第11話 現代 至嶋時積

 手記を読み終え、希望と絶望を感じた。

 このアタッシュケースの中には、瘧狼病治療薬製造法が入っていて、この騒動を収束させる救世主となる。しかし、その救世主は、香沙音と希由美は救ってくれない。陰織家に伝わる病気には効かないのだ。

 拒口が、アタッシュケースの中の紙束を見て、歓声を上げていた。治療法がみつかったのだ。これで彼の世界は救われる。

 横にいる希由美の顔をみつめた。汚れていない瞳で、みつめ返してきた。思わず抱き締めた。希由美も、僕にしがみついてきた。


「パパ。大丈夫だよ」


 耳元でささやかれた。親が思っている以上に、子供は親の気持ちがわかっている。僕の沈んだ心を、励ましてくれているのだ。投げやりな気分になりかけたが、どうにか持ちこたえた。いつか病気が発症して苦しんで死ぬのなら、ここで死んでも同じだと思いかけていた。そんなことはない。今日死ぬのと、明日死ぬのとでは、一日分の思い出が違う。ここで死ぬのと、ここを脱出してから死ぬのではまるで違う。一日でも、一秒でも長く、香沙音、希由美と一緒にいたい。

 続いて手記を読み終わった勒賢が、僕の顔色をうかがってきた。勒賢も、香沙音や希由美には、薬が効かないとわかったのだ。同情や憐れみを閉じ込めようとして、これから謝る人みたいに、申し訳なさそうな顔になっていた。

 そんな勒賢に、僕は無理矢理笑顔を作って言った。


「悲しい歴史が終わるのは、もう少し先かな。ここを脱出して、世界を救おう」


 勒賢は、泣き笑いの様な表情で返してきた。


「俺達が救った誰かが、陰織の血を救う誰かかもな」


 しんみりとしたこちらとは違って、拒口は嬉しそうだった。空振りを重ね、ようやくつかんだ成果だ。喜ぶのは当たり前だが、やはり辛かった。

 電波は届いていないと思っていたが、携帯電話がつながった。非常用回線で、形井を呼び出し、瘧狼病治療薬製造法をみつけたことを伝えた。

 良くやってくれたと形井は顔を輝かせたが、その笑顔は、どことなくぎこちなかった。僕達を、封鎖区域から回収する方法は、後程知らせるとのことだった。

 その後、香沙音に代わってもらった。

 香沙音は、僕らの無事に、心から安堵していた。

 喜びが一段落した後で、地下壕の中の出来事を伝えた。香沙音の父不破肇の死、そして、残した手記の内容を。


「死の間際に、香沙音に会いたいって書いている。捨てられたんじゃない。愛されていたんだ」


 香沙音は、何かを喋ろうとしたが、言葉にならなかった。目に涙を浮かべて、何度もうなずく。胸に開いていた穴が、少し塞がったようだ。

 電話を切って、指示を待ちつつ休憩することにした。

 拒口は、やけに興奮していた。治療薬製造法が入ったアタッシュケースを抱えて、饒舌に喋り始めた。


「僕は、初代螺内空偉の孫なんだ」


 突然の告白に、呆然としてしまった。


「鷺澤賢吾の手記に書いてあっただろう。段野に撃たれた螺内空偉に、泣きながらすがりつく女のことが。それが、僕の祖母だ。その時既に祖母の腹の中には、僕の母親がいた。祖母は、あの事件を生き延び、罪に問われることもなかった。そして、宗教化していくあの村と離れ、娘を育てながら独自の道を歩んだ。貧しくて厳しい生活だったそうだ。そして、成人した母は、俺を産んだ。相変わらず貧しかったし、初代螺内空偉の幻影から抜け出せない祖母と母との生活は、辛いものだった。僕の父親もそんな生活に嫌気がさして、出ていってしまった。歪んだ思想を強要され、資本主義社会は悪だと教え込まれ続けた。小学生の時点で、親達が言っていることのおかしさに気付いていたが、他に行き場所もなかった。成人してみても、外の世界に馴染めるわけもなく、居場所がなかった。そんな時、革世黎源教と出会った」


 拒口は、憑りつかれたように喋った。ときたま見せる黒い部分の正体が見えてきた気がした。


「最初は、僕の祖父が設立に関わっているかもしれないという親近感から黎源教に近付いた。教義なんて、どうでも良かった。居場所が欲しかった。だが、そこも一般社会と同じく、矛盾だらけの世界だった。現実から乖離したおかしな教義で、信者から金をむしり取り、上層部は影で豪遊している。三代目螺内空偉も、ただの自己陶酔型のペテン師だ。僕の祖父の名を使い、神の代理人気取りだ。本当は僕が座るはずの場所で、ふんぞり返っていやがる」


 もう優男の仮面は、脱ぎ捨てていた。


「次の世界への移行だとか、選ばれし者だとか、勝手なことを言って、挙句の果てに、病原菌を撒き散らし、世界を滅ぼそうとしている。そうはさせない。世界を救ってみせる」


 拒口の言葉の端から、正義感以外の感情がにじみ出していた。

 異様な喋り口に、希由美が恐れていた。僕に身を寄せ付けてくる。

 もう一度、「世界を救ってみせる」と言って、拒口は落ち着きを取り戻した。

 それから、しばらく待ってみても、形井から連絡はこなかった。

 せっかく薬の製造法を手に入れたのに、爆撃されてしまうのだろうか。何度呼び出しても、応答がない。待つ時間が辛い。


「政府の災害対策チームも、意見がまとまらないようだ。爆撃してウィルスの拡散を防ごうとする一派と、僕達がみつけた治療法に賭けてみようとする一派が対立しているらしい」


 拒口が、スマートフォンを見ながら、苦々しくつぶやいた。


「僕は、厚生労働省の中核にいる人間と、連絡を取り合っていた。その人は、この治療薬に賭けたいと思っている。形井とは別ルートで、救助ヘリを飛ばしてくれるそうだ」


 拒口は、時々誰かと交信していた。相手は、厚生労働省の者だったのか。


「ヘリは、どこに来るのだ?」


 勒賢の質問に、拒口が答える。


「日比谷生命館の屋上だ」


 昔GHQに接収され、瘧狼病の事件が起きた場所だ。現在は、昔の外装を使用しつつ建て直され、高層ビルとなっている。


「ここから、もっと近いところがあるだろう」


「ここら辺は、皇居からの風で、ホバリングで機体を維持するのが難しいらしい。日比谷生命館屋上のヘリポートなら、ホバリングではなく、着陸出来るそうだ」


 感染者が多数徘徊する今は、なるべく移動距離を短くしたい。しかし、そういう理由があるのなら致し方ない。

 拒口は、僕らに対し、害意を向けたわけではない。しかし、不信感を拭うことは出来ない。かと言って、形井も腹を見せていない。何か隠している。

 どの道を選択すべきなのか迷い、勒賢の顔を見ると、やはりうかない顔をしていた。


「ここに感染者が押し寄せてきたら万事休すだ。どの道外には出なければならない」


 勒賢の意見に、僕もうなずいた。

 義理の父、不破肇の遺体に別れを告げ、地下壕を後にすることにした。


「また戻ってきて、ちゃんと弔います。少し待っていて下さい」


 横で希由美が手を合わせ、なむなむと言っていた。

 来た時と同じ怪人の抜け道を使い、配管配線室へと出た。そして、再び感染者がいる地下道へと繰り出した。

 今度は国際フォーラム方面へは行かず、別の地下通路を通って、丸の内仲通りへ続く階段を上った。

 地上へ出ると、丸の内仲通りも感染者であふれている。洒落た通りが、見る影もなくなっていた。

 襲ってくる感染者を払いのけながら、日比谷生命館を目指した。建物自体は既に見えているのだが、感染者が多く、なかなか進めない。

 それでも、どうにか日比谷生命館に到着し、建物の中に入った。

 戦後しばらくGHQに接収されたが、今は保険会社の社屋に戻っている。

 一階のエントランスに感染者の姿があった。葉狩創輝達は、瘧狼病が外に漏れることを防いだが、現在は、外から瘧狼病患者が侵入している。

 感染者を蹴散らして、エレベーターを目指した。階段で二十階まで行くのはきつ過ぎる。

 エレベーターホールまで来た。エレベーターは停止していないが、呼び出しボタンに、血の付いた指紋が残っている。感染者に噛まれた者が、発症する前にエレベーターで上に向かったのだろうか。嫌な予感がするが、行くしかない。ボタンを押した。

