第32話 隠し事、ソロアクト・イブ
再びエレベーターの扉が開かれて、一階の入り口で長い時間待ちぼうけをくらっているであろう結衣を迎えに行った頃には、到着時こそ通院客の姿で溢れていたフロア内も打って変わって、閑散とした雰囲気だった。
気が付けば、彼女が父親に連れていかれた時点から更に小一時間ほど経過している。待たせ過ぎだ。
さしもの慈愛の精神に満ちた性格をしている幼馴染であろうとも、ここまで放置されたに等しい扱いを受けては怒られてしまうかもしれないと、俺は戦々恐々の構えだったのだが、そこには入り口付近の長椅子で、すやすやとうたた寝に興じている少女の姿があった。
気持ち良さそうに寝ている。
朗らかで、安らかな表情だった。
見ていて思わず、穏やかな気分にされてしまった。
いつもならば、彼女から起こされる行為こそが俺の日常の始まりであって、このような立場をひっくり返したシチュエーションを迎えるのは初めての事に思える。それは、記憶の有無を疑うまでもない、確信的で新鮮な光景だった。
「……言っちゃ悪いけど、本当に子供みたいな寝顔だな」
身に纏っている制服姿が、かろうじて彼女が親に置いてかれた小学生ではないと弁護をしていたものの、その幼い容姿とのミスマッチさがむしろ余計な背徳感を煽っているようで、ここが病院という比較的安全な場所で良かったと、俺は心から安心してしまう。
どうしたものかと悩んだ挙句、肩を揺すってみた。
「おい結衣、起きろ。帰るぞ」
「――う、ううん? 修ちゃん、お父さんとのお話は終わったの?」
とろんとした瞼をこすっている姿で、彼女はそう尋ねた。その仕草も含めて、やはり子供みたいだった。
「ああ、時間がかかって悪かったな。家まで送って帰るから行こう」
「はぁい」
「……やれやれ」
寝起きで頼りない歩みのまま病院を出た段階では、今が何時頃なのかも理解していない風な結衣だったが、名結駅に到着して次の電車が到着するのを待っている頃には、すっかりといつもの調子を取り戻していた。
父親に連れてかれた時こそ青ざめた表情をしていたので心配だったが、どうやら睡眠と共にそちらの体調もある程度は回復したらしい。睡眠活動を大事さを信仰する立場としては嬉しい限りである。
「修ちゃん、お父さんと何を話してたの?」
「ああ……まあ、大した話じゃないよ」
「でも、私には話したくない事なんだねー」
はぐらかしたが、当然お見通しの様子だった。
「……まあ、男同士の話ってやつだよ」
「ふうん。無理に聞こうとは思わないけど、ちょっと気になるかも」
そりゃあ、お前の普段の生活と将来について話してたなんて話せるはずもない。しかも、話の後半部分は俺がきっかけでもあったのだから余計にである。
「……でもね」
一拍置いて、少し表情を硬くしながら結衣は言った。
「修ちゃん、お父さんと仲良くなれたみたいだから。私はその方が嬉しいかな。お父さん、ちょっと気難しい人だから」
「気難しい……か。間違ってはいないかもしれないが、俺はいい父親だなと思ったよ。勿論、人格的な意味で」
病院長という地位的な意味でも羨ましく思えたのは事実だったが、敢えてそれを伝える必要はないだろう。少なくとも、結衣が求めている答えがそれではないのは分かりきっている。
「もう少し……お母さんと仲良くしてくれたら最高なんだけどね。あはは」
「……あまり仲良くないのか」
「喧嘩してるとか、そういう事じゃないんだけどね。一緒の時間があまりにも少ないから……お母さんの方が冷めてるっていうのかな。寂しがってるだけなのかも」
「寂しい、か」
「子供みたいだよ、遠距離恋愛してる恋人じゃないのに」
「…………」
この場合、年齢を考慮すれば単身赴任の方が意味合いとしては近そうだったが、そんな茶々を挟むつもりはなかった。
どちらかと言えば、子供みたい、そう身内相手に毒づいた目の前の少女。普段の彼女ならばまず吐かないような、意外とも思える言動の方に気を取られていた。無論、それは身内相手だからこそ気やすく物を言える関係性の表れなのだろう。
しかし、それも対象が普段から同居している母親だからこそ口に出せたのかもしれない。病院内で父親とのやり取りを目撃した立場だからこそ、そう感じる。
あの時の結衣は、明らかに緊張していたから。
初対面だった俺と比べてしまえば、なるほど親子のような会話だと理解できそうな雰囲気が伝わってきたが。同時に、一歩手前の場所から言葉を投げ掛けているような、どこか遠慮している関係性が見え隠れしていた気がした。
