第10話 平成初期 不破肇の手記より

 野原に倒れ、これで死ぬ、と思いながら空を見上げていると、天使が現れた。

 何かを言っているが、言葉が聞き取れない。胸の痛みで、音がかき消されている。

 張り裂けんばかりの痛みが一段落し、音が戻ってきて、止まりかけていた心臓が、やけに激しく動き出した。


「空を見ていたの?」


 質問には正直に答えた。


「いや、死にかけていただけ」


 空と僕の間にいる女が、太陽の様な笑顔を浮かべた。

 本当のことを言っただけなのに、うけてしまったようだ。僕までつられて笑ってしまった。

 立ち上がって、女の人と向かい合ってみても、心臓の鼓動は高鳴ったままだった。

 この状態は、今までの経験にはない。この状態を持っている知識から判断するのならば、これは恋だと言えるだろう。

 しかし、そんなことが僕に起きるのだろうか。今まで声をかけてくる女性は、何人かいたが、こんな気持ちは沸いてこなかった。僕の思考回路が誤作動を起こしたのだろうか。持病で止まりかけていた心臓が再び拍動したことを、脳は恋心による動悸と勘違いしてしまったのではないだろうか。世にいう、吊り橋効果という状態みたいなものだ。目の前の女性が、非常に美しく思えるのも、それのおかげだろう。

 そうは思いつつも、この女性とこのまま別れてしまうのはいけないような気がした。


「もう一度会えないかな。僕の胸の鼓動が、君への恋心なのか、脳の誤作動なのか確かめたいんだ」


 女性は、唖然とした顔をしていた。


「良くそんなきざな台詞口に出来るわね」


 自分の思いを素直に口にしただけだが、きざと言われれば、確かにそんな気もする。恋愛ドラマにでも出てきそうな台詞だ。興味が無くて観たことがないが。


「脳の誤作動じゃないよ。私達が出会ったら、恋心が作動するように、ずっと前から設定されていたのよ」


 女性が僕の目を真っ直ぐ見て、真顔で言った。そして、数舜置いた後、一転して笑い顔に変わった。


「なんてね。私もきざな台詞で、返してみたわよ。どう、今の? ドラマに出てきそうだよね」


 女性の名は、初奈はつなと言った。連絡先も教えてもらう。これで経過観察が出来る。

 別れた後も、何かにつけて初奈の顔が目に浮かんだ。大学の勉強にも身が入らない。初奈にまた会う日が待ち遠しく感じられた。誤作動は続いている。

 幼き時から体が弱く、いつも死の息遣いが聞こえていた。勉強は良く出来たし、友達という存在が皆無というわけでもなく、特にいじめられることもなかった。それでも、内心は、人生に諦めを感じ、全ての人間に心を閉ざしてきた。人に見せるのは、作られた表面の僕だけだ。

 そんな僕の胸に、独特の高鳴りが続いている。時間が経っても、止む気配はない。突発的に訪れる病気による胸の痛みとは違う。

 遅々として進まない時間をもどかしく思いながら、再び初奈と会う日を待った。

 初奈は待ち合わせの場所として、日本橋の上を指定してきた。

 何故ここを選んだのか理由はわからなかったが、橋の真ん中で初奈を待った。

 頭の上には空を塞ぐように高速道路が走っており、橋の下を流れる川がきれいなわけでもない。実際に来てみるとがっかりな観光地ランキング上位の日本橋だ。

 人通りも、車通りも、多くも少なくもない。橋の装飾は見事だが、観光地というより、ただの実用的な橋でしかない。

 橋の向こう側から、初奈が現れ、僕を見て微笑んだ。

 今日は心臓の調子は良好なはずだが、胸が弾む。これは病気とは関係ないものだ。僕の脳の中では、アドレナリンが分泌され、セロトニンが抑制されている。世界が明るく感じるのは、瞳孔が開いているからだ。頬も紅潮していることだろう。俗に言えば、恋をしているということだ。

 他人が惚れたはれたと騒いでいるのを、冷めた目で見ていたのに、その愚かな熱病に自分が感染するとは恥ずかしい。


「誤作動ではないかもしれない」


 正直に自分の心境を認めた。


「そう。私達が出会って、恋に落ちるのは、既定路線よ。何も不思議なことではないわ」


 多少冗談めかしてはいるが、あながち嘘ではない様子で初奈は言った。

 運命の出会いなんて、偶然の産物に特別な意味付けをしたいだけの概念だ。客観的に考察すれば、この出会いは、有性生殖の生物が、遺伝子を残すのに有利と思われる相手と巡り合ったということだ。


「昔、生物は無性生殖で、自分の分身を作り続けていた。ある意味、永遠の命を持っていたのだ。しかし、十二億年前に、有性生殖の道を選ぶ生物もいた。異性が結びついて作り出すものは、自分の分身ではない」


「つまりどういうこと?」


「十二億年前に、永遠の命を捨てたのは、君に出会う為だったということだ」


 一呼吸してから初奈は言った。


「ようやく会えたね」


 僕らは結ばれた。性交渉を持つのは初めてだった。初奈も初めてのようだった。

 深い充足感に包まれて、横たわっていた。すぐそばには初奈の温もりを感じていた。

 男女共に初めての場合。上手くいかないこともあると聞くが、そんなこともなく、二人は一つになっていた。

 夢見心地の最中、現実が襲ってきた。急に胸が痛み始めた。

 ここで死ぬのが最高の終幕かもしれないと思ったが、もう少し先はありそうだ。

 胸の痛みが去り、耳元で初奈が名を呼ぶ声が聞こえた。

 我に返ると、自分の体の不甲斐なさと、記念すべき日を汚してしまい、申し訳ない気持ちが込み上げてきた。


「俺、もともと心臓が弱くて、いつ死ぬかわからないんだ」


 仁枝が、僕の胸の傷跡をなでた。


「私は、いつ死ぬかわかっているの」


 予想外の言葉に、耳を疑った。

 聞けば、代々病気の家系で、ある一定の年齢になると、妖怪の様な姿になって、苦しんで死ぬらしい。医学生の僕でさえ、そんな遺伝病は知らない。にわかに信じられないが、嘘をついている風でもない。

 この人は本当のことを言っている。根拠などない。早計だが、そんな気はする。


「死ぬのはわかっている。でも、死ぬ直前までは、元気で過ごせるのもわかっている。それまでは、精一杯生きるって決めているの」


 決められた死を避けようとは思っていないようだ。前向きなのか、後ろ向きなのか、判断はつきかねるが、その快活さは羨ましいと思った。

 いつ死ぬかわからない者と、いつ死ぬかわかっている者がいて、二人とも命というものからは縁遠い存在なのに、生きるということに対して、こうまでも姿勢が違う。

 具合が悪くないのに、体が熱くなった。


「俺が初奈を、いつ死ぬかわからない人にする」


「それって私を助けるってこと?」


「そういうことだ」


「ありがとう。でも、少し回りくどい言い方だね」


 体が弱く、運動らしい運動も出来ず、接する大人といえば、医者ばかりになった。そして、勉強だけは良く出来た結果、大学の医学部に入り、その道を進んでいる。自分を助けられないのに、人を救おうというのか、と自虐的に人生を俯瞰していたが、自分の体が弱かったことさえ、初奈を助ける為だったと、前向きな気持ちが芽生えてきた。

 傷跡が残る胸に、初奈を引き寄せ、強く抱き締めた。



 助けると言ったものの、情報があまりに少ない。戦う病気がどんなものか正確に知っておく必要がある。

 初奈の家を訪れ、一族の歴史を調べることにした。

 初奈の家、陰織家は、昔はこのあたり一帯を所有する地主だったようで、家はそれなりに豪華だった。今でもそれなりの不動産収入はあるようだ。

 初奈と共に、お父さんの陰織賢吾さんが出迎えてくれた。


「初奈さんの病気を治しにきました。よろしくお願いします」


 僕の言葉に、賢吾さんは一瞬言葉を失ったが、すぐに満面の笑みを浮かべた。


「君を待っていたよ」


 賢吾さんは、妻に先立たれ、色々と苦労しただろうが、若々しい気さくな方だった。病気の身でも、初奈が明るいのは、この人のおかげだろう。

 賢吾さんは、代々陰織家に伝わる手記を見せてくれた。

 明治時代に、石走錬造が残したものや、大正時代に貫井真治が残したものに目を通してみる。かなり本人達の主観が入っているので、鵜呑みには出来ないが、苛酷な時代を過ごしてきたことはうかがわれる。病気の治療に失敗してきたのも確かだが、命をつなげてきただけでも、奇跡とすら思える。

 賢吾さんも、初奈の母親である楓さんを助ける為に努力し、失敗したと話してくれた。言葉を濁しているが、その際に、事件に巻き込まれたようだ。そこについては、あまり話したくなさそうなので、深く詮索しなかった。


「肇君は、医者の卵らしいね。医者として初奈を救おうとしてくれるなら、お義父さんに会ってみると良いね。初奈のおじいさんにあたる人だ。お義父さんも医者だったんだ」


 初奈の祖父の創輝さんも医者で、瘧狼病の研究をしていたのだ。残念ながら、妻の希世さんを救うことは出来なかったが。

 創輝さんは、初奈と賢吾さんが住む家のすぐ隣に住んでいた。今は閉院しているが、ついこの間までは、開業医として患者を診ていたのだ。


「君が肇君だね。噂は聞いているよ」


 初奈の祖父創輝さんと対面した。白い髪と、顔や手に刻まれた皺が、積み重ねてきた時間を感じさせた。

 創輝さんは、僕をしばらくみつめた後、しわがれた声帯で語った。


「君に、私の研究の記録を引き継ごう」


 ゼロから研究を始めなくて済む。素直に嬉しかった。


「私は、多大な犠牲を生み出してきた。それでも妻も子も救えなかった。君が同じ悲しみを味わうことがないように祈る」


 創輝さんと向かい合っていると、僕が医者を志すのに、一番影響を与えた人を思い出した。外見は全く似ていないが、同じく医者で、夜中に具合が悪くなった僕のところへ、嫌な顔せず往診に来てくれた。創輝さんと同じく、穏やかな外見の内側に、何かを抱えているようだった。キリスト教の教会で、祈りを捧げている姿を見た記憶がある。名前は何と言っただろうか。

 ぼんやりと昔のことを想っていると、創輝さんに声をかけられた。


「また来てくれ。研究資料を用意して、君に渡そう」


 その言葉が、創輝さんの最後の言葉となった。


 創輝さんは死んだ。


 死因については、賢吾さんも、初奈も言葉を濁した。どうやら自殺のようだ。

 葬儀には、多くの人が参列した。個人の人柄を偲んで涙する人も少なくなかった。


「おじいちゃん。これでようやく終われるね」


 遺影に向かって、初奈がつぶやいていた。

 葬儀が終わり、その後、会食が開かれた。

 僕はそれには参加せず、創輝さんが残してくれた、研究資料を見に行くことにした。


「おじいちゃんから、これを渡すように言われた」


 初奈から二本の鍵を受け取った。

 創輝さんの書斎の絨毯をめくると、そこに隠された鍵穴が口を開けていた。鍵を外し、床に同化していた扉を開ける。

 中はすぐ下りの階段になっていた。壁のスイッチを押し、照明をつけても、まだ薄暗かった。


「私も、お父さんも、ここには入ったことがないの」


 階段を下りると、そこは研究室になっていた。広さはないが、それなりに設備は整っている。本棚には、長年に渡った研究の記録が並んでいた。

 保冷庫は金庫と見紛う程厳重な作りだった。瘧狼病ウィルスが保管されているのだ。


「暗証番号を間違えると、中のものが破壊される仕組みになっているそうよ」


 恐ろしいことを楽しげに初奈は言った。

 僕は全く楽しむ気になれない。教わった暗証番号のボタンを押そうとすると手が震えた。


「ピッピッパップッポ」


 横から手を出し、擬音を発しながら初奈がボタンを押し、施錠が解かれた。


「驚いた?」


 他の人にやられたら頭にきてしまいそうだが、そんな初奈も魅力的に思えた。

 保冷庫の中には、アンプルに入ったウィルスが納められていた。

 広がれば大惨事を引き起こすウィルスが、東京の街中に眠っている。冷静に考えれば、恐ろしい光景だ。


「自分の家の隣に、こんな秘密の地下室があるなんて、わくわくするわね」


 同意は出来ない。

 保冷庫の扉を閉めて、会食が行われている陰織家へ戻った。

 賢吾さんに挨拶して帰ろうとしたところ、一人の男性に声をかけられた。年齢は死んだ創輝さんと同じくらいだろうか。髪は白いが、背筋は伸び、かくしゃくとしている。


「君が肇君か。創輝君の研究を引き継ぐという話だね。頑張ってくれ」


 どこかで見たことがある顔だと思ったら、静沢製薬しずさわせいやくの創業者で、医学界の重鎮、静沢良一だ。


「は、はい。ありがとうございます。頑張ります」


 聞けば、静沢さんと創輝さんは、昔一緒に働いた同僚だったらしい。


「もう二十年以上前になるかな。瘧狼病ウィルスが絡んだ事件が起こってね、それで研究が出来なくなってしまったのだ。創輝君は一人で研究を続けていたようだが、それにも限界がある。思うように進まなかったようだ。とにかく、意思を引き継ぐ人がいてくれて良かった。病気の連鎖を断ち切れることを願っているよ」


 静沢さんは、名刺を渡してくれ、知的な顔に柔和な笑みを浮かべて去っていった。

 僕も帰ろうとすると、遠くに人の姿が見えた。こちらを見ているようだが、何かおかしい。覆面を被っているのか、包帯でも巻き付けているのか、顔が白く、眼の部分は黒い。気味の悪さに、体が硬直した。

 瞬きをすると、いつの間にか消えていた。

 見間違いか何かだろうか。



 大学を卒業してからの進路は、瘧狼病ウィルスの研究が出来るかどうかを重要視した。

 そんな折、大学の先輩から連絡があった。それ程親しい間柄でもなかったので、少し驚いたが、話を聞いてみることにした。


「日本の閉鎖的な医学界は、不破君には相応しくない。一緒に新しい世界を切り開いていかないか」


 なんとも胡散臭い言葉だ。意訳すれば、一緒に研究しようということだろう。

 先輩が働く研究所は、宗教法人が運営する病院に併設されたものらしい。設備はしっかりしていて、資金も潤沢。ある程度自由に研究もやれるそうだ。

 話がうま過ぎる。運営している宗教法人も、革世黎源教という新興宗教だ。世紀末が近付くにつれ高まってきた終末観や、オカルトブームの波に便乗して、信者を増やしているらしい。普通に考えるのならば、進んではいけない道だ。しかし、初奈にも、僕にも、時間がない。真っ当な道を歩いていたら、間に合わないのだ。僕は、黎源教の研究所を進路にすると決めた。