 六基あるエレベーターのひとつの停止ランプが点滅し、ゆっくりとドアが開いた。

 緊張の一瞬だったが、かご内に感染者の姿はなかった。しかし、壁面には、血や傷が無数付いている。上の階も安全ではないのだ。

 中に乗り込み、最上階のボタンを押す。ゆっくりと閉まるドアの向こうに、走ってくる感染者が見えた。ドアが閉まり切り、上に上り始めた時、外でドアにぶつかる音がした。 

 そこでようやく重大な過ちを犯したことに気付いた。乗ったのは低層階用のエレベーターだった。

 日比谷生命の建物は、戦前に造られた古い社屋の外観を残しつつ造り直された低層部と、外館は統一されつつも完全に新築された高層部から成り立っている。僕らが乗ったのは、低層部用エレベーターだった。

 全員がミスに気付き、悲嘆の声を上げる頃には、旧社屋の最上階である六階に到着していた。

 ドアが開くとすぐに飛び出し、高層階用エレベーターを目指そうとしたが、初めて来た場所で、方向がつかめない。嫌な予感通り出現した感染者に追い立てられるままに進んでしまった。気付いてみれば、行き止まりに来ていた。行き止まりには、扉が一つ。司令官執務室展示コーナーと書かれていた。

 僕らは、ひとまずその展示コーナーに入ることにした。

 室内に滑り込み、ドアを閉める。外の廊下では、感染者がうごめく音がしていた。

 展示室には、いくつかの区域に分かれており、日比谷生命の歴史や、戦時中の資料が展示されている。そして、一番奥には、もう一枚閉ざされた木製の扉があり、その先は、GHQ司令官執務室が当時のまま保存されていると書かれていた。

 物音はしない。だが、執務室の中から異質な空気が漂ってくる。

 この扉を開けてはいけない。わかっているが、吸い寄せられてしまう。勒賢と拒口の顔を見てみても、同じ思いを抱いているようだ。

 勒賢が扉に手をかけ、開いた。

 皇居を見渡せる大きな窓を背景に、一台の大きな机が置かれていた。これがGHQ司令官が使用した机だ。その机には、一人の男が座っていた。色白のすらりとした美男子だった。

 拒口が目を見開きながらつぶやいた。


「教主…」


 この男が、革世黎源教教主三代目螺内空偉。

 僕より年上のはずだが、同い年か、むしろ若く見える。

 螺内空偉は、澄み切った目で、僕らに微笑みかけた。


「変革の始まりに、こんな近くで立ち会えるなんて、素晴らしいことだと思わないかね」


 悪びれた様子もなく、本心から楽しんでいるようだった。


「窓の外を見ろ。目を血走らせて、人が人に噛みついている。自分のおかしな教義に合わせる為に、自分から世界を終わらせる。何が素晴らしいのだ!」


 拒口が吠えた。


「いや、神に与えられた使命に合わせて教義変えていったのだよ。教団本部の禁足地でしゃぼん玉を飛ばしていたのだ。しゃぼん玉はいつまでも落ちなかった。ずっと宙に浮かんでいるしゃぼん玉を見ていたら、意識が遠のき、神の声が聞こえてきた。この世に変革をもたらせと」


 先代の男達が残した手記に出てきた、二酸化炭素が充満している通称かわんとの淵のことだ。比重の重い二酸化炭素が低地に溜まっていれば、しゃぼん玉が落ちることもない。


「幼き日の私は、父二代目螺内空偉を動かし、教義の方向性をずらし、教団を変革に向けて動かそうとした。だが、残念ながら失敗してしまった。まだ時期ではなかったようだ」


 先天的なものだろうか、それとも高濃度の二酸化炭素を吸い込んでしまったからだろうか。三代目螺内空偉は、枠から外れてしまった人間だ。

 そんな螺内空偉に拒口がアタッシュケースを掲げながら言った。


「残念だったな。救世主気取りの偽宗教家。瘧狼病の治療法は手に入れた。ここから歩いて十分のところに眠っていたよ。お前の親父の死体と一緒にな」


 螺内空偉は全く動ずることなく、冷静に言い返した。


「その中には、瘧狼病の治療法が入っているのか。ご苦労だったな。瘧狼病は、ただの目くらましだ。そもそもそんなに広まるはずはない。こんなにわかりやすい感染経路で、感染したら水も食料も摂ることが出来ず、せいぜい二週間で死んでしまう。そんなウィルスで、人類が滅びるわけないだろう」


 螺内空偉が、懐から一つの球体を取り出した。素材はわからないが、まるでしゃぼん玉のように輝いている。


「特殊な樹脂で出来ていて、かなりの衝撃にも耐えることが出来る。しかし、ロックを解除して捻れば、簡単に開く。中には、革世黎源教の研究所が進化させた朝凪風邪ウィルスが入っている。名前は貧弱だが、。江戸時代に、いくつもの村を壊滅させた病気だ。それを旧日本軍の七三一部隊が細菌兵器とする為に改良を重ね、我が教団が更に進化させた。飛沫からも空気からも感染する。症状は地味だが、感染したら人はあっさりと死んでいく。夜寝たら朝になっても目覚めない。治療法はない。これが広まれば、人類の歴史は静かに終わりを迎える」


 嘘を言っているようには見えない。もし朝凪風邪の話が本当なら、螺内空偉自身も死ぬことになる。だが、そんなこと全く気にしていない者の目をしていた。

 呆然とする僕らなど構わず、螺内空偉はスマホを取り出し、僕らを撮影した。


「君は初代螺内空偉の孫で、そちらの女の子は陰織の娘だろう。革世黎源教の成り立ちの真実を知る為、鷺澤賢吾の手記を手に入れたから知っているよ。運命の糸にたぐり寄せられるように我々は集う」


 拒口が螺内空偉ににじり寄った。


「本来は僕が座る場所に座り、おかしな妄想で世界を滅ばそうなんてふざけるな。世界を救ってみせる」


「つまらん奴だな。お前が受け継いだのは血だけだ。精神は私に受け継がれた」


 螺内空偉がスマホを操作すると、部屋の各所が爆発した。爆弾が仕掛けられていたのだ。

 爆発は小さいものだったが、僕らを吹き飛ばすには充分だった。

 煙舞う部屋で体勢を立て直すと、既に螺内空偉は消えていた。

 怪我らしい怪我をした者はいなかった。僕らは螺内空偉を追う為走り出した。

 程なく感染者が出現した。強行突破するしかない。襲ってくる感染者を棒で蹴散らしながら、廊下を進んだ。

 螺内空偉の姿は見えない。上に行ったのか、下に行ったのか。もう外へ出たのか、まだ中にいるのか。

 次の行動を考えたいが、迫ってくる感染者を防ぐのに手いっぱいで、そんな余裕などない。

 希由美を背負うゆとりさえなかったが、希由美は自分の足で素早く動き、僕らと共に進んだ。

 どうにか高層階用エレベーターホールまでたどり着いた。

 拒口は迷わず上に行くボタンを押した。


「朝凪風邪が本当かどうかわからない。例え本当でも僕達には何も出来ない。まずは逃げよう」


 上に向かうエレベーターのドアが開いた。後ろからは感染者が迫ってきている。考えている余裕はなかった。エレベーターに乗り込み、扉を閉めた。

 高速で上に向かうエレベーターの中は、僕らの乱れた呼吸が響いていた。

 途中止まることなく、最上階二十階に到着した。

 エレベーターホールに出ても、感染者の気配はしない。

 フロアの中を探索してみる。最上階は役員室となっているようだ。上質な机椅子が置かれた、比較的豪華な個室が並んでいる。感染者も螺内空偉もいなかった。

 迎えのヘリが来るまで、役員室の一つで待機することにした。

 もうすぐ脱出出来るのに、気が晴れなかった。螺内空偉から聞いた、朝凪風邪が本当ならば、ここから抜け出しても、平穏な暮らしなど待っていない。

 形井に連絡を試みるが、いまだに電話はつながらない。

 香沙音にメールを送ってみるが、形井達が会議している場所からは閉め出され、どういう状況かわからない、という返信がきた。朝凪風邪については、賢吾おじいちゃんから、江戸時代に流行した恐ろしい病気だと教わった気がする、と書かれていた。