実際、俺は結衣の父親から一人娘の事について尋ねられた。あの策略的とも言える行動こそが、親子の間で埋め切れていない一歩、その裏付けだったのかもしれない。
結衣の父親。彼は、本人が自称していたように不器用な人物だった。仕事に忙殺された日々を過ごしているものの、かといって、一人娘に対して何の感情も抱いていないような人物でもなかった。
ただ不器用なだけの、優しい父親だった。先程の俺が話したように、その人間性は決して嫌いじゃない。むしろ、好ましいとすら思えたほどだ。
そんな結衣の父親に、俺はお節介だと重々承知しながらも助言のような言葉を授けた。実行するか否かは本人の行動次第だが……上手くいって欲しいと願うばかりだ。それ以上に首を突っ込む行為は、俺の立場上では許されていない。
「お父さんとお母さん、仲良くできるといいな」
「……うん、ありがと」
気落ちした表情の結衣に対して俺が掛けられるのは、ありきたりな励ましの言葉だけだった。そのやり取りと同時に、帰りの電車が到着した。
「修ちゃん、国吉先生……助かると思う?」
「……どうかな、助かって欲しいとは思うけど」
結衣がその話題を口にしたのは、乗り込んだ電車に揺られて地元へと帰ってきてから、その足で彼女の自宅へと徒歩で向かっている最中のことだった。これまでの道中では触れようとしていなかった話題だったが、やはり気になっていたのだろう。
一度、病室で体調を崩した姿を目の当たりにしていただけに、俺としてはあまり気乗りしない心持ちだったが、無視する訳にもいかなかった。
「この辺りも物騒になってきたね、修ちゃんもこの間みたいに遅くまで出歩いちゃ駄目だよ」
「ああ、わかってる。気をつけるよ」
まさにその日、遅くまで俺の自宅前で帰りを待ち続けていた幼馴染には、そのままそっくりと言葉を返してあげたかったが、彼女がそのような行動を起こした原因は、あくまでも俺の衝動的な行動に由来していたのだから、是非も無い話だった。
「犯人……捕まるといいね」
「……だな」
警察の捜査がどこまで進んでいるのかは知らないが、代行者が相手となっては、あまり頼りにもできないだろう。俺もこの目で実際に代行者を目撃した経験は、先週の一件に限られる訳だが……はっきり言って、モノが違う。
それでも犯人の特定は――近日中にされるのだろうが。
その後も結衣と短いやり取りを繰り返しているうちに、彼女の自宅が見えてきた。家まで送る時は玄関先で結衣の母親にひと言挨拶するのが通例だったので、今回もそうしようと考えていたのだが。
「……修ちゃん、今日はここでいいよ」
「どうした? いつもなら家の玄関まで送るのに」
「修ちゃんが一緒だったら……お父さんと会ってきたって分かっちゃうから」
「……そういう事か」
言葉の意味としては、結衣が母親に対して「お父さんに会いに行くこと」を伝えていなかったという事ではないのだろう。
ただ、幼馴染の俺までもが一緒に会ってきたと母親に知られたくなかった、一人娘としての精一杯の気遣いだった。
「いいさ、ここまで来れば大丈夫だろうし。お母さんにはまた今度挨拶するよ」
「ごめんね。修ちゃんも、帰り道気をつけてね。それじゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
そう言って駆け出した幼馴染の背中を眺めながら、俺はある決意を独りで呟いていた。
全く、何を迷う必要があったのだろう。俺は一体何のためにこの世界に踏みとどまる事を選んだのか、まさにそれを再確認した瞬間だった。
「……明日には、終わらせるよ。結衣」
自宅に到着してから早速、電話機の履歴を調べてみたところ、全く同じ番号からのダイヤルが十件近く並んでいた。その異様な状況に戦慄すら感じる暇も無く、再び電話機に同様の番号からと思われるコール音が鳴ったので、俺は鞄を下ろしてから渋々と受話器を取ることにした。
『遅い』
何度もかけ直したはずの電話に、やっと応答が確認できた相手の言葉とは思えなかった。
「……なあ、冷泉。心配してくれてるのは分かったが、流石に怖すぎるだろ」
『私は待つことがあまり好きじゃないの、覚えておきなさい』
声色や微妙に尊大な口調から察するまでもなく、電話の相手は冷泉瑠華だった。番号を交換したといっても、その数字を全て暗記していた訳ではないので、文字通りの出たとこ勝負だったが、予想的中だったらしい。
……尻に敷かれる、いや尻に敷こうとするタイプの奥さんになりそうだな、こいつは。帰りの道中での結衣との会話を思い出しながら、俺はそう思った。