 家に帰ると母が声をかけてきた。表情から、良くない話だと始まる前からわかる。


「肇。あなた最近どうしたの。もう卒業なのに進路も決めず」


 宗教法人が運営する研究所に進むことを告げると、母は露骨に嫌な顔をした。


「そんなよくわからない研究所駄目よ。他にもっとちゃんとしたところがあるわ」


 子供の頃から、体が弱かった。病院へは頻繁に通ったし、入院も何回かした。直接言われたことはなかったが、長くは生きられないだろうと思っていた。激しい運動は出来なかった。友達は少なかった。一人で遊ぶことが多かった。ジャンクフードや炭酸飲料は、ほとんど口にしたことがなかった。危険な遊びもしたことがなかった。勉強は良く出来た。母が望むままに勉強し、成績はトップクラスを維持していた。

 母は、僕に対して過保護だった。父が仕事人間だったことも影響しているだろう。母の愛を重荷に感じながらも、母の力がなくては生きていけない自分を感じていた。

 今まで親に依存して生きてきた。体が弱かった僕は、他の人よりも依存度が高かった。この歳になっても親離れ子離れが出来ていない。しかし、決別の時が来たのだ。


「そのよくわからない研究所にいくのは、あの女の人のせいなの? 詳しくは知らないけど、病気を持ったかわいそうな人だって話よ。申し訳ないけど、同情で人生を棒に振ってはいけないわ」


「あの人をかわいそうと言うのなら、ここにもかわいそうな人はいる」


 自分の胸を指差しながらそう言うと、母は言葉に詰まった。

 心に情熱を抱いても、体が丈夫になったわけではない。親の庇護のもと、初奈の治療法をさがしたいが、そんなに都合よくいくはずもない。どちらかを選ばねばならない。


「母さんとの長い過去より、初奈との短い未来を選ぶ」


 僕の言葉に、母は怒りとも悲しみとも判断しかねる表情を浮かべた。

 父は、そんな僕達二人を椅子に座ったまま黙って見ていた。



 研究施設で働くにあたり、革世黎源教に入信することになった。

 本音は嫌だったが、形だけで良いということは遠回しに言われたので承諾した。研究所の所員も、本気で信仰している者は少数に思えた。

 東京の西の端の山の中に、洋風ともイスラム風とも言える、革世黎源教本部が鎮座していた。

 出家した信者が住む簡素な家が、教団本部のまわりに建ち並び、更に離れたところには、田畑までがあった。一つの村になっているのだ。

 出家した信者が修行したり、働いたりしながら生活していた。

 信者には階級があって、その階級によって着る服の色が違った。一番下は白い服で、この色の信者が一番多く目につく。白い服のまま作業にあたるので、薄汚れた者ばかりだった。見た目はみすぼらしいのに、皆迷いのない、幸せそうな顔をしていた。僕はそれに共感することは出来ず、ただ醒めた気持ちで眺めていた。

 本部の建物の中に案内され、奥の広間へと通された。

 電灯が消され、燭台の火が、部屋をぼんやりと怪しく照らしていた。

 同時期に入信した数名と、無言のままたたずんでいた。

 しばらく待たされた後、奥の扉が開き、赤い服を着た一人の男性が出てきた。教主螺内空偉だ。部屋の空気が冷たくなった。

 螺内空偉が、手を肩の高さまで上げる。手には鈴がぶら下げられていた。鈴を振ると、室内に澄んだ音色が鳴り響いた。壁や天井に細工がしてあるのか、何個もの鈴が鳴っているように聞こえる。


「この世界は穢れています。間違えた思想のもと、間違えた行動をし、時間空間を汚しているのです」


 そこでもう一度鈴の音。


「外の世界を変えようとしても、ただ無用な戦いを生み出すだけなのです。それは歴史が証明しています。私も戦いの中に身を置き、それは痛感しました。」


 はっきりと聞き取りやすい口調で、教主は続けた。


「まずは自分を変えるのです。魂を浄化するのです。小さな世界を変え、それを広げ、大きな世界を変えていくのです」


 そこで事前に教わっていた通り、目を閉じて頭を下げた。

 一人一人の頭頂部に、教主が鈴を鳴らしながら指を当てていく。

 僕の番がきて、頭のてっぺんを押される感触と共に、鈴の音が頭に鳴り響いた。

 全員済み、教主が退席し、入信の儀は終了した。


「すごいね。何か神秘的な力を感じた」


 隣の者が声を上げた。同調する者が続く。入信の儀を賛美する声が部屋を満たした。

 胡散臭い。僕は何も感じなかった。最初に声を上げた者は、本当に新しく入信した者なのか。印象を操作する為に、肯定的な発言をしたサクラなのではないのか。宗教を語った集金システムに取り込まれてはたまらない。

 


 黎源教の本部は東京の西の端の山の中だが、病院と研究施設は、もう少し人里にあり、二十三区からでも通勤可能だった。

 病院は造られたばかりのきれいな建物で、在家信者や、一般患者の治療を行っていた。新興宗教の研究施設と聞くと、恐ろしいものを想像してしまうが、実際は病院に併設された、近代的な建物だった。

 都内に初奈と新居を借り、そこから研究所へと通った。

 まだ若造の僕に、資金と設備を与えてくれ、事前の言葉通り瘧狼病の研究にあたらせてくれた。

 創輝さんの研究を受け継ぎ、日夜研究に励んだ。

 戦時中の資料を読み、人体実験をしていた記述に怯む。時代が時代とはいえ、非道な行いだ。それでも研究をやめる気は起こらない。初奈を助けるのだ。血塗られた過去があろうと、信者から巻き上げた金で成り立つ研究所だとしても、僕は進む。



 瘧狼病の研究とは対照的に、初奈との同棲生活は、とても楽しいものだった。

 僕達は、同じ年代に生まれ、同じ東京で育ったのに、見てきたものはまるで違っていた。

 初奈は、父親の影響もあるのか、映画、漫画、テレビ番組など、サブカルチャー的なものに詳しかった。


「肇って、ファミコンやったことないの? 運動できない虚弱体質が、何やって生きてきたのよ」


「勉強したり、寝込んだりしてたよ」


 それを聞いた初奈は大笑いした。


「あなたって本当に面白い」。


 僕も世間ずれした変人ではあるが、初奈も変わり者ではある。

 二人でファミコンをやってみた。今は、もっと高機能なテレビゲーム機が出ているようだが、中々楽しかった。


「肇、ファミコンの才能あるわよ」


 別にいらないが。

 初奈が一本のソフトを指し示した。


「これなんかあなたにぴったり。スぺランカーっていうのだけど、主人公が虚弱体質なのよ。ちょっとした段差ですぐ死ぬの」


「失礼だな」


 やってみると、探検家のスぺランカーが財宝を求めて洞窟を冒険するゲームだった。確かに主人公はひ弱だった。難易度は高い。僕の人生に重ねてしまった。



 研究を進めたいのにも関わらず、時々、魂の浄化への修練という名目で、教団本部へ行かねばならなかった。


「革世黎源教の起源は、十六世紀までさかのぼります」


 教団の歴史の講義が始まった。

 配布されたプリントに沿って、教団教育部長による説明がなされる。


「甲斐の国の武士、霧壁範聞きりかべはんもんの息子悌真ていまは、一族郎党を皆殺しにされ、自身は奴隷として海外に売り飛ばされます。まだ幼いとも言える年齢でしたが、武芸に秀でていた悌真は、インドのゴアでの戦いで功績を上げ、遠くヨーロッパへ送られます。そこで悌真は、キリスト教やイスラム教に出会います」


 教育部長は、当時の日本や世界の情勢をまじえて、丁寧な口調で説明している。教団に来る前は、学校の教師だったという噂もうなずける語り口だ。

 荒唐無稽な話のはずだが、ずっと聞いていると、真実に思えてくるから怖い。


「悌真は、日本に送り返されることになります。これは、スペイン・ポルトガルが、日本や東アジアを植民地化する為の先兵として送り込んだものだと考えられています。しかし、日本に戻った悌真は、幕府転覆を画策することはありませんでした。日本での戦い、海外での戦いを経験して、殺し合いの無益さに気付いていたのです。悌真は、かつての仲間や、海外で会った日本人奴隷を集め、山の中に村を作りました。その場所こそ今我々がいる場所です。そして、仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教などを融合し、独自の教えを作りました。それが、革世黎源教のもとになった考えです」


 霧壁悌真が持ち帰ったという、機械式時計、眼鏡、鏡、そして、スペインでの悌真の主、オルレアンス家の紋章が、プリントに載っていた。鍵の形を表しているようだ。


「霧壁悌真の教えを守り、村は細々と続きました。宗教弾圧の時代でしたので、外部の交流は少なくなりました。その結果、他の村から誤解を招き、おかしな呪術を行っている村とみなされました。霧壁村きりかべむらという名前も、いつしか切頭村きりこうべむらと呼ばれるようになりました。それでも、村人達は、悌真の教えを受け継いでいきました。いつしか、この教えが世界を救う日が来ることを信じて」


 教育部長は、陶酔したような顔で語った。

 僕のまわりの信者も目を輝かせて聞いている。


「脈々と受け継がれてきた教えも、存続の危機を迎える時が来ます。天保の大飢饉です。天候不順による凶作のところへ、疫病が流行り、人々は死んでいきました。霧壁村も例外ではなく、少ない感染経路から病気は侵入し、村は全滅寸前まで追い詰められました。最後に残った一人が村を脱出し、どうにか人里まで歩き、そこで子孫を作りました。生命と教えをつなげることが出来たのです。その男こそ、初代教主螺内空偉の先祖でした」


 初奈一族の話と、賢吾さんが調べた歴史を盗用し、脚色したのが明らかな内容だ。

 信者達の中に、異を唱える者などいなかった。皆静かに話を聞いている。


「時が経ち、昭和の時代になってから、初代教主螺内空偉が、この地に舞い戻りました。この村と教えを復興する為です。村の再建は、順調に進み、革世黎源郷と村は名付けられました。このまま終末の救済に向けて、教えが広まっていくと思われましたが、ここでまた滅亡の危機が訪れます。内部抗争が起きたのです。螺内空偉に対抗する人々は、武器を持ち襲いかかってきました。その戦いの最中、初代螺内空偉は、敵の凶弾に倒れ、亡くなりました。孤軍奮闘し、対抗組織の人々を殲滅したのが、現在の教主、二代目螺内空偉です。今わの際の初代から、現教主は言われました。世界を変えるのは君だと」


 初奈の父、賢吾さんが、この事件に関わっているようなことを臭わせていたことを思い出した。触れて欲しくはなさそうだったので、追及はしなかった。


「二代目教主は、滅亡しかけていた村を再建し、より発展させ、より多くの人々を集めました。そして、宗教法人革世黎源教を設立したのです。そこからの教団の飛躍は、皆さんもご存じの通りです。日本各地に支部を置き、関連施設も多数あります。霧壁悌真の教えは、脈々と受け継がれ、ここまで広まったのです。終末は近付いています。そこは変革の時なのです。次の世界にいく為には、魂の浄化が必要なのです」


 教育部長のその言葉に、信者達は全員立ち上がり、一斉に拍手し始めた。

 拍手するところなのだろうか? まわりの行動に疑問を感じつつも立ち上がり、心のこもらない拍手をした。



 休日に、初奈とプラネタリウムに行き、その帰り道、初奈が空を見ながら話し始めた。


「まだ小学生の時だったかな。もうお母さんは死んでいて、お父さんと二人で暮らしていた。お母さんが死んじゃって、やっぱり悲しかった。お父さんは頑張ってくれたけど、お母さんの代わりにはならなかった。そんな時、ハレー彗星が地球に近付いてきたの。お母さんが死ぬ前に、見に行くよう言っていたから、お父さんと二人で見に行ったの。肝心のハレー彗星は、良く見えなかったけど、お父さんの大きい手を覚えている。もう手をつなぐ歳でもなかったけど、あの時は、手をつないだ。多分あれが最後だったな。いつも陽気なお父さんが、珍しく無口で、空を見ながら強く手を握りしめてきた」


 僕も同じ時、別の場所で、同じ空を見上げていた。一人は貴重な思い出で、もう一人は、ただ見上げていただけで、特に何も感じなかった。

 初奈は続けた。


「星を見上げていたら、生きる活力が沸いてきた。居ても立っても居られなくなって、お父さんの手を引っ張って走り出した。お父さんも私に合わせて走ってくれた。私もお父さんも笑っていた」


 初奈と出会っていたら、ハレー彗星をもっときれいに感じていたのではないか。星の全くない空でも、美しく感じたのではないだろうか。

 感傷的な気分で空を見上げていると、突然、「我が人生一片の悔いなし」と言って、初奈が、拳を突き上げた。急におかしな行動をとり始めたので、反応出来ずに眺めていた。


「あれ、北斗の拳知らない?」


「題名は聞いたことあるが、読んだことはない」


「この世代の共通項だと思っていたけど、そうでもないのね」


 僕は、小学生の頃から、漫画ではなく小説を読んでいた。同世代の人とは、あまり話が合わない。


「年がら年中死兆星。ほあた」と言いながら、初奈が正拳突きを見舞ってきた。意味がわからないが、何故か楽しかった。



 数年前に起こった好景気から不景気への転換は、バブル崩壊などと呼ばれ、物質世界の凋落は、精神世界への傾倒を加速させることになった。

 革世黎源教も、信者数を増大させ研究資金は更に潤沢になった。研究所も何班にも分かれ、他の班が何をやっているのかわからない程だった。僕が瘧狼病という危険なウィルスを研究しているとわかっている人は、研究所の所長と、一握りの幹部だけだろう。僕も、他の研究班が何の研究をしているのかわかっていなかった。

 平和維持部の幹部が、研究の視察に来たが、外見を見ただけでも異様な雰囲気を放っていた。この平和維持部とは、教団内の警察組織のような部門なのだが、軍事演習まがいのこともしていると聞く。他人のことを言えた筋ではないが、この男達は、黎源教に魂の救済など求めているとは思えない。研究内容を質問してきたが、適当にはぐらかしておいた。

 黎源教には、広報部なるものもあった。

 広報部が作成する機関誌が、研究所にも定期的に送られてくる。

「終末に向けて」。そう銘打たれた教団新聞が回ってきた。

 終末の審判では、人がお互いを殺し合い、不治の病が蔓延する。そこを乗り越えられるのは、選ばれし者のみ。

 そのようなありがちな文面がつづられていた。

 胡散臭い新興宗教に限って、世界の終わりを強調する。黎源教も、その中の一つのはずだが、荒唐無稽なものでも連呼されていると、徐々に本当に思えてくる。

 僕は、まわりに誰もいないことを確認して、機関誌を机の上に放り投げた。

 黎源郷はどこへ行こうとしているのだろうか。



 初奈とは、一緒に住んでいたが、正式には籍を入れていなかった。機会を逃したまま、同棲を続けてしまっていた。子供でも出来ないと、そのまま更に時間が過ぎてしまいそうだった。