 そうだ。手記に書かれていた。切頭村を滅ぼしたのは、飢えによる共食いではなく、当時流行した朝凪風邪だと鷺澤賢吾は結論付けていた。

 葉狩創輝の手記にも出てきた。七三一部隊で、朝凪風邪を研究する班があったはずだ。

 そして、不破肇の手記にも、黎源教の研究施設で、朝凪風邪の研究が行われていた記述があった。

 それだけ符号が並ぶと、螺内空偉が言った、細菌兵器と化した朝凪風邪も嘘や妄想と断ずることは出来ない。

 勒賢の顔も青ざめていた。


「政府も、朝凪風邪の情報はつかんでいるのではないか? 瘧狼病だけで非感染者もろとも爆撃するなんておかしい。形井から連絡がないのも、このことが原因ではないか?」


 僕も勒賢と同じ考えが浮かんでいたが、どうすれば良いのかわからなかった。

 拒口は、朝凪風邪などお構いなしで、あからさまに浮かれていた。スマホを耳に当て脱出方法について話していたが、電波が悪いと言って、廊下に出ていった。後生大事に抱えていたアタッシュケースさえも置きっ放しだ。気が抜けている。

 僕達は呆れて顔を見合わせた。

 大きく息を吐いてから勒賢が口を開いた。


「時積。ヘリが来たら、先に行っていてくれ。俺は残る」


「俺も残る」。そう言おうと思ったのに、言葉にはならなかった。

 希由美が不安気にみつめている。この子を一人には出来ない。いや、違う。怖い。ここから一刻も早く逃げ出したいだけだ。もう疲れた。どうせここに残っても、勒賢の足手まといになるだけだ。言い訳ばかりが頭に浮かんでくる。「俺も残る」の一言を出すことが出来ない。

 そんな僕の肩に、勒賢が優しく手を乗せ言った。


「お前は、希由美ちゃんのそばにいてやれ」


 僕は友を見捨て、世界を見捨て、逃げ出す。


「すまん」


その一言は、「自分は卑怯者だ」と同じ意味を持っていた。

 希由美が僕を見る視線には、安堵と失望が混じり合っている気がした。

 しばらくして、廊下の外で話していた拒口が帰ってきた。


「もうすぐヘリが到着する。屋上へ上がろう」


 拒口は、満面の笑みを浮かべて、アタッシュケースを抱えた。

 世界を救おうと、と臆面もなく言っていた男が、新たな危機の可能性を無視して、何故こんな笑顔を見せれらるのか。

 飲み下せないわだかまりを抱えたまま、屋上へ向かうべく部屋を出た。

 エレベーターホールに差しかかった時、六基あるエレベーターが、全て作動しているのに気付いた。全基この階に向かっている。

 まずいと思った時には遅かった。エレベーターのドアが開き、感染者達があふれ出してきた。次々に到着するエレベーターは、感染者の数を増やしていく。

 棒はまだ手にしていたが、気が緩んでいた。

 慌てて戦闘態勢に入るが、反応が遅くなる。すんでのところで感染者の攻撃をかわし、棒で殴りつけた。

 離れて歩いていた希由美が、突然のことに驚き、足をもつれさせて転んだ。その希由美に、感染者達が次々と襲いかかる。

 助けようと体を動かしたが、僕の立っている場所からでは間に合わない。それは、とても絶望的な光景だった。

 もう駄目かと思ったが、勒賢が希由美と感染者の間に入った。希由美を守りつつ感染者達を払いのける。感染者にまとわりつかれながらも希由美を抱え、非常階段目指して駆け出した。

 僕は棒を振るって、勒賢と希由美が通る道を作った。

 エレベーターホールを抜け、非常階段に入り、上を目指す。

 拒口は我先に逃げ出して、屋上目がけ非常階段を駆け上がっていった。

 屋上へと続く扉を抜けると、場違いな程澄んだ空が広がっていた。

 扉を開かないようにして感染者の侵入を防ぎ、屋上の真ん中へ進んだ。

 ヘリコプターは、まだ到着していない。近付いてくる音も聞こえなかった。銃声や怒号が遠くから聞こえるだけだ。


「多分、螺内空偉が感染者を送り込んできたんだ。恐ろしい奴だ」


 荒い息でつぶやく僕に、希由美がしがみついてきた。怪我は見当たらない。無事のようだ。


「ありがとう勒賢。本当に助かった」


「勒賢さん。ありがとう」


 僕と希由美の感謝の言葉に、勒賢は沈痛な面持ちで何も答えなかった。


「どうした?」


 近付いて勒賢の体の異変に気付いた。手から血を流している。感染者に噛まれたのだ。

 信じられなかった。噛みつかれる恐怖は、ずっと頭の中にあった。しかし、どこか対岸の火事のように思っていた。悪夢だと思っていたものが現実のものとなったのだ。

 拒口も希由美も、絶句していた。

 勒賢はふらつく足で屋上の縁へ歩いて行った。


「待て勒賢。もう薬の製造法は手に入っているんだ。早まるな」


 僕の呼びかけに、勒賢は背中を向けたままで答えてきた。


「今から作っても間に合わない。手記を読んだだろう。発症したら、薬を使っても元には戻らない」


 言われなくてもわかっている。それでも認めたくなかった。勒賢が逝ってしまうのが嫌だった。


「ちょうど良かった。晴れた日に死のうと思っていた」


 引き留めようとして、勒賢の元へ走った。

 振り向いた勒賢の目が赤くなっていた。

 勒賢が舞った。

 伸ばした手は空を切り、勒賢はビルの谷間に吸い込まれていった。

 谷の底から勒賢の人生が終わる音が聞こえてきた。強くて、賢くて、面白くて、優秀な男だった。彼の命はここで終わった。代々紡いできた、彼の遺伝子は、今途絶えた。

 心が崩れかけている僕の頭上に、ヘリコプターの音が近付いてきた。

 待ちわびて封鎖区域からの離脱なのに、大きな悲しみで、ヘリの姿がぼやけていた。

 ヘリが屋上に着陸した。ドアが開き、一人の男が顔を、こちらに何か言っているが、ローターの回転音にかき消され、聞き取れない。

 拒口が、近付いていき、ヘリの男と何かを話し、何かを受け取った。

 僕と希由美もヘリの方へ向かうと、拒口が振り返った。その手には拳銃が握られていた。

 拒口は、勝ち誇った笑みを浮かべ、ローターの回転音に負けない大きな声を放ってきた。


「残念だったな。お前らにはここに残ってもらう。厚生労働省の役人が迎えに来るなんて、嘘に決まっているだろう。この瘧狼病治療薬を高く買ってくれる人がいるのだ。これで俺も、資本家の仲間入りだ」


 漠然と感じていた不安が、次々と現実化していく。


「平等なんて、負け犬の幻想だ。自分を救ってくれない世界を救おうなんて思うか。朝凪風邪なんて、いかれた宗教家の妄想に決まっている。例え本当でも、僕の知ったことか。お前らは、ここで怪物の仲間入りしていろ」


