第9話 現代 至嶋時積

 鷺澤賢吾の調査により、陰織家に伝わる症状は、呪いではないと判明した。

 だが、僕が気に留めたのは、別の部分だった。僕の祖父至嶋永劫の知られざる過去が、この中で語られていた。祖父は、国の特殊任務に就き、ベトナム戦争へ赴いていたのだ。多分、そこでも人を殺し、日本でも、賢吾や楓を守る為人を殺した。身近な人に凄惨な体験をしていた人がいたのだ。全く知らなかった。そして、祖父は、楓のことが好きだったのだ。鷺澤賢吾の勝手な推測ではない気がする。祖父は結婚した祖母のことも大好きだったと思うし、とても大切にしていた。子供にも恵まれ、幸せな生活だっただろう。そんな生活の中で、秘めた想いを抱えていたのだ。

 次の次の世代で、僕と香沙音が巡り会った。祖父の秘めた想いは成就したのだ。

 僕の後に、勒賢も手記を読んでいた。


「スペインからの密偵が作った村か…。賢吾さんの推論が正しいかはわからないが、バチカンに行った時、日本人剣士が描かれた絵は、俺も見たよ」


 鷺澤賢吾が調べ上げた話は、奇想天外なものだが、噛まれると感染する病気の治療法を求めて封鎖された東京の街を駆けずり回っているのだ。何事も起こり得る可能性はある。


「発見した財宝はどうなったのだろうな」


「わからない。この手記が何故ここにあるのかもな」


 わからないことばかりだ。

 鷺澤賢吾の手記を、拒口も読んでいた。葉狩創輝の手記は軽く目を通すだけだったのに、こちらは熟読しているように見える。


「どうかしたか?」


 尋ねてみたが、手記から目を離すことなく、気のない返事をするだけだった。

 結局、瘧狼病の治療法をみつけられぬまま、窓の外は暗くなった。電気は止まっていないとはいえ、点いている明かりは少ない。時おり、何かがぶつかる音、怒声、唸り声、そして銃声が聞こえてきた。

 僕らはここで仮眠をとることにした。

 先程のコンビニエンスストアから持ってきた簡易的な食料を摂り、教団の広報誌を何枚も床に敷き寝床とした。

 希由美と一緒に横になる。体が急に重くなった。今日一日の疲れ、恐怖、先の見えない不安、色々なものがのしかかってきた。

 疲れてはいるのに寝付けない希由美がぐずり始めた。


「ママに会いたい…。ママがいい…」


 こちらも限界にきている状態で、どうにかなだめて寝かしつけようとしが、なかなか希由美はおさまらない。心が削れていく。僕じゃ駄目なのか。これでも頑張っているのだ。お前がいなければ、もっと身軽に行動が出来るのに。お前がいるから労力が倍だ。その上休ませてもくれないのか。どす黒い怒りが込み上げてきた。

 希由美は、まだぐずり続けている。


「いいから黙れ!」


 一度口から飛び出した負の感情は、二度と戻すことは出来なかった。外に出したら事態が悪化することがわかっているのに。

 希由美は、一瞬目を丸くして、口をひくつかせた後、大声で泣き出した。


「すまなかった」


 慌てて謝っても、収束するはずもない。まだ小さな子供が、こんな状況に放り込まれて、平静を保てるわけがない。声を荒げてしまった自分が恥ずかしい。自己嫌悪で破裂しそうになりながら、希由美を抱きしめた。腕の中で、希由美は泣き続けていた。

 子供が可愛いだけの存在ではないことはわかっている。気分屋で、わがままで、自己中心的な生き物だ。幸せも倍だが、苦労も倍になる。わかっているのに、感情を爆発させ、怒鳴ってしまった。情けない。陰織家の女を守ってきた男達が、弱音を吐いたか。子供がいなければ、自分が生き残れるなんて考えたか。そんなことをしていたのなら、とっくに系譜は途切れている。


