に話していた。でも僕にはその絵の価値が全然分からなかった。派手な色でなんとなく人の顔のようなものが描かれているだけで、僕にも描けるんじゃないかな、と思った。

 その話をすると、川原さんは顔をくしゃくしゃっとさせて言った。

「ああ、限定のやつか。よく覚えてるね。確かに僕は去年の夏、あのTシャツを気に入ってよく着ていたけれど。エレンの前でも着てたのか。そうかあ」

 僕はうなずいて、川原さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。川原さんはいつからか、毎回コーヒーを淹れてくれるようになった。僕は甘い物のほうが好きなんだけど、川原さんの淹れるコーヒーは不思議とそんなに苦くなくて飲みやすい。

 でもきっと川原さんは、僕以外の人が訪れても、特にその相手が女性であれば、きちんと美味しいコーヒーを淹れるんじゃないかな。

「エレンはいっつも、真っ白い綺麗なワイシャツだもんなあ。夏でも冬でも」

「これ、僕の制服だから」

「え? 決まってるの?」

「いや。僕が自分で決めてるんだよ。まあ、楽だからって理由だけど」

 冬はちゃんと上にジャケットやコートを着るし、中も着込むけれど。僕だって寒さや暑さを感じないわけじゃない。

「洗濯とかアイロンとか、ちゃんと自分でするのかい」

 僕は首を横に振る。

「川原さん、世の中の男がね、みんな川原さんみたいにきちんと自分で自分の部屋を掃除して、シャツを洗濯して、しっかりアイロンをかけて、几帳面にクローゼットにしまうわけじゃないんだよ」

「僕のほうが珍しいのかあ。エレンは、可愛いガールフレンドがそういうのはやってくれるのかな?」

 僕はコーヒーを飲んで、もう一度首を横に振る。

「だといいんだけど」

「僕はガールフレンドには、絶対、僕の服や部屋はいじらせないなあ」

 川原さんは「そういうところが結婚できない理由なんだよ」と女の人によく言われるのだという。


 女の子が好きで、大好きで、結婚もせずにずっと好色に生きてきて、最近ついに男の子まで可愛く思うようになってしまったんだ。でもね、いきなりホラ、歌舞伎町とか行くのは怖いじゃない。だからねえ、ネットで色々探してみたんだけど、そうしたらこのお店を見つけて、君を見つけたんだよ。僕は今まで男とセックスしたいって思ったことはないし、今だってそこまでは思わないんだけど、可愛い女の子じゃなくて可愛い男の子と仲良くなってみたくてさ。それで君を呼んでみたんだよ、エレン君。ああ、エレン君って呼んでいいかな?

 そんな風なことを、最初の日に川原さんは言った。

 それから何年にもわたって、数か月に一度のペースで川原さんは僕を予約してくれる。決して回数は多いわけじゃないけど、僕のお客さんの中では、かなり古くからの付き合いだ。

 僕はほとんどお客さんを選ばないから、稀に男性相手のこともある。店には男性専門の男娼もいるから、わざわざ僕に男性の予約が入ることはかなり少ないのだけど。

 数回、川原さんは男ともセックスできるか、僕で試したことがあった。性欲じゃなくて、疑似恋愛でもなくて、代償行為とかでもなくて、単純な興味で男とも寝てみたかったんだそうだ。

 結局途中で行為をやめ、彼は言った。

「ああ、やっぱり踏み切れないなあ」

「僕以外なら、いけるかもしれないよ」

「いや、エレンでダメなら無理だと思うよ。そうだな、あとはリバー・フェニックスが生きてたら抱けたかもしれないけど」

「フェニックス?」

「うん。スタンド・バイ・ミーに出てた俳優だよ。若くして麻薬中毒で死んだ」

「フェニックスなのに?」

「不死鳥のごとく生き返り……とはいかなかったみたいだね」

 それ以来、川原さんは僕を呼んでも性行為は試さず、一晩ゆっくりご飯を食べたり、コーヒーを飲んだりして話すだけになった。


「今回の子はさあ、二回りほど下だったんだ」

「うん」

「だからね、ちょうど三十くらいかな」

 僕は暗算して、川原さんは今五十四才くらいなのか、と思った。もう少し若かった気がするけど、それは初めて会ったときの川原さんの年齢で、川原さんも僕もそれから平等に年をとっている。この世界に生きている人はみんな平等に年をとっていて、でも、リバー・フェニックスは麻薬で死んでしまったから年をとらない。

「そんなに顔は可愛くなかったんだけど、趣味が合ってね。特に映画の好みがドンピシャだったんだよね。中学校の美術の先生をしていたんだよ」

「川原さん、そういう女の人ばっかり好きになるね」

「違うよ。そういう女の人しか、僕を好きになってくれないんだ」

 なるほど。

「で、今回はなんで別れたの」

「田舎に帰るからついてきてほしいって言われてね。すぐにじゃなかったんだけど、将来的に」

 将来的に、って変な言葉だな、と僕は思う。

「でも僕はこの街から出る気はないからさ。それに、彼女のご両親だって戸惑うだろう、三十になった娘が帰ってきたと思ったら、自分たちと同じくらいの年齢の男を連れて帰ってくるんだよ」

「それこそ、川原さんの好きな映画みたいだね」

 僕がそう言うと、川原さんは笑った。彼は外見や性格に似合わず、豪快に大きな声で笑う。笑っているときだけ、全然別人みたいだと僕は思う。

「ハハハハ! そうだねえ、映画みたいだ。フフッ! ホントその通り!」

 しばらく川原さんは笑っていて、僕はその間、黙って彼が再び語りだすのを待つ。

「でもねえ、エレン」

 テーブルに頬杖をついて川原さんは言う。

「現実は映画じゃないからね。二時間で終わらないし、上手に起承転結もつかない。どこまでも続いていって……僕はそれに飽きちゃうんだよ。面白いことが、面白くなりそうなところで面白くなくなっちゃって、それでもまだダラダラ続いてね。そのうちに僕なんか気が付いたら五十だ」

 言い終わると、彼はもう一度アハハハハ! と大きく笑った。


 川原さんは彼自身が言う通り、女の子が大好きで好色で、だから別れてもすぐに新しい恋人の女性が現れる。でもやっぱり、またすぐに別れてしまう。そして恋人の女性と別れるたびに僕を呼び、どんな女性だったか、それがどんな恋愛だったかを一晩かけてじっくり僕に話してくれる。その話は大げさでロマンチックだから、嘘もたくさん混じっているのかもしれない。

 僕は滅多に映画を観ないけど、川原さんの話はいつも映画みたいだって思う。

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