 そう吐き捨てると、拒口を乗せたヘリは、空へと上っていった。ローターが巻き起こす風で飛ばされそうになる。ヘリは空中でゆっくり旋回すると、僕達に背を向け、離れていった。

 取り残された僕らは、ぼんやりと遠ざかるヘリを眺めていた。

 アタッシュケースの中の治療薬製造法は、拒口が電話をしに廊下へ出た時に差し替えておいた。だが、本当は拒口を信じたかった。脱出した後で、疑ってごめん、と言いたかった。しかし、疑念は具現化してしまった。

 程なく、皇居の方から閃光が飛んできて、ヘリに命中した。ヘリは爆発炎上し、下へ落ちっていった。視界から消えすぐ、立っている建物を揺るがす大轟音と共に煙が立ち昇った。ヘリは撃墜されたのだ。

 日本政府は、封鎖区域から誰一人出さないつもりのようだ。

 置かれた状況に反した間抜けな着信音が鳴った。

 電話は形井からだった。スマホの画面に憔悴した形井の顔が映し出された。あちらも僕の顔を確認したようだ。


「生きていたか」


 僕の生存を確認しても、嬉しそうな表情ではなかった。良くない報告を持っているのだ。

 僕は勒賢を失ったこと、拒口が瘧狼病治療薬製造法を持ち去ろうとして、ヘリごと撃墜されたことを告げた。


「そうか。勒賢君は残念だったが、君達だけでも生きていて良かった。ヘリに乗っていたのではないかと心配していた」


 笑顔を作ろうとしているようだが、まるで上手くいっていない。

 画面越しに見合ったまま、気まずい沈黙が流れ、ようやく形井が本題を切り出した。


「爆撃が決定した」


 予想はしていた。死刑宣告だ。


「朝凪風邪のせいですか?」


「知っていたのか」


「螺内空偉に会いました。ウィルスが入ったカプセルを持っていて、瘧狼病は囮で、本命はこちらだと言っていました。そのままカプセルを持ってどこかへ消えました」


「そうか。朝凪風邪は、旧日本軍や黎源教が改造して、凶悪なウィルスになった。広まれば、未曽有の大惨事になる。ここで食い止めねばならない」


「螺内空偉は、まだカプセルを開いてはいません」


「螺内空偉は、どこかへ消えたのだろう。もう、開いたのかもしれない。君達も既に感染している可能性もある。上層部だけのせいにする気もない。恨むなら恨め。ここで決断しなければ、明日はこないのだ」


 多数を生かす為に切り捨てられる少数の中に入ってしまった。

 青く澄み渡った空に、撃墜されたヘリから立ち昇る煙が吸い込まれていく。

 隣の希由美も、ある程度自分の置かれた状況を理解しているようだ。泣きわめくでもなく、寂し気な眼差しで僕を見上げている。

 自分の死は、もちろん悲しい。だが、それ以上に娘の死が悲しい。

 だが、僕達の死が、多くの命を救うことになるなら、死は意味を持つ。

 ビルの屋上から東京の街を見渡してみた。ここに人々が息づいている。ここから目の届かない場所にも、人々が生活を営んでいる。僕のように子供を慈しんでいる人もいるだろう。そんな人々の為に犠牲になるというのなら、それは尊いことに思われる。人類の為に、生きることを諦めるのだ。

 スマホの画面が、形井から香沙音にかわった。泣きはらした目をしていて、声もかすれていた。


「時積…。希由美…。生きて…」


 自分達の死が、香沙音を悲しませる。申し訳なかった。しかし、頼みの綱の勒賢は死に、拒口には裏切られ、未知のウィルスは撒かれる寸前で、爆撃を止める手立てもない。もう無理だ。


「すまん。もう駄目だ。少し先に行っている」


 香沙音は、何か言おうとしたが言葉にならず、口をおさえて嗚咽を漏らさぬようにするのが精一杯だった。

 いつか香沙音を見送る日が来ると思っていたが、自分が見送られえることになるとは思わなかった。

 横で希由美が僕を見上げている。まだ幼いのに、達観した眼差しだった。死を悟っているのだ。

 僕は、香沙音とつながったままのスマホを希由美に渡した。


「希由美…」


 娘を呼ぶ香沙音の声は、涙に濡れていた。

 陰織家の女の苦難の歴史も、ここで終わる。陰織家の系譜だけではない。僕と香沙音で二人、祖父母の代は四人、明治時代を生きた先祖は六十四人。石走錬造と珠江以外の六十二人にも、僕らが知らない様々な出来事があっただろう。それを乗り越えて命をつないできたのだ。それも、ここで終わる。

 僕だって生き延びたい。希由美を生かしたい。でも、ちっぽけな僕の力では、どうしようもない。人類は、様々な犠牲を払って命をつないできた。今回は、僕らに犠牲になる役割が回ってきたのだ。それだけのことなのだ。

 香沙音と希由美は、画面越しに見つめ合っていた。しばらくしてから希由美が口を開いた。


「ママ。私を生んでくれてありがとう。パパとママの子供で良かった。今度生まれ変わったら、パパとママが私の子供に生まれて。同じくらい大切にするから」


 希由美の言葉を耳にして、心のスイッチが切り替わった。思わずスマホを希由美の手から取り上げていた。


「形井さんにかわってくれ。今すぐ!」


 香沙音は気圧されていたが、すぐ形井に換わってくれた。

 画面に現れた形井に、僕はまくし立てた。


「瘧狼病治療薬製造法は僕の懐に入っている。朝凪風邪はまだ撒かれていない。絶対に螺内空偉をみつけて、カプセルを奪い取ってみせる。だから、爆撃を中止してくれ」


 形井は苦しそうな顔をした。


「一度決定してしまったことを覆すのは難しい。だが、その二つがあれば、何とかなるかもしれない…」


「必ずやってみせる。どうにか説得してくれ。頼む!」


「わかった。やってみる。なるべく早く頼む。もう爆撃機の準備は始まっている」


「間に合わせてみせる。螺内空偉の行先がわかったら教えてくれ」


 形井に了承の返事をもらい。再び、香沙音を出してもらった。


「二人で帰るから、待っていてくれ」


「わかった。待ってる」


 通話を終了し、希由美の手を強く引いた。


「生きるぞ」


 愛と呼ぶのか、身勝手なエゴと呼ぶのか、どうとでも取れるように取れ。おためしごとの大義名分で、自己正当化しようとは思わない。希由美と共に生き延びる。

 螺内空偉をみつけられる根拠などない。だが、絶対に出会える確信があった。

 感染者が占拠している二十階は避け、十九階まで非常階段で降りた。そこから一階までエレベーターを使った。一階では感染者に出会ったが、棒で殴り倒し、日比谷生命館の外へと出た。

 多数の感染者が徘徊する道路を、希由美と二人で駆け、三菱一号館を目指した。

 どうにかたどり着き、建物の中へ入った。昔は銀行として使われていたが、今は立て直され、美術館になっている。中に感染者が数名いたが、螺内空偉の姿は見当たらない。直感でここを目指したが、外れてしまったようだ。

 落胆していると、スマホが着信音を鳴らした。形井からだ。


「各地に設置されている監視カメラを、ネット経由で遠隔操作した。螺内空偉は、日比谷生命館を出て、東京駅の方へ向かったようだ。正確な居場所は確定できていない」


 東京駅。漠然としているが、その情報だけでも、かなり絞り込める。

 形井は、言い出し辛そうに言葉を続けた。


「更にまずいことになっている。ネットで、デマが流された。瘧狼病を拡散させたのは、陰織家の女だと。そして、陰織家の娘の生き血を飲めば、瘧狼病が治るとまで流されている。しかも、希由美さんの写真付きだ」