「すまなかった。父さんが悪かった。すぐにママに会えるよ」


 勒賢が、何も言わずにこちらを見ていた。疲れを隠せない顔をしている。

 拒口は、露骨に舌打ちした。不快感を隠そうともしない。

 希由美を抱きしめたまま、無言で頭を下げ詫びた。

 鳴いていた希由美だったが、徐々にまどろみ、僕の腕の中で眠りについた。

 疲れ果てているのに眠れなかった。

 希由美の隣で横になったまま香沙音と通信した。香沙音の祖父鷺澤賢吾の手記をみつけた、とメールしてみると、すぐに返信がきた。


(賢吾おじいちゃんのことは覚えている。明るくて優しくて、ダンディーだった。若々しくて、親子と間違われるくらい。私はおじいちゃん大好きだった。でも、私が小さい頃に怪我をして、少し体が不自由なところがあった。だから私を引き取ることは出来なかったみたい。私が高校の時に死んだ。本当に悲しかった)


 香沙音のメールからも、鷺沢賢吾が好人物だということがわかった。


(あの夏、悲しかったのは、時積だけではないのよ)


 初めて僕らが一つになった日のことか。香沙音も胸に穴が開いていたのだ。

 高校三年の時だった。剣道部所属の僕は、最後の高校総体に臨んだ。結果は勒賢に当たり三回戦負け。事実上の決勝戦と言われても、負けた事実が変わるわけでもない。僕の夏は悲しい結果で終わった。

 その日の夜は、家に帰らず、一人暮らしをしていた香沙音のもとへ行った。

 香沙音は、黙って僕を家に招き入れてくれた。会場に来ていたのだろうか。僕が負けたことはわかっていたようだ。

 親達から過度の期待を受けていたわけではない。自分を過大評価していたわけでもない。想定内の結果だ。それでも涙が出た。

 そんな僕を香沙音は抱き締めてくれ、僕らは一つになった。

 あの時、香沙音も誰かとつながりたかったのだ。

 香沙音からのメールが続いた。


(私のお母さんが、病気で死ぬことがわかっていても、明るく元気に生きられたのは、絶対賢吾おじいちゃんのおかげだと思う)


 会ったことはないが、香沙音にお母さんの話は聞いている。明るい人物だったらしい。


(私も、お父さんにいて欲しかった)


 香沙音の母は病気で死に、父は蒸発した。祖父母が頑張って育ててくれていても、親の愛情に飢えていたのだ。一緒に暮らしていて、そのことは強く感じていた。しかし、僕は夫にはなれても、父親にはなれない。永遠に埋められない穴を持っているのだ。


(お父さんのことで時積に言っていないことがあるの)


 あまり話したくなさそうだったので、父親のことは深くは詮索しなかった。


(お父さん医師免許を持つ研究員で、革世黎源教とも関わりがあったらしいの)


 医師だったという話は薄っすらと聞いていたが、革世黎源教との関わりは初耳だ。


(封鎖区域の中で蔓延している病気は、私の父が拡散したのかもしれない)


 心臓が鷲づかみにされたようだった。

 返信しかねていると、すぐに続きがきた。


(そうだとしたら、本当に最悪の人間だよね。私を捨てて出ていって、今度はウィルスを撒いて、人々を危機に陥れている。その中の一人は、自分の孫よ。私は、ずっとお父さんの帰りを待っていたのに)


 メールからでも、香沙音の悲しみが伝わってきた。

 まだ証拠はない。しかし、戦時中に書かれた葉狩創輝の手記を読んで、愛情が深い故に道を踏み外し、人道に外れたことをしてしまう先例があることを学んだ。香沙音の父は、道を踏み外してしまったのだろうか。だとしたら、現実は想像を超えて残酷だ。


(私の想像だけで暗い話してごめん。まずは休んで)


 そこで香沙音との通信を打ち切ることにした。

 香沙音の胸に空いた穴を埋めることも出来ず、希由美に対し良き父にもなれず、この状況を打破する手立てもない。自分の小ささに打ちひしがれながら天井を見上げていると、勒賢が声をかけてきた。


「寝付けないな」


 僕の様子がおかしいので声をかけてくれたようだ。香沙音と交信した内容を告げると、勒賢は少し押し黙った後、軽い口調で話した。


「しかし、凄いよな革世黎源教は、大した歴史もないのに大勢の信者を集めて、物凄く儲けている。うちの神社なんて、全然儲かっていない。マスコットキャラクターのダイキチ君がヒットした時はかなり儲けたのだ。続けて作った敵キャラのダイキョウ君も大ヒット。だが、その後に調子に乗って作ったガイキチ君が色々と問題になって自主回収する羽目になった。おかげで大損だ」


