第8話 昭和中期 鷺澤賢吾の手記より
西を目指して中央線に乗った。西と言っても関西まで行くわけでもない。東京の西の外れだ。
高校最後の夏、僕は旅に出た。
僕の目標とは何だろう。どのような人生を送りたいのだろう。何故生きているのだろう。そんな文学的な悩みを抱えての旅ではない。楓の笑顔を取り戻す為の旅だ。
楓の家に伝わる石走錬造の手記や、図書館で調べたことから、呪われた村の場所の目星をつけた。
奥多摩の駅で降車し、山へ向かって歩き出した。
楓のお父さんが、医学的に楓を治そうとしている。だが、いまだに成功はしていない。僕は別の道から助ける方法を模索したい。呪いとか妖怪とか、非科学的ではあるが、そこに何かが隠されているかもしれない。
アルバイトして稼いだ金でそろえた登山用品は、背中に重くのしかかってきた。
このあたりは、林業が盛んなようだ。天に向かって真っすぐに植えられた木が、等間隔に並んでいた。
「兄ちゃん、そっち行っても何もねえぞ」
「男のロマンってやつですよ」
声をかけてきた木こりのおじさんに、笑顔で返し、足を進めた。
楓を助けたい気持ちは強い。だが、それ以外にも、冒険すること自体に心が躍っていた。
運動や、芸術、学生運動などに情熱を燃やす人もいたが、僕は自分を注ぎ込めるものをみつけられないでいた。今までみつけられなかった何かがこの先に待っている。荷物は重いが、足取りは軽かった。
途中で道はなくなり、森の中を磁石を頼りに進んだ。まだ昼なのに、森の中は暗い。登っているのか、下っているのかわからなくなる。同じところを回っている気もしてくる。
明治時代に石走錬造が残した資料によれば、この方向で正しいはずだ。ただ、半日は歩く。健脚だった昔の人に比べ、僕の足は衰えているだろう。しかも、案内してくれる山の民もいない。いつになればたどり着けるだろう。
結局村に着く前に日は暮れ、野宿することになった。
夜の山は暗いが、目が慣れてくると、真の闇ではない。静寂も無い。山の夜は、目覚めている。小さなテントの中で、寝袋にくるまり、浅い眠りに落ちた。森のざわめく音に怯えつつ、断続的な浅い眠りを繰り返し、夜明けを迎えた。
テントから這い出て、木々の間から差し込む朝日を浴びた。昨日一日歩いた体から疲れは抜けきっていないが、太陽は活力を与えてくれる。
テントをたたみ、再び足を進めた。
測量技術の無い石走錬造の地図には、等高線など書いてないから、高低差がわかり辛い。平面図からは読み取れない起伏を越え、道なき道を進む。
山道とはいえ、一直線に登っていく訳ではなく、曲がりくねった道を登ったり下ったりしながら進んでいく。
不安に苛まれながら進んでいると、二股に分かれた場所にたどり着いた。片方は上る道、もう片方は下る道。石走錬造の地図に出ている場所だ。ここを下ると、河童の銅像があるはずだ。片方の道を下り始めると、程なく、木や草や土、自然の造形の中に、太陽の光を浴びて輝く金属が見て取れた。近付いて、絡まっていた蔦を取り除けると、異形の像が姿を現した。人間ではなく、妖怪の姿だということはわかるが、頭の皿もないし、甲羅も背負っていない。現在漫画などで目にする河童とは、違う外見をしている。メディアの発達していなかった当時は、妖怪の姿など統一されていなかったのだろう。河童の体の色だって、黄色や赤が主流で、緑色になったのは、外国からミドリガメが輸入された後だという説もある。名前だって各地で違っている。かっぱ。がわっぱ。かわたろう。えんこうなど様々だ。ここのは、「かわんと」と呼ばれている。漢字を当てれば「河人」とでも書くのだろうか。
像についた汚れを拭ってみると、赤銅色の体を見せた。その腹の部分には、禁足と刻まれている。立ち入り禁止ということだ。
像のところからは更に下りになっており、下には窪地が広がっているのが見えた。そこには草が茂り、端に一本の大木がそびえていた。
昔は、この窪地に水が流れ込み、池になっていたのだろう。そこに河童の伝説が生まれ、水は干上がったが、伝説は残ったのだ。
上から窪地を見下ろしていると、視界がぼやけて、足元がふらついた。河童の伝説に怯えているのだろうか。
目印の場所はみつかった。道は正しかったのだ。気を取り直して分岐点まで戻り、呪われた村を目指した。
しばらく登りが続いたが、足がふらつくことはなかった。崖に面した細い上り坂を進むと、崖の縁に空へ向かって曲がって伸びた松の木が出現した。これが地図にも載っている、てんぐの曲がり松だ。石走錬造が訪れた時点で、樹齢百年は越していたはずだ。そうするとこの松は、最低でも百七十歳は下らないことになる。こんな不自然な恰好で、こんなにも長い期間生き続けるなんて、天狗の神通力が本当に存在しているように感じてしまう。
天狗が空を赤く染めて怒る、という言い伝えが残されているが、どういうことだろう。夕暮れ時、空が赤くなった時に何か起こるのだろうか。さすがに天狗が現れるとは考え辛いが、全く無意味な言い伝えとも思えなかった。
確かめてみたいが、天狗の謎はそのままにして、呪われた村へ着くことを優先するこにした。
崖に面した危険な道を乗り越え進むと、滅びた村にたどり着いた。石走錬造が残した記述にも合致する。ここが切頭村であることは間違えないだろう。
倒壊した木造家屋の上には、草が生い茂り、辛うじて立っている家は、屋根の下に、不気味な影を作り描き出していた。
朽ち果てた村で、がき塚の場所を探した。資料によれば、集落からは離れた場所にあるはずだ。
元は田んぼや畑だった場所を過ぎ、村の外れを探した。がき塚らしき場所はみつからず、村の中に戻ったりしつつ、近辺を探し回った。
村は朽ち果てて誰もおらず、異様な景観をさらしていた。だが、悪魔を祭る祭壇などは廃墟の中には見られなかった。江戸時代の村に対して、大した知識を持ち合わせているわけでもないが、別段異質なものがあるとも思えなかった。
村の中心部から外れへと向かった。藪をかきわけて進むと、開けた場所に出た。目の前の地面には、大きな割れ目が口を開けている。この中にがき塚があるのだ。
闇をのぞき込んでいるだけで、呼吸が苦しくなってきた。しかし、ここまで来て確かめずに戻ることも出来ない。意を決して、割れ目の中へ降りることにした。
岩肌にしがみつきながら、闇に吸い込まれ、すぐに底に到着した。大した深さではないのに、やけに空が遠く感じた。
懐中電灯を取り出し、奥を照らした。弱い光に照らされ、異様なものが浮かび上がった。恐る恐る近付いてみる。何本かの変な形の棒が、石の壇から伸びていた。これが、がき塚だ。
調べてみたいが、間引きされた子供の遺体が埋まっていることを考えると、慎重に手をつけねばならない。
ここで石走錬造と、陰織珠江は儀式を行ったが、呪いは解けなかった。それを練造は、呪いではなく、病気だったからだと考えた。そう考えるのが普通だ。しかし、見過ごしている何かがあるかもしれない。楓の体に異常が起こるまで、あと数年の猶予がある。僕がもう一度調べてみよう。がき塚に向かって、決意を固めた。
ふと我に返り、今夜の寝場所をみつけなければならないことに気付いた。がき塚の前は、さすがに憚られる。いつ倒壊するかもしれない廃屋で寝るのも恐ろしい。幽霊やら亡霊やらが昭和の時代に現れるとも思えないが、山奥にひそむ呪われた村に一人でいるのだ。普通の精神の持ち主なら、怖いのが当然だ。
夜のとばりがあたりを包み始めていた。急いで村の外れまで移動し、テントで野宿することにする。場所を決めた時には、既に暗くなっていたが、月明かりの中、テントを設置した。
組み立て終わり、滑り込むようにテントの中へ入り、寝袋にくるまり、ライトを点けた。外から聞こえる音に、不必要な意味付けをしてしまう。風の音の中に、近付いてくる気配を想像し、テントの外を囲む妖怪達を思い描いてしまった。呪いを調べに来ておいて、矛盾しているが、幽霊も亡霊も妖怪も想像上のものだ。存在しない。無意味な妄想を頭の外へ追い出した。しかし、追い出した妄想が、執拗に頭の中へ潜り込んでくる。呪われた村の亡霊達が、僕を食べにやってくる。足音が近付いてきた。一人ではない、多人数だ。ここに来てしまったことを後悔した。せめて日が暮れる前に村を離れるべきだった。亡霊達がテントを囲み、こちらの様子を伺っている。今にもテントを開けて、中をのぞき込もうとしている。テントの中にいるべきか、外に出て、夜の山を逃げるべきか。
「おいで」
外から呼ばれたような気がした。開けてはいけない。外へ出てはいけない。心が警告を発していた。それなのに、僕の手は引き寄せられるように、テントの幕へと伸びていった。開けるな。外には亡霊達が、僕を待ち構えている。頭の中に響き渡る警告に反し、手は幕を開いた。
ただ静かな闇が広がっていた。
テントを囲んだ亡霊達は、僕の想像の産物だった。
幕を閉め、横になる。悪夢を見て目を覚ましたりしつつ、浅い眠りを続け、朝を迎えた。
テントからはい出てみると、昨夜は暗くてわからなかった周囲の状況が見て取れた。僕の背の高さもある木の札が、何本も立っていた。倒れているものもある。これは墓標だ。私は墓場で寝ていたのだ。これでは亡霊が出てもおかしくない。一人で苦笑した。
村を調べようとしたが、どこから手を着ければ良いのかわからなかった。石走錬造が、神棚に置かれた「おうせの鏡」を見つけた家も、今は崩れ落ちていた。一人ではどうすることも出来ない。
石走錬造が行った儀式も再現してみたいが、鏡は無い。勢いで飛び出して、運良くたどり着けたが、出直しが必要なようだ。場所を確認できただけでも良しとしよう。
今日のところは、帰ることにし、再び訪れることを考え、目印をつけながら帰路についた。
しっかりとした機関が、村を調べてくれれば、事態が好転してくれるのではないかと、東京都の役所に相談してみた。色々な課をたらい回しにされて得た返事は、朽ちた廃村なんて日本中いたる所にあるし、学術的な価値があるかもわからない。場所も東京なのか、埼玉なのか、山梨なのかもはっきりしないのでは、公的機関が動くことはないとのことだった。
当然と言えば、当然の対応だった。どうやら自分でどうにかするしかないようだ。
大学へ行こう。そこで考古学を学ぶのだ。僕は僕なりのやり方で、楓の未来を開くのだ。
身が入らなかった勉強に、やる気が満ち溢れてきた。人は目標があると、こうも変わるものなのだ。
楓の為に大学へ行く。不純とも言える動機だが、目標が出来た途端に、脳の回路がつながり、電流が走り始めた。視野に入れても意味を成さなかった文章や数式が、僕の脳の中に正しい形で刻み込まれていった。
大学に合格した。学部は史学科だ。親はもっと就職に有利な学部に進んで欲しかったようだが、ひとまずは安心してくれた。好きな女を助ける為に進学したなんて戯言、口に出来るはずもなかった。
大学の授業は、初年度は教養課程なので、自分がやりたいことなど学べなかったが、大学の図書館を使えるのは有り難かった。
歴史研究会に入会したが、基本的な活動は、飲み会だった。最初は内心辟易していたが、酒の席の会話の中に、僕の好奇心をくすぐるものがたくさん含まれていた。楓を助けることには、直接つながらないものだろうが、どこにヒントが隠されているかわからない。多くの人の言葉に耳を傾けた。
歴史研究会の会員は、図書館の書庫にも出入り出来るという特典があった。一般学生でも出来なくはないが、会員の方がすんなり入れるのだ。
顧問の教授に許可をとり、書庫に入った。資料の取り扱い方も、念入りに指導されていた。破損させたら大変だ。
古語の読解力の向上にも努めた。授業でも行われていたが、それだけでは足りなかった。切頭村が既に研究され、現代語に訳されていれば良いが、そんなこともないだろう。自分で古い文書を読まねばならない。
独自に調べてみるが、切頭村のことには中々出くわさなかった。すぐに結果につながるとも思っていない。粘り強く、調査を続けた。
大学の人達に楓の存在は伏せておいた。下手に気を使わせたくなかった。色々と調べ回っていることに関しては、知的好奇心旺盛な男だと思わせておけばよい。
並行してアルバイトにも精を出した。調査するにも金は必要だ。やることに追われ忙しかったが、僕自身は充実していた。
あっという間に時は過ぎ、夏休みがやってきた。僕が未熟なこともあり、文献や資料の方面は、いまだに手応えなしだった。
もう一度、切頭村へ足を運んでみることにした。