「肝に銘じておくよ。悪かった」
『随分と遅くなったみたいだけど、何かあったの?』
「病院の場所が名結市だったからな、学校帰りにそこを行ったり来たりしたらこんな時間になったんだ」
実際には、結衣の父親との出会いや彼からの相談事など諸事情がいくつかあった所為でもあるのだが、わざわざ説明する必要は無いだろう。
『それはご苦労様。それで、成果はあったのかしら。まさか市街地で遊び呆けてはいなかったでしょうね』
「……随分な言われようだな」
『他人に調査を依頼するというのは初めての経験だったけど、これほどまでに不安な心境になるとは思わなかったわね。放課後に榊原君から病院の場所を訊きだしておけばよかったと、帰ってから心の中で後悔してたわ』
「気持ちは分かるが……」
どうせなら、心の中で応援して欲しかった。
実際、その通りだったのかもしれないが。
少なくとも、学校外での調査活動をする分に置いては、冷泉の動きを制限する理由は特に見当たらなかったと言える。しかし、そもそも病院の場所について情報提供をしてくれたのは、冷泉が当初から疑いを抱き続けている本条先生だ。
彼女が敵から塩を送られるような行為を、そのまま受け入れていたかどうかは微妙な所だろう。結衣の父親との貴重な出会いを抜きにしても、やはり俺が調査に赴いて正解だったのだ。
「安心しろ、とまでは言わないが、少なくとも空振りに終わった訳じゃないさ。説明するから聞いてくれ」
俺は病院に到着してから得られた情報を端的に、冷泉に伝えることにした。
調査報告の時間だ。
『――つまり、敵の代行者は無差別にNPCを襲っているという事なのかしら』
「病院内の話だけじゃ詳しい被害状況までは分からなかったけどな、少なくとも、国吉先生だけが狙われた訳じゃないらしい」
『……でも、自我の崩壊まで追い込まれた患者は国吉先生だけだった』
「そう、なるな」
『ふうん、大体理解できたわ』
電話口なので、冷泉がどんな姿勢で話をしているのかは見えない。最初はいつものように両腕を組んでいる光景が浮かんだが、その場合受話器はどこに置いているのだろう。首を傾げて肩に挟んでいるのかもしれない。想像してみると中々可笑しい光景だったが、直後に彼女が発した言葉を聞いて俺は雑念を払った。
『どうして禁止ワードのルールが代行者にあらかじめ知らされていなかったのか、その件についても納得がいったわね』
「……そんなことが分かる情報を伝えたか?」
早くも探偵と依頼人の立場が入れ替わっている。張り合うつもりは全くなかったが、所詮、俺にできるのは探偵の助手程度の仕事が関の山なのだろう。愚痴にすらならない諦めを内心で呟きそうになったところで、冷泉は自らの考えを語った。
『これは、戦略に応用できるルールよ。禁止ワードの存在に気が付いた代行者にとっては、邪魔なNPCを労せずして排除できるのだから。勿論、こんなやり方を私は絶対に取りはしないけど、それでも有益な情報には違いないでしょうね』
……確かに、冷泉なら絶対に実行することのない手段だろう。違反行為の存在を無視しても、彼女はNPCに対しては危害を加えようとしない。あくまでも、代行者同士の抗争を内々で終わらせようとする考えを持っている。今更確認するまでもない事だった。
「お前がそう言ってくれるのは嬉しいけど。なあ冷泉、一つ訊いてもいいか」
『なにかしら』
「今回の事件、特定の代行者の仕業だと思うか?」
現在の俺が、未だ払拭出来ないままにいる疑問の一つがそれだった。これは、同じ代行者である冷泉からの意見を訊くことでしか情報を得られない、そう考えた。冷泉からの返答が返ってくるまでに、数秒の静寂が流れた。
『……運ばれた患者が全員とまでは言わないけど、国吉先生の件については、その可能性が高いでしょうね。NPCを襲うことで得られるメリットも勿論あるけど、失敗した際のデメリットが大き過ぎるのも事実。戦略としては有効でも、全ての代行者が実行できるとは考えづらい』
「だろう、な」
実際の問題、NPCに対して禁止ワードを使用した結果がどうなるかは予測が付かないところがある。仮に、偶発的にでも禁止ワードになりそうな言葉をNPCに使用した代行者がいたとして、対象が突然頭痛で苦しみ始めたら、躊躇してしまうのが普通だろう。
病院に運ばれたNPC。軽度の症状で済んだ人達は、あるいはそういった偶発的な出来事による被害者達かもしれない。