 螺内空偉がネットに嘘を流したのだ。画像は、司令室で撮ったものを使ったのだろう。この情報に踊らされる者がいるのならば、敵は感染者だけではなくなる。

 希由美の顔が更に青ざめていた。


「大丈夫。俺が守る」


 現在三菱一号館美術館では、刀剣展が開催されていた。名刀の数々が展示されている。薄暗い照明の下、刀達が怪しく輝いていた。

 警備服を着た感染者を殴り倒し、鍵を奪い取った。その鍵でショーケースを開け、刀を手に取った。

 棒も充分殺傷能力はあるが、ぎりぎり護身用具だ。しかし、刀は違う。明らかに人を殺す為の凶器だ。感染者とは言っても人は人、状況によっては、感染していな人も斬ることになる。ここを出ても、罪に問われ、刑に服すこととなるかもしれない。それならそれで仕方ない。希由美を生かす。それが僕の正義だ。

 何本かの刀を鞘に収め、みつけてきた鞄に入れ背中に担いだ。一本は抜き身のまま右手に携える。左手は希由美とつないだ。

 僕を見上げる視線に向かい大きくうなずいた。希由美も深くうなずいた。


「希由美。二人でここから脱出する。絶対お前を守る」


 僕らは、三菱一号館を出て、東京駅を目指した。

 三菱一号館から東京駅まで、通常なら歩いて十分程度。しかし、感染者があふれる現状では、時間は数倍、労力は数十倍かかりそうだ。

 感染者が一人向かってきた。左手を希由美から離し、両手で刀を握った。昔道場で真剣を使い、巻き藁を斬った経験を体に呼び覚ます。

 襲ってきた感染者を袈裟斬りにした。しかし、斬りつけたというより、叩きつけてしまった。それでも感染者は苦痛の声を上げて倒れる。仕留めたかと思ったが、感染者は、起き上がって僕に向かって来ようとした。

 刀をもう一振りすると、感染者の手首が吹っ飛んだ。夢中で更に振り回すと、感染者の首が半分千切れ、起きてこなくなった。アスファルトの上に血だまりが広がっていた。

 この感染者にも家族があり、生活があった。だが、罪悪感はない。もっと上手く斬らないと体力を消耗してしまうということだけ頭に浮かんだ。

 希由美は、何も言わず、悲鳴も上げず、死にゆく感染者を眺めていた。

 もう二体の感染者を斬った。刀で人を斬るこつのようなものが、少しずつわかってきた。

 僕と同年代の感染者が向かってきた。目の前の感染者に勒賢の姿を投影して、一瞬怯んだが、斬り倒した。


「感染源の娘がいたぞ!」


 男の野太い怒号が聞こえた。声の方を見れば、手に刃物を持った男達が三人向かってくる。希由美を襲って、血を飲もうとしているのだ。話し合ってどうにかなる顔つきではなかった。走る速度にばらつきがあって、縦一列に伸びている。僕は先頭の男を斬った。次の男も斬る。更に最後の男も斬る。もう戻れない。

 感染者の一人が襲いかかってきた。動きは単調だ。首を飛ばした。鮮血がほとばしる。血液感染はしないはずだが、返り血を浴びるのは良いものではない。

 次々と感染者が現れる。姿は妖怪のようだが、人間だ。斬れば死ぬ。

 胴体を袈裟斬りにする。感染者は、その場に仰向けに倒れ、唸り声を上げてもだえ苦しんだ。痛みは感じるのだ。

 襲いかかってくる感染者を、容赦なく切り捨てる。元は普通の人間で、痛みを感じて、待っている家族がいたとしても、容赦なく切り捨てる。

 感染者を斬り伏せながら、道を進んだ。

 希由美は、泣きもせず、気丈に足を動かした。

 ワイン販売店から人が飛び出してきた。感染者ではない。手に何かを持っている。こちらに警告することもなく、それを投げつけてきた。瓶は回転しながら飛んできて、近くの地面に落ち、ガラスの破片とワインを飛び散らせた。

 僕は刀を構え、その男に向かって走り出した。

 第二弾、第三弾のワインが飛んできたが、難なくかわす。近接した僕に、その男はワインの瓶を振り上げたが、瓶が振り下ろされる前に、僕は容赦なく叩き斬った。

 先に進もうとする僕らに、


「病原菌がいたぞ!」


という声が投げつけられた。物を投げられるより辛かったが、足を止めずに先に進んだ。

 斬っては進み、斬っては進み、東京駅を目指した。

 気付けばかなりの返り血を浴びていた。血液感染はしないという、葉狩創輝や不破肇の説を信じるしかない。

 刀は血と油に塗れ、刃が滑るようになっていた。刀身も曲がっている。持っていた刀をその場に捨て、背負っていた刀を一本手に取り、鞘から引き抜いた。刀は、近代的な街並みの中で、場違いな妖しい輝きを放った。持ち出した刀は、どれも国宝級の名刀だ。信じられない程良く斬れる。

 目の前の感染者を斬り伏せた。息が上がり、手が張ってくる。だが、休む間はない。

 仲通りを抜け、行幸通りまでたどり着いた。右手に東京駅、左手は皇居だ。皇居の前では、封鎖から出ようとする感染者が射殺されていた。流れ弾に当たらぬことを祈りながら、東京駅へ向かった。

 斬っても斬っても感染者は沸いてくる。僕の体力は削られ、刀を振っているのか、刀に振られているのかわからなくなってきた。

 二本目の刀を捨て、三本本目に持ち替え、感染者達を斬り捨て、ようやく東京駅に到着した。

 希由美も息を荒げ、体中に返り血がこびりついていた。血を拭ってやりたいが、僕の手も血に塗れていた。

 東京駅丸の内口へ着いた。改札の中も、感染者が跋扈している。

 僕は上を目指す階段を探した。螺内空偉は、多分そこにいる。

 感染者を斬り倒しながら階段を上り、美しい円形の吹き抜けに出る。向かってきた感染者を弾き飛ばすと、手すりを越え、感染者達がうごめく一階へ落ちていった。

 きれいに装飾された扉を開け、東京駅ホテルに入った。

 柔らかい絨毯がひかれた廊下を慎重に歩いた。どの部屋から敵が飛び出してきても対処出来るように、気を張り巡らせる。

 ホテルの中は静かだった。人の気配も感じない。皆避難したのだろうか。そんなホテルの中を進み、僕らはロイヤルスイートルームの扉の前に立った。


「希由美。お父さんは、これから最後の戦いに挑む。勒賢の力を借りたいから、そのお守りを貸してくれ」


 希由美の胸から安全ピンで留められたお守りを外し、強く握った。

 ドアのロックは外されており、僕らは招き入れられるように室内に入った。

 奥へと進むと、広く豪華な部屋にたどり着いた。そこでは螺内空偉が窓辺に立ち、外の様子を眺めていた。


「血に塗れているその姿。自分の小さな世界を守る為に、多くの命を踏みにじってきたきた姿だ」


 僕は血と油に塗れた刀を床に突き立て、最後の一本を背中から抜き取り、鞘から解き放った。照明の下、刀は魔性の輝きを見せた。


「古い世界にしがみつくのか」


 螺内空偉が懐から拳銃を取り出し、こちらに向けて構えた。


「希由美。動くな」


 僕と螺内空偉との間には、刀では届かない距離が立ちふさがっていた。

 足元は靴。例え裸足でも、石走錬造のように足の指でにじり寄って距離を詰めることは出来ない。銃弾を受ければ死ぬし、かわすなんて不可能だ。刀を投げるにしても、そんな練習はしたことがない。当てる自信はないし、投げる素振りを見せた時点で撃たれるだろう。

 打つ手はない。僕は、石走錬造にはなれない。


「そんな前時代の遺物でどうにかするつもりだったのか。例えここを抜けても君が望む未来などないぞ。朝凪風邪ウィルスを持った八人の兄弟達が、世界各地に飛んでいる。ここから逃げ出したとしても、逃げ出した先も終末の鐘が鳴り響いている。世界中が我々に欺かれたのだ。足掻いてみたところで、もう結果は変わらない」