前に行った時は、調査と言うより、場所を確認しただけだった。今度は、しっかり調べてみよう。そうするには、一人の力ではいささか心許ない。助けが必要だ。大学や、アルバイトの人達には、楓のことは伏せているので、協力は要請し辛い。真っ先に頭に浮かんだのは、至嶋永劫の顔だった。
永劫は高校卒業後、公務員となり実家を離れていたが、休暇で帰省していた。早速声をかけてみることにした。
久々に会った永劫は、前よりも精悍な顔つきになっていた。せっかくなので、酒でも飲みながら話そうと、近所の居酒屋へ二人で向かった。
幼馴染みで、高校まではずっと一緒だった。どちらかと言えば社交的な僕は、それなりに友達はいる。しかし、親友として名を上げるなら、やはり永劫だ。
「小さい頃、近所で遊び回っていた時には、こうやって酒を飲む日が来るなんて考えもしなかったな」
そんなことを言いながら居酒屋に向かう途中で、見知った顔に出くわした。益貝茂人だ。それ程好意を抱いていなかったが、小さい時から一緒にいた。いわば腐れ縁だ。こちらから誘ってもいないのだが、一緒に飲むことになった。昔からこんな感じで、いつの間にか輪の中に入り込んでいた。
どうせなら楓とも偶然出くわさないだろうかと、淡い希望を抱いたが、そんなに都合良い展開はなく、居酒屋に到着してしまった。
三人で乾杯して、安い日本酒を流し込んだ。
酒を体に染み渡らせながら、近況について語り合った。
茂人は、訊いてもいないことを、まくし立てるように喋った。大学に進み、学生運動に加わっているそうだ。彼からは思想のようなものは感じ取れないが、情熱や自己顕示欲が人並み以上に強いことはわかった。
永劫は、自分のことについては、はぐらかすようにして触れさせないようにしていた。仕事が上手くいっていないのだろうか。元々多弁な方でもない。こちらも、無理に聞き出す真似はしなかった。
僕の番が来たので、大学で史学科に入り、切頭村の調査を個人的にしていることを伝え、二人に協力してくれるように頼んだ。
「賢吾は、本当に一途だな」
二人は半ばあきれたような笑いを浮かべ、調査の協力を約束してくれた。
「しかし、あれから十年以上経つのだな」
日比谷生命館での事件のことを頭に浮かべた。昨日のことのように恐怖心が甦ってくる反面、夢の中の出来事の様にも感じる。
「口止めされたから誰にも話してないけど、話したところで、誰も信じてくれないだろうな」
僕の言葉に、二人がうなずいた。
周囲の客は、僕らの会話など、気にも留めていない。耳に入ったところで、若者の良くわからない昔話程度にしか思わないだろう。
「楓も、ああいう風になってしまうのだろう」
茂人の言葉には、
「それなのに何故、楓を想い続けるのだ?」
という含みがあるのがわかったが、そこは無視して言葉を発した。
「楓をああいう風にしたくないから、自分なりに調査している。医者でもわからなかった病気の原因を、民俗学者が突き止めたこともあるそうだ。救ってみせる」
呪いという言葉は出さなかった。可能性は捨て切ってはいないが、呪いという言葉は、しまっておいた方が良い気がした。
二人と別れ、家路に着いた。
酒に酔った勢いも手伝い、楓も調査に誘おうと試みることにした。
楓の家の呼び鈴を鳴らした。足音が近付いてきて、ゆっくりドアが開いた。
呼び鈴を押してから誘い文句を考えたので、気の利いた言葉が、思い浮かばなかった。
「楓の呪いを解く為、一緒に呪われた村へ行こう」
かなり直球勝負になってしまった。
「一人で死ぬから放っておいて」
扉は閉められた。
もし、呼び鈴を鳴らす前に戻れるなら、
「ハイキングに行って、きれいな夕焼けを見よう」
とでも言おう。
三人で山を登り、切頭村へ向かった。
また訪れることを見越して、目印を残しておいたので、迷わずに進めた。
茂人は、大きな荷物と山道に苦しそうな顔をし、頻繁に休憩を要求したが、永劫は顔色一つ変えなかった。図抜けた運動能力は健在のようだ。
一人で来た時は途中で一泊したのだが、朝早く出発したおかげもあり、かわんとの淵にも日が高いうちに着くことが出来た。
禁足と彫られた異形の銅像の場所から、元は池だっただろう窪地を見下ろした。
「薄気味悪い場所だな。早く行こうぜ」
休息を欲していたはずの茂人が、この場所からは早く離れたがった。永劫も顔をしかめている。嫌な印象を受けるのは、僕だけではないようだ。とにかく、村への道を進むことにした。
しばらく進んで、てんぐの曲がり松に遭遇した。以前来た時と同じく、崖の縁から、空へと幹を伸ばしている。その光景に茂人と永劫も見入っていた。
天狗が空を赤く染め怒るとう伝承を思い出し、確かめてみたい気もしたが、まずは村へ到着することを優先した。
村に着いた頃、あたりが暗くなり始めた。テントを広げ、たき火をおこした。
「空気も良いし、自然も豊か、ハイキングにちょうど良い場所だ」
たき火を囲み、食事をしながら茂人が語った。不必要に雄弁なのはいつものことだが、怯えているのを隠しきれていなかった。
「茂人後ろ!」
僕の声に慌てて振り向いていた。
「冗談だよ」
「馬鹿野郎。この昭和の時代に、幽霊なんて時代遅れなんだよ」
そんな僕らのやり取りを見て、永劫が静かに微笑んでいた。
昔人殺しがあった場所ということを忘れれば、楽しくなくもない。
食事を終え、早めに寝床に入った。夜中に一人で小便に行けない茂人に起こされたが、後は泥のように眠った。
次の日から村の調査を始めた。
がき塚を二人に見せようと村外れの割れ目に連れて行った。永劫は暗闇の中へ降りて、がき塚を興味深く眺めていたが、茂人は割れ目の中に降りてこようとせず、上から声を上げていた。
「人間が宇宙に行く時代だぞ。呪いなんて馬鹿くさいんだよ」
連れてこなければ良かったかな。
がき塚には手を触れず、地上へと戻り、村を調べることにした。
家屋は倒壊しているものが多かったが、辛うじて原形をとどめているものもあった。老朽化した屋根や柱、床板をどかし、家屋の中を調査した。
「俺の体力は、権力とのゲバルトに使うのであって、幽霊探しする為じゃねえよ」
「そういう愚痴は、マルクスかレーニンにでも言え」
ぶつくさと文句を言いつつも、茂人は働いてくれた。永劫は、僕と茂人の三倍も動いてくれたが、基本無口なので、茂人の軽口は有り難くもあった。
何軒もの家屋を調べたが、白骨が散らばっている訳でもなく、血の跡が残っている訳でもなかった。人が殺された形跡は、みつけることが出来なかった。また、呪術の儀式が行われていた形跡も見当たらなかった。
「殺し合って食べたなんて嘘で、通勤に便利な場所に引っ越しただけなんじゃないのか」
茂人の言葉にも反論出来ない程、争いの痕跡はなかった。
一軒の家に上がった。風が吹いたら、倒壊して下敷きになりそうだ。暗い家の中には、囲炉裏があり、鍋と割れた茶碗が、そのまま残されていた。ここでも生活が営まれていたのだ。やはり、呪いを連想させるようなものは目に入らなかった。
腐って音を立てる床は、いつ抜けるかわからなかった。慎重に歩いていると、踏み心地の異質な場所があった。この下に何かがある。悪魔の御神体か。食べられた死体か。干からびた漬物か。
床板を外した。そこには、木箱が置かれていた。かなり大きいものだ。金属製の錠が付いていたが、元の木箱が腐りかけていたので、用を為していなかった。
茂人が尻込みしながら弱々しく言った。
「いくら昔の人でも、勝手に見るのは失礼にあたるのではないか」
今更何を言うか。
大きく息を吸い込んでから、蓋を開けた。御神体でも死体でもなかった。刀と火縄銃が入っていた。農民が刀を持つことは禁じられていたはずだが、入手する手段はいくらでもあった。火縄銃は、鳥を撃って、貴重な蛋白源としていたのだろう。山間部の村にあっても、別段おかしいものではない。
火薬も弾もあったが、保存状態を考えると、火縄銃は、もう発射出来ないだろう。
刀を鞘から引き抜こうとしたが、中々抜くことが出来なかった。力を入れてようやく引き抜くと、刀身は錆が浮いていた。
「この武器で殺し合ったのか?」
茂人の質問に永劫が答えた。
「いや、使われた形跡がないな」
刀と銃を見てみたが、僕にはわからなかった。
「そんなことわかるのか?」
「まあな…」
永劫は刀身を眺めながら曖昧な返事をした。永劫の家は武術の道場を開いているので、そういうこともわかるのかもしれない。
銃と刀を箱に戻し、布に包もうとすると、布に模様が描かれていることに気付いた。かなり古くなっていて判別し辛いが、家紋のようだ。武士の家なのだろうか。こんな山奥の村に、武士が住んでいたのだろうか。ただの農家にしか見えないが。
「ここの村の住人も、権力に対してゲバルトしようとしていたのかもな」
「その頃は、ゲバルトじゃなくて一揆だろう」
後から調べる為に、家紋をノートに書き写しておいた。
村の別の家も調べてみたが、槍が隠されていたり、鎧が隠されていたりした。例の家紋も所々に隠されていた。
石走錬造が、おうせの鏡を見つけた家にも、武器が隠されていた。錬造は、村の中を綿密に調べることはしなかったのだ。
家紋も武具も、堂々と置けない事情があったようだ。敗走した落ち武者が作った村なのかもしれない。
一日中村の中を調べていて、日が暮れてきてしまった。もう一泊して、明日帰ることにした。進展はあったと思いたい。たき火を囲んで夕飯を食べながら、二人に手伝ってくれた礼を言った。
「この村の人達の意思を受け継ぎ、革命を起こすぜ」
「無理矢理自分好みにこじつけるな」
茂人の活動家かぶれ振りは、怒りより笑いが込み上げてくる。
「楓、助かると良いな」
永劫が、たき火を見つめながらつぶやいた。そのまま言葉を続けた。
「しばらくは会えなくなる」
お気楽学生の我々とは違うのだ。仕事が忙しくなるのだろう。貴重な休みを潰してまで協力してくれて、本当に感謝だ。
帰宅してから、切頭村で見つけた家紋について調べてみた。
夏休みで閑散とした大学へ赴き、書庫へと入る。窓の無い書庫は、蛍光灯の灯りの下、陰うつな空間となっていた。それでも僕には、宝の山のように思えた。
家紋というものは、一つの家に一つだと思っていたが、多数あるのが普通のようだ。形も単純なものから、複雑なものまで様々ある。村でみつけたのは、刀と弓を組み合わせた図柄だから、武芸に長けた家柄なのだろう。
資料にあたってみるが、中々該当するものがない。それでも探し続けているうちに、一枚の絵が目に止まった。織田信長軍が、武田勝頼軍を破った長篠の合戦を描いたものだ。その中に、切頭村でみつけた紋様の旗が描かれていた。旗は地面に倒れ、それを掲げていたであろう武将は、その横で討ち死にしていた。鉄砲で撃たれたようだ。武田軍の陣地にいるので、その配下の者だろう。刀と弓の紋様を掲げる者が、鉄砲の前に倒れる様は、恣意的なものを感じてしまう。この男が、呪われた村と関係あるのだろうか。
絵の中の男が何者なのか、さらに調べてみると、甲斐の国の武将、
今の僕が、この書庫で集められる情報は、ここまでが限界のようだ。仕方なく、歴史研究会の先輩方や、顧問の
早速、教えてもらった郷土資料館に電話してみた。学芸員は
電車に乗り、山梨へ向かった。甲府市街から少し外れた場所に、郷土資料館はあった。それなりに立派な建物だが、賑わっている気配はなかった。中に入ってみると、観覧者は、僕だけしかいなかった。
「おお、電話をくれた鷺澤君だね。待っていたよ」
惟坂さんが、声をかけてきてくれた。眼鏡をかけた四十手前くらいの男性だった。電話口でも独特な人柄が伝わってきたが、直接会ってみると、その印象を強くした。
「君に質問を受けた、霧壁範聞のことを調べておいたよ。料金は百万円だ。嘘だけどね」
自分で言ったつまらない冗談で笑った。中々の変人だということが短時間でわかった。
「霧壁家は、西暦千五百年前後から、甲斐の国の一部を収めていた豪族だ。武門に優れた一族で、戦場でも活躍し、他の武将からも一目置かれていたようだ。残された資料は少ないけど、君の為に門外不出の書を見せよう」
用意していた資料を見せてくれた。和紙に墨で書かれた年季の入ったものだ。勉強はしているので、ある程度読める。確かに霧壁の記述があった。
「武田家と敵対していた時期もあったようだが、長篠の合戦では、武田と組んで、織田徳川連合軍と戦ったようだね。そこで当主の霧壁範聞は討ち死に、霧壁家は、一族郎党皆殺しにされたそうだ」
惟坂さんは、何事も無かったかのように口にするが、一族郎党皆殺しとは、なんとも凄惨な話だ。
「そんなに悲し気な顔をするな鷺澤君。この頃にはよくある話だ。ここで霧壁家の血筋は途絶えた」