 しかし、内心子供は欲しいと思っていなかった。僕と初奈の体質を子供が受け継いでしまうことはもちろん怖いが、その要因を別にしても、子供はいらないと思っていた。

 対照的に初奈は子供を欲しがっていた。同じく身体に問題がある者同士なのに、この差は何なのだろう。

 洗濯物を干している初奈を眺めていると、初奈がハンガーを振り回し始めた。そして叫ぶ。


「そんなんじゃ母ちゃん守れねえんだよ!」


 唖然とする僕を置いてけぼりにして、

「ええ加減な奴じゃけーん」

と初奈は歌い始めた。


「何だそれは」


「刑事物語りんごの詩。武田鉄矢が、ハンガー持って戦うの。三作目の潮騒の詩では、ゴルフクラブで戦って、何かに目覚めた武田鉄矢は、プロゴルファー織部金次郎を作るのよ」


 知らん。

 同年代で、さして変わらぬ場所で暮らしてきて、見てきたもの感じてきたものは、こんなにも違う。別の人間なのだ。それでも一緒に暮らしていて、不快ではない。生物として、自分にないものを補おうとしているのだろうか。

 とにかく、子供の出現で、この生活が壊れるのが嫌だった。



 所要があって、教団本部へ出向くことになった。嫌々進む足が重い。

 本殿の広間から、何やら音が聞こえてくる。大勢の人間の声のようだ。少し、様子を見に行くことにした。

 歌なのか、お経なのか判断しかねる言霊というものを、信者たちは広間で唱えていた。信者達に与えられる食事の量は少ないし、修行と称した労働は、かなり重めだ。そして、睡眠時間も短い。そんなところに、こんな一定のリズムの言葉を唱え続けたら、思考回路が麻痺してきて、誰でも神秘体験をしてしまう。良く出来た洗脳システムだ。

 出家した信者の中には、家族全員で教団施設に来ている者もいた。小さい子供が、外の世界を知らぬまま、こんなおかしな場所で育ったらどうなるのだろう。薄ら寒い気持ちになった。

 僕は、家族と教団は離しておいた。調べればわかってしまうが、同棲していることは黙っていた。黎源教に心を捧げるつもりはない。研究の為、利用しているだけだ。寄せ集めの教義に、捏造された歴史。信じている者には申し訳ないが、僕には偽宗教とした思えない。

 教主の螺内空偉も、僕から見ると、薄っぺらい誇大妄想を持った男に見える。社会主義、共産主義思想やら、キリスト教、仏教、神道など、様々な考えを混ぜ合わせ、おかしな教義を作っている。荒唐無稽な教義に思われるが、信者達は、信じているようだ。

 螺内空偉は、信者の女性に手を出していた。わかっているだけでも、九人の子供がいる。内臓が弱いのか、痩せてはいたが、好きなものも食べ放題だった。信者には清貧を説いているのに、とんだ俗物だ。弁舌巧みに自分を大きく見せ、信者を集める能力には秀でているが、ただそれだけの詐欺師としか思えない。初奈の病気の研究という目的がなかったのなら、関わり合いにはなりたくもない存在だ。

 革世黎源教を利用することに、良心の呵責がない訳ではない。しかし、正義だ悪だと青臭いことを言う程、残された時間が長くはない。利用できるものは利用させてもらう。



 研究所に通い、動物実験を繰り返し、資料をあさり、思考を巡らせる。

 そんな中で、創輝さんが残した記録と、初奈を調べた記録を比べて、一つの仮説が浮上した。この仮説が正しいのなら、初奈の発症は抑えられる。しかし、初奈の望んでいる未来ではない。これに気付くことにより、残酷な選択を強いることになるかもしれない。

 告げるべきか悩んだ末、告げることにした。

 家に帰り、二人きりで向かい合った。

 何かを察し、初奈も緊張した面持ちをしている。


「創輝さんが残した資料や、初奈を調べた記録から、一つの仮説にたどり着いた。陰織家の女性は、ある一定の年齢に達すると病気を発症するのだと考えられていた。だが実際は、もっと前から病気は始まっているかもしれない。姿や精神が変容してしまう直前から病気が始まるのではない。子供を妊娠した時から始まるという可能性がある。だから、初奈は子供を作らなければ、発症せず、美しいまま一生を終えることが出来るかもしれない」


 二人の間に沈黙が降りた。

 いらぬことを言ってしまった。猛烈な後悔が押し寄せてきたが、初奈の言葉が、それを遮断した。


「子供産むわよ。例え自分が妖怪になって死ぬとしてもね。そんなこと、無性生殖やめて、有性生殖選んだ十二億年前から決めていたわよ」


 力強い目をしていた。自分の小ささが嫌になる程に。

 吸い寄せられて、僕より小柄な初奈に抱きしめられた。

 終わりの始まりのきっかけを、僕が決定づける。そんなのは嫌だ。美しいままの初奈を見ていたい。妖怪のような姿で苦しむ初奈なんて見たくない。子供なんて欲しくない。

 そうは思いつつも体は抗えず、初奈との境界はなくなり、一つになった。

 初奈の中に、新たな命が宿った。

 日に日に初奈の腹が大きくなっていく。子供が生まれるのだ。

 僕には実感がない。思えば弟も妹もいなかったし、自分より小さい子供とふれ合う機会がなかった。ペットを飼うこともなく、愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンの分泌を促される機会がなかったのだ。それ故に、生まれてくる子供に何の感情も抱かないのだ。

 女から母へと変わっていく初奈を、寂しい気持ちで眺めていた。



 研修という名目で教団本部に呼び出されて、幹部による説法を受けることになった。

 着たくもない白い作務衣を着て、気の乗らない時間を過ごす。あからさまにやる気のない態度をとって、目をつけられるのも嫌なので、ある程度はまわりに合わせた。

 研修も終盤に差しかかった頃、急にまわりが騒がしくなった。

 どうしたのかと様子を伺っていると、僕の名前が呼ばれた。どうやら急病人が出たらしい。常駐の医者はあいにく不在のようだ。

 走って患者のいる医務室に向かうと、意識が混濁した幼い子供が横たわっていた。


「禁足地で遊んでいて、火山ガスを吸い込んでしまったのです」


 子供のそばにいた信者が、僕に説明してきた。

 教団本部の建物から、少し山を下ったところに、火山性ガスが出ている立ち入り禁止の場所があると以前聞いた。死人が出たこともあるらしい。

 幼い少年は、青白い顔をして、寝かされていたが、僕が顔をのぞき込むと、目を開けた。

 まわりの信者がそれを見て、一斉に歓声を上げた。

 その歓声にかき消されて良く聞こえなかったが、その少年は小さな声でつぶやいた。


「声が聞こえた」


 言っていることは良くわからなかったが、とにかく意識を取り戻したのは良かった。発見も早かったようだし、後遺症が残ることもないだろう。

 異質な雰囲気を察して、顔を上げると、側近を引き連れた教主螺内空偉が、医務室に入って来た。

 少年の顔に、どこか見覚えがあると思ったら、螺内空偉の子供だった。何人かいる愛人の一人に生ませた九人兄弟の末っ子のはずだ。

 教主は、平静を装っていたが、かなり心配していたようだ。意識を取り戻した子供を見て、安堵していた。

 ただの俗物だと思っていた教主が、子供への愛情を見せた。初奈の腹が大きくなっているのに、何の感情も抱かない自分に、不安を覚えた。僕は、父親になれるのだろうか。

 実際は何もしていなかったのだが、この功績で昇格し、服が白から黄色に変わった。



 子供が生まれた。

 生まれたばかりの我が娘は、灰色がかった紫色をしていて、羊水にまみれぬるぬると光っていた。

 医師や助産師に「可愛い女の子です」と言われたが、特に何の感情も沸かなかった。


「この子の名前は、香沙音かさね


 初奈は子供が産まれ、涙を流して喜んでいるが、僕には何が嬉しいのか全く理解出来なかった。

 家に帰っても、香沙音はわんわんと泣くだけで、意思の疎通も出来ない。研究で疲れているのに、泣き声で中々眠れない。疲れがたまる一方だ。

 初奈は子供に最大限の愛情を示している。抱き寄せて乳を与え、子守歌を歌い、少しの成長でも本当に嬉しそうだ。

 僕は疎外感を覚えた。母と子の間に入れない。子供に初奈をとられたような気がした。

 香沙音を抱いていても、ただ重いだけで疲れてしまう。耳元で泣かれると、頭の中にまで声が響く。早く離したいと内心思いながら香沙音を抱いた。


 

 義父が香沙音に会いにやってきた。


「肇君。自分の命がつながっていくということは、こんなに嬉しいものなのだね」


 小さな香沙音を腕に抱き、義父は幸せそうに微笑んだ。

 何故そんなに良い笑顔が出来るのか、僕には良くわからなかった。ただ生命が一つ増えただけに感じられる。

 義父は、初奈にもねぎらいの言葉をかけていた。親、子、孫、三世代が一本の絆でつながれている。その中に、僕は入っていない。取り残された。疎外感を感じていた。

 育児で疲れていた初奈は、香沙音と共に眠りに落ち、義父と二人きりの時間が出来た。


「肇君が働いているのは、革世黎源教を母体とする研究所なのだろう」


 突然訊かれて、少し驚いた。自分から話したい部分ではなかったし、今まで触れることはなかった。

 僕は肯定の返事をした。


「あまり言いたくなさそうだったから、深く追求はしなかったが、やはりそうか。君が選んだ道だから、別に否定はしないが、一応伝えておこうと思ってね」


 義父は、そこで一呼吸おき、頭の中を整理したようだ。


「黎源教の教主螺内空偉の本名は、益貝茂人といって、私の昔の知り合いなのだ。そして、黎源教には、私も無関係ではない」


 義父は、昔あった事件について語ってくれた。

 戦後間もない頃に起きた日比谷生命館での事件では、まだ幼かったので、多少曖昧なところはあったが、旧切頭村の事件は、詳しい内容だった。


「教団で聞かされた話とは、かなり違いますね」


「茂人は、昔から口先八丁だったからな。村でみつかった埋蔵金を使って、共産主義コミューンを宗教団体へ変えて大きくしていったのだろうが、茂人がそんなことを出来るとは思えない。別に黒幕がいるのだろう」


 教主に対して毒を吐きつつも、憎からず思っている口調だった。

 黒幕と言われても、教団の中枢にいるわけでもないので、詳しいことはわからない。


「初奈を助けようとしてくれるのは本当に嬉しいのだが、危ない橋を渡っているのも確かだ。気を付けてくれ。私のお義父さん、初奈のおじいさんも、自分の妻の病気を治そうとして、戦時中とはいえ非道な行いをしてしまった。妻を助ける為でも、道を踏み外してはいけない。お義父さんが、研究資料の他に、戦争中の手記を残していたと思うが、読んだかな?」


「研究資料はありましたが、手記と思われるものは見ていません」


「あれ。なかったか。自分の非道な行いと向き合う為に、書き残すと言って、私もちらっと見せてもらったのだが…。亡くなる直前に捨てたか、七三一部隊の部隊の関係者に処分されてしまったかな」


 研究資料からだけでも、やっていたことはわかる。


「人体実験のことですね」


「うん…。それだ」


 気まずい沈黙がおちた。

 僕が、初奈や香沙音を助けたいが為に闇に落ちてしまわないか、心配しているのだ。

 残念ながら、間接的とはいえ、信者から絞り取った金で研究しているのだ。既に闇に落ちているようなものだ。

 僕が何も言えずにいると、義父は話題を変えようと話し出した。


「私もお義父さんのように、自分が経験したことを文章で残しておこうと思うんだ。切頭村のことを調べたこととか、起きた事件とかね」


「螺内空偉が、益貝茂人だった過去を消す為に処分されてしまうのではないですか」


 冗談めかして言うと、


「そうかもしれないな」


 義父は笑って言った。

 香沙音が泣き始め、その声で初奈も起き、義父との会話は終了した。



 妊娠したとわかった時から、初奈は両親に報告するように言ってきたが、僕は両親との衝突を避けたいが為に、連絡を後回しにしていた。そうしているうちに、子供が生まれてしまった。

 意を決して、長らく帰っていない実家に電話をした。

 電話には、母が出た。

 僕が名前を告げると、受話器の向こうで息を飲むのがわかったが、その後は冷静な対応だった。子供が生まれたことを伝えても、特段に動揺することもなかった。


「生まれたばかりの子供を連れて、こちらに来るのは大変でしょう。私達がそちらにいくわね」


 こちらから出向くつもりだったが、両親が僕らの家に来ることになった。

 当日、呼び鈴が鳴り、ドアを開けると、少し緊張した面持ちの父が立っていた。

 居間に通して、テーブルをはさんで向かい合う。一通りの挨拶が終わると、気まずい沈黙が降りた。

 そんな気まずい空気を破り、香沙音を抱いた初奈が口を開いた。


「お義父さん、お義母さん。私は死にます。もうすぐ死にます。呪われた体なのです。香沙音を残して死にます。香沙音を育てて下さい。お願いします」


 父も母も、初奈の気迫に押され、言葉を発せずにいた。

 僕も初奈に続いた。


「父さん、母さん。知っての通り、俺もいつ死ぬかわからない。助けが必要なんだ。特に母さん。閉経後の女性が長生きするのは、生物としては珍しい現象なんだ。それは、人間の女性が孫を育てる為だという説もある。香沙音を、俺達を助けてくれ」


 初奈が怒りの表情で僕に向かって言った。


「もう少しましな言い方ないの」


 そんな僕達を見て、父も母も呆然としていたが、少しして、口元をほころばせた。そして、母は、初奈に腕を伸ばし、香沙音を受け取り、胸に抱き寄せた。

 母の腕に抱かれた香沙音が、泣き出さないか心配だったが、初めて触れ合った母に対し、天使の様な笑顔を見せた。

 もう母は、僕達の結婚に反対していた母ではなくなっていた。堅物だと思っていた父までが、優しい目で微笑んでいた。

 香沙音の笑顔が父と母を変えた。だが、香沙音の笑顔でも、僕を変わらない。僕の真の欠陥は、体ではなく、別のところなのかもしれない。



 母は、断絶していた日々が嘘のように、頻繁に香沙音の世話をしに来るようになった。助かるといえば助かるが、同じ都内とはいえ、電車で一時間以上かけてくる気持ちが理解出来ない。もう若くないので、きついはずなのだが、母は嬉しそうだった。

