ビター
田所米子
ビター
「あ、カナ! 丁度いいとこに帰って来たわね」
長く退屈な補習の後。固い決意を抱いて帰宅した加奈恵を出迎えたのは、母ののんびりとした歓声だった。
「ね、ちょっとスーパー行ってきてちょうだい。もうすぐ三時のタイムセール始まるから」
母は今日は卵とトマトが安いのよなどとぼやきながら、朝刊のチラシの裏に今日の晩御飯の材料その他もろもろの品々を書き足す。
「ごめん。今日は無理」
しかし加奈恵は差し出されたメモを受け取ることなく台所に直行した。綺麗好きの母が毎日欠かさず磨き上げるシンクはぴかぴかで、眩い銀の煌めきが乾いた目の奥に刺さった。シンク同様に曇り一つない蛇口から水を出し、満杯になったヤカンを火にかける。冷たい水がぐらぐらと煮立つまでに、堅苦しい制服からゆったりとしたTシャツと短パンの部屋着に着替えると準備は完了だ。
父のビールのつまみのバターピーナッツに母の紅茶のお伴のチョコチップクッキー、兄の夜食のカップラーメンが入った戸棚を開く。真夏であるというのにひんやりとしていて薄暗い戸棚の奥にそれはあった。
一パック三十個入りの、御徳用のブラックチョコレートが二つ。加奈恵の胸を引き裂く知らせがもたらされた三か月前から、視界に入れることすら避けていた菓子だ。
「えー、別に行ってくれてもいいじゃない。すぐそこなんだから」
つれない娘への抗議の声は耳を劈く笛の音に掻き消された。ヤカンが湧いたのだ。
お気に入りのピンクのハート柄のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、なみなみと湯を注ぐ。右手にマグカップ、左手にチョコレートを持って部屋に駆け込んだ。
しょうがない子ね、とぶつくさ文句を漏らしながら鞄の把手を握り締めた母は、すれ違った娘の鬼気迫る表情を見て目を見開いた。もしかしたら、テレビの横の壁に掛けられたカレンダーの日付からも何かを察したのかもしれない。
今日のちょうど一か月後の日付には、百点を取った小学生のテストに咲いているような大きな花丸が鎮座している。そしてその下には、渉君の結婚、と小さく丸っこい母の字が並んでいるのだ。
「ねえ、カナ」
控えめに開かれたドアの隙間から忍び込む声が、めったにない労わりに満ちているように感じられるのは気のせいではないだろう。
「今日の晩御飯、何がいい? お母さん、カナが好きなものなんでも作ってあげるわよ」
「――海老フライ! あとハンバーグ!」
母は神妙な面持ちで頷いてくれた。いつもなら、そんなに食べたら太っちゃうわよ、と茶化すのに。
――じゃあ、行ってくるからね! 食後のデザートにプリンも買ってきてあげるから、元気だしなさいよ!
母のわざとらしい叫びの余韻は、友人に勧められて以来ファンになった女性バラード歌手の歌声でかき消す。甘く切ない歌声と歌詞は今の加奈恵の気分とはかけ離れていたが、自分だけの世界に浸るにはもってこいだった。
つるんとしたビニールに包まれたチョコレートの一粒を頬張り、舌の上で転がす。とろとろと蕩けるそれは快い甘味よりも苦味が勝る。加奈恵はとうとう好きになれなかった味だ。
友人たちと歓声を上げながらむさぼり読んだ漫画やファッション雑誌に大部分を占拠され、高校の教科書が居心地悪げに佇んでいる本棚の空いたスペース。そこには、小学校三年生だった加奈恵の夏の思い出が飾られているはずだった。その一枚に映っているのは、当時人気だった魔法少女アニメのキャラクターのお面を被った加奈恵。そして紺色の夜空に咲く花火を背景に佇む六歳年上の兄と、母方の従兄である渉――加奈恵がずっと好きだった七歳年上の従兄の姿。
「あ、カナちゃん。久しぶりだね」
年が近い加奈恵の兄と親しかったことと、就職先が加奈恵の自宅に近かったことから数か月に一度は夕食を共にしていた渉。
「実は僕、今年の九月に――」
彼が今にも蕩けそうなチョコレートのような笑顔で「朗報」を告げに来たのは三か月前の夕飯時。
その瞬間の加奈恵は甥っ子を可愛がっていた父母や兄の歓声に沸く居間の中の異物だった。一瞬目の前が真っ暗になって、息をすることすら忘れてしまった。
「そ、そう。……おめでとう」
それでもありったけの気力を振り絞り、凍り付いた表情筋を動かした。そして「これが僕が結婚する人なんだ」とこれまたチョコレートのように甘い声と共に差し出されたのは、セミロングに切りそろえたマロンブラウンの髪がよく似合う、なかなかの美人の微笑み。
ロングじゃないじゃん。
渉の会社の同僚だという彼女を見てとっさに思ったのはそんなことだった。
汗ばんだ項に長い髪の一筋がへばりつく。
――女の人の長い髪がそよぐのを見るといいなと思う。
従兄がある時呟いたのを耳ざとく聞きつけてから伸ばした髪は、今では背の半ばまで伸びてしまっていた。
冬はマフラー代わりとして使えて重宝するが、夏場はただ暑苦しいだけの毛の束。美容院に行くたびに何度「切って下さい」とこぼしそうになったか分からない。どんなにシャンプーを付けても泡立たず、しかも乾きにくいこの髪に苛立ったことも一度や二度ではない。そもそも加奈恵の髪は普通よりも量が多いのだから、シャンプーやリンス代だって馬鹿にならない。トリートメント代は言わずもがなだ。