「しかし、僕が山の廃村を調べたら、この家紋が出てきたのです」
「そうだ。そこが面白いところだ。霧壁家の者が生き延びていて、村を作ったのかもしれない。君からの電話を受けて、山奥の廃村について調べてみた。記録は残っていた。江戸時代に年貢を徴収した
古ぼけた和紙に、墨で文字が書かれているものを惟坂さんが、見せてくれた。
切頭村の記述があった。実在して記録に残っていたのだ。
「切頭村があるあたりの山には、鬼が住んでいるという伝承が残っている。山に迷い込んできた者の首を切り落とし、体は食べ、頭を飾りにするのだ。それで切頭と呼ばれるようになったという説もある。切頭村の人々が伝承の元になった可能性もあるね。鬼の伝承は、製鉄民と結びついていることが多いけど、製鉄を行うには適していない場所だ。近隣の村と交流が少なくて、そこから噂が発生したのかな」
僕に語りかけるというより、自分の思考を口に出しているような話し方だった。視線も僕の方を向いていない。
「しかし、霧壁と切頭は、読みが似ている。生き残った霧壁一族の者が、村を作り、霧壁村が徐々に切頭村に変わっていったという可能性も考えられるな。鬼の伝承が先か、村が先か。残った資料が少なくて判断に苦しむ」
惟坂さんは苦しむと言いつつ楽しそうだった。話をしたくって仕方がないのが伝わってくる。誰も来ない郷土資料館にこもっていて、うっ憤が溜まっているのだろうか。あまり好かれる類の人ではないだろうが、僕は何故か好感を持った。面白い人だ。
「切頭村は呪術を生業とする村で、天保の飢饉の時に村人同士で殺し合い、その肉を食べ、最後の生き残りに呪いをかけた、という話を聞いているのですが、その話は残っていないのですか?」
歴史研究家の前では、口にするのが恥ずかしいとも思える質問にも、惟坂さんは、きちんと答えてくれた。
「その話は、残っていないのだよ。天保の飢饉の時は、あのあたりで
「朝凪風邪ですか?」
「最近は聞かない病気だから知らなくて当然だ。この病気は、劇的な症状が出る訳ではないのだが、床に伏せると、朝に凪が来たように命が終わっているからとか、朝が無いかららとか、遺族が朝に泣くからそう呼ばれるようになったそうだ。滅びた村は、切頭村だけではない。まわりの村も壊滅の憂き目をみた。本当に呪術を生業にしていた恐ろしい村だったかもしれないが、言い伝える人がいなければ、伝わらないよ」
切頭村は一人残して全滅だから悲惨だと思っていたが、まわりの村は、完全に死に絶えてしまったのだ。もっと悲惨だったのだ。
「そうだ。これが村に残るがき塚と呼ばれるものです」
鞄からがき塚を模写したものを出し、惟坂さんに見せた。
「これにおうせの光を当てると、道が開かれるのか…」
惟坂さんは、がき塚の異様な形に釘づけになっていた。正面からの図、横からの図、後ろからの図にも目を通す。
「もしかすると、隠れキリシタンの里なのかもしれないね。鷺澤君の言う、がき塚というのは、キリスト教の祭壇なのではないかな。当時は禁教令が出ていたから、弾圧から逃れる為に、形をわかり辛くしたのかも」
その発想はなかった。西洋風とも思えないが、確かに純和風でもない気がする。
「河童とか天狗が出てくる言い伝えもあるのだよね」
「正確には、かわんとなのですが、多分河童のことだと思います。かわんとの淵を過ぎ、てんぐの曲がり松を越え、がき塚におうせの光を当てれば、道が開かれる」
「そう。それそれ。確か、河童淵の横に像があると言ってなかったかな?」
「あります。禁足と彫られた妖怪の銅像です。最近アニメとかで描かれている河童とは、少し違う形をしています。長い間野ざらしにされてきたはずなのに、意外ときれいな赤銅色でした」
「赤い河童というのが、キリスト教宣教師が訪れた場所の特徴なのだ」
そんな特徴があるのか。まず、赤い河童の存在すら僕は知らない。河童と言えば緑だ。
「河童というと緑色の姿を思い浮かべると思うが、昔は、河童は黄色が主流だった。これは、街ではなく、河原に住む特殊な人々の姿を反映していたと言われている。緑色が主流になったのは、外来種のミドリガメが、日本に入ってきてからなのだ」
赤い河童の話だと思っていたら、今度は黄色い河童が出てきた。何なのだこれは。
「一昔前まで、黄色い河童が主流の日本だったが、九州では、河童は赤かった。それは…」
「キリスト教宣教師の姿が反映されていたからですか」
惟坂さんは、笑顔を作りながら僕を指差してきた。
「それだ。酒が好きで赤いとか、皮膚が剥けてしまったとかいう説もあるが、髪型といい、頭の皿に水をかけると元気になるとかいい、キリスト教禁止令により迫害され、汚れた姿でさまよう宣教師と重なる。九州以外だと、遥か北の岩手県の河童も赤いとされているが、ここにも宣教師が訪れていて、キリシタンの殉教と隠れた信仰の歴史が残っている」
「ということは、切頭村は、宣教師が訪れていた、隠れキリシタンの里ということですか」
「九州や西日本に比べれば少ないが、隠れキリシタンの痕跡は、東日本にもある。そして、世界各地でも、新しい宗教と土着の文化が融合し、独自の進化を遂げた例は、数限りない。切頭村でも、キリスト教が、独自の進化を遂げ、まわりの人々は、それを呪術と呼んだのかもしれない」
がき塚の形は、十字架とは程遠い形をしているが、そんな気もしてきた。
「でも、そんなにあからさまに怪しい村、幕府に弾圧されたりしないのでしょうか?」
僕は疑問をぶつけてみた。
「禁教令発布当初の弾圧は壮絶だったが、それを過ぎれば、実際にキリシタンだとわかっていても、見逃されたことは多々あるのだ。自分達だけでひっそりと信仰して、年貢を納めている分には、特にお咎めはない。ただ、実害がある場合は別だ。キリスト教の宣教師が、日本人を奴隷として海外に売り飛ばしていたり、植民地化する魂胆が見えてきたから、禁止令が出されたのだ。島原の乱の様に、十字架を掲げて武力蜂起したら、幕府としたら当然叩くだろう。世界的に見ても、異教徒迫害には、既得権益をめぐる攻防が絡んでいる場合が多い。多少怪しくても、素直に年貢を納めてくれるなら、重要な収入源だよ」
考え方の違う者を、偏屈な精神で弾圧していたという、今までの僕の認識には、間違いがあったようだ。
「しかし、長篠の合戦で滅んだはずの霧壁家と、キリスト教がどのように結びついたのでしょうか。年代的にはキリスト教宣教師は、日本に来ていましたが、キリシタン大名ではなさそうですし、宣教師も訪れていなさそうです」
「キリシタン大名有馬晴信が甲斐の国で処刑されているが、関係あるのだろうか」
惟坂さんが、資料を出してきてくれて、有馬晴信の処刑について教えてくれたが、切頭村との関係は見いだせなかった。
「もしかして、切頭村が隠れキリシタンの里だとばれて迫害され、村人が斬首されたから切頭村なのではないでしょうか」
僕の発案に、惟坂さんは首をかしげた。
「その可能性もあるが、そんな大事件が起きれば、しっかりと歴史に残りそうなものだな…」
確かにそうだ。
「とにかく、霧壁家が歴史から姿を消し、切頭村が歴史の片隅に姿を現すまでの空白期間に何かがあったのだろう。そこを調べてみるのが、良策ではないだろうか」
何があったのだろう。どこかに資料が残されているのだろうか。残されているとしたら、切頭村だ。もう一度調べ直さねばならない。
「鷺澤君。常識も定説も幾度となく覆ってきたのだ。一一九二年、いい国作ろう鎌倉幕府だって、何年かしたら変わっているかもしれないぞ。思うがままに調べてみれば良いさ」
眼鏡の奥で、惟坂さんの目が笑った。万人に好かれる人物ではなさそうだし、話し合いは見当違いの方向を向いているかもしれないが、僕は一緒にいて楽しかった。礼を言って、郷土資料館を後にした。
東京に帰り、もう一度切頭村へ向かうことにした。
永劫は、仕事だから手伝ってもらうことは出来ない。茂人は、社会主義運動に力を注いでいるのか、ただ遊んでいるだけかはわからないが、連絡がつかなかった。
仕方ないので、一人で向かうことにしたが、せっかくなので、楓に声をかけることにした。保管されているはずの「おうせの鏡」も借りられたら借りたい。
楓の家の呼び鈴を押してから、以前すげなく追い返されたことを思い出した。しまった。気の利いた誘い文句を考えておくべきだった。気持ちは焦るが、足音がドアに近付いてくる。ドアが静かに開き、楓が立っていた。
「おうせの鏡は、楓の笑顔を映す為にある。鏡を持って、俺と共に行こう」
楓は冷たい目で、僕を見ていた。どうやら再び失敗したようだ。
「おうせの鏡の儀式は、何の効果も無いことがわかっている。珠江は妖怪になって死んだ。明治時代にね。私もそうなって死ぬの」
家の扉は開けてくれたが、心の扉は閉ざされたままだ。
「呪われた村について、もっと調べてみたんだ。切頭村という名前が、江戸時代の記録にも残っていた。他にも新しい発見が色々ある。残された謎を解き明かして、楓を助けてみせる」
僕の言葉にも、楓の表情は晴れなかった。
「助けなくて良いわ。私は死んだ方が良いのよ。子供の時、日比谷生命館で、賢吾も聞いたでしょう。あの人の言葉」
子供の時の記憶が甦った。何回も夢に出てきた衝撃的な記憶だ。楓が言う「あの人」とは、ウィルスを日比谷生命館にばら撒き、体中に手榴弾をくくり付けた男のことだ。早乙女と呼ばれていたはずだ。
「その時は、良くわからなかったけど、父さんが良くないことをしたことはわかった。それからずっと引っかかっていて、後から調べたの。もう少し大きくなってから、あの人が言っていたことが正確に理解出来た。父さんが満州で人体実験をしていたことを。父さんのことは好きだけど、罪は罪、受け入れられない」
楓の心に陰を落としていたのは、悲しい自分の運命だけではなく、父親が犯した罪も影響していたのだ。
「病気だが呪いだか知らないけど、私は、もう少ししたら、怪物のような姿になって、苦しんで死ぬ。父は満州で人体実験をしていたのよ。GHQと取引して、戦犯として裁かれるのは逃れたけどね。母と私を助ける為に、瘧狼病ウィルスの研究をしていたのでしょう。私達の為に人を殺したの。母のことを愛していたことも、悪い人ではないこともわかっている。私のことを愛してくれていることもわかっている。戦争中に平和な時の常識なんて通用しないのもわかっている。でも父さんの行為を受け入れることが出来ないの。私は生き永らえてはいけない」
「そんなこと気にするな。昔から人間は戦ってきた。戦争してきた。生き残る為に戦ってきた。ずっと先祖をたどれば、誰かしら人を殺してきたと思う。ずっとずっとたどって、人を殺していない血筋の人なんか、誰もいないよ。楓の場合は、それが一代前だっただけだ」
「一代前だけではないわ。私の一族は、たくさん人を殺している。私の祖先は、隣人を殺し、その肉を食べた。明治時代には、石走錬造が、半蔵門事件でたくさんの人を斬り殺した。私の父は、戦争中に人体実験をしてたくさんの人を殺した。私の一族のいるところでは、たくさんの人が死んでいる。私の一族は災厄を生み出す、呪われた一族なのよ。負の連鎖は、ここで断ち切るべきなのよ」
扉は閉められた。
「呪われた一族でも、俺は楓が好きだ」
扉の向こうにいる楓に向かって言葉をかけた。伝わっただろうか。足音が静かに遠のいていった。
一人で切頭村へと向かった。夏休みもそろそろ終わりそうだし、バイトで貯めた金も尽きかけている。今回が終われば、村の調査はしばらく休むことになりそうだ。
楓の態度には、怒りと悲しみを感じていた。楓の一族のまわりで、人が多く死んでいるのは確かだ。それを気に病み、楓が本当に血を絶やそうとしているのなら、僕がしていることは、善意の押し付けでしかない。楓の心の扉の向こうは、どうなっているのだろう。生きたいと、幸せになりたいと願っているのだろうか。そう願っていて欲しい。また昔のように笑顔を見たい。
最初来た時は恐る恐る進んだ道も、慣れてくると、ハイキングコースの様に感じてくる。気がつけば、かわんとの淵に着いていた。
禁足の銅像を眺めてみる。頭に皿は無い。現在河童の姿とされているものとは、かなり違う。ただ、統一される前の河童の姿には、似たものもいた。惟坂さんの説の通り、宣教師の影響を受けた河童の像なのか。相変わらず、森の中で赤銅色に輝き、異彩を放っていた。
像を眺めていると、何か体調に異変をきたしてきたような気がしてきた。窪地の方は、いつものままだ。
かわんとの淵を後にして、村を目指した。