 世界は滅びる。全ては徒労に終わった。

 体から力が抜けていった。もう刀を振る気力も残っていない。刀を床に放り投げた。固く寂し気な音を立てて、刀は僕と螺内空偉の間に転がった。


「新しい世界に近付いたな」


 螺内空偉が口元に笑いを浮かべた。そして、銃と目をこちらへ向けたまま前に進み、腰を落として、床に転がった刀を拾い上げた。


「こんな骨董品で、戦いを挑むとはな」


 次の瞬間、螺内空偉が短く声を上げ、刀を床に落とした。


「前時代の遺物は魅力的だろう。手に取らずにはいられない。お前も絶対吸い寄せられると思っていた。柄に付いていた針が手に刺さったな。その針には、感染者のよだれがたっぷり付いている。お前も新しい世界に行くんだ」


 螺内空偉の目が、見開かれた。


「ほら。目が赤くなってきた」


 螺内空偉は、顔を横に向け、窓ガラスで目の色を確認しようとした。

 針に感染者のだ液なんて付いていない。安全ピンを伸ばして巻き付けただけだ。発症はしない。

 螺内空偉が、刀を拾おうと前に出て、距離は縮んだ。そして、計略に引っかかり僕から目を逸らした。

 チャンスは一回。

 床に突き立てていた血だらけの刀を引き抜き、振りかぶりながら飛んだ。

 螺内空偉が顔をこちらに向き直した時には、刀は振り降ろされていた。

 振り降ろされた刀は螺内空偉の手首を切り裂き、拳銃は床に落ちた。

 声にならない声を上げ、螺内空偉はうずくまった。傷口から流れる血で、床が染まっていく。

 苦痛に顔を歪ませる螺内空偉の傍らに立ち、僕は問うた。


「八人の兄弟はどこへ行った」


 脂汗を顔中に浮かべながらも、螺内空偉は笑顔を作った。


「未来がないとわかっていても、もがいて生き永らえようとするのだな。君に神の声は聞こえないのか?」


 言いながら、残った手で懐をまさぐり、カプセルのロックを外そうとしている。

 刀をもう一度振り上げ、首を斬り落とした。

 くぐもった音を立てて首は転がり、部屋の片隅で止まった。

 希由美は、喜ぶでもなく、怖がるでもなく、疲れた目で首を見ていた。

 遺体の懐を探り、カプセルを取り出した。まだ開けられていない。これで封鎖区域から出られる。

 非常用回線で、形井を呼び出した。


「朝凪風邪のカプセルを手に入れた。瘧狼病の治療薬製造法もここにある。爆撃をやめてくれ」


 テレビ電話の中で、形井は沈黙したまま苦悶していた。そして、ようやく言葉を発した。


「すまん…。爆撃は行われる」


 そんな馬鹿な。


「螺内空偉の八人の兄弟が、朝凪風邪ウィルスを持って世界各地に飛んでいる。今、このカプセルを研究すれば、世界が救えるかもしれない。頼む。爆撃を中止してくれ」


 僕の発言に、形井は目を剥いた。


「世界って、どこの国に行ったのだ?」


「それはわからない。カプセルを開こうとしたから、聞く前に殺してしまった」


 形井は頭を抱えた。


「今更そんなこと言われても…。君が助かろうと嘘を言っている可能性がある。そのカプセルが開封済みかどうかも、テレビ電話だけでは、確認が出来ない。爆撃は決定した。瘧狼病も朝凪風邪も、全部焼き払うのだ。一度決定したものを、覆すことは出来ないのだ」


 努力は報われなかった。本当に終わりだ。

 スマホから、香沙音の声が聞こえてきた。


「ごめん。頑張ったけど、爆撃止められなかった…」


 泣きはらした目、枯れた声。香沙音の顔から、僕達を救う為、努力してくれたことは伝わってきた。

 「さようなら」なのか、「ありがとう」なのか、「ごめんなさい」なのか、何と言えば良いかわからなかった。

 希由美も、画面の向こうの母に、悲し気な顔を向けるだけだった。

 外に目を向けると、既に日が沈んでおり、あたりは暗くなっていた。空は、黒く厚い雲が立ち込め、更に闇を重くしていた。

 その重苦しい空を見ていて気付いた。包囲網を抜ける道は、まだ残されている。

 画面の向こうにいる香沙音に呼びかけた。


「香沙音。雨が俺達を近付けてくれる」


 僕の言葉に、香沙音が反応した。僕がどこを目指しているかは悟った顔だ。


「へそ出しておく」


 電話を切り、螺内空偉を陥れた刀を拾った。柄に付けていた安全ピンを外し、しっかりと握る。

 逆の手で、希由美の手を握り締めた。希由美も、強く握り返してきた。

 東京駅の庁舎から外に出た。僕が斬った遺体は転がったままで、その上を越えて感染者達が向かってくる。僕はそれらを斬り倒す。屍が累々と積み上げられていった。

 東京駅庁舎に映し出されるプロジェクションマッピングが始まった。時間が来ると自動で起動するようだ。東京の歴史が映像の中で織りなされていく。僕には、陰織家にまつわる歴史が映し出されているような気がしていた。明治、大正、昭和、平成。苦難の歴史が途切れることなく続いてきた。その中で誰か一人でも諦めていたら、僕と香沙音は出会うこともなく、希由美もこの世に存在していなかった。ここで諦めるわけにはいかない。もう体力は限界だが、この子を守り、次につながねばならない。

 プロジェクションマッピングが作り出す美しい光と音の調和の下で、殺伐とした戦いを繰り広げ、僕らは進んだ。

 近年新しく出来た大きなスポーツクラブへ入った。

 体力は限界を越えていたが、気力で刀を振るい、かかってくる者達を倒した。

 スポーツクラブの中も、感染者だらけだった。スポーツウェアに身を包んだ感染者が、次々と襲ってきた。疲れ果てて、このまま噛みつかれてしまおうかと何回も思ったが、希由美の顔を見て、包囲網の外で待つ香沙音を思い浮かべて、刀を振った。

 目当てのものが、手に入った。再び東京駅に向かう。

 空が更に黒くなり、風が出てきた。

 スポーツジムで得た荷物は、結構な重さで、背負って戦うのは、本当に辛かった。

 死んだはずの螺内空偉の声が聞こえてくる。


「今日死ぬか明日死ぬかの違いだ」

明日死ぬと一人つぶやき、刀を振り進んだ。

 最初の一滴が鼻に当たり、駅の構内に入るのと同時に天をひっくり返したような雨が降り始めた。雷が空を照らし、轟音を響かせる。

 雨音に全ての音がかき消される中、東京駅内にある、施設管理所へ行き、鍵を取得した。

 希由美も疲れているだろう。それでも、弱音を吐かずについてきている。本当に愛おしかった。

 僕らは進み、東京駅の最深部へ到着した。外の喧騒は、もう聞こえてこない。水害対策用放水路が、静かに僕らを待っていた。

 感染者はもういない。血に塗れた刀を捨てた。

 スポーツクラブのスキューバダイビング練習用プールから、ウェットスーツと酸素ボンベを拝借してきた。軋む体に、それらを装着する。希由美も子供用を装着する。

 江戸はもともと水の都だった。浮世絵に残された絵も、橋と川の絵が多い。水は恵みをもたらすが、害も多かった。その川を埋め立て、覆い隠し、東京は、今のような姿となった。年々、気候変動で集中豪雨は激しくなり、水害対策は、東京の重要な課題となっていた。そこで処理許容量を越えた雨水を近くの河川へ排水する地下放水路が何本も造られた。ここもそのうちの一本だ。

 空はかつてない程の雨雲に覆われ、アスファルトを穿つような雨が降っていた。通常の排水設備では処理しきれないほどの雨だ。放水路が開かれれば、水は僕らを乗せ、銃を構えた者の足元をくぐり、封鎖区域の外へ連れていってくれるはずだ。