 僕は、初奈に続いて、母まで奪われたような気分になった。

 母に比べて、父が香沙音に会いにくる頻度は低かった。子供への接し方の違いは、男女の性差によるものなのだろうか。

 僕は、月日の経過と共に、大きくなっていく香沙音を、乾いた気持ちで眺めていた。

 香沙音が、寝返りをうったと初奈が喜んだ。僕は、特に何も感じなかったが、話をあわせて嬉しそうな顔をした。

 香沙音がはいはいが出来るようになった。行動範囲が増えて、面倒だとげんなりした。

 初奈が香沙音腕に抱きながら言った。


「こいつは俺だ」


 何だそれは。


「七人の侍の時の、三船敏郎の物まね。わかった?」


 香沙音に興味を示さない僕の気持ちを盛り上げようとしているのだろうが、むしろ冷めてしまう。

 僕は、何も反応せず、家を出て研究所へ向かった。



 家が安らぎの場ではなくなり、研究でも行き詰っていた。

 心労が影響しているのだろうか、息も出来ない胸の痛みも、前より頻繁に襲ってくるようになった。

 まわりにこれだけ人がいるのに、孤独だった。誰かに寄りかかりたかった。妻と子を助けなければならないのに、むしろ助けて欲しかった。

 馬鹿馬鹿しいと思っていた革世黎源教の教えが、自分の頭を侵食してくる。

 死後の世界、そんなものありはしない。生きているうちは、苦しみや絶望しか味わえない人間の心の救済でしかない。そういう教えが無ければ、生活規範を守れず、社会生活に害が出てくる。

 臨死体験などは、脳が作り出す幻想だ。心停止し、酸素が供給されなくなった後も、脳はしばらく活動することがわかっている。その時見る幻覚が、天国を見たとか、死んだ家族に会ったとかいうものだ。

 前世や生まれ変わりも似たようなものだ。存在するわけがない。

 世界の終わりなど来るわけがない。

 頭を振って、正気を保った。



 世紀末が近付くにつれ、黎源教の信者の数は増えていった。

 在家の信者もさることながら、全財産を教団に寄付して出家する人も、後を絶たなかった。

 僕が所属する研究所以外にも、外食業、出版業、販売業など、事業を拡げていった。信者を従業員に使えば、人件費は安く抑えられる。儲けた金を宣伝に使って、さらに信者を増やしていくのだ。最早、魂の救済など関係なくなっている。

 黎源教自体は、精神世界とは別の方向へ枝葉を伸ばしているのに、研究所の空気は、非科学的なものが混ざり始めているのを感じた。

 隣の研究室からは、言霊ことだまを唱える声が聞こえてくるし、山の中にある教団本部へ足しげく通う研究員もいた。位が昇格した証の色付きの服を着て研究する者も珍しくなくなっていた。

 僕は、黎源教のおかしな教義に染められたくない。

 居場所が徐々に狭められていく。胸が痛む。息が苦しい。



 精一杯打ち込んでいるのに、瘧狼病の解明にはなかなか届かない。

 薬の開発は、何人もの研究員が取り組んで、期間は十年、費用は百億円かかると言われている。僕一人では、土台無理な話なのかもしれない。

 邪悪な思いが、鎌首をもたげてくる。

 瘧狼病ウィルスを拡散させれば、僕以外の研究者も否応なく治療法の開発に当たらねばならなくなる。創輝さんが戦時中に行ったこと以上に非道なことだが、初奈と香沙音を助ける一番の近道かもしれない。それこそが、教主螺内空偉の言う、終末の審判なのではないだろうか。

 研究室で一人、深い呼吸を繰り返していると、次第に冷静になってきた。こんなことを考えるなんて、僕は病んでいる。自己嫌悪で潰れそうだった。



 初奈の顔が見たくて、家に帰った。僕の居場所は、香沙音に取られているが、他に行き場所もなかった。

 余程酷い顔をしていたのだろう。僕の顔を見て、初奈は表情を強張らせた。


「まずはオバQのように食べよう。そして、のび太君よりも早く寝よう」


 抱いていた香沙音をベビーベッドに移し、初奈は台所へ向かった。

 初奈が台所で料理をしていると、ベビーベッドの香沙音がぐずり始めた。うるさい声を聞かされるのかと思うと、気持ちが沈んだ。案の定香沙音は、泣き始めた。大きい声だ。

 いつもはうるさいだけだと思っていたが、今日の僕の認識は違った。泣いている香沙音を見ると、なんだか自分まで悲しい気持ちになってきた。

 僕は香沙音を抱き上げた。柔らかく、暖かかった。

 あやしてみた。抱いたままゆっくりと体をゆすり、声をかけてみる。中々泣き止まなかったが、しばらくすると小康状態になり、泣き止み、笑顔を見せた。

 自分まで嬉しいような気がした。

 どういうことなのだ。僕は小動物に対する愛情なんて抱いたことはなかったはずだ。これは、愛情ホルモンとも形容されるオキシトシンが正常に分泌されていなかったということだと考えられる。香沙音と接していく中で、僕の脳内にも、オキシトシンが分泌されるようになってきたということなのか。自分から初奈を奪った異生物に、心が乱されていた。弟も妹もいなかった。犬や猫を飼ったこともなかった。小さき者を慈しみ育てるという経験がなかった。それを経験するという外部刺激により、僕の内面が変化したのだ。

 初奈がこちらを見て笑っているのに気付いた。


「それが、可愛いってことよ」


 可愛い。世間ではありふれた言葉だ。街中「可愛い」という言葉であふれかえっている。そのありふれた言葉を、本当に実感したのは、今日が初めてだ。


「可愛い」


 香沙音を抱き、声に出して言ってみた。声に出せば出す程、感情が高まる気がした。

 笑顔の香沙音を抱きしめた。ずっと抱きしめていた。

 居場所がないと感じていた家に、帰るのが楽しみになった。

 しばらくすると、香沙音が立ち上がった。最初はつかまり立ちだけだったが、しばらくすると、少しずつ歩くようになった。

 よちよちと歩く後ろ姿を見ていると、心が暖かくなった。これは幸せというものなのだろう。

 更に成長し、香沙音が、「お父さん」と僕のことを呼んだ。今更ながらに香沙音を自分の子供だと認識した。おかしな言い方だが、可愛いとは思いつつも、ペットの延長のように感じていた。ペットなど飼ったことがないので、矛盾しているのは承知の上だが、他の表現が思い浮かばないから仕方がない。

 一緒に外に出て、手をつないで歩いた。研究には役に立たない、無駄な時間であるはずなのに、いつまでもこうしていたい気分になった。

 手をつなぎ、たどたどしい足取りの香沙音と歩く。後ろから僕らを照らす夕日は、二人の影を地面に長く伸ばしていた。

 初奈が横に並び、影が一人分増えた。いつまでも日が沈まず、道が続けば良いと思った。

 このまま初奈と香沙音といつまでも一緒にいたい。守っていきたい。なんとしても治療法をみつけねばならない。

 香沙音はすばしこく動き回るようになり、ませた口もきくようになった。幼児ではなくなっていた。言うこともきかず、わがままな言動もする。ただ可愛いだけの存在ではない。それでも安らかな寝顔を見ていると、苦労も吹き飛んでしまう。

 家に帰って、初奈と香沙音に会いたいという思いは強かったが、研究に差し障りのないように制御は出来た。むしろ、その想いを活力に変え、研究への集中力は増していた。

 初奈に残された時間は短い。急がねばならない。

 平日は研究に明け暮れ、休日は家族と出かけたりする。体力のない僕には、かなりハードスケジュールのはずだが、とにかく充実していた。時たま襲ってくる胸の痛みさえなければ、自分の虚弱体質を忘れそうだった。

 そんな日々が続いた。

 試行錯誤し、幾度もの失敗を繰り返し、破るのは不可能かもしれないと思い始めていた壁が、とうとう破れた。瘧狼病の症状を抑える薬の開発に成功した。創輝さんの代から半世紀にも渡った苦闘が、実を結んだのだ。

 研究室で一人、拳を握りしめた。

 発症して姿が変貌してしまった後では治すことが出来ないが、感染しても、発症するまでなら、症状をおさえることが出来る薬だ。一度発症してしまったら、この薬を投与しても、他者に噛みつこうとしながら、死を迎えることになる。

 動物実験では成功したが、人間では試していない。人間で効果があるのか、そして何より、初奈や香沙音に効果があるのか。

 副作用の問題もあり、人間で試すことは出来なかった。

 ぬか喜びさせるのが怖くて、初奈には伝えられなかった。



 そんなある日、研究所に赴き、鍵がかかった保冷庫を開けると、瘧狼病ウィルスの入ったアンプルがなくなっていた。目の前の事実を受け入れることが出来ず、しばし硬直していた。瘧狼病の症状をおさえる薬もなくなっている。薬の製造法を記した研究データ、ついでに僕の個人的な手記まで消えている。昨日まではあった。盗まれたのか。施錠はしっかりしていた。扉を無理矢理開けた形跡は見当たらない。どういうことだ。教団の人間なら問題なくセキュリティを抜けられる。内部の犯行か。

 急いで研究所の所長のところへ行き、報告した。

 僕の報告に所長の顔は、見る見るうちに青ざめていった。そして、消え入りそうな声で言った。


「終末の審判が始まろうとしている…」


 何を言っているのだこの男は。宗教団体の研究所に所属してはいるが、宗教がもたらす世俗的な恩恵を利用しているだけの人間だと思っていた。いつの間にか、頭の中まで洗脳されてしまったのか。


「所長がウィルスを盗ったのですか?」


「私ではない。神の意志だよ…」


 所長は、ふらふら歩き、部屋の外に向かおうとした。

 僕は所長の服を引っ張り、部屋に留めようとした。


「もう小さな個人では止めることが出来ない大きな流れが始まってしまっているのだ。いや、もうずっと前から始まっていたのだ」


 服をつかんでいた手から力が抜け、所長は僕の手から離れた。そのままどこかへ去っていった。

 所長がどこかへ行ってしまったので、仕方なく自分で他の研究班の者に話しかけた。

 各々の研究室内を確認してもらったが、なくなったものはないようだ。

 他の研究班で、朝凪風邪を研究している細木原ほそきばらが話しかけてきた。動揺している僕とは対照的に、冷静で無感動な話し方だった。


「俺達は、信者から絞り取った金で、好き勝手やらせてもらっている。だが、利用しているつもりで、利用されていたのかもな。俺達は、終末を作り出す為の駒だったのかもしれない」


 そうかもしれない。

「君は危ない橋を渡っている」という、義父の話が頭に浮かんだ。


 細木原は続けた。


「だが、それも良いかもしれないな。ここいらで世界を一回リセットしたら楽しいかもしれない。このまま生きていても、小さな点に過ぎない。もし、世界をリセットする役割の一端を担えたなら、それは光栄なことだ」


 昔の自分を見ているようだった。何時くるかわからない胸の痛みと死に、無気力、無感動になっていた。そんな時、世界を滅ぼす力を手に入れたら、使っていたかもしれない。初奈と香沙音に会わなかった時の、僕の姿だ。


「まあ、俺が研究しているウィルスには、そんな力ないけどな。あんたが世界をリセットする役割なんじゃないか。望むと望まざると」


 滅びの扉を開くことが、僕の役割というのか。下らない。


「他の研究班でも色々やっている。もっと恐ろしい研究をしている奴もいるかもな」


 今日の天気について話すかのように、軽い口調で細木原は言った。

 この男と話していても、瘧狼病ウィルスの行方などわからない。僕は背を向けて、外へ向かった。

 背後から細木原の声が聞こえてきた。


「世界を存続させに行くのか?。それとも、終わらせに行くのか?。どちらにしろ、自分の選択で多くの人の未来が変わるなんて、痛快じゃないか」


 全然楽しくない。ただ、初奈と香沙音と仲良く暮らしたいだけだ。

 僕は研究所から出て、教団本部へ向かおうとした。そこで駄目なら警察に行くしかない。

 そんな僕の前に、一人の男が立ちはだかった。確か教団の幹部だ。今日は背広を着ているが、教団施設では紫色の服を着ていたはずだ。それなりの地位にいる男だ。

 自己紹介もなしに、男は喋り始めた。


「警察に行くつもりか、教団に殴り込むつもりか知らねえが、今は動くな」



「しかし、僕の研究しているウィルスがなくなったのです。悪用されたら大変なことになってしまう」


「そんなに危険なのか」


 瘧狼病ウィルスについて、大まかに説明すると、男の顔が苦々しく歪んだ。


「この教団は謎が多い。社会主義運動団体から宗教法人への移行にしても不可解な部分ばかりだ。東京の片隅で、こんなに危険なウィルスの研究をしているのに、何の話題にもなっていない。そのおかしな教団が、終末やら変革などと言って動き出している。良くないことが起きる」


 そんなこと今更言われなくてもわかっている。


「警察に連絡して、止めてもらわないと」


「警察の中にも信者はひそんでいる。下手に動くと、やばいことになる。証拠が握り潰されるだけならまだしも、下手に刺激して無差別テロでもされたら、たまったものではない。今は下手に動くな」


「あなたは公安警察の人か?」


「余計なこと知らんでいい」


 幹部の男は、自分の名を湯脇ゆわきと教えて去ろうとした。

 多分偽名だろうが、あの男は湯脇と呼ぶことにしよう。

 湯脇が急に振り返って言った。


「そういえば、信者の間に、包帯を顔に巻いた男の話が出回っているが、知っているか?」


 何か引っかかった。


「社会主義組織の頃は知らんが、教団設立当初から、包帯を巻いた男の目撃情報が残されているらしい。教主を陰で操っている男だとか、死んだはずの初代螺内空偉だとか、色々と噂があるが、何もわかっていない。お前は何か知っているか?」


 包帯を巻いた男。どこかで見た気がする。教団内だっただろうか。


「とにかく、今は大人しくしていてくれ」


 そう言って湯脇は去って行った。

 湯脇が去ってから思い出した。包帯の男を見たのは、創輝さんの葬儀の時だ。あの時は、見間違いか何かかと思ったが、包帯の男は実在している。

 包帯の男が教団に関わっているのか。噂のように裏から操っているのか。葬儀の時、姿を見たような気がしたが、創輝さんの手記がなくなったことと関連があるのか。消えた創輝さんの手記には何が書かれていたのか。瘧狼病ウィルスを持ち去ったのは、包帯の男なのか。

 いつもの胸の痛みが襲ってきた。不安感も上乗せされ、いつにも増して辛い。呼吸が出来ず、体中から汗がふき出した。

 どうにか動けるようになって、初奈と香沙音が待つ家へと向かった。尾行されていないか、何度も後ろを振り返る。道行く人々が全て教団の回し者に見えた。

 否定的な想像に頭を支配されながらドアを開けたが、初奈と香沙音は、いつも通りの笑顔で迎えてくれた。


「どうしたの血相変えて。人面犬にでも追っかけられたの?」


 悠長なことを言っている場合ではないと説明し、二人を連れて義父の家に向かった。

 詳しく説明しなかったが、初奈は僕の表情から察したのだろう。いつになく神妙だた。


「盛り上がってきたわねって言おうと思ったけど、そんなこと言っている状況ではなさそうね」


 いつもはやんちゃな香沙音も状況を理解出来ないなりに、僕の言うことを良く聞き、従ってくれた。


「冒険に行くの?」


「いや、冒険というよりは、避難だ。かくれんぼに近い」


 陰織家に着いて、義父に事情を話すと、顔色が変わった。瘧狼病の恐ろしさを身に染みてわかっているのだ。すぐに警備会社に連絡して、警備の強化を図ってくれた。


「肇君の話から判断すれば、ウィルスを持ち去ったのは、教団内部の者で間違いないと思うが、茂人がウィルスを拡散するとは思えないな。そんな大それたことする人間ではない。しかし、欲望の限りをつくして、人が変わってしまった可能性はある。それとも、やはり黒幕がいるのか」