てんぐの曲がり松に差しかかる。夕暮れ時に、伝承の内容を確かめようと思いつつ、中々機会が訪れない。思えば、天狗も外国人の容姿と共通点がある。高い鼻に赤い顔だ。村の謎とも関連があるかもしれない。とにかく、もう一度村を調べよう。崖に面した細い道を進んだ。
切頭村へ到着し、早速調査を開始した。
一番大きな屋敷から調べた。石走錬造は、ここの神棚から、おうせの鏡を手に入れた。床下には、霧壁家の家紋と、武器がみつかった。この間は、この発見で終わらせてしまったが、この家には、まだ何かが隠されている。床下をもう一度確認してみた。前にみつけた武器や家紋が書かれた布は、そのまま残されている。もっと奥まで調べてみた。隠れキリシタンの証、キリスト像やマリア像が出てくるのではないだろうか。しばらく探したが、何も出てこなかった。床下には、もう何もないのだろうか。三人で来た時に比べて、作業が大変だ。茂人の減らず口さえ、有り難かった気がしてくる。
一息ついて、痛くなった腰をさすりながら体を伸ばした。薄暗い室内の中に、朽ちかけてたわんだ壁板が目に入った。近付いて手を触れてみる。壁板の後ろに空間があることが感じられた。隙間に指を突っ込んで板を剥がしてみる。予想通り板の向こうは、少し空間があり、そこには漆塗りの木箱が待ち構えていた。この中に、隠れキリシタンの秘密が眠っているのか。静寂の中に、自分の唾を飲み込む音が響いた。
蓋を開けてみると、布に包まれた、小さなものがいくつか入っていた。包みから出してみると、古びた眼鏡や時計などの日用品が出てきた。
こんなものを大業に仕舞うな。紛らわしい。一人で毒づいた。
眼鏡や時計を。元に戻して立ち去ろうとした時、ふと気づいた。江戸時代に眼鏡や時計などあったのか。現代の感覚では日用品だが、この時代なら、珍しい貴重品なのではないか。
もう一度箱から眼鏡を取り出し、よく見てみる。耳にかける形ではなく、手で持って使う様になっている。レンズもそれなりの精度で作られているようだった。
時計も手に取って観察する。機械式の時計で、一から十二までの数字が書かれている定時法の時計だ。この時代の日本は、刻で数える不定時法のはずだ。これらは、江戸時代の日本で作られたものではない。西洋で作られたものだろう。鎖国時代の、こんな辺鄙な山奥に、何故こんなものがあるのか。やはり、外国人宣教師が訪れていたのだろうか。持ち帰って調べる為に荷物の中に仕舞った。
人の声がした。かすかだが、確かに聞こえた。幻聴ではない。人の声と足音が近付いてきている。背筋が凍った。こんな山奥の廃村に人が来るはずない。開いてはいけない箱を開き、亡霊が目覚めてしまったのだろうか。まだ昼間だ。少し出てくるのが早いのではないか。
家に留まるべきか、出るべきか。一瞬悩んだが、裏口から、外へと抜けだし、音が近付く中、草むらの中へ身を隠した。
足音と話し声は、すぐそばまで迫ってきていた。これは時間を間違えた亡霊などではない。実体を持った人間だ。
聞こえてくる話し声からは、殺気のようなものは感じられない。村の様子を見て感嘆したり、時折笑い声を上げたりしている。偶然村に迷い込んだ登山客か何かか。
草の陰から様子を見る。一人や二人ではない。五人はいそうだ。何か聞き覚えのある声もする。目を凝らして侵入者達の姿を捉えてみた。先頭を歩き、身振りをまじえて村の説明をしている男は、茂人だった。隠れている僕には気付かず、得意げに喋りながら歩を進めてきた。
「呪われた村なんて、ただの作り話ですよ。二晩ここで過ごしましたが、幽霊なんて全く出ませんでした」
すぐそばに来たところで、草むらから集団の目の前に飛び出した。
威勢の良いことを言っていた茂人は、悲鳴を上げ、もんどりうって倒れた。他の人達も、目を丸くして驚いている。
「こんにちは。時間を間違えて出てきた幽霊です」
茂人と一緒にいるのは、社会主義運動の仲間達だろうか。こちらを見て、どう対応すれば良いのか、逡巡しているようだ。
「賢吾じゃねえか。びびらせるなよ」
「これぐらいでちびるな」
「びびったけど、ちびってはねえよ」
尻についた砂をはたきながら茂人は立ち上がり、僕を仲間に紹介した。仲間の人達は、やはり活動家の人達だった。
「君が鷺澤賢吾君か。突然押しかけて申し訳ない。
けったいな名前の螺内空偉は、僕が思い描く活動家とは違い、爽やかな青年だった。歳は僕より上だろう。体制と戦うような人間には思えなかった。
次に段野と茂人に紹介された人が、僕に軽く会釈し、「よろしく」と力強く目を見据えてきた。こちらの人は、空偉とは違い、本当に何かを起こしそうな目をしていた。
僕も挨拶を返した。警戒心が解けないので、どうしても言葉に力が入らない。
「ここにはどうして…」
茂人に小声で尋ねると、段野が代わりに返してきた。
「ここに共産主義コミューンを作りたいんだ」
何を言っているのだこの男は。
「茂人君の話では、床下から隠された武器が出てきたという話ではないか。呪術を生業にする村ではなく、体制を覆してやろうとしていた村なのではないのかな。その意思を我々が受け継ぎ、ここに平等社会を作り、いつかは世界革命を起こす。ここが全ての始まりになるんだ」
なんというこじつけだ。ふざけているのか。頭に血が上り、横にいた茂人をにらみつけた。
茂人は気まずそうな顔で、僕の怒りから視線を逸らした。そんな茂人の代わりに、空偉が口を開いた。
「急に押しかけてこんなことを言ってすまない。気を悪くしないでくれ。もちろん鷺澤君の調査の邪魔はしないつもりだし、むしろ協力もする。我々は、平等な社会を作りたいだけなんだ」
森林を伐採して、新しく村を作るより、切頭村跡地を活用した方が楽なのは確かだろうが、何もここに作ることはないだろう。何とかやめさせたい。しかし、僕にこの土地を使わせない権利はない。とうに滅びた村だ。今は国のものだろう。この人達にも村を作る権利はないが、そんなこと気にするはずもない。
「一緒に新しい世界を作ろう」
段野と空偉が、僕の目をみつめてきた。今までに出会ったことがない不思議な魅力を持った二人だった。
「茂人から聞いているとは思いますが、この村はいわくつきの場所です。それでもここに村を作るのですか?」
「君は呪いなんて信じているのか。この村を調べている暇があったら、愛しの彼女を病院に連れていった方が良いのではないか」
正論だが、段野の心無い言葉に、怒りが増した。
病院で治してくれないから、こうして努力しているのだ。茂人の奴、余計なことを言いやがって。
僕がにらむと、茂人はうつむいて地面に目を落とした。
「段野、失礼な言い方をするな」
空偉が段野をたしなめた。
「すまないな鷺澤君。僕達は君に協力する。だから君も僕達に協力してくれないか」
空偉の澄んだ目に吸い込まれそうになった。この人の理想を具現化してみたいような気がしてきた。
段野が僕に向かって頭を下げた。
「険のある言い方して悪かった。呪いはないという考えを曲げることは出来ないが、君の思いは尊重する。協力し合おう」
男らしく謝る段野には、先程感じた怒りを吹き飛ばす魅力がみなぎっていた。
切頭村を荒らされるのは嫌だったが、二人を前に、拒否することが出来ず、曖昧な返事をした。
空偉達は、本当に調査を手伝ってくれた。目的は別にあるだろうが、有り難い。
倒壊した家屋を片付け、村の中を調べる。武器の類がさらに発見された。霧壁家の家紋もだ。それらのものは出てくるのに、人骨も争った跡も発見出来なかった。
殺人と食人の伝承を示すものが出てこないことに、活動家の人達は安堵しているようだった。呪いなんてないと口では言っていても、気味悪く思っているのだ。その証拠に、がき塚に案内したが、上から眺めるだけで、割れ目の中に入り直接確認しようとはしなかった。
隠れキリシタンの明確な証拠も出てこず、特に問題のない場所だという空気が流れだした。共産主義コミューン建設の方向へ事態は傾いている。
休憩することになった。車座になり、持ってきた食料を口にする。作業を手伝ってもらう中で、連帯感のようなものを感じ始めていた。
「空偉さんは、何故共産コミューンを作ろうとしているのですか」
素直に尋ねてみた。
「今の日本は矛盾に満ち溢れている。資本家は労働者を搾取し、弱き者は見殺しにされている。憲法九条で戦争の放棄をうたっているのに、アメリカに手を貸し、ベトナムでアジアの同胞を虐殺する毎日だ。今日も米軍の兵士を乗せた飛行機が、沖縄から飛び立つことだろう。この国は間違えた方向へ進んでいる。誰かが声を上げ、行動を起こさねばならない」
言っていることはさして珍しいことでもないのに、空偉さんの話を聞いていると、僕の心までコミューン建設に傾てきた。楓を助けることが一番の目的ということは変わらないが、邪魔はしたくなくなってきた。
続けて段野も口を開いた。
「ここで小さくとも正しい世界を作る。正しき場所に、正しき仲間が集まる。目指すは世界革命だ」
言っていることは若者の青臭い理想のはずなのに、段野の言葉には、理想を現実に変えてしまうと思わせる力強さがあった。
空偉と段野の言っていることは大差がないはずなのに、二者の言葉からは違った印象を受けた。空偉は資本主義社会、大量消費社会から逸脱し、精神的平穏を求めているように思え、一方段野は、はっきりと口にはしていないが、武力革命を見据えていると思わせた。
その後も熱く革命について語る段野を、空偉は、あまり感情のこもっていない目でみつめていた。茂人や他の人の様に、段野の発する熱に浮かされているのとは対照的だ。
この二人は、相いれない存在なのではないだろうか。
いつの間にか茂人が、そばに来ていた。僕の怒りが鎮まったことを鋭敏に感じ取ったのだろう。こういうところは本当に要領が良い。
「反米愛国。世界革命だ」
僕に同調しろと言わんばかりに、自信に満ち溢れた顔を茂人は向けてくる。この男は、思想に共鳴しているというよりは、段野と空偉の人物の魅力に心酔しているように思える。この二人に気に入られたいが為に、切頭村のことを教えたのだろう。腹は立つが、気持ちもわからなくはない。僕も二人の求心力に、引き寄せられ始めていた。
その日は、もう少し村を調べたが、特に発見は無かった。
夕暮れが迫り、夕食と寝床の準備をする頃には、ここに共産コミューンを作ることは、ほぼ決定の雰囲気になっていた。もう流れには逆らえそうになかった。
日が暮れてから、たき火を囲んで、活動家達はこれからについて語り合い始めた。
今年の冬までに家や農地を何とかして、収穫は来年の秋。それまでは、街に出て稼いでしのぐ、という目算を立てていた。
そんなに都合良くいくとは思えないが、情熱を注ぐその姿は、羨ましくもあった。
ここに来ている人達は、ほんの一部で、多くの仲間がいるらしい。その中には、高学歴の者も含まれており、農業、建築、医学に精通した者もいるとのことだった。それが本当ならば、村を作るのも絵空事ではない。
それにしても、それだけの能力がある者なら、この今の日本でも幸せな暮らしが出来そうなものだが、僕には計り知れない思いがあるのだろう。
酒も入り、皆更に饒舌になった。
「今日、この場所から世界革命が始まるのだ!」
酔った段野が、満天の星空の下で叫び、他の人も雄たけびを上げて、それに応えた。
目の前の若者達の衝動が、今弾け出そうとしていた。
僕は一人取り残され、映画でも観ているように、それを眺めていた。
次の朝を迎え、皆で帰ることになった。
活動家の人々は、仲間を引き連れて来て、共産コミューンの建設へ取り掛かるそうだ。その最中に何か発見したら、連絡してくれることになった。
僕は、大学の授業も始まるし、金も尽きた。新たにみつけた時計と眼鏡のことも調べたい。しばらく切頭村を訪れることはないだろう。次に足を踏み入れる時、村はどのように変わっているのだろう。少し楽しみだ。自分の手でみつけられないのは口惜しいが、謎を解く手がかりがみつかってくれれば幸いだ。
夏休みが終わり、再び学業とアルバイト、切頭村の研究に追われる日々が始まった。体はきついが、それなりに充実した日々だ。
切頭村でみつけた時計と眼鏡を、大学に持っていき、歴史研究会顧問の飛里教授に見てもらった。
「眼鏡も時計も、江戸時代の山奥の村にあるものではないな」
飛里教授は、現物と資料を見比べたりしながら、これらは十六世紀後半に西欧で作られたものだと推測した。
十六世紀後半に西欧で作られたものが、十九世紀に滅びた日本の村から出てきた。これは、宣教師が訪れていた、隠れキリシタンの里ということを示しているのだろうか。昔の文化交流を見くびり過ぎるのは良くないと思う。それでも、ここにはあるはずのないものだ。あるはずがないものがある。どういうことだ。