「相変わらず罰当たりな奴だな」


「もとはと言えば、七福神も仏教の四天王も、人気キャラクターとして後から売り出されたものだ。それくらいで罰は当たらないだろう。次はバチカンのエクソシストとコラボ商品を作る。大ヒット間違いなしだ」


「バチカンというよりはバカチンだな」


 その通りだ、と言って勒賢は声を押し殺して笑った。

 下らない話をしたら、少し落ち着いた。そうすると希由美の寝顔が可愛く思えてくる。希由美の温もりを感じていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

 目を覚ますと、何時間か経過していた。希由美は、まだ寝息をたてている。窓の外は白み始めていた。

 勒賢と拒口も目を覚まし起き上がってきた。

 まだ夜が明けて間もないのに、香沙音からメールが届いた。


(今、霞が関にいる。お義父さんに相談してみたら、色々と手を回してくれて、長い肩書きの人を紹介してくれた。その人から電話がいくから出て)


 スマートフォンが着信音を鳴らした。あれ程つながらなかった電話がつながったのだ。

 操作すると、画面に男性が現れた。


「君が至嶋時積君だね。私は形井かたい。政府の者だ。君がいる場所は、瘧狼病感染拡大を防ぐ為、隔離状態にある。我々は、隔離区域内の情報が欲しい。協力してくれ」


 有無を言わさぬ強い口調だった。


「申し訳ないのですが、まずは父と妻の顔を見せてもらえませんか」


 香沙音の顔が、画面に映った。片隅に父の顔も見える。

「ママ」と叫んで、希由美が画面ににじり寄った。香沙音の目にも涙が浮かび、鼻声になっている。

 香沙音と父が、人質になっているような雰囲気ではない。形井は、本当に政府の人間のようだ。父がこのような人脈を持っていたことに驚く。


「すまんが時間がない」


 再び画面に出てきた形井に、僕は知っている限りの情報と、今までの行動を教えた。

 僕は、教えられることは教えたが、形井は僕の問いには曖昧な答えを返していた。はぐらかされているようだ。

 形井が、意を決したように大きく呼吸してから言った。


「封鎖区域を爆撃して、ウィルスを殲滅する案が出ている」


 血流が止まった気がした。


「まだ決定ではない。我々だって、そんなことしたくない。しかし、瘧狼病の治療法が封鎖区域内にある確証はない。空気感染しないとも限らない。包囲網が破られないとも限らない。そうなってからでは遅い。大を生かす為に、小を切り捨てるのもやむを得ないのだ」


 画面の向こうで、香沙音が声を上げて形井につかみかかり、父がそれをなだめていた。

 僕のスマートフォンを勒賢が奪った。


「俺達が治療法をみつければ良いということだろう。必ずみつけるから、お偉いさん達を思い留まらせておいてくれ」


 いつものふざけた勒賢ではなかった。本気になっている。

 僕も少し遅れてことの重大さに気付いた。日本政府は、未知の病原菌もろとも僕らを焼き払おうとしている。それを回避する為には、瘧狼病治療薬をみつけなければならない。

 形井は、沈痛な面持ちで力のない返事をした。

 一旦電話を切って、この先の行動を決めることにした。しかし、どのようにすれば良いかわからない。教団のオフィスの中をひっくり返して、何か手がかりになりそうなものを探す。


「爆撃されても、地下にいれば大丈夫なのではないか?」


 拒口が、机の引き出しを漁りながら言った。それに対し、勒賢が冷めた口調で返す。


「地中貫通爆弾というものがある。地上ではなく、地下までもぐってから爆発する。地下にいても死ぬ」


「そんなものがあるのか」


「何十年も前からある」


 拒口が不貞腐れた顔で、再び引き出しを漁り始めた。


「拒口。何か他に情報はないのか?」


 八つ当たりしても仕方ないのに、ついつい詰問調になってしまう。


「知らねえよ。治療薬が二代目螺内空偉と一緒に眠っているという噂を頼りに色々調べて、銀座の使われていない地下街を探し出したのだ。行ってみたら、怪人が孤独死していただけだったがな」