 いつもは陽気な義父も、さすがに余裕がなさそうだ。


「お義父さん。教団で顔に包帯を巻いた男を見たという話があるのです。最近に限ったことではなく、教団設立当初から目撃されているのです。もしかすると、この包帯の男が、革世黎源教の黒幕なのかもしれません。何かご存じですか?」


 義父は少し当惑した顔をした。


「あれ、前に話さなかったかな。日比谷生命館事件の話。話したけど、説明不足だったかな。そもそも、幼かった僕らが、日比谷の方へ出かけたのは、歌舞伎座の怪人、包帯の男を見に行く為だったのだ」


 遊んでいたら日比谷生命館に紛れ込んでしまい、事件に巻き込まれたと聞いていたが、日比谷に出かけた理由は聞いていなかった。


「僕達を外に逃がしてくれたのも、その包帯の男なのだ。創輝さんが、満州の研究所で働いていた時の仲間らしい。僕らは怪人と呼んでいたけど、創輝さんは鎧塚と呼んでいた気がする。戦争で顔に傷を負って、包帯で隠しているそうだ。見た目は怖かったけれど、悪い人間ではなかったと思ったが…。幼い時の印象だから、あてにはならないな」


「創輝さんの葬儀の時も見かけたのですが、手記がなくなっていたのと関係しているのでしょうか」


 賢吾さんは首をひねって考え込んだ。


「日比谷生命館事件の後に、創輝さんと怪人に交流があったことは知らないな。こっそり会っていた可能性はなくはない。だが、かなりの高齢のはずだし、酷い怪我を負っている。もう死んでいるのではないだろうか。目撃情報は、見間違いや、作り話とも考えられるよ」


「でも、言い伝えには、意味があるのですよね」


 僕の言葉を聞いて、賢吾さんは笑った。


「その通りだ」



 義父の賢吾さんのすすめで、静沢良一さんに会うことにした。創輝さんの葬儀の時に、一度会った記憶がある。知的な男性だった。満州時代の創輝さんの上司だった人で、日比谷生命館事件の時も、現場にいた。包帯の男についても、何か知っているかもしれない。

 初奈と香沙音を賢吾さんにまかせ、静沢さんに会いにいくことにした。

 静沢さんは、日比谷生命館事件後、製薬会社を立ち上げた。その会社静沢製薬は、今では日本有数の製薬会社となり、静沢さんは、静沢製薬の会長職に就いている。多忙な生活だろうが、僕の電話連絡にも応じてくれ、その上直接会う約束もしてくれた。

 丸の内にある静沢製薬の本社に出向いた。大きなビルが建ち並ぶ中、静沢製薬本社は、僕を威嚇するように見下ろしていた。

 正面玄関から中に入り、受付で名前を告げると、会長室へ通された。

 最上階の窓から見る景色は、人生に勝利した者の部屋に似つかわしいものだった。

 静沢さんは、窓を背にしてにこやかに迎えてくれた。


「良く来てくれた」


 僕は時間を割いて会ってくれた礼を言い、すぐに本題に移った。


「妻と子の病気を治す為、黎源教が運営する研究所で瘧狼病の研究をしていたのですが、その瘧狼病ウィルスが何者かに盗まれてしまったのです」


 それを聞いて、静沢さんから微笑みが消えた。


「なんてことをしてくれたのだ。いや、君を責めても仕方ないか。とにかくウィルスを取り返さなくては。もう警察には連絡したのかな」


 湯脇に止められたことは伏せて、まだ連絡してはいないと告げた。


「それが良いかもな。ただの所轄に行っても、取り合ってもらえないかもしれない。下手に情報が漏れたら、人々がパニックを起こすことも考えられる。人は不安になると異分子を排斥することがある。歴史がそれを証明している。この情報は慎重に取り扱わねばならない。私が警察の上層部に伝えよう」


 静沢さんの言葉を聞いて、肩の荷が少しだけ軽くなった気がした。


「ウィルスを持ち去った犯人は、教団の内部の者だと思うのですが、一つ気になる噂がありまして。教団を陰で操る黒幕がいるという噂です。その黒幕の姿は、顔に包帯を巻きつけ、素顔がわからないのです。多分静沢さんや創輝さんの仲間、鎧塚さんなのではないかと思うのです。僕も創輝さんの葬儀の時に、包帯を巻いた男の姿を見たような気がするのです。そうすると、創輝さんの手記がなくなった理由が説明出来るのです」


「あいつか…」


 静沢さんは、遠い目をした。満州時代を振り返っているのだろうか。


「満州で自分を捨てた石井隊長への怨みを募らせていたらしいが、復讐を果たす前に石井隊長は病死した。果たせなかった復讐の刃を、関係ない人間に向けようとしているのか」


 創輝さんが、娘の楓に話し、その楓から賢吾さんがまた聞きした話なので、どこまで正解かはわからないが、満州での話は聞いている。鎧塚は、ソ連兵が迫りくる中、研究所に併設された東郷村と呼ばれる場所に置き去りにされ、日本への引き揚げは大変な苦労をしたらしい。日本に帰って来てみれば、家族は空襲で死亡。残ったものは顔の火傷だけ。それでは、どこかに怨みをぶつけたくなるのも仕方ない。日比谷生命館事件を起こした早乙女も、辛い体験から精神に異常をきたしてしまったと聞く。鎧塚が、世界に復讐しようと考えても不思議ではない。


「鎧塚のことを忘れていたわけではない。彼を捜した時期もあった。東京の使われていない地下空間にいるという情報をつかんで探索してみたのだ。実際に彼がいたと思われる痕跡はあった。しかし、本人の姿はなかった。あれから、もう何十年も過ぎているが、もう一度地下を探索してみよう。彼がいるかもしれない」


 静沢さんは、その後の予定をキャンセルし、アタッシュケースを一つ持ち、外に出るよう促してきた。

 高齢の静沢さん自ら鎧塚捜しに出向いてくれるとは思わなかった。思わぬ展開に驚いたが、静沢さんの後に続いた。

 役員専用エレベーターで地上に降り、受付の女性達に慇懃な態度で送り出された。


「日本も変わった。満州から帰ってきたときは、あたり一面焼け野原だった。それが今では、こんなに高いビルが建ち並んでいる。あの頃からは考えられない。日本は物にあふれ、戦争の記憶も薄らいできた。しかし、経済成長にかげりが見え、人々の心は揺らぎ始めている。こういうときは、何かが起きる。我々がそれを止めなければならない」


 灰になった日本を復興させ、高齢になった今でも日本を守ろうとしている。立派な人だ。頭が下がる。

 話しながら静沢さんは進み、東京駅を越し、銀座の地下街へ入った。平日の日中でも、結構な人通りがある。


「地上から上に向かった発展ばかり目がいくが、下の方も発展しているのだよ」


 静沢さんの言う通り、地下道は長く、多岐に渡っていた。似たような場所が続き、自分がどこにいるのかわからなくなる。

 迷いなく進む静沢さんは、明らかに一般人は立ち入り禁止の場所に歩を進めていく。


「大丈夫なのですか」


 僕の問いかけに、静沢さんは微笑むだけで返してきた。政財界に太い人脈を持つだけあって、全く問題ないようだ。


「地下の発展は最近のものばかりでもない。戦時中に空襲から逃れる為に、日本軍が色々と造ったのだ。東京駅の近くにも地下壕が残っている。頑丈に作り過ぎて壊すことも出来ず、作り直すことも出来ず、そのまま残されている」


 きれいに発展している地上の下に、そんな闇の遺物が残されているのだ。


「他にもある。戦後、地下商店街として造られたものの、完成間近に、消防法が変わって、使えなくなった場所も眠っている。鎧塚は、それらを利用したり、自分で地下を拡張したりしていたようだ。昔は、子供達から、歌舞伎座の怪人と呼ばれていたが、まさしくガストン・ルルーの小説オペラ座の怪人ばりの人生を送っていた」


 僕達は、一枚の頑丈そうな扉の前に到着した。


「この先は、使われていない地下街だ。この扉の先に、鎧塚がいるかもしれない。気を付けよう。薬が作られたとしても、瘧狼病が恐ろしいことに変わりない」


 扉を開け、中に足を踏み入れた。スイッチを入れると、老朽化した蛍光灯の下に、ぼんやりと人気のない地下空間が出現した。よどんだ空気とかびの臭いが、息を詰まらせる。新しい消防法に引っかかるだけあって、通路の幅も狭いし、天井も低い。圧迫感が、更に息を詰まらせた。

 商店街にする予定だったのだろう。通路の脇には、いくつもの区画があり、何かがひそんでいそうな影を作り出していた。

 顔に包帯を巻いた男が飛び出してくるのか、それとも、瘧狼病感染者が襲いかかってくるのか。影の向こうに想像をめぐらし、自分自身で恐怖に拍車をかけた。

 闇に恐怖すると同時に、静沢さんの言葉に疑念を覚えていた。

「薬が作られたとしても、瘧狼病が恐ろしいことに変わりない」。

瘧狼病の薬が出来たことを、静沢さんには教えていない。何故知っている。

 静沢さんが懐に手を入れ、すぐに抜き出した。その手には拳銃が握られ、銃口はこちらを向いていた。


「静沢さん…。革世黎源教の黒幕は、あなたなのですか」


「ようやく気付いたかい。黎源教だけではない。七三一部隊も、日比谷生命館事件も私が動かしていた」


 静沢さんの顔は、悪に染まり醜く歪むということもなく、知的で上品なままだった。自分の行いを悪とは思っていないのだ。


「資源が少ない日本が戦争するには、細菌兵器を研究するしかないのだ。石井を上手く操り、軍部から資金を引き出し、満州に研究所を作った。潤沢な資金と、常時では出来ない実験で、研究はかなりの成果を上げた。しかし、細菌兵器が実戦へ投入されることなく日本は敗戦。私は、貴重な研究成果を責任持って、日本へ持ち帰った」


 七三一部隊を操っていたのもこの人なのか。

 静沢さんは更に口調を加速させる。

「アメリカ軍には、七三一部隊の存在も、やっていたことも知られていた。我々は、戦犯として処刑されることが、ほぼ確定していた。だから、私は賭けに出た。早乙女を使い、瘧狼病をGHQ本部に拡散させたのだ。感染率などを考えれば、他の細菌兵器の方が威力は上かもしれないが、見た目の衝撃は一番あったからな。賭けには勝った。瘧狼病の恐ろしさを目の当りしたGHQの連中は、我々を裁判にかけて細菌兵器の情報を東側諸国に知られるより、内密に終わらせて、細菌兵器を自分達のものにすることを選んだ。早乙女に瘧狼病ウィルスを与え、日比谷生命館に入る手はずを整えたのは私だ。体にくくり付けていた手榴弾なんて、全部模造品だ。爆発なんてするはずがない。早乙女は本当に良くやってくれた。勝手に銀行で予行演習した時は、肝を冷やしたがな」


 静沢は、銃口をこちらに向けたまま、今まで溜まっていたものを吐き出すかのように喋り続けていた。罪悪感を吐き出しているのではない。自分の優秀さをひけらかしているのだ。


「黎源教を作ったのも私だ。昔は、ただの社会主義運動組織だったが、内部抗争の時に、防疫研究所から強奪された瘧狼病ウィルスが使われた。情報をつかんだ私は、抗争の現場となった山奥の村へ駆けつけた。瘧狼病ウィルスが外に漏れたことや、ベトナム戦争帰りの日本人が暴れたことを闇に葬り去り、霧壁悌真が残したと言われる財宝を押収した。そして、その財宝と人脈を駆使して、壊滅しかけた共産主義コミューンを復活させ、宗教団体へと変えさせたのだ。宗教団体を使って、表立っては出来ない研究や、金の処理を行った。教主なんて誰でも良かったが、共産コミューンの生き残りの益貝茂人を御輿に乗せておいた。彼は彼なりに役割を全うしている」


「それでは、瘧狼病ウィルスの薬を盗んだのも…」


 僕の質問に、静沢はアタッシュケースを掲げてみせた。


「この中に入っている。創輝君の葬式で君に出会った時からそのつもりだった。君の大学の先輩を使って、黎源教の研究所に引き入れ、瘧狼病の研究をさせた。君は予想以上の成果を上げ、瘧狼病の薬を作り出してくれた。瘧狼病を蔓延させ、そこで薬を売り出せば、大きな利益を得ることが出来る。創輝君の研究資料の中から、七三一部隊や日比谷生命館事件のことが書かれた手記は抜かせてもらったよ。私の暗躍に気付かれては困るからな」


 金儲けの為に瘧狼病を使おうというのか。


「自作自演で金儲け。良心は痛まないのですか」


「自作自演? 需要を喚起すると言って欲しいな。良心? そんなものは戦争を知らぬ世代のたわ言だよ。世の中に善も悪もない。とにかく戦いには勝たねばならんのだ。我々は、武力戦争に負けた。だから、不平等な条約を結ばされ、アメリカの属国として誇りを捨て去っている。だからこそ、経済戦争には勝たねばならんのだ。汚かろうと、犠牲を出そうとも勝たねばならんのだ。ウィルス拡散の罪は、君に被ってもらう」


 静沢の言葉は、得も言われぬ説得力があった。平和な世界で、紙の中の結果を求めてきた僕とは、土台が違っていた。


「君の妻は、呪われた血筋とか言われているらしいな。創輝君も、賢吾君も、他の男達も、それに振り回されてきた。呪いなんてあるわけがないのに。飢饉の時に、他の村人を殺して食べたから呪われたとか言われているのだろう。そんなこと、戦争中南方戦線ではざらにあった話だ。食料はなくなり、補給路も断たれ、まわりはぐるりと敵軍に囲まれている。草も木も虫も食い尽くした後は、下っ端の兵士に脱走の濡れ衣を着せて銃殺し、その肉を皆で食べるのだ。いちいち人肉食くらいで呪われていられるか」


 今まで行ってきたことに罪悪感などないように、これから僕を殺すことに対しても、躊躇などないだろう。静沢の話が終わった時が、僕の命が終わる時だ。

 助かる方法を考えるが、不可能なことばかり頭の中を駆け巡る。こんな時に限って心臓は痛み、呼吸が苦しい。撃たれる前に死にそうだ。


「鎧塚が地下にいた形跡は本当にあったが、顔に傷を負って、劣悪な環境で暮らしていたのだ。さすがに死んでいるだろう。地下に連れてきたのは、君を人知れず葬り去る策略だよ。それに気付かず、君は知らぬうちに獣の口に入っていた」