「十六世紀中頃には、眼鏡も機械式時計も日本に入ってきていた記録がある。歴史の定説がひっくり返る程の大発見ではないが、面白いものをみつけたな。どうしてこれが、ここにあったのか、頑張って調べてみなさい」
飛里教授はそう言いながら、丁寧に時計の裏蓋を外し、中の機械部分を眺めた。
「精巧に出来ている」
僕も見てみて、当時の技術力の高さに驚いた。
「すごいものですね」
顔を近付けると、教授が持っていた蓋の裏側に、何か紋様がついているのが見えた。僕が指差すと、教授もそれに気付いた。
「これは何の模様でしょう。面白い形ですね」
植物の蔦と、十字架が合わさったような模様だ。扉を開ける鍵にも見える。
「これは中世ヨーロッパの、貴族の紋章のようだな」
確かにそんな風に見える。
「家に伝わる紋章というのは、ヨーロッパと日本だけのものらしい。中世には、はるばる海を渡ってきた西洋人は、日本でも家紋というものが存在するのを知って驚いたという話だ」
そうなのか。家の紋章という風習など、世界各地にありそうなものだが。
「時計の表面ではない、蓋の裏についていた理由はわからないが、この紋章を調べれば、これの来歴がわかるかもしれないぞ」
日本の山奥にある滅びた村が、西欧の貴族とつながっている。ここには何があるのか。宣教師がこの村を訪れていたのか。皆殺しにされたはずの霧壁一族の痕跡があるのは、何故なのか。そして、楓を助ける手がかりは、この先に待っているのか。まだまだ謎は謎のままだ。
時計と眼鏡は、飛里教授に預かってもらうことにした。自分で持つより、大学の保管庫に入っていた方が安心だ。
惟坂さんに、時計と眼鏡の写真を撮り、送付してみた。そして、手紙に目を通したと思われる頃に電話してみると、相変わらず独特の喋り口が受話器から聞こえてきた。
「場違いな出土品のことを、海外ではオーパーツというんだ。これは、それ程大袈裟ではないが、普通に考えれば、あるはずのないものだ。その消された足取りを探すなんて、わくわくするねえ」
何かわかったら連絡をくれることになって、電話が切れた。
僕一人の力は微力だが、助けてくれる人達がたくさんいる。運が良い。
その後は、大学の図書館だけでなく、国会図書館にも行ってみた。時間を捻出して資料とにらみ合う。機械時計の紋章が何なのかは、中々わからなかった。
書庫にこもって資料とにらみ合っている最中に気付いた。あの村からは、武器や時計や眼鏡など、場違いなものば多く出てくるが、もう一つあるのではないだろうか。おうせの鏡だ。現物は見た事ないので、昔読ませてもらった石走錬造の手記から判断するしかないが、かなりの精度を持った鏡であったと思われる。あの時代だと、日本は金属を磨いた質の悪いものだったはず。精度の高いガラス鏡が山奥の辺鄙な村にあるはずがないのだ。
おうせの鏡を見れば、何かわかるかもしれない。楓の家に行ってみることにした。
呼び鈴を押すと、冷たい顔の楓が現れた。
「切頭村で、機械時計や眼鏡とか、江戸時代の村にはあるはずのないものを発見した。謎の解明は進んでいる。そして、もう一つあるはずのないものがあったことを思い出した。何だと思う?」
「妖怪になって死ぬ女?」
「違うよ。そんなひねくれたこと言うな。おうせの鏡だ。江戸時代には、精度の高い鏡は、日本では作れなかったはずなんだ。おうせの鏡に、何か謎を解く鍵が眠っているかもしれないんだ」
楓は悲し気に溜息をついた。
「ありがとう。でもわかっているの。駄目だろうことは。言葉には上手く出来ないけれど、何となくわかるの。うちの一族の男達みたいに、無駄な努力しないで」
「無駄な努力なんて言うな。必死につないできた命だろ」
「無駄よ。お母さんも、おばあさんも、そのまたおばあさんも、助からないことは、わかっていたと思う。男達の無駄な努力を、止めることが出来なかっただけ。賢吾も石走錬造の手記を読んだでしょう。珠江が生き残る為に、たくさんの人が死んだ。お父さんも、戦時中とはいえ、満州で酷いことをした。もう、犠牲者の屍の上で生きるのは嫌」
血塗られた歴史だ。だが、人間は誰しもが、動物、植物など、他の生命の上で成り立っている。ずっと先祖をさかのぼっていけば、いつしか人間を殺した者にたどり着くのではないだろうか。たどり着かない者などいるのだろうか。
「確かに、石走錬造も、楓のお父さんも、人を殺した。多くの人達の怨みを背負っているだろう。でも、俺は感謝している。命をつないでくれたおかげで、楓に会えたからな。珠江だって、仁枝だって、楓のお母さんだって、頑張って命をつないでくれたから俺は楓に会えた。素晴らしいことだ」
楓は黙ったまま僕を見ていた。何の感情もこもっていなかった目は、暖かみを帯び始めていた。
「助かるよ。いや、助けるよ。俺が助ける。今のふさぎ込んでいる楓は、後々笑い話になるよ。俺達がおじいちゃんとおばあちゃんになった頃にね」
僕の言葉が終わると、扉が閉められた。しかし、扉が閉まる寸前、楓が少し笑った。泣き笑いのような顔だったが、確かに笑っていた。
笑顔を見たのは、久し振りだった。ほんの少し心の扉を開けるだけのことに、かなりの労力を使った。非効率的だ。そもそも、楓を助ける為に、考古学を学びに大学に行くなんて、冷静に考えれば、人生を捨てているとしか言い様がない。でも、楓の笑顔を垣間見ただけで、非効率とか無意味だとか、そんな空虚な言葉はどうでも良くなってきた。この人に、僕の現在を捧げる。それで良いのだ。
「また来る。それまでに、おうせの鏡を用意してくれ。一緒に謎を解き明かそう。あるはずのない鏡に、ないはずのない楓の笑顔が映る!」
閉じられた扉に向かって叫んだ。扉の向こうの楓の気配は、しばらく留まったままだった。
大学の図書館や、国会図書館に出かけて、紋章の調査を続けた。
中々みつからなかったが、中世のスペインの貴族オルレアンス家の物のようだ。そこまではわかったが、その先はまだ見えない。そのオルレアンス家について書かれた資料が、存在することがわかったが、日本国内にはなかった。当然日本語訳のものなど出版されていない。試し読みも出来ない高価な資料を、海外から取り寄せ、自分で訳して内容を理解する。空振りに終わるかもしれない。無駄骨に終わる確率の方が高いだろう。
天井を見上げると、ぼんやりと蛍光灯が光っていた。
それでもやる。楓の小さな笑顔を、もっと大きくする。
辞書を引きながら手紙をやり取りし、銀行を通してアルバイトで貯めた金を振り込み、だまされたかと不安になった頃、ようやく本が届いた。本は分厚いものが五冊あった。先は長い。これからが、本当の戦いだ。辞書を引きつつ、読み進めていく。スペインの一諸侯の話だ。王族の血筋で、かなり有力な一族だったようだ。キリスト教の教会とも深く関わっていたこともわかる。
読み進めていても、日本の話は出てこない。詳しい西洋の歴史も不勉強で、似たような名前の人物が出て来て、更に理解を難しくしてくれる。戦争の話、婚姻の話、求めている情報は、全く出てこない。苦難の道は予想していたが、予想を越えて歩を進めることが出来なかった。
詰め込み過ぎの生活を送っていると、時間は矢のように過ぎていった。
切頭村で、村づくりの最中だと思われる活動家の人達からは、何の連絡も無かった。茂人も家に帰っていないようだ。大学も当然通っていないだろう。休学したのだろうか。
永劫とも顔をあわせることがなかった。どこに赴任しているのかもわからない。昔の友と疎遠になっていくのは寂しかった。
翻訳が上手く進まぬまま、秋は過ぎ去り、冬休みを迎えた。
一応東京都内とはいえ、切頭村があるあたりは、雪が降れば積もる。道がふさがれないうちに、村を訪れることにした。
アルバイトで貯めた金で、保存のきく食料を買い込み、葉が落ちて様子の変わった山道を登った。
枯れ葉と冷たく澄んだ空気のせいだけでなく、多くの人が通ったからだろう。道を進む感触が違っていた。
切頭村に到着すると、村の景観は一変していた。
伸び放題だった雑草は刈り取られ、干上がった井戸も潤いを取り戻し、簡素な造りながら、家が三軒作られている。滅びた村が、甦り始めていた。
段野さんも空偉さんも笑顔で迎えてくれた。皆日に焼けて精悍な顔つきになっていた。
「どうだ。俺達が作ったんだ」
茂人が得意顔で現れた。友達ながらこすっからい奴だと思っていたが、今は良い顔をしていた。人は目標をみつけると、こんなにも変わるものなのだ。
畑や水田までかなり形作られていた。収穫は来年の秋以降だろうが、自給自足が出来るなら、資本主義社会から、隔絶することが可能になる。
農業担当の
「君が鷺澤君だな。独自にこの村を調べているそうだな。よろしく」
握手をした手も、大きくかつ毛深く、本当に熊のようだった。年齢は三十を過ぎたあたりのようだが、実年齢より老けて見えた。
「今持ってこられる道具だけだと、この位が限界だが、畑も田んぼも広くするぞ」
日焼けした顔が、白い歯を見せて笑った。包容力がありそうな笑顔だった。
現代社会に溶け込めなくて、ここに来たという人もいることはいるが、そうでない人もいる。土能さんも、今の日本なら上手くやっていけそうな人だ。ここで新しき村を創造することに、どんな思いを込めているのだろう。
僕が考えていると、土能さんは話を続けた。
「この村の雑草を刈り取り、畑を耕してみたが、人骨は出てこなかった。それに農地の跡から判断する限り、稲作頼みではなく、他の作物も栽培している。天候不良が続いても、簡単に飢餓状態になることは考え辛い。村人がお互いを殺し合い、その肉を食べたというのは、ただの作り話なのではないかな」
土能さんの言うことはもっともだ。反論することも出来ない。葉羽に伝わる話は、病気を発症して妖怪の様な姿になった由紀を見て、後から作られた話なのかもしれない。
しかし、伝わっている話が、実際に起きたこととは違っていても、この村が何かを隠しているのは確かだ。
「なるほど。確かにそうですね。冷静な目で調べてみます」
そう答えると、土能さんは、目を細めて笑った。
空偉さんが笑顔で話しかけてきた。文学青年のような見た目も、たくましい労働従事者に近付いていた。
「食べ物を持ってきてくれたのだね。ありがとう。残念ながら、君が望むような発見は今のところない。もっとも、がき塚には手をつけていないが」
空偉さんの内面は、爽やかさを失っていないようだ。
「この間、村のあちら側に、国道が通ったんだ」
空偉さんが指差す方は、いつも登ってきている道とは逆方向だ。
「その国道へとつながる道を、現在作成中なんだ。この道が出来れば、山の麓くらいまでは、自動車で来られるようになる。村と外が、かなり近くなるぞ」
一呼吸おいて、空偉さんは独り言のようにつぶやいた。
「良くも悪くもな…」
空偉さんのつぶやきが意味するところも、何となくわかる気もするが、あの山道が無くなれば、街は一気に近くなる。村は発展することだろう。
この人達は、本当に世界を変えるかもしれない。一緒に村づくりに参加したくなってきた。だが、冷静に自分をみつめてみると、村づくりに参加したいのは、思想に共鳴しているというよりは、自分達の居場所を切り開いていく皆の姿を、好ましく思ったからだ。その流れが、心地よさそうな流れでも、自分の本来の目的を見失ってはいけない。僕の目的は、この村の謎を解明し、楓を助けることだ。
村の皆が一致団結している中、一人で別のことを始める。自分なりに正しいと思っていても孤独を感じた。
新たにみつかった遺物を見せてもらう。武器が多い。時計や眼鏡のように西洋で作られたものはないようだ。
持参した資料をみながら、村でみつかった刀を調べてみた。鞘から抜くと刀身はさびており、過ぎた時間を感じさせた。鍔も柄も外して、刀の銘を確かめる。詳細な出所はわからないが、十六世紀後半に美濃で大量生産されたもののようだ。芸術品としての価値はないのだから、実戦用として隠し持っていたことになる。
隠れキリシタンの祭礼の道具もみつからない。現在この村にある呪術的な要素と言えば、村外れのがき塚だけだ。これだけ探しても、殺し合いの跡は発見出来ない。残された伝承と、現実の切頭村は違っていた可能性が高い。予想とは違う方向へ進んでいるが、謎の解明に向かっていると思いたい。
一人で村外れに出向き、がき塚が眠る割れ目の中に降りた。
懐中電灯で不気味な姿を浮かび上がらせるがき塚。この下に間引きされた子供が本当に埋められているのだろうか。土能さんの話によれば、切頭村は、飢餓状態になる可能性は低いらしい。そんな村が間引きなどするだろうか。根元の土に手を触れてみる。固いが掘れない程ではない。