 拒口もいつもの優男振りを脱ぎ捨てて、荒々しい口調で返してきた。

 皆、追い込まれて気が立っている。

 希由美は、今にも泣き出しそうな顔で、僕のやり取りを見ている。今泣き出したら、僕は優しくすることは出来ない。怒鳴り散らしてしまいそうだ。

 そんな中、勒賢が口をはさんできた。


「黎源教には、東京の地下に治療薬が眠っているという話が伝わっていたのだろう。東京と言うと範囲が広くなるが、東京駅を指すと考えると、かなり絞り込める」


 勒賢が怪人の地下地図を取り出した。

 東京駅の地下も地図には示されている。地下鉄。水路。地下商店街。その中に、違和感を覚える場所が示されていた。縮尺が正確ならば、それなりに広さのある空間だ。怪人が造ったのだろうか。怪人の地図には、一般の地図には載らないであろう場所が数々あるが、今みつけた場所は、その中でも一番広い。

 テレビ電話で形井を呼び出し、怪人の地図を見せ、地図の中の正体不明の地下空間について調べてもらった。

 返事を待つ間、テレビの画面には形井の代わりに父が出てきた。


「香沙音さんは、少し取り乱していたが、今は落ち着いている」


「すまない。迷惑かけるね」


 父とテレビ電話で話すのは初めてだった。こんな時だというのに、少し照れくさかった。


「父さん。質問があるのだ。永劫じいちゃんは、ベトナム戦争にいったのかな?」


「そうかもしれないな。ベトナム戦争の話は聞いたことがないが、隠された顔があったのは事実だ。至嶋家は代々武門の家系だったが、俺のひいじいさん至嶋真留しじままとめくらいから、政府の裏の仕事もしていたのだ」


 そうだったのか。それならば、父が政府の人間と知り合いなのも合点がいく。


「父さんは、その裏の仕事が嫌で、道場を継がなかったのかい?」


 父は少し考えてから言った。


「それもあるな」


 それだけではないということか。至嶋家歴代最強と呼ばれ男だ。裏の仕事も難なくこなせただろう。だが、息子の僕は、歴代最弱だった。そんな僕に気を使って、自分の代で受け継がれてきた系譜を終わらせたのかもしれない。申し訳ない気持ちになった。

 だが、それとは別に、父との会話の中で、ひっかかるものがあった。


「さっき父さんが言っていた、ひいじいさんの至嶋真留って、至嶋家に婿に入ってきたのかな?」


「どうだったかな。そうだった気もする」


「婿に入る前の名字は、曽我崎?」


 貫井真治の手記の中に、曽我崎真留という人物が出てきた。数年前に読んだものだからうろ覚えだが、どこかの家の婿に入るという話だった気がする。父はわからないと言ったが、「真留」なんて名前、なかなかいない。至嶋家の婿に入ったのだ。明治時代に起きた、もらい子殺し事件の生き残りの血が、僕に流れている。石走錬造があの時踏み込まなかったら、僕は存在していなかったのだ。

 考え込んでいた僕に、


「生きて帰ってこい」


と言葉をかけ、父は戻ってきた形井とかわった。


「有識者に訊いたがわからん。旧日本軍が本土決戦を見据えて造った地下施設かもしれないし、江戸城の石垣が出てくるかもしれない。そして、そこには何もない可能性もあるそうだ」


 要するに、何もわからないということだ。

 下手に動けば、妖怪の仲間入り、待っていたら炭になる。その上たどり着いても、何もないかもしれない。それでも、行くしかない。


「もし、義理のお父さんが待っていたらどうする?」


 勒賢が問いかけてきた。

 可能性はある。もしくは、警察の強制捜査ではみつからなかった三代目螺内空偉がいるかもしれない。更に飛躍して考えれば、三代目螺内空偉の正体は、香沙音の父の可能性もある。