人道的な歯止めが利かなかったとしても、ルール的な歯止めは確かに存在するのだ。違反行為の存在、それだけを代行者が知らされていたのならば、そのストッパーは間違いなく有効に働くだろう。
しかし……国吉先生を自我の崩壊という段階にまで追い込んだ犯人の行動は――明らかにストッパーの存在を無視している。最初は代行者という存在の大半がリスクをまるで恐れない人種なのかと考えたが……多分違う。
リスクを恐れていない、特定の代行者が存在する。冷泉に言わせればそれも戦略に応用した行動なのだろうが。
あくまでもそれは後付けだ。
最初から狙い澄ましていた訳じゃないだろう。
切っ掛けこそ見えてこないが、もしかしたら今回の事件は、あくまでも偶発的に発生した産物なのかもしれない。だが、それだと疑問は残る。どうしようもない疑問が解消されてこない。
「……冷泉は、そのデメリットの詳細について知らされているのか?」
いつか尋ねようと思っていた事だ。違反行為とは聞くが、デメリットの内容によっては話が根底からひっくり返る話だけに、いい加減ここらで確認を取った方がいいだろう。
『知らないわ』
今度の返答は実に素早かった。
「……てっきり知ってるものだと思ってたが、予想外だったな」
『知らされてないからこそ、手を出せない。そうは思わない?』
「知らされてないからこそ……?」
『想像するだけなら幾らでも可能。デメリットはもしかしたら、とても緩い内容なのかもしれない。あるいは、とても厳しい内容なのかもしれない。でも普通この場合、最悪なケースを想像するのがまともな思考と言えるんじゃないかしら』
他に根拠が無い訳でもないけどね、そう冷泉は言葉を濁したが、デメリットの内容が不明確だろうと、ストッパーとしての効果は一応働くだろうという見解だった。
「一応訊いておくけど、代行者にとって最悪なケースってどんな状況なんだ」
『少なくとも参加権の剥奪。最悪は……』
「最悪は、何だ?」
『あまり、気を悪くしないで貰えると助かるけど、元の世界に帰れなくなるのが最悪のパターンかもしれないわね』
……そういう事か。
また気を遣わせてしまったらしい。
「いや、こっちこそ悪い。別にいいさ、誰だって自分の住む場所が恋しいに違いない」
『……そうとも限らないかもしれないけどね、あるいは』
「……冷泉?」
「何でもないわ。ただ、はっきりしているのは、違反行為をした代行者には十中八九、敗北の道しかない。そして、参加している代行者がそんな愚かしい選択を自ら取ることは普通なら考えられない。彼らはルールによって敗北するぐらいなら、実力で完膚なきまでに敗北する事を選ぶ人間の集まりと言えるのだから」
調査報告から捜査会議にまで発展した冷泉との電話はすっかり長引いてしまったようで、気が付けば、夜の十時を過ぎようかという辺りだった。
『国吉先生の容態についての報告はこれで充分として、残るはあの本条先生について調べ上げる事かしら。明日も同じ時間に電話するから遅くならないようにね、それじゃまた明日会いましょう、榊原君』
そうして翌日の調査内容を冷泉が確認してから、おやすみなさいの別れ言葉を最後にようやくのお開きとなった。
自宅の電話はコードレスなタイプでは無かったので、終始立ったままのやり取りだった。帰宅してからほとんど休みなしの長電話、さすがに疲労の色が隠せない。俺は廊下からリビングに向かうと、今更夕食を作るような元気も無くソファに身体を預けた。
「……結局、言えなかったな」
天井を仰ぎながら、遅すぎる懺悔をするかのように呟いた。
冷泉に伝えた調査結果だが、俺はその全てを開示してはいなかった。それも――重要で重大な事実を一つだけ隠し通している。探偵としては失格だろう。助手としてならば、なお最悪である。
それを冷泉が知れば、彼女は間違いなく動くからだ。現在の膠着した状況は大きく一変して、何かしらの真実が明るみとなり、その結果――誰かが死んでしまう。
死んでしまう。
殺されてしまう。
生き残った代行者によって。
「――怖いんだ」
誰かが殺されてしまう事、誰かが誰かを殺してしまう事、俺が……その要因となってしまうかもしれない事。何もかもが、あの悪夢のような一日の出来事を思い出させてしまう。あんな思いをするのはもう沢山だった。
だから俺は明日、一人で動こうと思う。
冷泉や、友人達の助けは借りない。
一人で、真実と向き合ってみせる。
誰かの代わりの世界認識 双場咲 @tsubasa09
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