暴いてみるか。そう考えた時、急に背筋に悪寒が走った。僕は恐れているのだ。これは発掘なのか、死者への冒とくなのか。考えが頭を駆け回り、背中の寒気はとれない。
結局何もせず、がき塚を後にした。
そのまま、村の中には戻らず、墓地へと足を向けた。
江戸時代後期ともなれば、農民も墓石を建てるようになったようだが、ここは木の墓標がばかりで、ほとんど朽ちている。字が読みとれるものもあるが、霧壁の文字はない。没した年は、天保の飢饉の時が多い。由紀は、死者を埋葬してから旅立ったのか。
墓の下には、遺体と一緒に何か手がかりも埋葬されたりしているのだろうか。何かあるかもしれないが、暴く気が起きてこない。恐怖はもちろんある。そして、それ以外にも良心とか常識みたいなものが邪魔している。それを乗り越えて人体実験をした楓のお父さんは、ある意味すごいと思う。戦争という状況にあったとしてもだ。
村の方に目を移してみれば、歴史を変えることになるかもしれない活力を持った者達が動いている。
枠から飛び出すことが出来ない自分の小市民振りに、大きく溜息をついた。
その日は、新しく造られた家に泊めてもらうことになった。
木を切り倒すところから始めて、ここまで造り上げたのだ。それなりの人員がいたとしても、大変な労力だっただろう。
囲炉裏を囲んで皆で夕食をとった。僕の持ってきた酒も入り、皆上機嫌だ。
「ここの名前を変えたんだ。切頭村では、さすがに不吉だからね。
空偉さんは、少し照れくさそうに言った。
「どれだけ利益を上げられたか、どれだけ金を稼いだかだけで、人の価値を決める世の中なんて、おかしいと思わないか。皆疑問を抱かずに、多くの不必要なものを得る為に、本当に大事なものを捨て続けている。利益や金ではない基準で動く社会を作りたいんだ」
この人となら、本当に可能かもしれない。そんな魅力、求心力を空偉さんは備えていた。
もしかすると、歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれないが、こんな近くにいても、僕は部外者だ。こんなに人がそばにいるのに孤独を感じ、仲間の輪に入りたくなった。
「賢吾、お前も一緒に革命を起こそう」
茂人の誘いの言葉と場の熱気に流されそうになったが、一歩踏みとどまり、距離は置きつつ、熱気に水を差さない言葉を選んだ。
「まずは自分の使命を全うするよ」
「そうか。それが終わったら賢吾も来い」
気分を害することなく、仲間入りを保留することが出来たようだ。
寒く熱い夜は更けて行き、いつの間にか眠りに落ちていた。
次の日起きてから、一人で村の中を探索してみたが、目ぼしいものは発見出来なかった。
そのまま帰宅も考えたが、国道へとつながる道を作っている現場を、少しだけ見に行くことにした。
山林を切り開くのはかなりの重労働だが、皆が明るい顔で働いていた。冬だというのに、汗を浮かべている。皆にとっては、未来へとつながる道なのだろう。僕にとっては、誤った道だ。今取り込まれたら、目的地から遠く離れた場所に着きそうだ。
一人村を後にした。
翻訳作業を続けた。上手くはかどらない作業に、弱気と疑念と後悔がわき上がり、僕の心を蝕んでくる。
これは無駄な行為なのではないのか。最後まで訳してみても、何もなく終わるのではないか。ただ時間だけ過ぎて、楓は妖怪になって死ぬのではないのか。
いや、そんなことはない。可能性があることはやってみる価値がある。迷うことが時間の無駄なのだ。気を取り直して翻訳を再開した。
日本からするとヨーロッパの人間など全部同じに思えるが、国によって文化も気質も違うのだ。当時も絶えず摩擦が起きていた。陸続きの隣国と、戦ったり、同盟したり、婚姻したり、そして、国の中でも同じようなせめぎ合いが行われていたのだ。
興味深いといえばそうなのだが、僕が求めている情報は中々出てこない。辞書にも載っていない言葉が出てきて、一生懸命調べてみると、特に意味のない造語や、ムーア人に伝わる架空の生物だったりして、心を削られた。そうしていると、否定的な考えが頭に攻め入ってくる。楓は、僕が助かる方法をみつけても、笑顔を見せてくれないのではないか。別の男と共に去って行くのではないか。
本を持つ手が止まった。
無償の愛。その言葉を実践出来る程、僕は聖人ではない。去って行く楓を、笑顔で見送ることは出来ないだろう。
椅子から立ち上がって、壁を見つめながら、楓の姿を思い浮かべてみた。
大丈夫だ。楓も僕のことが好きだ。
再び椅子に腰掛け、資料を読み進めていった。
気持ちが上がったり下がったりしながら読み進めていくうちに、オルレアンス家は、海を渡り、外へ領土を広げる事業に携わっていたことがわかってきた。それと同時に、カトリック布教活動を支援していたことも。
時代的背景としては、スペインの国土的事情や、カトリックの凋落。そして、文明の発展と野心。様々な要因が、あの時代の人間を外に向かわせたのが読み取れた。
とにかく、オルレアンス家が海に出たことにより、話が日本に近付いた。心が躍った。
俄然やる気がみなぎり読み進む速度が上がった。
オルレアンス家も貿易で利益を上げていたようだが、その中には、奴隷貿易も含まれていた。現代で言えば、略奪のようなこともしていた。当時の西欧貴族の行動を現代の日本人庶民が理解するのは難しいが、かなり手荒いことをしていたのだ。
南米を植民地とし、アジアにも手を伸ばしていた。狙っていたのは、中国だ。その手始めに日本に取り入り、中国進出の拠点としようとしていたのだ。
日本に宣教師を送り込み、時の権力者に取り入って、布教の許可をもらい、キリスト教を広めるのに成功した。
宣教師は日本有数の権力者織田信長にも接近。武器や資金を援助し、ほぼ日本を平定させることに成功。そして、織田信長の目を、次なる目標大陸へと向けさせた。
そこまでは目論見通りだったのだが、織田信長が部下の反乱にあって死亡。後を継いで権力の座についた豊臣秀吉は、キリスト教を弾圧。中国進出の野望は、前段階の日本で頓挫することになった。そして、事件は起きる。二十六聖人の殉教だ。
日本人、スペイン人、ポルトガル人、メキシコ人のキリスト教徒総勢二十六人が、耳を削がれ、みせしめの為京都から長崎まで歩かされ、磔にされ処刑されたのだ。
その報せを聞いたオルレアンス家の者も、キリスト教徒も、正義の怒りに燃えた。敬虔なる信徒を無惨に殺した蛮族に復讐を。しかし、その頃はスペイン、ポルトガルもカトリック教会も勢力が衰え、東の果ての島国まで軍隊を送ることは出来なかった。そこで、まずは先兵として、日本人奴隷テイマを送り込むことになった。
テイマ。誰だこれは。ただ、どこか引っかかるものがある。
テイマに対する説明も少し書かれている。日本から奴隷として売られたテイマは、インドのゴアで戦闘に参加し、武勲を立てた。その後、スペイン本土に送られ、八十年戦争に参戦。ここでも活躍する。そして、二十六聖人の殉教で盛り上がった宗教熱を背負い、日本に送り返されることになった。
前に惟坂さんにもらった資料を見返してみた。皆殺しにされた霧壁一族の中に、当主霧壁範聞の息子、
この男が死んではおらず、奴隷として外国に売り飛ばされ、そこで兵士として戦いに参戦し、密偵として日本に戻ってくる。そんなことが有り得るのか。なんとも信じ難い。しかし、僕がみつけた物証とは符号する話ではある。切頭村から、霧壁家の家紋が出てきたことも、西洋で作られた眼鏡や時計が隠されていたことも、これで説明がつく。
隠れキリシタンの村というよりかは、日本の植民地化を狙う密偵の村ということなのか。
資料を読み進めても、その後はテイマの名も、日本についての記述も出てこなくなった。スペインの国力が衰退し、東方の島国に構っている余裕はなくなってしまったようだ。
飛里教授のもとに資料を持っていき、内容について尋ねてみた。
「君の努力を否定したくはないが、この資料自体が怪しい。オルレアンス家の子孫が最近書いたものだが、著者は学位こそ持っているようだが、本業は別の職のようだし、主観も入っている。テイマが霧壁悌真と同一人物だとしても、日本にどうやって入国して、どうやって関東の山奥に村を作ったのかもわからない。村に時計と眼鏡が隠されていたからといって、この資料を信じるのはどうかと思う」
「では、この資料はスペインの貴族が書いた妄想ということでしょうか」
「そうとも言い切れない。この時代に、日本人奴隷が海外に売られていたのは確かだ。豊臣秀吉が、外国船渡航を規制したのも、奴隷貿易をやめさせるのが一つの目的だったという説もある。一五八二年に九州のキリシタン大名に派遣された遣欧少年使節も、海外で日本人奴隷を見たという言葉を残している」
飛里教授が出してきた本は、バチカン美術館に保存されている絵画が載っているものだった。その中の一枚が、教皇グレゴリウス十三世への謁見に向かう東方から来た四人の少年の絵だった。馬に乗り、教皇の元へと向かう姿は、大勢の群衆の熱狂的な歓迎を受けている。霧壁悌真も、この光景を見たのだろうか。
僕は、更に質問を続けてみた。
「スペインが織田信長を利用して、大陸に進出しようとしていたのは本当なのでしょうか」
「これも嘘とは言い切れないな。信長にしてみれば外国勢を利用して日本を統一し、大陸に打って出ようと思っていたのだろう。お互い利用し合っていたのではないかな」
視点が変われば、見方も違うということか。
「日本に来た宣教師達にしても、本国から資金提供を受けるのに否定的なことばかりも書けない。日本を布教することによる経済的利点も示さねばならなかっただろう。彼らにとっては、侵略ではなく、未開の蛮族に教育を与えてやるくらいの考えだったのではないかな。元軍人の宣教師も多かったという。軍人としての出世を諦め、布教の道に栄光を求めたのだ。その当時の宣教師の指す言葉として、片手に聖書片手に剣、というものがある。布教と領土拡大の関連性を表している言葉だ」
宗教家が人を救う為ではなく、自分の名誉の為に布教活動を行う。そんなことが有るのだろうか。いや、あるだろう。革世黎源郷の人達も、共産主義思想に共鳴して集まった者ばかりとも思えない。思想の名を借りて、自己実現しようとしている者も多い。
「信長が本能寺で生き延びていたとしても、大陸進出は難しかったと思うが、秀吉が朝鮮出兵に失敗したのは、伴天連追放令を出して、ヨーロッパ諸国の力を借りられなかったことも要因だと言われている。西欧の技術力は進んでいたが、日本にとっては、両刃の剣だった。秀吉と家康は、剣を持たないことを選んだ」
話が大きくなり過ぎて、肝心なことがぼやけてきてしまった。軌道を元に戻さねばならない。
「スペインが殉教者の復讐と日本の植民地化を狙って、日本人奴隷を送り込むなんて有り得るのでしょうか」
「残念ながらないだろう。オランダが貿易の利益を独占する為、スペインの悪評を流したという話もある。そこから発生した作り話だろう」
普通に考えればそうなる。教授の話を受け入れられないのは、何か特別なことがあった方が、楓の病気を治す手がかりになるのではないかという思いと、頑張って翻訳した労力が、正常な判断を邪魔している。スペインの貴族の末裔が、趣味で書いた適当な歴史書を信じるなんてどうかしている。
礼を述べて、教授室を後にした。
一応惟坂さんにも、電話で連絡してみた。
大概、飛里教授と同じ意見ではあったが、一つ気になることがあると言った。
「僕が昔ヨーロッパを旅行した時に、バチカンの美術館で、日本人兵士が描かれた絵を見たような気がする」
正直言って、惟坂さんがヨーロッパ旅行をしたことに驚いた。似合わない。
「僕にヨーロッパは似合わないと思ったかい?」
「一ミリたりともそんなこと思っていません」
「とにかく見たんだ。戦争の絵なのだが、いつどこの戦いかは覚えていない。誰が描いたかも気に留めなかったが、西洋人に混ざって戦う日本人らしき男を、確かに目にしたんだ」
礼を言って電話を切り、思いを馳せた。
霧壁悌真なのか、いや、その前に、惟坂さんの記憶は正しいのか。バチカン美術館。遥か海の向こうだ。日本にその絵の情報がないのならば、実際に海を渡るしかない。
まずはいつも通り図書館で資料にあたったが、存在すら確認出来ない。美大の教授に問い合わせてみたが、わからないとの返事だった。