「娘さんと瘧狼病の薬を僕に下さい、かな」


「孫も紹介出来て一石二鳥だ」


 僕達の会話に、希由美が反応した。


「元気にごあいさつするよ」


 これから先、きっと危険が待ち受けているが、少し和んだ。

 勒賢が、希由美の頭をなでながら言った。


「そうだ。元気にご挨拶して、今までもらえなかったお年玉をまとめてもらうんだ。そして、そのお年玉は、うちの神社のお賽銭にするのだ」


 希由美は、「うん。いいよ」と答えていた。

 経路を何通りか想定した。瘧狼病感染者は、増えているだろう。更に危険度は上がっている。

 形井にテレビ電話で連絡し、東京駅近くの地下空間へ向かうことを告げた。

 形井と話し終わると、香沙音が出た。化粧が崩れていた。泣いていたのだ。

 極力平静を装って明るい声で僕は言った。


「言いそびれていたけど、髪良いね」


 香沙音は、笑顔を作り、涙声で「ありがとう」と言った。

 僕らは怪人が残した地図に載る地下空間を目指すことにした。

 準備をして再び自転車にまたがった。銀座から丸の内へ走り、京葉線の地下ホームへと下り、隠し通路を目指す。

 感染者が増えているのか、減っているのか、窓の景色からだけでは判断できない。ネットの情報は、僕らを不安にするばかりだ。

 今は行動することにしよう。

 部屋から出て、エレベーターで下に降りた。

 一階に降りて、早速出くわした感染者を撃退し、自転車に乗った。体が起きていないのか、疲れているのか、希由美が重く感じられた。

 朝日を背に、丸の内方面へ向かった。晴れ上がったきれいな朝だった。ただ、それだけなのに、思考が前向きになった。現状を打破してみせる。ペダルをこぐ足に力が入った。

 感染者は増えている。老人や子供の感染者もいた。外国人の感染者もいた。各々が襲いかかってくる。統率がとれていないのが救いだ。人数は多いが、逃げ切れる。

 感染者も個体個体で動きが違うようだ。素早く動く者、ゆっくりな者、あまり動かない者。こんな状況でなければ、じっくり観察してみたいくらいだ。

 銀座の街を走り抜け、JR線のガードに行き着いた。感染者の密度が高まっている。唸り声が重なって大音量となり、恐怖心をあおる。吹き出た汗が一瞬で冷えた。

 勒賢が、片手運転で棒を振るい、開いてくれた突破口を走り抜けた。

 国際フォーラム横の線路際の道を進む予定だったが、大きなトラックが道を塞いでおり、すき間には、感染者がよだれを垂らして待ち構えていた。無理矢理抜けるのは難しそうだ。第二案に移ることにした。


「フォーラムの中を突っ切ろう」


 ハンドルを切り、進路を変えた。

 国際フォーラムの敷地内に入り、絶望的な気持ちになった。イベントの時などは、たくさんの人で賑わう一階は、感染者の群れで賑わっていた。

 予想以上に深刻化している現状に、諦めるという選択肢が頭にちらつく。すぐに背中にいる希由美の存在を思い出し、次の行動に移った。

 すぐ左手にある地下鉄有楽町駅の階段を下りるか、右手のガラス棟へ入るか二つの選択肢があったが、僕はガラス棟の道を選んだ。

 自転車を捨て、建物の扉をくぐり、広がる空間を下から見上げた。この建物は大きな楕円形をしており、地下から最上階付近まで吹き抜けになっていて、芸術的な空間を演出していた。

 僕、拒口、勒賢の順に、止まったエスカレーターを駆け下りる。少し下ると、地下の様子が見えてきた。感染者はいるが、地上程ではない。行ける。

 エスカレーターを上ってきた感染者を棒で横殴りにし、手すりの外へ叩き落とした。

 上を振り返ると、押し寄せてくる感染者達を、勒賢が食い止めていた。


「ぐずぐずしないで進め!」


 後ろで拒口が怒鳴った。切羽詰まった状況だと人間性が浮き彫りになる。いつも逃げてばかりで、自分は戦いもしない。腹を立ったが、先に進むと、相田みつを美術館が目に入った。「人間だもの」。口の中で唱え、何とか我慢した。