それでも、どちらかといえば面倒くさがり屋の加奈恵が、毎日の手入れを鬱陶しがりながらも髪を伸ばし続けたのは――
『カナちゃん、元気にしてた?』
加奈恵をただの愛すべき従妹、あるいは手の掛かる妹としてしか見ていない渉を振り向かせるため。母は、年頃の少女にありがちな微笑ましい――大人になれば輝かしい思い出の一つにできる程度のものだろうと――身近な年上の異性への憧れに過ぎないだろうと見守っていた恋は、加奈恵にとっては真剣そのものの恋だったのだ。
いつ渉のことを好きになったのかは覚えていない。母方の祖父母の元に遊びに行った際、擦りむいた膝を抱えて泣き叫ぶ加奈恵をおぶってくれた広い背中に憧れたのが始まりか。いや、カナヅチを恥じて海に入ろうとしない加奈恵に優しく泳ぎ方を教えてくれた、従兄の小麦色の横顔に見入った日こそが長い片思いが始まった日なのかもしれない。
分からない。思い当たる節がありすぎる。ただ一つはっきりしているのは、加奈恵が年上の従兄のことをずっと好きだったということだけ。
そしてもう一つ痛感しているのは、もうこの想いに終止符を打たなければならないということ。
「……にっが」
すっかり冷めて生ぬるくなったコーヒーで、三十個目のチョコレートを流し込む。ブラックコーヒーとブラックチョコレートが合わさった苦味は尋常ではなかった。
ヘアゴムやアクセサリ―が所狭しと散らばった机の上には、透明な山ができている。どん、と乱暴にカップを置くと、平らげたチョコレートの抜け殻がかさかさと散った。加奈恵は横目でちらと飛び散ったそれを見やり、しかし拾い上げもせずにもう一つの袋に手を伸ばす。ぽっかり開いた口から土砂のように乱雑な台の上に広がるそれ。いつも欠かさず常備していた御徳用のチョコレートは渉の好物だった。
『渉くんは苦い物が好きなのねえ』
大好きな従兄が好きなのなら、きっと美味しいに違いない。そんな好奇心に駆られてつやつや光る黒に近い茶色の一粒を頬張った時は後悔した。
カレーは絶対に甘口。わさび入りの寿司などもってのほか。ピーマンの肉詰めは「捏ねた挽肉」と「焼いたピーマン」に分離させ、不愉快な緑色の野菜は兄に押し付けていた幼少期の加奈恵は、突如襲い掛かった苦味に涙目になったものだ。
チョコレートは甘い物であるという幼い価値観を根本から崩壊させた味は、とにかく衝撃的だった。今にも洗面台に向かって舌を洗いたくなった衝動を堪え、舌触りだけは普通の物と全く同じそれを嚥下した時は、自分を褒めてやりたくなった。
毎月のお小遣いから差し引かれるのを承知で、好きでもないチョコレートを常備していたのは、ひとえに渉のため。同じく全く好みの味ではない無糖のコーヒーを飲み続けていたのも、渉のためだった。
――いつかこの味を好きになることができたら、きっと私は渉くんに釣り合う大人の女になれる。そんな風に勘違いをしていたのだ。本当の加奈恵は、カフェオレという洒落た名称よりも、コーヒー牛乳という親しみやすい響きが似合う飲料が好きな子供だったのに。
残すところあと五つになったチョコレートは、凝り固まった未練そのもの。だから加奈恵は、どうしてもこれを平らげなければならない。噛み砕いて、消化して、排出しなければならないのだ。そうしないと、いつまでもこの想いを断ち切れないから。
水玉模様のシュシュの横にぽつんと転がる一個を握り締める。やや高めの体温を吸ってだらしなく融けるそれは、舌の上であっけなくなくなった。
友人に借りた単行本の脇の二粒と、ラズベリーの匂い付きのリップクリームの横の一粒を同時に頬張る。がりごりと飴玉のように噛み砕くと奥歯に詰まった。ふと強烈な喉の渇きを覚えて、残るコーヒーを一気に飲み干す。昨年の誕生日に渉から送られて以来、決して割らないようにと用心しながら使い続けたお気に入りともしばらくおさらばしよう。今月の小遣いはもう底をついていることは重々承知しているが、新しい物を買ってやる。近所の雑貨屋のポップなオレンジのカップは素敵だった。
雑貨屋から出た後は髪を切りに行ってやる。顔なじみの美容室の主人は驚くだろう。だけど前々から「加奈恵ちゃんにはショートの方が似合うのに」と零していたのだから、突然の申し出も快諾してくれるはずだ。
新しいカップに最初に注ぐのは、もちろん砂糖とミルク入りのコーヒー。あるいはキャラメルマキアートでもいい。ブラックでなければなんでもいい。渉と自分の星座の相性が悪いと肩を落とし、けれど画数占いなら好相性だと一喜一憂していたあの日々を思い出させるものでなければ。
じんと熱くなった目を空のカップで冷やし、深呼吸して最後の一個を舌に乗せる。大量の脂肪分を摂取した代償として、二、三個のニキビができるぐらいは覚悟の上だ。
この苦い感情は、最後のチョコレートがなくなるまでには消えているだろう。そうでなければならない。そして一か月後の花嫁の誕生日でもある結婚式の日には、従兄とその横に立つ眩いウエディングドレス姿の女性にとびきりの笑顔でおめでとうと言ってやるのだ。
ビター 田所米子 @kome_yoneko
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