バチカンに渡る金を工面するのは、かなりの時間と労力がかかる。まずは手紙を書くことにした。調べてみたところ、バチカンの公用語は、ラテン語ということがわかり、気が遠くなりそうになった。それでも、辞書を引いたり、大学の教授達の助けを借りたりして、どうにか手紙を書きあげ、送ることが出来た。念の為、教授にも一筆添えてもらった。
手紙の内容は、中世の戦いを描いた絵に関する質問だ。それは誰によって描かれ、そこに日本人兵士はいるのか。惟坂さんの曖昧な記憶を頼りにした、とりとめのない文章になってしまったが、何かわかるかもしれない。「そんな絵は存在しない」という答えが返ってきても、それはそれで前進だ。
冬が終わり、春が来た。
ずっと気にはなっていたが、訪れることはなかった革世黎源郷へと足を向けた。
春先でも山の空気は、まだまだ冷たい。太陽の光が当たり辛い場所には、雪が残っている。
国道へとつながる道は、開通したかもしれないが、いつも通った道で村へ向かった。
足場の悪い中たどり着いた村には、人々の笑顔があふれていた。
茂人が僕の姿をみつけると駆け寄ってきて破顔した。
「こんなに春が待ち遠しかったのは、生まれて初めてだ」
消えた顔もあった。人数は前より減っている。冬の寒さに耐え切れなかったのだろう。
「国道につながった道を通って、逃げ出しちまったよ」
僕の考えを察した茂人が言った。
こう言っては悪いが、茂人が離脱しなかったのは、驚きだった。
黎源郷に残った人達は、一様に春の喜びと、耐え切った誇りに満ちていた。
土能さんが、冬眠明け熊の様な姿で現れた。
「土が目覚めるぞ」
畑仕事が始まれば、この人の本領発揮だ。見るからに張り切っている。
段野さんの顔もあった。相変わらず押しの強そうな眼光を放っていた。寒さくらいでは、この人の力を削ぐことは出来ないようだ。
「春は革命の季節にふさわしい。そう思わないか」
あなたは、年がら年中革命です。
黎源郷の人々の思想を支持している訳でもないが、情熱の炎が消えていないことには安心した。
残念ながら僕が探している類のものは、発見されていないそうだ。代わりに別のものをみつけたというので、見せてもらうことにした。
村の中心部からしばらく歩き、山の中腹まで来ると、白い煙が立ち上っている場所があった。温泉だ。
「この発見が無かったら、この冬を乗り越えられなかったかもしれない」
案内してくれた空偉さんが、にこやかに笑った。
石で囲って形を整えてはいるが、ほぼ地面からわき出したままだ。湯は茶色く濁り、いかにも効能がありそうだった。
服を脱いで、ゆっくり足から温泉へと浸かった。体が心地よい温もりに包まれた。温泉が無ければ冬を乗り越えられなかったという空偉さんの表現も、大げさではない程気持ちよかった。
空偉さんも一緒に温泉に入り、共に空を見上げた。
横にいる空偉さんに、かねてから疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「螺内空偉って本名なのですか?」
空偉さんは笑顔で答えた。
「そんなわけないだろう。本名が平凡過ぎて嫌だから、通名を使っているんだ」
さすがに本名なわけないか。
しばしの心地よい沈黙の後、空偉さんが言った。
「この世界を不平等な歪みから解放出来るのなら、この身は惜しくない」
空を見上げたままつぶやく空偉さんの横顔は、余計なものが削ぎ落された美しさがあった。
返事を期待していた自分の愚かさに苦笑し始めていたころに、バチカン美術館から返信が届いた。
国際郵便で届いた大きな封筒を開けると、大きめの写真が二枚入っていた。一枚は絵の全体像を写したものだ。戦争の様子が描かれている。銃を撃つ者、槍で突く者、剣を振るう者、そして、死んでゆく者。もう一枚の写真は、一人の男に焦点が当てられていた。僕が捜していたと思われる男だ。本当に存在していた。惟坂さんの記憶は正しかったのだ。絵の中の男は、黒い髪を束ねて髷を結っており、革製と思われる鎧を着ていた。手には日本刀に近い形をした剣を携えている。切れ長の鋭い眼は、敵に死をもたらすべく、冷たく光っていた。
写真と共に封筒に入っていた手紙には、絵の説明が記されていた。
この絵は、十六世紀後半から、十七世紀初頭に、オルレアンス家の命により、スペインの画家、ヒエロニムスによって描かれたものであること。絵に描かれている戦いは、オランダ独立戦争のもので、絵に描かれている東洋人は、日本人奴隷テイマと目されている。テイマは、戦争で武勲を上げた後、日本との国交交渉の為、船で日本に帰った。そのようなことが、紙には書かれていた。
バチカン美術館に収蔵されている絵の中にも悌真はいた。画家のヒエロニムスは、実際に戦場に行ったのか、依頼主のオルレアンス公の話を聞いて絵を描いたのかわからない。多分後者だろう。そうすると、僕が訳した資料も、絵も出所はオルレアンス家ということになる。他の証拠でもみつからない限り、悌真の存在が実証されたとは言えない。しかし、今は、霧壁悌真が存在して、ヨーロッパに渡り、何らかの理由で日本に帰国したと仮定することにした。
写真をもう一度眺めてみる。悌真の属するオルレアンス家の軍勢は、鍵の紋章の旗をはためかせていた。切頭村に隠されていた機械時計にも刻まれていたのと同じものだ。オルレアンス公は、甲冑に身を包み、白馬にまたがって兵を率いている。描かれてから三百年以上経っても、その勇壮な姿は輝いていた。絵の中の悌真は、殺伐とした表情をしていた。遣欧少年使節団の、民衆に歓迎され、教皇に謁見する華やいだ雰囲気とはまるで違う。光と影をあらわしているようだった。
悌真は、遣欧少年使節団のことを知っていたのだろうか。知っていたのなら、使節団の少年達を、どのような想いでみつめていたのだろう。
惟坂さんに電話すると、
「本当にあるか疑っていただろう」
心を読まれてどきりとしたが、
「信じていました」
そう言うと、惟坂さんは電話の向こうで笑った。
「当時の船は帆船だ。一年に二回しか風が吹かない。海外との距離は、今とは比べ物にならない程遠い。海賊もたくさんいるし、台風で沈む船もたくさんあった。今で言えば、宇宙旅行のようなものだったのだろう。そして、奴隷剣士ならば、戦場でも一番危険なところに送られるはずだ。生き残れる可能性なんてほとんどない。それでも、霧壁悌真は、戦場をくぐり抜け、海を渡り、日本に帰ってきて切頭村を作った…。奇想天外な話だが、君が信じるのなら、全人類がないと言っても、それはある。進んでみるといい」
「進んでみます」
ここから進むには、資料にあたっていても仕方がない。とにかく、おうせの鏡を持って、もう一度がき塚を調べてみなければならない。
再び楓の家に向かった。
「もう来ないで。私は一人で妖怪になって死ぬから。何回言わせるのよ」
扉を開いた途端に、楓は僕を追い払おうとした。
「妖怪がなんだ。鶴の恩返しの爺さん達も、雪女の
「好きな人だからこそ、正体を見られたくないのよ。それくらいわかってよ」
楓の気迫にたじろいだ。だが、今、楓は僕のことを好きだと言わなかっただろうか。言った。確実に言った。絶対に言った。
好きな人に、ただ好きだと言われる。ただそれだけなのに、この幸福感は何なのだろう。
「私が発症して醜い姿になっても、まだ好きでいてくれるの?」
「好きでいる」
楓が目を見開いて、言葉を詰まらせた。
「楓が妖怪に変わったら、俺も呪いを受けて妖怪になる。もし呪いを受けられなかったら、日本軍が作ったウィルスを注入して妖怪になる。一緒の道を行こう」
大きく見開かれたままだったが、目から怒りの色は消えていった。そして、楓の瞳から、涙が流れ落ちた。
僕は一歩進み出て、楓を抱きしめた。自分のことを嫌っているかもしれないと不安に思っていた人が、僕の胸の中で泣いている。まだ、何も解決していないけど、ハッピーエンドが訪れた気分だった。ここで終われたら幸せだが、現実は続いていく。そんなに未来は甘くないが、悲しい結末で終わらせるつもりはない。楓を助けるという使命感が、更に強くなっていった。
おうせの鏡は、陰織家の中で行方不明になっていた。楓は探し出すと誓ってくれた。
鏡がみつかる前に、もう一度村を調べておこうと思い、家を発った。
今回は、国道へとつながった道を使って黎源郷へ行くことにした。
レンタカーを借りることも考えたが、節約の為にヒッチハイクをすることにした。
何台もの車に断られた後に、ようやく長距離トラックに乗せてもらうことに成功した。
柄は悪いが、気さくな運転手の与太話を聞きながら、都市から自然へと変わっていく車窓を見ていた。
思っていたより早く、黎源郷へと続く道の場所まで来た。
「こんなところで降りるのか。通りかかったら帰りも乗せてやるぜ」
煙草のやにがついた歯を見せて、運転手が笑った。
礼を言って降車し、走り去るトラックを見送った。
何の標識もない黎源郷へと続く道の端は、一見するとただの草の切れ目の様に見える。舗装されていない道を歩き始めると、車のタイヤの跡が認められた。黎源郷の人達は、車も手に入れたようだ。
この道を通って逃げ出した人達もいる。そう思うと少し複雑だが、昔の山道に比べれば格段に楽だ。
しばらく進むと、薄汚れた農業用トラックが駐車されていた。黎源郷のトラックだろう。ここからは山道が急で細くなっている。徒歩で進むしかないのだ。
山道も、急な場所は木や石で階段が作られていて、旧道よりも楽に進めた。
そろそろ休憩でもはさもうかと思った頃、既に村に着いていた。時間も体力も、かなり節約出来た。
到着したものの、様子がおかしかった。黎源郷は以前のように活力にあふれてはおらず、重苦しい空気に支配されていた。
話し合いの声が聞こえてきた。片方は怒鳴っている状態に近い。段野さんと空偉さんだ。
「武装蜂起すべきだ。カストロやゲバラが、キューバに上陸した時、彼らの軍勢は十二人しかいなかった。それに対し敵軍は二万。それでも革命は成し遂げられた。彼らに出来て、我々に出来ぬ道理があるか」
「海外と日本では話が違う。武力に訴えても、まだ戦争の記憶が消えない日本では、受け入れられない」
「そんな甘いことを言って、虐げられている弱者を見捨てるのか。資本主義という弱者切り捨ての世を、見て見ぬ振りすると言うのか。力無き正義は無力だ」
「次の段階へ武力で移行する場合、一番泣きを見るのは弱者だ。僕は、君とは別の歩き方で次の段階へ行きたい」
この展開は予想していた。この二人は、同じ場所を目指しているようで、実際はそうではない。資本主義社会という敵が一緒なだけで、相容れない存在なのだ。
段野さんは、情熱と野心の発散する手段として、共産主義思想を使っているように思える。対する空偉さんは、物質的な平等ではなく、精神的平等を目指しているように感じる。宗教的共産主義とでも言うのだろうか。
二人の話し合いを、まわりの人々が、不安気にみつめていた。
結局、段野さんは出ていくことになった。段野さんと志しを共にする人々も出ていく。稲が実り始め、道もつながり、家も増えた。これまで苦楽を共にしてきたのに、離れていくのだ。
茂人は、段野さんと一緒に黎源郷を出ていくようだ。別離を悲しむ人が多い中、茂人は迷いなく、革命への希望を燃やしていた。
「賢吾。世界の夜明けを見に行かないか」
自分の進む道に、一点の疑問も感じていない顔だ。その自信は、自分の中から来るものではなく、段野の人間力に依るものだ。危うい。
「自分の闇を払わないと、先に進めない。まずは世界の夜明けより、自分の夜明けだ」
「楓の笑顔が、お前にとっての夜明けの太陽だな」
格好つけた茂人の台詞に、思わず笑ってしまった。
「きざったらしいな」
僕の言葉に、照れた笑いを浮かべて茂人が返してきた。
「教科書に載る言葉だ。覚えておけよ」
段野達は、新しい道を通って去って行った。先頭に立ち、皆を率いていく段野は、神々しいまでに輝きを放っている。本当に世界を変えるかもしれない。
空偉さんは、そんな段野達を静かにみつめていた。
「その道の先には、終わりが待っている」
楓と一緒に街へ出た。楓が陰気になって以来初めてのことだ。ここまで来るのに、長い時間がかかった。
行きたいところがあるというので、楓についていった。
電車に乗ってたどり着いたのは、日比谷生命館だった。
かなり前にGHQから返還され、現在は戦前と同じく、保険会社の社屋となっている。多少古びてはいるが、昔と変わらぬ荘厳さだった。
外から建物を見ているだけで、幼き日の恐怖心が甦り、鼓動が速くなった。
楓は様子が変わらなかった。そして建物を眺めたままつぶやいた。
「もしあの時、ウィルスが外に出ていたら、どうなっていたのかな」
どうなっていたのだろう。