 静沢が、引き金にかけた指に力を入れ始めた。


「こっちの台詞だ」


 僕でも静沢でもない声がした。

 いつの間にか、静沢の後ろに人が立っていた。顔には包帯が巻きつけてある。その男は、間髪入れずに静沢の首筋に何かを突き立てた。

 静沢は自分に何が起きたのかもわからないような顔で、膝から崩れ落ち、床に前のめりに倒れた。

 包帯のすき間からのぞく目は、静沢を感情なく見下ろしている。

 床に倒れた静沢の顔から、急激に生気が抜けていった。

 戦中戦後にかけ、陰日向から人々を操り、時代を作ってきた男の、あまりにあっけない最期だった。


「鎧塚…さんですか?」


 僕の問いに、包帯の男がこちらを見た。年齢不詳だが、目の濁り具合は、歳を重ねていそうだ。本人で間違いないだろう。生きていたのだ。問題は、僕の敵なのか味方なのかだ。

 鎧塚は、静沢が落とした拳銃を拾い上げ、腰に差し、次にアタッシュケースを開いた。


「お前は、陰織家の女を娶ったのだろう。とうとう瘧狼病の薬を作ったのか。大した奴だ」


 しわがれた声に敵意は感じない。

 鎧塚は、アタッシュケースに入っていた何冊かのノートを投げてよこしてきた。


「創輝が書いたものだ。読んでみろ」


 静沢が遺品の中から抜き取った、創輝さんの手記だ。

 流し読みしてみたが、引き込まれる内容だった。戦争中の非道な行いも、東郷村での戦いも、困難だった満州からの引き揚げも、日比谷生命館事件も、しっかりと記されていた。そして、助けられなかった希世さんへの想い、すれ違ってしまった楓さんへの想いも。

 静沢は、この手記から自分の暗躍が露見することを恐れていたようだが、この文章から読み取ることは不可能だと思われた。多分、創輝さんは、静沢のことを疑うことなく死んでいった。

 ノートには、何枚かの写真が挟まっていた。家族の写真、戦時中の写真などだ。その中の一枚に、僕が医学の道を志すきっかけになった人物が写っていた。幼少の頃の記憶だし、名前すら忘れていたが、本人に間違いなかった。写真の裏に人物の名前が書いてあった。石井四郎。創輝さんと出会った時、ふと記憶が甦ったのは、そういうことだったのか。

 手記は自分のものにしたかったが、鎧塚が手を差し出してきたので、その手に乗せた。

 代わりにアタッシュケースを渡してくる。中を確認してみると、瘧狼病ウィルスと、その薬が入っていた。


「足りない」


 僕が保管していた数より少ない。もう使ってしまったのか。他の者に渡したのか。瘧狼病の薬の製造法を書かれた資料も僕の手記もない。

 倒れた静沢を調べてみるが、もう死んでいた。無くなったものの行方を訊くことは出来ない。


「お前の戦いは、まだ続くようだな。いや、これからが本番か」


「なくなったウィルスがどこにいったか知りませんか」


「俺は知らんが、手下にウィルスをばらまかせて、特効薬で一儲けを企んでいたのだろう。それを考えれば、おのずと答えは出てくるのではないか」


 革世黎源教の信者を使って、瘧狼病ウィルスを広めようとしているというのか。ウィルスを広めることは、最近教団内で盛り上がりを見せている終末観とも合っている。自分達で、ウィルスを広めて、終末を作り出し、薬を使って選ばれし者になろうとしているのか。

 公安警察と思われる湯脇が、黎源教の陰謀に気付き、阻止してくれることを願った。


「お前が作った薬、効くと良いな。引き揚げのとき、希世さんには世話になった。希世さんの孫、ひ孫が助かるのなら、俺も嬉しい」


 怪物の様な外見と、しわがれた声の割には、人間らしいことを鎧塚は言った。


「鎧塚さんは、これからどうするのですか」


「俺か、俺は復讐もやり遂げたし、後は死ぬだけだ。静沢の死体は、こちらで処理しておく。俺が作った地下空間は、お前にやるよ」


 本来、地下空間は、鎧塚のではなく、国のものだろう。やるよ、と言われても困ってしまう。

 少し待てと言い残し、鎧塚は、闇に消え、すぐにまた姿を現した。そして、無造作に何枚かの紙を渡してきた。

 どうやら地下空間の地図らしい。既存の地下道、地下鉄、地下街、上下水道を利用したり、隠し通路を作って、つなげたりしているのだ。


「これを一人で造ったのですか」


 僕の問いに鎧塚はうなずいた。

 東京銀座周辺の入り組んだ地下の中に、巧みに自分の空間を作り出していた。情熱の方向性を間違えていると言えばそれまでだが、このような地下迷宮を造ったことは、凄いと思った。


「俺は、この中のどこかで死んでいる」


 地下の地図と、創輝さんの手記を持ち、鎧塚は闇に消えた。静沢の死体はそのままだが、どうにかしてくれるのだろう。

 僕は静沢の懐から鍵を拝借し、地上へと向かった。静沢に案内されるままにここまで来たが、鎧塚に地図を見せてもらったので、帰り道はわかる。一応、施錠するところは施錠し、人目につかぬように気を付けながら進んだ。地上の空気を吸い込んだ時、既に日は暮れ、空は暗くなっていた。

 抜き取られた瘧狼病ウィルスの行方が気になるが、まずは家に帰ることにした。

 タクシーに乗り込む前に、公衆電話から陰織家に電話を入れると、初奈が電話に出て、いつもと同じ声を聞かせてくれた。


「どうかした?」


「いや、何でもない。今から帰る」


 受話器を置き、タクシー乗り場に向かった。

 タクシーが出発してからは、物思いに耽っていた。今日起きた出来事が、現実のこととは思えなかった。窓の外は、街の灯りが流れていく。幻覚でも見ている気分になってくる。今更ながらに、静沢の死体をそのままにし、警察に連絡しなかった自分に驚いてもいた。鎧塚のペースに流されてしまった。

 初奈と出会ってから、人生は大きく変わった。そして、ここに来て、現実とは思えぬ程に、流れは激しさを増している。

 胸が痛む。いつもの痛みだ。だが、それ以外にも、違和感がある。これは胸騒ぎというやつだ。胸騒ぎや、虫の知らせなどは、科学的には証明されていない。僕も本来は否定派だが、何か嫌な予感がする。


「運転手さん。急いで下さい」


 そう言うと、街の光が、速度を上げて通り過ぎて行くようになった。

 陰織家が、見えてきた時、信じ難い現実は、まだ続いていることがわかった。

 家の前に、数人の人間が群がっており、その中の一人が、賢吾さんが雇った警備の人間を、棒で殴り倒した。

 タクシーの運転手が、「何だありゃ」と声を上げて、強くブレーキをかけた。

 僕は財布ごと運転手に放り投げ、ドアを開け、外に飛び出した。

 静沢や鎧塚との一件がなければ、思考停止していたかもしれないが、非常事態に足を踏み入れていることは先刻承知だ。教団の手先が、襲撃してきたのだ。

 襲撃者の一人は、ドアにとりついたが、鍵がかかっていることがわかると、家の横に回り、躊躇せずに窓を割った。警報音があたりに鳴り渡る。そんなこと構わずに、襲撃者は窓から家に入ろうとした。

 僕は全速力で走り寄って、手に持っていたアタッシュケースで殴ろうとしたが、中に入っている薬を思い出し、玄関脇に置かれた植木鉢に持ち替え、襲撃者の頭を後ろから叩いた。鉢植えは、一撃で砕けた。

 襲撃者は後ろ向きに倒れた。気絶しているその顔を確認してみる。瘧狼病感染者ではない。

 家の逆側のガラスが破られる音がした。侵入される。


「初奈。逃げろ!」


 大声で叫んだ。

 家の中から悲鳴と怒声が聞こえてきた。警報音は鳴り続けている。周辺の家々も非常事態に気付いて騒然とし始めた。

 割れた窓から家の中に入った。

 既に息が切れて胸が焼け付くようだ。武器で攻撃したのに、自分の手が痺れている。体の弱さが憎い。

 階上から、初奈と香沙音の声が聞こえた。二階へ逃げたようだ。それを追う襲撃者の足音も聞こえる。

 階段へ向かうと、二階へ上ろうとする襲撃者の背中が見えた。

 廊下に置かれていた椅子で、容赦なく後頭部を殴りつけた。襲撃者は階段に突っ伏して倒れた。倒れてもまだ離さぬ右手のナイフを見て、更に数回殴った。そして、倒れた男を踏み越えて進み、二階へと上がった。

 胸が痛み、足元がふらつく。視界がぼやけた。

 二階へ上ると、廊下で賢吾さんとナイフを持った男が格闘していた。

 すかさず加勢するが、体が思うように動いてくれない。椅子での力ない一撃では、相手をぐらつかせるのがやっとだ。

 僕の弱々しい攻撃で隙が出た襲撃者に、賢吾さんが一撃を加え、廊下に大の字にさせた。

 倒れた相手に二人がかりで数度攻撃を加え、階段から転げ落とした。

 二階の賊は倒したようだが、下の階でまだ人が動く音がする。一人ではない。三人以上いるようだ。


「肇君。大丈夫か?」


「なんとか無事です」


 そう返事をして賢吾さんの方を見ると、賢吾さんの体は血だらけだった。返り血ではない。切られたのだ。手の切り傷が多いが、胸も刺されている。致命傷ではないが、血はかなり流れていた。顔も失血で白くなり始めている。

 二階の寝室のドアが開き、初奈が顔を出した。


「肇」


 半泣きの初奈が抱きついてきた。


「香沙音は無事か?」


 部屋から泣いて顔をぐちゃぐちゃにした香沙音が飛び出してきて、しがみついてきた。

 二人共無事で、体の底から嬉しさがわき上がってきた。だが、喜びを噛み締めている暇はない。襲撃者は近付いてきている。そして、賢吾さんの出血は更にひどくなっていた。


「お義父さん。治療している余裕はなさそうです。なるべく動かないようにして下さい」


 そして、初奈と香沙音を見た。


「部屋の内側から、ドアを開かないようにして閉じこもっていろ。絶対に出るな」


「肇は?」


「俺が食い止める」


 初奈、香沙音、賢吾さんを部屋に押し込み、ドアを閉めた。

 家の外は騒然としているが、危険を冒してまで助けにきてくれる隣人はいないだろう。

 パトカーのサイレンは聞こえないし、警備会社の応援が駆け付けるまでも時間がある。助けがくるまで、僕が一人でこの場所を死守せねばならない。

 階段を上ってくる音がする。三人はいそうだ。凶器も持っているだろう。僕が勝利出来るはずもない。だが、助けが到着するまで、時間を稼がねばならない。

 僕の弱い体は悲鳴を上げている。強力な武器を持っているわけでもない。

 ここで死ぬのか。

 妻と子を助ける為に自己を犠牲にする。美談として語られそうだが、単に遺伝子を残そうとする、生物学的には珍しくもない行動だ。

 階段を上り切った襲撃者が、姿を見せた。話し合いは不可能な殺意に満ちた目をしており、手には刃物が握られていた。その後ろに控えた仲間の姿も見える。

 僕は先程倒した襲撃者が持っていたナイフを構えた。

 目の前の敵は、筋骨隆々としており、ひ弱な僕とは、対照的な体をしていた。暴力が支配するこの場所この時間においては、明らかに彼の方が優秀だ。学問が出来ることなど、何の役にも立ちはしない。僕はとてもちっぽけな存在だ。それでも、粘らせてもらう。

 手に握り締めた凶器に殺意を込め、目の前の敵が攻撃しようとにじり寄ってきた。

 ありったけの虚勢を張って、応戦しようとした。

 すると、目の前の男が、音も無く崩れ落ちた。後ろに控えていた男まで、いつの間にか倒れている。

 そして、代わりに別の男が一人立っていた。どうやら、この初老の男性が襲撃者を倒したようだが、どうやって倒したのかは、僕にはわからなかった。警察でも警備会社の人間でもなさそうだ。

 遠くからパトカーのサイレンが近付いてくるのが聞こえてきた。

 初老の男性は、初奈達がいる部屋を一瞥し、音も立てずに踵を返し、この場から去ろうとした。


「あ、ありがとうございます」


 かすれる声を絞り出すと、初老の男性は横目で一瞬こちらを見たが、無言のまま去っていった。

 初奈と香沙音は、全く無事だった。

 香沙音が胸に飛び込んできて、泣きじゃくった。何か言おうとしているが、言葉にならない。

 温かく柔らかい。自分の遺伝子を乗せた者が生きているというだけで、何故こんなに嬉しくなるのだろう。

 襲撃者達は、警察に逮捕され、連れて行かれた。

 賢吾さんは怪我の状態が酷く、救急車で運ばれることになった。

 救急車に乗せられる前の賢吾さんに、襲撃者を退治して、僕らを助けてくれた男の様相を伝えると、


「永劫…」


賢吾さんは、そうつぶやいた。

 そんな気がしていた。

 玄関先に放り出したアタッシュケースが、そのままになっていた。中身も破損していない。胸をなで下ろした。

 僕は、初奈と香沙音を連れて、実家の不破家に避難した。

 襲撃の次の日、刑事が話を訊きに訪ねてきた。

 スーツを着た刑事は、串崎くしざきと名乗った。一目では優しいのか、恐ろしいのかわからない、とらえどころのない印象の男だった。

 警察内部にも、教団の回し者がいるという湯脇の言葉を思い出した。

 腹を見せるか迷ったが、瘧狼病ウィルスを持ち去られた今、探り合いをしている時間はない。正直に全て話すことにした。

 串崎は、話に耳を傾けてくれたものの、すぐに捜査に乗り出す素振りは見せなかった。陰織家を襲撃した犯人達と、革世黎源教のつながりが確認出来ないのだそうだ。ウィルス研究も、正式な許可をとって行っているし、ウィルスの盗難届けも出されていない。証拠もないのに、不当な宗教弾圧は出来ないとのことだった。

 公安警察と思われる湯脇と会ったことにも触れてみたが、その存在すら把握していないようだった。同じ警察内部でも機密の仕事に就いていたら、他の者にはわからなくて当然だ。湯脇という名前だって、多分偽名だろう。

 静沢良一と鎧塚の件に関しては、僕の夢物語を聞くような表情で話を聞いていた。串崎は、僕がいる前で静沢製薬に問い合わせたが、会長は出張中で会えないという返事が返ってきたそうだ。東京駅の地下については、折を見て調べるとのことだった。

