一月第三土曜日

 便利なものには、頼りたくなる。コンビニエンスストア。深夜営業のカフェ。どんな質問にも答えてくれるインターネット。スマートフォンの中で注文すれば次の朝に家まで届く日用品。知らず知らずのうちにそれが当たり前になって、頼っているという感覚すらなくなっていく。

 僕らが最も便利に使っているもの。それは言葉だ。

 時々僕は、言葉と体、どっちが便利なんだろうと考える。僕らは、言葉と体、どっちに頼ってしまっているんだろう。


「お邪魔します」

 僕はそう言って、彼女の部屋に上がった。自分の部屋に呼ぶ女性はとても少ない。何度かホテルで会って慣れてから自室に呼ばれることは稀にあるけど、初めての予約で自室に呼ばれることはめずらしい。

 小さな部屋で、入るとすぐにキッチンがあり、その脇にバスルームとトイレらしき扉があり、その奥が六畳ほどのワンルームだった。テレビがつけっぱなしになっていて、画面は静止していた。

 彼女は無言のまま財布からお金を取り出し、僕に渡した。きっちり、お釣りもいらない金額だった。彼女はソファに座り、リモコンを手にとってボタンを押した。同時に静止していたテレビの中の俳優が喋りだす。

 僕はソファの横に立ったままだったけれど、彼女はまるで僕なんていないみたいにテレビを見始めた。突っ立っているのもおかしい気がして、僕もソファに座った。彼女と逆の端に座り、僕らの間にがんばればもう一人座れそうなスペースができる。

 テレビは連続ドラマらしく、医者の話だった。ドラマの中の俳優を僕は誰一人知らなかった。最後に流れた主題歌も聴いたことがなかった。二十分ほどしてドラマは終わった。彼女は一言も喋らないままで、ドラマが終わるとまたリモコンを手にとってテレビを消した。

 彼女は立ち上がって、キッチンとの境にある扉の前に行き、僕の方を向いて扉を指さした。

「シャワー?」

 僕が聞くと、彼女が首を縦に振った。

「一緒に入る?」

 僕が聞くと、今度は、彼女は首を横に振った。

 そのまま彼女はバスルームの中に消え、しばらくしてからシャワーの水音が聞こえだした。

 僕はすることもなく、彼女の部屋を見回した。ソファとテレビ、ベッド、ローテーブル、服が掛けられたラック、ベッドの脇に積まれた数冊の雑誌、テレビ台の収納部分に何枚かのDVD、天井近くに付いたエアコン。あとは壁に収納スペースらしき扉が付いていた。

 特に特徴もない、誰かの部屋。名前も知らない誰かの、誰のものにでもなってしまいそうな、誰かの部屋。

 もう一度ゆっくりと見回すと、ラックの奥にamazonのロゴが入ったダンボールの空き箱が雑然と押し込まれているのを見つけた。

 僕は視線を目の前の真っ暗なテレビ画面に戻して、しばらく目を閉じた。目を閉じると、部屋の匂いがはっきりとわかった。粉っぽい甘い匂い。どこかで知っているような、でも彼女だけの匂い。

 やがて彼女がバスタオルだけを巻いた姿で出てきて、再びバスルームを指さした。僕も浴びてこいということなのだろう。僕はうなずいて立ち上がったけれど、その後になって、僕まで黙る必要はないな、と気付いた。

 僕がバスルームに入ろうとした時、はじめて彼女が口を開いた。

「お湯、気を付けてね」

 思ったより高くて舌足らずな、子どもみたいな声だった。それだけ言うと、彼女はベッドに座った。

「ありがとう」

 僕はそう答えて笑ってみたけど、彼女はもう僕を見ていなかった。

 服をきれいに畳み、シャワーを浴びようとしたのだけれど、お湯の調節に手間取った。赤い方に少しひねっただけで熱くなりすぎて、青い方に少しひねっただけで冷たくなりすぎた。彼女が気を付けてと言ってくれなかったら、最初から勢いよくお湯を出して火傷していたかもしれない。

 数回試してやっとちょうどいいバランスを見つけ、シャワーを浴びた。そして終わると、彼女にならってバスタオルを腰に巻いただけの姿で出た。

 バスルームから出ると部屋の照明は最小限まで抑えられていて、天井のシェードの中で薄いオレンジの灯りが頼りなく揺れているだけだった。見えないほどじゃないけど、部屋の全部が影とぼやけた輪郭だけになって、混ざっているみたいだった。

 彼女はもうベッドの中に入っていた。

「入るよ」

 そう言ってから、僕も隣に滑り込んだ。

 ベッドに入っても彼女はしばらく何も言わなかったけれど、やがて彼女の方から僕にふれてきて、行為が始まった。行為中も、時々吐息を漏らすだけで、彼女はほとんど喋らなかった。どんなことをしてほしいか、どんなことをしない方がいいか、という質問にも、言葉でなく表情や手、体の力の入り具合で答えた。僕もだんだん言葉を減らして、目や指や唇や舌でうかがい、察するように努めた。

 そのうち、僕らはまったく話さなくなって、それでも饒舌に行為だけは続き、僕は自分を魚みたいだな、と思った。水の流れや温度で泳ぎ方を変えて、時に泳ぐのもやめて、漂ってみたりした。そのうち頼りないオレンジの灯りも消してしまって、真っ暗な部屋の中で僕らは続けた。時間が溶けていく気がして、僕は魚に時間の感覚はあるのだろうか、と考えた。

 泳ぐ。

 いつしか泳ぎ疲れる。

 それでも泳ぐ。

 泳ぎたいから泳いでいるのか、泳ぐしかないから泳いでいるのか、目的があって泳いでいるのか、それとも泳いでいること自体に気が付いていないのか、分からないまま水の中にいる。

 流されているのか、止まっているのか、抗っているのか分からないまま深く浅く。


 行為後、彼女は再び無言でシャワーを浴び、バスタオル姿で出てきて、僕にも浴びるよう無言で促した。

 僕は、今度は上手にお湯を調整してシャワーを浴び、服を着てバスルームから出た。彼女も部屋着姿になっていて、灯りは再び小さなオレンジ色だけになっていた。彼女はテレビを観ていた時と同じようにソファに座っていて、僕はさっきよりも少し彼女に近い位置に座った。

 彼女はやっぱり黙ったままで、それでも今度はするすると僕の肩に寄りかかってきて、お互いの体から同じ石鹸の匂いがする。

 テレビは消えていて、音楽もかかっていなくて、彼女は黙ったままだった。

 時間が溶けていく気がして、僕は彼女に聞く。

「魚にも時間の感覚ってあると思う?」

 返事はなくて、でもしばらくしてから彼女の頭がかすかに揺れる。

 見ると、彼女は笑っていた。

「ふふ。なにそれ」

 彼女の部屋着はグレーのフリースで、暖かそうだな、と僕は思う。

 その後もしばらくお互い黙っていたのだけれど、彼女がぽつりと言う。

「今日は、よく寝れそう」

 それから僕たちはまた黙って、そのうちに僕もなんだか眠たくなってしまう。

 魚が川底で泥に包まれるように、僕たちはまどろむ。

 彼女が、おやすみなさい、と言った気がした。

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男娼日記 野々花子 @nonohana

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