Fünftens Kapitel § Epilog §

ⅩⅩⅤ それはヨルベナキモノタチノ




 リリリリ…………。



 それはまだ空気が薄く、色を塗り始めたばかりの朝だった。どこかで目覚まし時計が鳴っているのを耳にしながら、コーヒーの香りと共に俺は外に出た。時刻は早朝六時。一口飲んでから、木製の丸机に置く。やがてリビングにパジャマ姿のまま誰かが起きてきた。すずね先輩かな、と思ったけどそれはきらりだった。この芳醇な香りに釣られたのだろうか。



「おはわよう~」

「おはよう、きらり。随分と早起きだね。どうだい、体調は戻ったかい?」

「うん、もう大丈夫みたい。なんか、心配かけちゃったね」



 眠気眼をこすりながらベランダへ来るきらり。俺は手で風よけを作りながら煙草に火を点けて、それからゆっくりと煙を吐いた。彼女は向かいに座り、それから夢を見たという話を始めた。長く、長い悪夢のような夢だったという。悪夢のような、と言ったのは、それが悪夢ではなかったから。どこか別の世界にいた気がするのに、目が覚めたら朝になっていたとかいう。不可思議である。



「それでね、私夢で告白されたんだ。夢だって分かっているのに、なんだか夢の心地がしなくて」

「そうか」

「夢の中で諦くんが、自分を信じろって。自分を信じられるのは自分だけで、それが生きる強さになるって。迷った時には諦くんが導いてくれるとも言っていたんだ」

「そうか。どうやらその夢に出てきた俺は、ぬけぬけと偉そうに恥ずかしいことを連発していたのか」



 無論、俺は自分の発言を恥ずかしいと思ってなどいない。自分の本音を恥じる奴がどこにいよう。恥じることなどない。俺はここにいる。それだけは誰にも否定することはできない。だだ、ただの戯言は俺の存在証明には一切の効力を持たないことを発言者は推して知るべきであり、本当にそこにいたのがこの俺だということを客観的に示すものでもない。



「そういえば、七夕終わったらテストだね。テスト何とかなりそう?」



 何かを誤魔化すようにきらりは話題を無理に変えた。いや、逸らしただけか。



「もちろんだ。一度やったことあるところだし、一年は基礎ばかりだからな。その上俺は頭がいい。大学では、本当に優秀だったんだぜ。勉強しなくても八割は固い」

「すごいなぁ。ねえ、ちょっとだけ。ちょっとだけ教えて貰っていい?」

「ああ、構わないよ。俺が教えられる範囲であれば、なんでも」



 俺はそれを知らないふりしてタバコの火を消し、俺は室内へ戻る。それをきらりが止める。



「……なんでもってことは、さ」

「なんだ。ここだと少し寒いんだが」

「……この間の返事、とかも、教えてくれるのかな?」

「ここだと、寒い」



 俺はベランダの扉をからからと開ける。きらりは俺のシャツの裾を強く引っ張った。そんなことをされれば、俺はそのままバランスを崩してしまう。だからそのまま口づけをしても、それは神か何かの仕業だろう。



 きらりのは俺のキスを受け入れた。細くなる目はやがて閉じられ、そのすべてを感覚に委ねる。過去を焼き付けるようなあのときの俺とはまた違う、俺の場合はこれからに向けての誓いに近い。



「……タバコくさい」

「だから言ったろ。やめとけって」


 俺は頭がいい方ではあるが、運動と歌が音痴なんだよ。おかげでバランスを崩してしまったではないか。いや、ほんとだよ。決して意図的じゃあないんだぜ? やっぱり神様のせいかな。


 言葉で伝える以上のことを、これで俺は伝えられたのではないかと思ったのだが、やはり人間は想いを声にしなければいけないらしい。きらりはなぜだかまだ頬を膨らませている。



「どうした」

「……うるさい」



 ぐっと抱き着いてきたのは、外が寒いからだろうか。なんだ、寒いんじゃないか。それにしても、今朝はこの時期にしてはやけに冷える。俺は忘れかけていたコーヒーの存在を思い出し、取りに戻るためにきらりをどけようとしたら、これまた強く抱き留められた。なんだよ、もう。コーヒー冷めちゃうよ。



「……ありがとう。これで私はきちんと自分のことに向き合える。未練が絶ちきれない私も向こうの世界で幸せのままでいることもできる」

「ここにいるお前はどうなんだ? 幸せか?」

「そりゃあ、もちろん」



 それはよかったと、俺は頭を撫でて今度こそきらりを引きはがしてマグカップに手を伸ばした。後ろで手を組みながら足の先を交互に浮かしている彼女を見て俺は一体今年の七夕はどうなるのだろうかと思った。


 俺は朝ごはんの用意をするために、うれしそうなきらりを後ろに連れて部屋の中に戻った。

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ヨルベナキモノタチノ 小鳥遊咲季真【タカナシ・サイマ】 @takanashi_saima

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