 僕の焦りとは裏腹に、警察の態度は煮え切らないものだった。

 ここで動いてくれないと、大変なことになってしまう。どうにかことの重大さを伝えようとするが、警察の態度は変わらない。

 それでも、初奈と香沙音が避難している不破家にも、入院している賢吾さんにも護衛をつけてくれると約束してくれた。そして、革世黎源教やその関連施設に対しても調査を進めることも約束してくれた。しかし、僕が求めている熱量は、そこになかった。

 不破家に住み家を移し、周囲に護衛の者がいてくれたが、心休まらぬ日々が続いた。

 慣れない環境、襲撃者への恐怖、そんな生活の中でも、初奈は笑顔を忘れなかった。

 初奈は、情緒不安定になりがちな香沙音を、上手くサポートし、変わらぬ生活が送れるようにしていた。

 父も母も良くしてくれた。危機を前にして、我々の団結は強まっていた。

 香沙音が寝付いた後、初奈が静かに問いかけてきた。


「あのアタッシュケースの中身は何なの?」


 初奈は勘付いていた。


「瘧狼病ウィルスの薬だ」


「完成してたんだ」


「動物実験の段階では、症状をおさえることに成功している」


「人間には効くの?」


「効くはずだ」


「私には?」


 答えられなかった。

 瘧狼病と、陰織家の女達の病気は良く似ている。しかし、同じ病気なのかは、まだ不明なのだ。


「私に使ってみて」


 初奈の発症の時は迫っている。使うなら今しかないのだ。

 保冷庫に移していた瘧狼病の薬を取り出し、注射器で吸い上げた。

 一つ呼吸してから、初奈の腕に針を刺す。薬が初奈に吸い込まれていった。

 針を抜いた後、僕らは黙って見つめ合っていた。長い間見つめ合っていた。

 静寂を破ったのは、初奈の声だった。


「せっかく薬作ってくれたのに、効かなくてごめんね。始まったみたい。いや、終わったみたい、かな」


 目が赤く染まり始めていたのは、涙のせいではなかった。病気が発症したのだ。瘧狼病と陰織家の女に伝わる病気は、別物だった。僕の努力は、全くの無駄だったのだ。

 理性が消え去っていく中、初奈は必死に言葉を紡いだ。


「もう…、終わりね…。肇と香沙音に…会えて…良かった…」


 初奈の名を何度も呼んだ。僕の呼びかけは、辛うじて届いているようだ。


「肇は…とても人間らしくなった…。だから、肇が心配。愛情は、人を強くもするし…、弱くもする…」


 初奈の肌が青白くなり、血管が浮き出していく。


「初奈。ここで終わりじゃない。死んだら生まれ変わって、もう一度会おう。生まれ変わって、香沙音と三人で、幸せに暮らすんだ」


 死後の世界とか、生まれ変わりとか、そんなもの信じていなかった。そんなことを言う人間を馬鹿にしていた。でも、愛する者が先に旅立とうとしている時、もう一度会いたいと願って何が悪い。科学とか、合理とか、常識とか、今はそういうことではない。そんなものどうでも良い。死後の世界を、来世を信じたいのだ。

 美しかった初奈の面影は、もう消え失せようとしている。そんな形相でも、初奈は無理に笑顔をつくった。


「肇らしくないね。でも…、十二億年待ったかいがあったよ…」


 それが、初奈の最後の言葉となった。

 初奈という存在は、家族を構成する上で、なくてはならぬものだった。初奈の発症は、なくてはならぬものが、消失することを意味していた。

 外からの敵襲に怯え、様変わりし暴れる初奈を介護し、香沙音の世話をする。人の助けを借りていても、初奈と共に死のうかと何度も思う程苛酷だった。それでも、香沙音のことを思えば、今ではなく、先を見ねばならない。

 初奈は苦しみ抜いて死んだ。

 虚脱感で立っているのも辛かったが、香沙音の治療の為、初奈を解剖し、データを残すことにした。遺体を冷凍保存することも考えたが、黎源教の施設も、静沢良一の口利きもない今は、不可能だとして諦めた。本音を言えば、姿が変わってしまった初奈の遺体を、残しておきたくなかった。

 初奈の遺体の検分が終わった。残されたデータから、新たな発見は得られていない。悲しみからさめて、冷静な目で見ることが出来るようになったら、また違うものが見えてくるかもしれない。

 保存出来る部分は保存し、初奈の体を火葬した。

 葬儀の慌ただしさ、初奈を失った喪失感も、香沙音の悲しみを癒すことも、何も解決できていないのに、事件は続いた。

 警察官が、警察官を射殺するという事件が起きた。被害者串崎刑事のことは知っていた。陰織家が襲われた後、僕を事情聴取した刑事だ。

 犯行の動機は、日常的に叱責罵倒されていたからと発表されていたが、僕の頭には、湯脇の言葉が浮かんでいた。


「警察内部にも信者はいる」。


 警察内部での射殺事件は、センセーショナルに取り上げられたが、その後に更なる大事件が起きると、隅に追いやられた。

 関西で大地震が起きた。

 テレビはその惨状を生々しく映し出し続ける。家は潰れ、火事は広がり、高速道路は倒壊していた。

 地球が少し身震いしただけで、人はこんなにも儚く弾け飛んでしまう。

 本当に世界の終わりが、近付いてきているような気がしてきた。

 それでも僕は気丈に振る舞った。気丈に振る舞うこと自体が僕らしくない行動なのだが、初奈亡き後に香沙音を育てていくには、らしくないこともしなくてはいけない。

 そんな日常と非日常が混ざり合った中、一本の電話があった。湯脇からだった。


「良くここの電話番号わかりましたね」


「そんなのすぐわかる。そんなことより、警官が警官に殺された事件は知っているか?」


 串崎刑事が、後輩の警察官に射殺されたというニュースを、テレビで観たことと、陰織家を襲撃された後、僕の取り調べをした刑事だということを伝えた。


「そうだそれだ。殺された串崎は、黎源教捜査の中心的な存在だった」


 そうだったのか。


「僕を取り調べした時は、黎源教の捜査には乗り気ではない感じだったけど…」


「どこの馬の骨かわからん奴に、手の内見せるか」


「馬の骨くらい丈夫な骨が欲しいですよ」


「とにかく串崎は、証拠を集めて、黎源教強制捜査一歩手前まで駒を進めていた。それなのに、警察内部に食い込んでいる信者に殺されちまった。その上、関西での大地震だ。黎源教の奴らがとんでもないことをしでかそうとしているのに、警察は動くに動けねえ」


「とんでもないことって一体…」


「お前が開発したウィルスを、満員電車にばらまくつもりのようだ」


 瘧狼病ウィルスを満員電車にばらまく。逃げ場のない状態で、次々と感染が広まっていく様は、想像するだけで恐ろしい。


「満員電車って、どこの路線ですか?」


「地下鉄という情報はつかんだが、どこの路線のどの駅かはわからん。お前が何か知っているのか訊きたくて電話したのだ。何も知らねえのか。くそっ!」


 湯脇の悪態を聞きながら、鎧塚に見せられた地下空間の地図を思い描いていた。旧日本軍が、本土決戦を見据えて造った地下壕らしきものが描かれていた。東京駅にしろ大手町駅にしろ、瘧狼病をばら撒くには適した場所だ。

 静沢も会話の中で旧日本軍の地下壕について触れていた。手下も当然知っているだろう。

 僕はそのことを電話口で話したが、湯脇は半信半疑のようだ。


「静沢製薬の静沢良一が黎源教の黒幕で、旧日本軍時代の後輩が静沢を殺して、ついでに地下通路まで造っていたって? いつもだったら、電話切って、そっちに走って行って、目を覚ます為にぶん殴ってやるところだが、今はその情報に賭けるしかねえな。俺は東京駅に向かう。お前も来い!」


 返事もしないうちに荒々しく電話は切られた。

 警察は瘧狼病の恐ろしさを知らない。しかも、悪い事態が重なって動けない。僕が行かねばならない。湯脇だけに任せることは出来ない。なけなしの力を振り絞らねばならない。

 受話器を置いて居間へ入った。

 父と母と香沙音が、こちらに目を向けた。電話の内容は聞こえないはずだが、何かを察した目をしていた。


「父さん、母さん、行ってくるよ」


 母は取り乱すことなく、静かに言い返してきた。


「警察には頼めないの?」


「残念ながら、自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならないみたいだ。香沙音を頼みます」


 香沙音は、状況を理解出来ずとも異様な空気を感じ取り、不安気に僕の服をつかんできた。

 初奈が壮絶な姿で死んでから、幾日も経っていない。今の香沙音には、僕が必要だ。だが、今行かねば大きな被害が出てしまう。もう戻ってこられないかもしれないが、行かねばならない。


「お父さん行かないで…」


 今にも泣きだしそうな声で香沙音が言った。

 香沙音は、生物として未成熟で、また親の庇護が必要だ。生き延びる為の本能が、僕と離れることを拒んでいる。

 僕の心が締め付けられるのは、遺伝子を残そうとする脳の働きだ。冷静に分析すれば、ただそれだけのはずなのに、香沙音の手を引きはがすことが出来ない。


「肇。行きなさい。香沙音のことは、私達にまかせて」


 母が力強い顔をしていた。

 体が弱く、いつも助けられていて、離れたくとも離れられなかった。ここにきて、まだ世話になろうとしている。自分が情けなかった。


「何変な顔をしているの。私達は家族でしょう」


 いつも身近にあり過ぎて、あるのが当たり前になっていた。家族か。


「産んでくれて、育ててくれて、ありがとう」


 自然と感謝の言葉がこぼれ落ちた。


「強い体に産んでやれなくてごめんね」


 僕の体が弱いことを一番気にかけていたのは母だった。香沙音が生まれてきて、その気持ちが良くわかる。


「それに、私は産んだだけね。本当にあなたを人間にしてくれたのは、初奈さんと香沙音ね。それなのに、結婚に反対したりして…。最初から祝ってあげれば良かったわね」


 母の目が潤んでいた。


「あなたが生まれた時、三歳まで生きられないだろうと言われた。だから、三歳まで生き延びた時は、嬉しくて嬉しくて…。それはもう盛大にお祝いしたわ。仕事人間のお父さんが涙流すくらい喜んで…」


 父の顔を見てみる。表情を変えてはいないが、嘘ではなさそうだ。父の泣いた姿など、一度も見た記憶がなかった。思い返してみると、僕の誕生会は、毎年盛大に行われていた。親の気持ちがこもっていたのだ。


「三歳を過ぎても、成人式は迎えられないと言われていた。私達にとって、三歳以降のあなたの人生は、余生みたいなもののはずだった。ただ、一日でも長く生きてくれれば、それで良かったはずだった。小学校、中学校、高校、期待以上に育ってくれた。凄い成績で、誇らしかった。いつしかあなたに必要以上の期待を寄せてしまった。本当は、三歳まで生きてくれただけでも充分だったはずなのに。とっくに恩返しはしてくれたはずなのに…」



 母は、涙を堪えながら話していた。

 弱い体に産んだ親を恨んだこともあった。愛情が重くて息苦しいのに、離れたら生きられないもどかしさもあった。しかし、初奈と出会い生きる喜びを知り、香沙音が産まれ、子供への愛情、育児の苦労を知ると、親への感謝と尊敬の念が沸いてきた。


「母さん。生まれてきて良かった。ありがとう」


 母の目から涙がこぼれた。

 母の肩に手を乗せた。昔は背負われて病院へ行った肩は、細くなっていた。


「生まれてきてくれてありがとう。あなたは生きていることが奇跡。その上、こんなに可愛い孫の顔まで見せてくれて…。後は私達にまかせて、あなたの余生を思い切り生きてきなさい」


 言葉を出すと泣きそうなので、ただうなずいた。

 母の言葉が終わると、あまり口を開かない父が、はっきりとした口調で言った。


「肇。良い顔になったな」


 父の顔をまじまじと見つめるのはいつ以来だろう。言いたいことはあるが、時間はない。しっかりと目をみつめ返し、うなずいた。


「お父さん。お父さん」


 香沙音の目から、涙があふれていた。

 膝を折って、身を低くし、香沙音を抱きしめた。

 ホルモンの分泌がどうの、遺伝子がどうの、そういう味気ない無意味な分析はやめよう。素直に自分の気持ちを伝えれば良いのだ。


「お父さんは、香沙音のことが大好きだ」


 香沙音も強くしがみついてきた。

 しゃくりあげながらだったので聞き取り辛かったが、


「わたしも、お父さん大好き」


という香沙音の言葉が、僕の弱々しい胸を包み込んだ。

 昔は、他人に対してこんな感情を抱かなかった。初奈に出会ってから、僕は変わっていった。香沙音が生まれてきて、更に変わった。本当に機能不全を起こしていたのは、心臓よりも更に深いところだった。父や母が言う通り、二人が、僕を人間にしてくれたのだ。出会えて良かった。この出会いは特別なものの様な気がする。言うなれば、運命だ。十二億年前から決められていた運命だ。


「おじいちゃんとおばあちゃんの言うことを良く聞いて、お利口に待っているのだぞ。絶対に帰ってくるから」


 僕はゆっくり優しく香沙音をひき離し、瘧狼病の拡散を抑えるべく、家を出た。

 タクシーを捕まえ、東京駅に向かうように頼んだ。

 道路は渋滞していない。多分このままタクシーに乗っているのが一番早く東京駅に着く。

 窓の外に、地下鉄の入り口を見かける度、瘧狼病感染者が、惨劇を繰り広げている想像をしてしまう。今にも感染者が地上にあふれ出すのではないかと。

 静沢が持っていた鍵は、ポケットに入っている。これで地下全ての扉が開けば良いが。

 一度地図を見て、大まかには把握しているが、鎧塚にもう一度会いたい。東京の地下は庭だと言う男だ。目当ての場所を教えてくれるだろう。

 湯脇は、東京駅の地下に到着しているだろうか。教団の者を見つけ出し、既に解決してくれていることを願った。

 考えを巡らせているうちに、タクシーは東京駅の八重洲口に着いた。人も少なく落ち着いている。瘧狼病感染者が暴れて大混乱なんてことはなかった。

 タクシーから降りて、地下を目指す。

 湯脇とばったり出会えるのではないかと、淡い期待をしていたが、すれ違う人々の中に、湯脇の姿はない。

 僕はまず、鎧塚を捜す為、建設途中で使われなくなった商店街を目指した。鎧塚なら地下空間にも詳しいし、静沢から奪った銃も持っている。仲間になってくれるのであれば、強力な戦力になってくれるはずだ。

 うろ覚えの経路だったが、迷わずに目的地まで来られた。

 一度も使われることなく終わってしまった商店街で、鎧塚の姿を捜した。

 いない。気配すらない。かび、埃、下水の臭いに混ざって、腐敗臭がする気もするが、どこから臭ってくるかはわからない。

 静沢の死体が消えているのだから、あの後も鎧塚は活動していたはずだが、姿を見せてくれない。

 鎧塚の名を大声で呼んだ。ただ、誰もいない地下空間に、僕の声がこだましただけだった。

 鎧塚の助けを借りることは出来ないようだ。

 頭を切り替えて、次の行動に移ることにした。

 鎧塚に見せてもらった地図を頭に思い描く。僕の優れた記憶力ならば、かなり正確な図を頭の中に構築出来ているはずだ。ただ、その頭の中の図を目の前の現実にすり合わせ、目的地にたどり着く能力は、それ程発達していない。目的地にたどり着けるか、一抹の不安がよぎる。