 ガラス棟の下の階を駆けていると、上の回廊から感染者が降ってきて、僕のすぐ近くの床に墜落した。床に落ちた感染者は、そのまま動かなくなった。

 気を取り直して走った。地上程ではないが、感染者はいる。行く手を阻む者は、容赦なく棒でひっぱたいた。

 相田みつを美術館の前を走り抜け、京葉線方面へ右折した。

 天井が低くなり、棒を振るいにくくなった。そんなことお構いなしに、感染者は向かってくる。突いて、蹴って、道を開いた。

 更に階段を駆け下りると、目の前に京葉線の改札が現れた。

 改札の前には、死体が転がっていた。逃げようと押しかけた人々に潰され、圧死したのだろうか。祈りは後から捧げることにして、京葉線改札は通り過ぎ、やけに離れている東京駅本体の方へ走る。想定していた経路の一つではあるが、方向感覚があやふやになっている。背中の希由美が重くのしかかり、息が切れて体中が悲鳴を上げている。それでも走った。


「その扉だ!」


 何の変哲もない配線配管室の扉を指差しながら拒口が叫んだ。

 僕らが感染者を払いのけている間に、拒口が鍵を使って扉を開け、室内に入った。全員が入った後鍵をかける。金属製の扉に感染者がぶつかる音が聞こえる。

 照明を点ける。薄暗い蛍光灯に照らされ、むき出しの配管配線が浮かび上がった。感染者が入り込んでいる気配はない。

 怪人の地図と照らし合わせ、抜け道の場所を探した。配管が壁に影を落とし、目を凝らしてもなかなかみつけられない。全員で探して、ようやく壁に筋が入っているのを発見した。

 配管の隙間をくぐり、壁の筋に指を入れて、コンクリートの壁の一部を外した。壁の後ろには、奥へと続く暗い抜け道が続いていた。

 スマホに付いているライトで暗闇を照らし、狭い抜け道を進んだ。

 抜け道の壁は、整備されたものではなく、土がむき出しの部分も多かった。補強はされているとはいえ、良く地震に耐えたものだ。

 しばらく進むと、先頭を進む拒口の背中とライトの光が消えた。抜け道が終わったようだ。

 拒口に続いて、先に広がる空間へ足を踏み入れた。スマホの照明でその場を照らし出してみる。目の前に重厚な鉄の扉が待ち構えていた。

 しばらくは誰も喋ることが出来ず、荒い呼吸だけが、鉄の扉に反響していた。

 体力の限界が来ていて、希由美を背中から降ろしたかったし、希由美も降りたがっていたが、扉の中を確認してからの方が良いと思い、背負ったままでいた。


「これが戦時中に作られた地下施設か…」


 苦しそうに勒賢が言った。僕と拒口は、言葉を発することさえ出来ない。

 勒賢が、扉を引いた。鉄の扉は、耳障りな音を立てながら、ゆっくりと開いた。

 中をのぞき、ライトを照らした勒賢が、棒を構えた。

 敵か。僕も続いて棒を構える。


「すまん。大丈夫だ。もう動くのはいなそうだ」


 鉄の扉をくぐると、中は大きな部屋になっていた。机や棚が置き去りにされている。そして、死体が何体も転がっていた。これを見て、勒賢が一瞬戦闘態勢をとったのだ。どれもこれも白骨化していた。死んでからかなりの年月が経過しているようだ。

 この人達は、何故ここに来て、何故ここで死んだのだろう。壁にもたれかかった者、うつぶせで倒れる者、死体の状況は様々だが、争いがあったことは間違いないと思われる。安らかに死んだものではない。


「拳銃が落ちている」


 勒賢が床に落ちた拳銃を、ライトで照らした。


「これは、前教主の遺体じゃないか?」


 拒口が、部屋の奥に横たわる遺体に駆け寄った。

 白骨化しているので、遺体の区別はつかない。どれも大差ないように見えた。


「この服装、装飾品。二代目革世黎源教教主螺内空偉のものだ」


 ここに眠っていたのか。教団が運営する会社から、すぐに来られる距離だが、こんなところではわかるまい。

 他の遺体も革世黎源教に関わるものだろうか。

 一体の遺体が、大きな手帳を抱えたまま死んでいた。傍らには、注射器、アタッシュケースも置かれている。

 白骨化した手をゆっくりどかし、手帳を拾い上げた。かなりしっかりした作りの手帳だ。

 希由美は、死体を見ても、そこまで恐れなくなっていた。

 背中から希由美を下ろし、床に座った。

 電灯も備えてあったが、既に点灯しなくなっていた。

 希由美を傍らに抱き寄せ、懐中電灯を点け、手帳をめくった。

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