 瘧狼病の研究資料を防水ファイルで包み、懐に入れた。朝凪風邪のカプセルも懐に入れる。衝撃に強いと言っていた螺内空偉の言葉を信じよう。

 そして、希由美と僕の体をロープで縛りつけた。

 途中で溺れ死ぬかもしれない。封鎖区域から出ても、射殺されるかもしれない。朝凪風邪は、本当に蔓延するだろう。世界が病死していく。そして、香沙音と希由美の病気の治療法はみつかっていない。ここを抜けても明るい未来はない。

 香沙音に電話をかけた。この騒乱の中、ずっと電波に想いを乗せて交信してきたが、これが最後になる。香沙音は車で移動中のようだ。雨が車体を叩きつけ、雷鳴が轟いている。

 しばらく黙ったまま、画面の中の香沙音を眺めるだけだった。香沙音もただ、僕をみつめている。

 最後の言葉を口にした。


「香沙音…。世界は、もう終わりかもしれないけど、君に会いに行くよ」


 香沙音が目に涙を浮かべてうなずいた。


「わたしも一緒だよー!」


 希由美の大声に、香沙音は「待ってる」と涙声で答えた。

 電話を切り、潜水艦のハッチのような扉を開け、放水路の中に入った。予想以上の太さのトンネルが伸びていた。

 扉を閉める。頭のライトは、弱々しく放水路を照らしていた。

 少しだけレギュレーターを外し、


「絶対に離さない」


と言うと、希由美がうなずいた。

 基準値を超えた雨が降り、放水路へと続く重い扉が開く音が聞こえた。暗闇の中、激流が押し寄せてくる。希由美が体を震わせてしがみついてきた。僕もしっかりと抱き寄せる。

 僕らは小さな小石のように流された。

 上か下かもわからない。幾度となく壁面に体をぶつけ意識が飛びかける。希由美をかばおうと抱き締めているが、その感覚すら曖昧になってきた。体と水の境目がわからなくなり、呼吸をしているかも不確かになってくる。心に浮かぶのは、希由美を守りたいという思いだけだった。

 永遠とも一瞬とも思える時間流され、僕の体を押し潰そうとしていた圧迫感から、急に解放された。狭い空間から、広い空間へ、体が投げ出された。

 僕らは流れにもまれならも水中から水面へ浮かび上がった。

 人工的な強い光に照らし出され、何も見えない。ライトを照射されている。

 豪雨が川面を叩きつける音と共に、香沙音が僕と希由美の名を呼ぶ声が聞こえた。

 ここは、日本橋のたもとを流れる日本橋川だ。東京駅地下の放水路は、ここに流れ込む。封鎖は越えたのだ。


「撃つな」


と連呼する形井の声も聞こえる。川の護岸や橋の上には、異形の人影達が、銃口をこちらに向けているのがおぼろげに見えた。

 ここまでかと思ったが、銃弾の代わりにロープが結わえられた浮き輪が飛んできた。必死にその浮き輪に捕まり、僕らは増水し濁流渦巻く川の中から引き上げられた。

 異形の人影達は、細菌防護服を着た者達だった。引き上げたものの、その後の対応が決まっていないのか遠巻きに僕達を見ている。

 細菌防護服達の手を振り切り、香沙音が駆け寄ってきた。声にならない声を上げ、僕らに抱きつく。香沙音も雨でずぶ濡れなのに、雨水と涙の違いはわかった。


「雨が俺達を近づけてくれた」


 希由美は、朦朧としていたが、しっかり生きていた。目を開けて、香沙音に手を伸ばす。

 豪雨が降りしきる日本橋の上で、僕ら三人寄り添っていた。


「ここに瘧狼病治療薬製造法と、朝凪風邪のカプセルがある。爆撃をやめてくれ」


 土砂降りの音にかき消されないように大声を出し、細菌防護服達の中の一人に、懐から出した防水ファイルとカプセルを渡した。

 細菌防護服の人間達は、何も答えなかった。表情を読み取れない。

 僕達三人は、完全密閉出来る特殊な車に乗せられ、どこかの施設に隔離された。

 最初は別々の部屋で、香沙音、希由美とも、ガラス越しにしか会わせてもらえなかった。しばらくして、家族で過ごすことを許され、もう少しして、ようやく外に出してもらえた。僕らが、瘧狼病や朝凪風邪に感染していないことがわかったのだ。

 丸の内、銀座の封鎖区域への爆撃は行われなかった。僕らが持ち帰った瘧狼病治療薬製造法と、未開封の朝凪風邪のカプセルが、功を奏したのだ。封鎖区域に残された非感染者達は、政府によって救出された。

 瘧狼病治療薬は、発症前なら効果があるが、一度発症したら元に戻すことは出来ない。感染者は、自然死を待つか、殺された。

 螺内空偉の言っていたことは本当だった。八人の兄弟が、朝凪風邪ウィルスを世界中にばら撒いた。風邪によく似た症状で、そこまで劇症化することもないのに、感染した人間は、次々と息を引き取っていった。

 発展途上国で、栄養が行き届いていない地域では、老人と子供を中心に被害が酷かった。

 日本政府は、ウィルスが持ち込まれないように細心の注意を払ったが、ある時、最初の感染が確認され、それからはあっという間に感染が拡大していった。

 昨日は生きていた人間が、次の朝は起きてこなくなった。世界は、静かに終末へ向かって行った。

 僕の父も母も、香沙音の祖父母も、朝凪風邪で亡くなった。

 三歳になるまで生きられる子供の数が、大幅に減った。むしろ、生き残れる子供の方が少なくなっていた。乳児死亡率の高まりは、人々から未来を奪い取り、笑顔を消し去った。

 僕も朝凪風邪に罹った。風邪と似た症状で、とにかくだるくて眠かった。そこまで激しい苦しみはない。静かに命が削れていった。死がすぐ隣にあった。

 医療機関もろくに機能しておらず、感染していない香沙音と希由美が、献身的に看病してくれた。うつしてしまうので近付かないように言ったが、看護はやめなかった。

 死ぬかもしれない病床で、家族に看取られるのなら、幸せかもしれない思ったりもした。しかし、親族が死んでいく中で、香沙音が死んだ後、希由美を育てるのは自分しかいない。生きねばならなかった。 

 どうにかして病を克服し、日常生活に戻れた。自分が生き残れたのも嬉しいが、家族にうつさなかったことが嬉しかった。だが、この病気が恐ろしいのは、治っても何回でも罹るということだった。二度目、三度目になると、死亡率は高くなっていった。

 僕の復帰を見届けるようにして、香沙音の遺伝性の病気が発症した。葉狩創輝や不破肇が、心血注いで作った薬は、香沙音には効かなかった。効かないことは、僕も香沙音もわかっていた。それでも、奇跡を信じたかった。しかし、現実は残酷だった。

 発症する直前、何かを悟ったように、香沙音が語った。


「薬は私には効かない。私は妖怪になって死ぬ。でも、この場で、時積と話していることが、奇跡な気がする。私の一族は、何回も危険にさらされてきた。それでも乗り越えてきた。時積と希由美だって、死んでもおかしくない状況を生き延びてくれた。奇跡は充分起きたよ。死んだら子育て出来ないのに、こんなことを言うのは無責任だけど、時積と希由美に会えて、本当に良かった。最後以外は、良い人生だった。いや、最後も、そこまで悪くないわ。私が死んでも世界は続く」


 香沙音の目が赤くなった。

 変わりゆく香沙音を抱きしめた。背中に爪を立てられた。服の上からでも痛みが走った。肩口に噛みつかれ、激痛に思わず声を上げた。それでも香沙音を離さなかった。痛みと悲しみの中、イザナギとイザナミの話を思い出した。無理矢理自分の状況と重ね合わせても仕方ない。ただ、昔から愛する者の死は、悲しかったということだ。

 香沙音は、防疫センターに収容されることになった。事件後、僕らが隔離された場所だ。瘧狼病事件は、まだ人々の記憶に鮮明に刻み込まれている。余計な不安を与えてはいけない。