 銀座の地下から一度地上に出て東京駅方面を目指す。関西で地震が起きようと、凶悪なウィルスが撒かれる寸前だろうと、街は華やいでいる。にこやかで無関心な人の群れをかき分け、痛む胸をおさえながら、僕は走った。

 もう一度地下へ降り、記憶の糸をたぐり寄せながら進んだ。いつもの倍以上も圧迫感を感じる地下道を進み、目的の場所へ着いた。人の目を気にしながら、配管配線室へ入る。扉に鍵がかかっていたが、静沢の鍵で難なく開いた。

 扉の中に入り、照明を点けた。コンクリートむき出しの壁に、パイプや線が張り巡らされている。ここで瘧狼病感染者に出くわしても、逃げ場はない。否応なしに、緊張感が高まった。

 しばらく進んでから足を止め、壁を調べた。旧日本軍が造った地下壕に通じる抜け道は、このあたりにあるはずだ。

 懐からペンライトを取り出し、入念に調べてみると、配管のすき間から、壁に筋が入っているのが見えた。

 配管をよけて近付き筋に指を入れると、コンクリートの壁の一部が外れた。ここが抜け道だ。

 鎧塚が造った抜け道は、身を屈めてようやく通れる程の広さだったが、かなり長く、崩れないように補強もされていて、一人で造ったのなら、感嘆に値するものだった。

 身を屈めたまま、ペンライトの明かりを頼りに進む。胸が痛くなり、歩く速度が落ちた。

 自分の呼吸音がこだまし、自分以外にも人間が存在しているように錯覚してしまう。ペンライトの光が、赤く血走った眼を照らし出さないことを願った。

 行き止まりも、入り口と同じく隠し扉になっていた。開けて外に出ると、コンクリートで固められた広めの通路が現れた。

 通路に出て、隠し扉を閉め、抜け道を隠した。

 通路の奥に、重厚な金属製の扉が鎮座していた。あの先が、旧日本軍が建造した地下壕だ。

 ゆっくり静かに、地下壕の扉へと向かった。中に人がいるのがわかる。多分瘧狼病患者も。

 鎧塚や、湯脇と合流すること前提で来てしまった。策はない。武器は隠し持っているナイフ一本。そして、瘧狼病の薬だけだ。

 進んでも逃げても、結果はそう変わらないかもしれない。それでも僕は、扉を開けた。


「おお、来たかね。不破肇君。変革の刃を作りし者」


 革世黎源教教主螺内空偉が両手を広げ、部屋の中央に立っていた。


「虚弱体質なのに、良くここまでたどりついたな」


「スぺランカーは、洞窟探険が得意なんだ」


 反応はない。誰もわからなかったようだ。

 コンクリートむき出しの殺風景な部屋は、それなりの広さがあった。そこに教主とその側近達が立っている。そして、椅子に手足を縛り付けられ、さるぐつわを噛まされた瘧狼病感染者が二人。そのうち一人は湯脇だ。


「警察の犬が紛れ込んでいたから、ウィルスを使っておいたぞ。犬らしく噛みつき、終末を開始する役割を担うのだ」


 湯脇の目は血走り、肌には血管が浮いている。完全に発症してしまっていた。もう薬を使っても治せない。

 もう一人の感染者は、教団の信者のようだ。終末を作り出す為、立候補したのだろうか。

 二人の感染者はもがいているが、拘束されているので動くことは出来ない。さるぐつわのすき間からは、よだれとうめき声が漏れていた。この口に噛まれたら、僕もこうなるのだ。

 螺内空偉が従える信者の中には、消えた研究所所長もいた。最後に会った時と同じく、感情のこもらない目でこちらを見ている。

 信者に囲まれ、自信に満ちた表情で螺内空偉が口を開いた。


「不破。君の妻は死んだのだろう。開発した薬は効かなかったようだな。陰織家の女は、別の病気なのか、それとも、本当に呪いなのか…。とにかく、君にとっては、大きな悲しみだ。そうだろう? だが、これから始まる変革の前には、その悲しみも小さな点に過ぎなくなる。次へ進もう。君は既に大きな役を割り当てられている。妻を助ける為に瘧狼病の研究をしたのではない。瘧狼病の研究をする為にあの女に出会ったのだ。共に終末を越え、新しき世界に生きよう」


 静沢良一に操られていただけの俗物教主のはずだが、地位が人をつくるのか、吐く言葉は、謎の説得力を持っていた。義父の賢吾さんが語る益貝茂人像とは、明らかに違っている。


「君は神の言葉を託された者を救った。次の世界の扉を開ける運命なのだ」


 神の言葉を託された者? 火山ガスを吸い込んで倒れた九番目の息子のことを言っているのか。僕はただ息子の横にいただけだ。助けてはいない。そう言えば、あの頃から急速に教団は変な方に動き出した気がする。


「それとも、古い世界にしがみつこうとするかな」


 螺内空偉は、懐から拳銃を取り出した。他の信者も持っていることだろう。


「君には、瘧狼病の薬の生産を担当してもらう。その薬を使って、次の世界へ行くものを選ぶのだ」

 

選民する気なのだ。

 静沢が死んだことを知っているのだろうか。とにかく、行方不明なのはわかっているだろう。静沢というたがが外れて、暴走しているのだ。自分自身の言葉に酔い、それを否定する人もいない。暴走は止まらない。

 ここで、今までの世界を存続させても、初奈が戻ってくることはなく、香沙音の病気が治ることもない。螺内空偉の言う選ばれし者になろうと思わないが、瘧狼病を広めれば、手を差し伸べてくれなかった者共に、同じ苦しみを与えることが出来る。


「次の世界に行く気はないけど、この無慈悲な世界に復讐はしたい」


 僕はゆっくり動き出した。

 螺内空偉と信者達は、動き出した僕に警戒の色を見せたが、僕は構わず感染して変わり果てた湯脇のもとへ進んだ。

 理性をなくしてもがく湯脇をみつめる。人間の感染者を見るのは初めてだった。初奈の症状に似ている。だが、別物なのだ。完全に発症してしまった後では、薬でも治せない。もう湯脇は元に戻らない。


「堕落した人間は、こんな浅ましい姿となり、お互いを食らいあう」


 気を許したのか、信者達が、そんなことを言いながら近付いてきた。


「この汚れきった世界を変革しよう」


 僕は何も答えずに、隠し持っていたナイフを懐から取り出し、湯脇の頸動脈を切り裂いた。

 さるぐつわの中で、湯脇はくぐもった叫び声を上げ、首から鮮血をほとばしらせた。

 血は近付いてきた信者達にかかり、悲鳴が上がった。


「これでお前らにもうつった。早く薬をうたないとこうなるぞ」


 実際は血液感染しない。だが、瘧狼病のことを正確に把握してない者は、動揺するはずだ。

 予想通り、信者達は大慌てで血がついた部分を振り払っている。

 信者の一人が、怒りの形相で拳銃を抜いた。

 僕は、湯脇の陰に身を隠しながら叫ぶ。


「撃つな! お前らが持っている薬では、全員には行き渡らない。僕を撃てば、誰かがこの姿になるぞ!」


 拳銃を構えた男が躊躇した。

 僕は、その隙に湯脇の手足を縛っている縄を切り、最後にさるぐつわを切断した。そして、信者達の方へ突き飛ばす。

 血塗れの湯脇は、かすれた雄叫びを上げながら、信者の一人に襲いかかり、首元に噛みついた。今度は本当に感染する。しかも、噛みつかれた場所が脳に近い。発症するまでの時間が短い。

 噛みつかれた信者は、必死に湯脇を振りほどいた。離れた湯脇に、別の信者が銃弾を叩きこむ。湯脇は唸り声を上げて倒れた。

 首を噛まれた信者が、傷を手でおさえながら叫んだ。


「噛まれた。薬を、薬をくれ!」


 それを見て、先程まで落ち着き払っていた螺内空偉も、信者達も、慌てふためき始めた。

 僕は、もう一人の感染者のもとへ駆け寄り、こちらも緊縛を解き、信者達へけしかけた。

 螺内空偉が、僕の行動に気付き、何かを怒鳴りながら拳銃をこちらに向けた。

 慌てて身を伏せた。

 銃声が何発か響き、その内一発が、今解き放った感染者の肩を砕く。感染者は、苦痛の悲鳴を上げ動きを止めたが、片手を力なくぶら下げたまま、再び信者達に向かって行った。

 螺内空偉に向かって行く感染者を、信者の一人が体当たりをして止めようとしたが、逆に噛みつかれた。

 地下壕の中は、混乱の極みにあった。血と怒声と弾丸が飛び交い、誰が敵で、誰が味方か、わからなくなっていた。

 こんな状況で、研究所の所長は、棒立ちでぶつぶつとつぶやいている。「終わりが始まった」とか言っているようだ。完全に壊れたのだ。


「くずりをよこぜぇ」


 僕に向かってきた男は、噛まれたのか、ただ血を浴びただけなのかわからない。どちらにしろ薬を渡す気はない。

 ナイフでは噛まれる恐れがある。感染者が縛り付けられていた椅子を拾い上げ、思い切り殴りつけた。

 男は一撃で倒れた。倒れた男を何度も殴る。

 顔を上げると、信者達が薬を求めて、螺内空偉に詰め寄っていた。次の世界へ行くつもりが、忘れ去られた地下壕で終わっては、たまったものではない。だが、その姿は浅ましい。

 そんな信者達に、螺内空偉は容赦なく発砲した。

 断末魔の声を上げて、次々と信者達が倒れていく。詰め寄る信者達が、全員倒れたところで、拳銃の弾が切れた。

 既に、地下壕の中で立っているのは、僕と螺内空偉だけだった。

 椅子を投げ捨て、ナイフを握り締めた。やるなら今しかない。

 人が累々と重なる壕の中を、螺内空偉目がけて走った。

 ナイフを持って駆けてくる僕を見て、螺内空偉は、空になった弾倉を抜き取り、新しい弾倉を装填しようとした。しかし、焦って手こずっている。

 胸の痛みは感じない。でも、体の動きは遅い。こんなに短い距離なのに、進んでも進んでもまだ届かない。拳銃に弾倉が装填されたら、僕は死に、瘧狼病は世界に放たれる。

 ゆっくりと長く感じられた時間と距離も、終わりを告げ、僕は螺内空偉の前に差しかかっていた。弾倉は今まさに装填されるところだ。

 ナイフを螺内空偉の腹に突き立てた。医者故に、人体に刃物を入れるのは初めてではない。人の死に立ち会うのも初めてではない。しかし、人を殺すのは初めてだった。

 すぐ目の前にある螺内空偉の目が、大きく開かれた。何か喋ろうとしているようだが、言葉が出てこない。

 その時、すぐ近くで乾いた炸裂音がした。同時に胴体に焼け付く痛みが走る。あまりの激痛に呼吸が止まり、体を動かすことも出来ない。

 僕の時間は止まっていたが、まわりは動いていた。目の前の螺内空偉が沈んでいった。

 ようやく動いた首を下に向けると、ひざまずく螺内空偉と、血で赤く染まる自分の腹が見えた。

 撃たれたのだ。

 どうにか一回呼吸し、手に持った血に塗れたナイフを、螺内空偉の首に刺した。

 ナイフを引き抜くと、傷口から血をほとばしらせながら、螺内空偉は床に倒れた。

 瘧狼病の拡散は防げた。だが、今は達成感よりも、激しい痛みと死の恐怖でいっぱいだ。

 傷口に手を当てるが、血は次々とあふれ出してくる。

 少しずつ前に進んだ。香沙音が待っている。生きて帰らねばならない。

 ぼやける視界の中で、何か動いた。

 目は充血し、白い肌に血管が浮き出ている。口元からは、よだれと唸り声を出していた。瘧狼病感染者だ。一人生き残っていたのだ。

 雄叫びを上げて僕に襲いかかってきた。

 激痛を堪えて方向転換し、螺内空偉が落とした拳銃のもとへ走った。後ろから迫りくる音が聞こえてくる。

 血に足をとられ、頭から滑り込む形で拳銃を手に取った。

 拳銃を握ると同時に、感染者に足をつかまれた。慌てて足をばたつかせるが、ふくらはぎに鋭い痛みが走り、全身に悪寒が広がった。

 何とか振り返り、足にしがみつく感染者の頭に目がけて銃弾を撃ち込んだ。

 頭に穴が開いた感染者は、僕の足にしがみついたまま動きを止めた。

 僕は体をくねらせて、感染者の腕から逃れ、噛まれた傷を確認した。ふくらはぎの肉が噛みちぎられており、血が流れ出ていた。

 瘧狼病ウィルスに感染した。

 懐に手を入れ、強化ガラスのバイアルに入った瘧狼病の薬を取り出した。注射器に移し、服をはだけさせ、胸に向かって注射した。

 体が熱を帯びてくる。薬が行き渡っているのだ。

 腹の銃創からは、とめどなく血が流れている。このままでは死ぬ。しかし、薬が人間に効かなかった場合、僕が外に出たら、瘧狼病が広まってしまう。ここにいれば、発症しても、鉄の扉に阻まれ、外に出ることはないだろう。

 僕は、はいつくばって移動し、螺内空偉のそばにあった鞄を開けた。予想通り、薬の製造方法の資料、僕の手記が入っていた。

 壁に寄りかかり、ペンを手に持った。薬の経過を見る間、手記の続きを書くことにした。手に力が入らない。それでも書く。

 痛みと失血で気を失った。目を覚まして、夢でも見ていた気になったが、体の激痛と地下壕に広がる死体の山が、現実だと教えてくれる。

 腕時計を見た。無限とも思える時が過ぎたように感じたが、実際にはそれ程時は経過していない。噛まれたのは足だから、ウィルスが脳に到達し、症状が出るには時間がかかる。薬が効いたのかは、まだ判断しかねる。

 手記の続きを書く。生きてこれを読み返すことが出来るだろうか。

 傷はもちろん、体中がおかしい。瘧狼病ウィルスの影響なのか、薬の副作用によるものなのか。思考も感覚も歪んでいる。

 香沙音に会いたい。

 気絶して、また目が覚めた。

 発症していない。薬は成功だったようだ。これで外に出られる。外に出て、香沙音に会いに行くのだ。そして、今度は香沙音の治療法をさがす。病気の歴史を終わらせるのだ。だが、体が動かない。立つことさえ出来ない。血が流れ過ぎてしまった。

 絶対に帰ると約束したのに、香沙音には、もう会えそうもない。

 初奈には、もうすぐ会えそうだ…。

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