 隔離病棟で、香沙音の変わり果て、死に向かう姿に向かい合っていた。

 希由美を預ける親族もいなくなっており、一緒に防疫センターで寝泊まりした。

 香沙音の姿を希由美に見せるのはためらわれたが、希由美の希望もあり、対面させることにした。

 ガラス越しに香沙音を見る希由美は、「ママ。ママ」と泣いていたが、しばらくして、ぽつりと言った。


「ママ、苦しそう。パパ、刀で斬ってあげないの?」


 安楽死させろということか。希由美にも、もう助からないことはわかっているのだ。安楽死させるのが、正しき道なのかもしれない。防疫センターの医師に頼めば、処置してくれるかもしれない。そう思ったが、行動に移せなかった。結局、僕は何も決断を下せぬまま、香沙音の死を見届けただけだった。

 希由美は、遺体を前に泣き叫んだ。

 香沙音の遺体は、防疫センターで保存されることになり、遺体のないまま葬儀を行った。希由美の未来を思えばこそだったが、香沙音とのお別れが終わった気がしなかった。変わり果てた姿の香沙音でも、会いたいと思ってしまった。イザナギもこういう気持ちだったのだろうか。

 父一人子一人の生活が始まった。何かと不自由させたが、どうにか暮らしていけた。

 ある夜、希由美と星空を見上げた。


「あそこで光っているのは、ママの星。いつも空から私達を見ていてくれるの」


 健気なことを言うので、目頭が熱くなった。


「その横がパパの星」


「パパは、まだ生きているけどな」


 笑ってしまった。希由美も、おかしなことを言ったことに気付き笑った。

 今は悲しくて仕方ないが、おかしいこと、滑稽なこと、嬉しいこと、楽しいこと、幸せなこと、色々なことが起きていくのだ。

 世界の人口は減っていき、文明は停滞し始めた。世相は暗くなったが、それでも世界は続いていった。

 僕達の生活も、静かに続いていった。激しい非日常を乗り越えたものの、穏やかな日常を送るのも、また大変だった。香沙音がいなくなった心的喪失も大きかったが、日常生活を送る上での、実務的な損失もとても大きかった。料理や掃除もそうだし、夜横で寝ている希由美が、「ママ、ママ」と言いながらうなされている時、希由美の頬をなでながら、香沙音の存在の大きさを感じた。

 それでも、どうにか時を重ねていった。

 いつの間にか、希由美は、僕のことを「パパ」ではなく、「お父さん」と呼ぶようになっていた。パパという呼ばれ方は、あまり好きではなかったが、終わってみると寂しかった。

 そんなある日、防疫センターの医師から連絡があった。希由美や香沙音は、朝凪風邪の免疫を持っている可能性があるとのことだった。確かに、僕の看病をしていても、二人共なんともなかった。二人の先祖である由紀は、朝凪風邪で全滅した切頭村で唯一生き残った。陰織家の女達が苛酷な宿命を背負いながらも、自分の子を産み、命をつないできたのは、遠い未来で多くの命を救う為だったのかもしれない。答えはずっとそばにあったのに、僕らはそれに気付かなかった。

 希由美の持つ免疫を他の人にも使えるように、国家を上げた研究が始まった。

 多額の研究資金と、優秀な人員が投入され、朝凪風邪ウィルス治療薬は、実用化された。世界を滅ぼす勢いだった朝凪風邪の蔓延は終息に向かい、多くの人の命が救われた。

 そして、希由美、香沙音の体を研究していく中で、妖怪の様な姿になってしまうメカニズムも解明された。遺伝子治療により、受精卵の時点で治療すれば、陰織家に伝わる病気は、発症しなくなるのだ。

 そこから更に時は過ぎ、希由美が結婚することになった。

 きちんと身なりを整え、夫となる男と挨拶に来た希由美は、我が子ながら美しかった。

 希由美が連れてきた男は、名を北宮聡きたみやさとしといい、知的で誠実そうだった。希由美の病気のことも、一族の歴史のことも知っていて、希由美との結婚を決めたそうだ。良い男をみつけた。だが、刀があったら斬ってやりたかった。これが父親というものだ。


「人生に大きな意味などなくて良い。ただ生きて出会えただけで素晴らしい」


 精一杯良い人間を装って、もっともらしいことを言った。

 希由美と聡君が帰った後で、香沙音の遺影を前に、酒を飲みだした。

 香沙音、希由美との思い出が甦ってきた。香沙音は遺影と同じく、若いまま美しく、希由美は幼くあどけない。

 酒が進むにつれて、思考があやふやになってきて、家中の酒がなくなる頃には、前後不覚になっていた。

 そのまま酒を買う為に家を出た。酒を買った後も家に戻らず、勒賢の墓を目指した。足取りも覚束ないのに、墓に到着し、墓石に酒をかけつつ、再び酒を飲んだ。最早、昔放水路の中を流された時のように、上も下もわからなくなっていた。


「良く晴れた空を見ると、お前を思い出す…」


 その後、希由美は体外受精で子供を作った。受精卵を体内に戻す前に、遺伝子操作をして、子供が妖怪化しないようにした。陰織家の呪われた歴史は、医学の発展によって終わった。

 希由美の体内に着床した受精卵は、順調に成長し、僕はお祖父さんになった。生まれてきたのは、元気な女の子で、沙世美さよみと名付けられた。遺伝子操作により、妖怪化はしなくなるものの、朝凪風邪への免疫もなくなった。しかし、薬は出来ているので問題はない。

 希由美は沙世美を本当に慈しんで育てた。愛情を豊富に受け、沙世美は可愛らしく元気に育っていった。

 沙世美が言葉を話すようになり、しばらく経った頃、希由美が自殺した。希由美は、遺伝子治療が出来ず、もう発症するしかなかった。聡君がみつけた時は、既にこと切れていたそうだ。服毒自殺だった。

 希由美は、ビデオレターを残していた。

 再生すると、希由美の顔が映し出された。照れ笑いを浮かべ、まず皆に先立つことを詫びた。

 ほとんどが、聡君と沙世美へ宛てたものだったが、僕への言葉も残されていた。


「お父さん。今までありがとう。お父さんとママにもらった愛情は、沙世美に伝えたつもり。あの時、勒賢さんも死んで、ヘリコプターにも置いていかれて、絶望的なお父さんの横顔を見ていたら、もう駄目だと思った。でも、お父さん、そこからまた頑張ってくれて、生き延びて、命をつなげることが出来た。そして、朝凪風邪からたくさんの命を救えて、私達一族の努力が、無駄ではなかったことがわかった。本当に生まれてきて良かった」


 そこで、希由美は間を取って、大きく呼吸をした。


「お父さんと、ママの子供で良かった。先に星になっているね」


 希由美は、目に涙を浮かべながら、飛び切りの笑顔を見せた。

 代々の男達が味わった悲しみを受ける番が来た。

 希由美の幼き日の言葉が浮かんでくる。


「ママ苦しそう。刀で斬ってあげないの?」


香沙音も希由美も、助けることも、殺してあげることも出来なかった。

 涙が出た。香沙音が死んだ時、我慢した分も一緒に流れ出してきた。

 例え世界が終わっても、君に生きていて欲しかった。



 更に月日は流れた。

 朝凪風邪により、世界が滅びるかと思われたが、現在はかなり復興してきている。瘧狼病など、誰もが忘れてしまったかのようだ。人間の生命力は強い。

 成長した沙世美が結婚する日がきた。。

 新郎新婦の門出を皆が祝福している。

 沙世美の美しさと、聡君の泣きっぷりが、僕の心を和ませてくれた。

 呪われた歴史が終わり、新しい歴史が始まろうとしている。

 披露宴が終わり、会場の外へ出た。

 会場は日本橋の近くだった。この辺も変わった。石造りの橋は、外装はそのままに新しくかけ直されていたし、上を走る首都高速道路は、別の場所に移転されていた。まわりの建物もかなり変化していた。これからも変化していくのだろう。

 日本橋の上に立ち、夜空を見上げると、ハレー彗星が瞬いていた。



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君の屍をこえて 裳下徹和 @neritetsu

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