「世界は終わっていたかもしれない」
僕の返事に、楓は特に反応せず、日比谷生命館をみつめているだけだった。
中には入らず、楓は別の場所に歩き始めた。
着いた先は、三菱一号館だった。石走錬造が、珠江を助ける為に戦った場所だ。現在は老朽化の為に取り壊している最中だった。歴史がまた一つ消えていく。
楓の横顔をみつめた。彼女の心に去来しているのは、どんな気持ちなのか。
「ここで二人が死んでいたら、いえ、二人のうちどちらかが死んでいても、私はいなかった」
僕はうなずいた。
「でも、ここで殺されたから、つながらなかった命があることも確か」
まだ引きずっている。そんな否定的なことを言うな、と思ったが、黙っていた。
そのまま無言で、解体されてゆく三菱一号館を眺めていた。
しばらくそうしていた後、楓が再び歩き始めたので、僕も続いた。
三菱一号館から北へ歩き、東京駅を通り過ぎ、更に進んだ。
僕らは日本橋にたどり着いた。関東大震災も、東京大空襲も耐えた石橋だ。貫井真治と仁枝が、この橋の上で再会を果たしたのだ。その時と違っているのは、橋の上を高速道路が覆っていることだ。東京オリンピック前に、渋滞緩和を目指して急きょ建設されたのだ。便利にはなったのだろうが、景観は損なわれた。
「これでは、雨も二人を近付けられないわね」
実際には橋全体を覆っているわけではないが、それ位の閉塞感はある。
「雨でも晴れでも曇りでも、俺達は近付く」
楓がこちらにゆっくり顔を向け、うっすらと微笑み、うなずいた。
「ここで貫井真治と仁枝が再び出会い、私のお父さんが、焼け野原の中生きる決意を固めた」
ずっと無気力で沈んだ目をしていた楓に、生気が宿り始めるのがわかった。
「私を呪われた村に連れて行って」
楓と二人で、旧切頭村、現在は黎源郷へと向かうことになった。
休暇で帰省していると聞き、永劫も誘ってみることにした。
「あの滅びた村が生まれ変わったんだ」
電話で呼び出し、待ち合わせの場所に現れた永劫は、以前とは別人のように顔つきが変わっていた。こちらを見る目は暗く、底の無い穴の様な、それでいて尖った針の様な、眼球と呼ぶのがはばかられる異様さだった。
「どうした。俺の顔に何かついているか」
やばいのが二つついている、とも言えず、
「しばらく見ない間に、凄味が増したと思ってな…」
言葉を濁して、動揺を悟られないよう誤魔化した。
楓と共に黎源郷に行くので、一緒に行こうと誘ってみると、少し驚いた顔をした。
「楓、家から出てきたのだな」
「そうだよ。お百度参りして、ようやく外に連れ出したよ。小野小町かお前は、って言いたくなったぜ。あ、あれは千回だったかな」
僕の軽口に、特に反応せず、永劫は遠い目をして、「そうか」とだけ言った。
元々大袈裟な受け答えをする方でもないが、今日は薄過ぎる。何となく気詰まりで、茂人の動向に話を移した。永劫が知らない最近の出来事を簡潔に説明し、今の茂人の状況を告げた。
「あいつは、革命を起こすとかで、村を出ていった。似合わねえよな」
永劫は、眉間に皺を寄せて、辛そうな表情を浮かべた。
気分を害してしまったかと思い。僕は慌てて取り繕った。
「似合わないけど、目標みつけて良い顔してたよ。教科書に名を残すって言っていたぜ。夢がでかいのは良いな」
取り繕うとしたが、永劫の表情は晴れなかった。
「茂人、しっぽを巻いて帰ってくると良いな」
切実な顔で永劫が言葉を絞り出した。
僕の言葉に怒りを覚えたのではないのは安心したが、永劫の心は計り知れなかった。
集合場所へ行くと、楓が大きめの包みを取り出した。
受け取ってみると、結構重い。中身は円盤状の形をしている。これがおうせの鏡か。
「石走錬造が、悲しみにまかせて叩き割ったかと思っていたけど、探してみたら、ちゃんと残っていた」
包みから出してみると、僕の顔がきれいに映った。予想通りガラス鏡だ。銅鏡が主流の江戸時代の田舎村には、あるはずのないものだ。これも霧壁悌真が持ち帰ったものなのか。表面には、オルレアンス家の紋章は入っていない。この鏡を使っても、珠江の呪いは解けなかった。使い方を間違えていたのか。それとも…。
ともかく、もう一度この鏡を持って、がき塚に行ってみよう。
新しい道を使って、楽に黎源郷まで行こうと提案したが、楓は旧道から行くことにこだわった。
電車に揺られてから、山道を歩き始めた。
細くて色白の楓のことが心配だったが、しっかりとした足取りで僕らについてきた。
休憩することにして、手ごろな場所に腰を下ろした。
楓が、家で作ってきてくれたおにぎりをくれた。口に入れて噛み締める。話すらまともに出来なかった人が、手作りの食べ物をくれる。最早、舌ではなく、直接脳が美味を感じていた。
「こんなにうまいおにぎり、この世に存在するとは思わなかった」
「この世のものではない女が作ったおにぎりだからね」
前は自虐的に言っていたことも、今は冗談めかして、笑いながら言っている。そんな楓が嬉しかった。
永劫は、楓の変貌に驚きつつ、喜んでいた。
再び歩き始めて、かわんとの淵に着いた。
いつも通り嫌な感じがする。横にいる楓の白い顔が、更に白くなっている。本人も体調の変化に気付いているようだ。
「ここ、おかしいね」
僕は無言でうなずいた。何か見えたり、変な臭いがするわけでもない。でも、何かおかしい。
僕達は、赤銅色に鈍く光る像に別れを告げて、先に進んだ。
てんぐの曲がり松がある崖沿いの道に差しかかると、楓もさすがに足がすくんでいた。それでも泣き言を言わずに進んだ。
「天狗が怒って空を赤く染める前に、崖の下を赤く染めそうね」
心配したが、毒のある軽口を叩く余裕もある。大丈夫そうだ。
予想以上に楓が頑張った為、早めに黎源郷に到着した。
段野率いる武闘派の離脱もあったが、黎源郷は、かつての明るさを取り戻していた。
稲はたわわに実り、黄色くなった頭を下げている。収穫の季節だ。本音を言えば、ここに村を作るなんて不可能だと思っていた。部外者だというのに、感動を覚えた。
空偉さんが、僕を認めて近付いてきたが、途中で横に楓がいるのに気付いて歩を止めた。
「そちらの女性は、あの…」
茂人から聞いているはずだ。病気の女、もしくは、呪われた女だと。
「こんにちは。陰織楓です」
ぎこちないながらも、楓が礼儀正しく挨拶した。
村の人々からは、好奇の目線が向けられていた。皆が知っているようだ。
弱者切り捨ての社会に矛盾を感じ、新しい平等な世界を作ろうと集まってきた人々のはずなのに、楓に対しては、差別的な視線を投げかけている。異質なものへの攻撃というのは、生物の本質的なものなのだろう。仕方がない。
僕らが稲刈りを手伝うと言うと、皆が歓迎してくれた。猫の手も借りたい時期なのだ。
がき塚の調査は、後日にすることにして、稲刈りを手伝った。田んぼに入り、腰を曲げて稲を刈る。
田んぼの形は不揃いだし、稲刈機を導入するには、経済面でも運搬面でも問題が多い。現時点では、人の手に頼る他ない。
僕と楓が稲刈りをしようと準備していると、永劫はうかない顔で、田んぼをみつめていた。
「どうした永劫。具合でも悪いのか」
「いや。泥がな…」
「ん? 泥がどうした?」
そう言えば、稲刈りの時は、田んぼから水を抜き乾燥させて稲を刈ると聞いたことがある。黎源郷の田んぼは、水は抜かれているがまだまだぬかるんでいる。土というよりは泥だ。乾燥し切れなかったのだろう。
「いや。何でもない。ただ、今足の調子が悪いから、泥の中に入るのは、辞退させてもらう。別のことを手伝うよ」
山道を歩いている時には、痛そうな素振りを見せなかったので、意外だったが、仕事は他にもあるので、そちらに回ってもらうことにした。
作業を始めると、すぐに汗がふき出し、体中が疲労で痛くなった。村の中には、実家が農家で、農作業経験者もいたが、ほとんどがただの素人だ。皆四苦八苦している。そんな中で、稲刈りまでたどり着いたのだ。大したものだ。
刈り取った稲は、天日干しにして、脱穀する。黎源郷で、収穫した米を口にするのは、もう目の前だ。
夕暮れ前に作業を終えて、温泉に行くことにした。
温泉は一か所しかなく、男と女が順番に使うことになっていた。今日は先に女性が入ることになった。
初対面の人と風呂に入るのは嫌がるかと思ったが、楓は女性陣と連れ立って温泉へと向かった。
女性達の入浴が終わったら、永劫を温泉に案内しようと思っていたが、肝心の永劫が見当たらなかった。人に訊いてみると、てんぐの曲がり松の方へと歩いていったと教えてくれた。僕は永劫の後を追うことにした。
村から降りて、曲がり松のところへ来た。永劫の姿は無い。
言い伝えでは、てんぐが空を赤く染めて怒る、と残されている。素直に考えれば、空が赤くなる夕暮れ時に、何かが起こりそうだ。
永劫の姿が見えないはな気になったが、曲がり松の前で、日が沈むのを待った。
何も起こらない可能性が高い。天狗が本当に現れるなど有り得ない。しかし、切頭村の謎解明の手がかりとなるかもしれない。
その時、僕の死角から人影が躍り出して、曲がり松の上に飛び乗った。
天狗が現れた、と驚いたが、永劫だった。二本の足で体勢を崩すことなく立っている。その身のこなしは、本物の天狗のようだった。
「脅かすな妖怪」
「失礼なこと言うと、空を赤くするぞ」
軽やかに動いて、永劫は僕の横に降り立った。
二人で日が沈むのを待った。
永劫が時折見せる暗い影について、訊いてみようかとも思ったが、やめておいた。言いたくなったら、自分で言うだろう。
向こうの山に日が沈み始めた。今日の天気は晴れ。きれいな夕日が見れそうだ。
空が赤く染まってきたが、何も起こらなかった。
「天狗来ないな」
「そうだな」
夕日は刻々と姿を消していく。景色はきれいだが、何事もなく夕日は姿を消しそうだ。
村へ帰ろう、と言おうとした時、永劫の表情が変わった。急に服をつかまれ、地面に引きずり倒された。体を打ち付け、息が詰まった。次の瞬間、僕らの上を、一陣の風が吹き抜けていった。
風が過ぎ去った後は、何事も無かったように、静かな夕暮れが戻ってきた。
「今の何だ?」
「風だ」
「これが天狗の正体か」
立ち上がって、顔を見合わせて笑った。
昔の人は、不可解な出来事や自然現象を妖怪の仕業と言ったりした。これもその一つだ。この場所では、夕暮れ時に突風が吹くことがあるのだ。だから、夕方ここを通る時は気をつけろ、という教訓を天狗の言い伝えとして残したのだ。松の木が曲がって成長したのも、風に吹かれ続けたせいかもしれない。
「木の上に立ったままだったら、今頃崖の下だ」
そう言って、永劫は更に笑った。
かわんとの方は、確かめていないが、同じような意味合いだろう。今は水がないが、昔は池があったのだろう。溺れて死なないように戒めを残したのだ。
次の日は、農作業ではなく、がき塚の調査をすることにした。
おうせの鏡を使用して、石走錬造と珠江が行った儀式を再現したかったが、あいにくの曇天だった。太陽の光を反射することが出来ない。
とにかく、懐中電灯の灯りを頼りに、割れ目の中に降りた。
暗闇の中に浮かぶ、がき塚の異様な姿に、楓が息をのんだ。何回も見ている僕でさえ、不気味に感じる。
「おうせの鏡で光を当てれば、次の扉が開く…」
がき塚をみつめながら楓がつぶやいた。そして、更に言葉を続ける。
「呪いが解けるとは、一言も言っていないのよね…」
ほんの些細な一言なのに、胸がえぐられた。
そう、呪いが解けるなんて言っていないのだ。この村を調べれば調べる程、呪いというものから遠ざかっていく。
楓が助かると思いたいが為に、目の前の事実をねじ曲げ、都合良く解釈しようとしているのは自覚している。しかし、自分が望む結末ではなくとも、ここには何か隠されているのは確かだ。もう少し先に進まねばならない。
恐怖と先入観にとらわれないように心を正し、もう一度がき塚を調べてみることにした。
入り口から見てがき塚の真後ろに、おうせの鏡がはまるところがある。石走錬造は、ここに鏡を設置した。しかし、本当にこの場所で正しいのか。
まわりの岩肌を眺めてみる。壁も天井も粗く削られた造りだ。
がき塚に向かって、左側の壁に違和感を覚え、光を当てて調べてみた。自然に出来た造形にも見えるが、何かがおかしい。試しにおうせの鏡を乗せてみると、ぴたりとはまった。こちらが正しい位置なのか。地上の方の鏡を調節すれば、この鏡にも光は当たる。その時、何が起こるのか。今すぐ確かめたいが、あいにくの曇り空。太陽の光をさえぎる雲が恨めしい。
その時、上から人の気配がしたので、入り口の下まで行き、割れ目の底から空を伺うと、曇り空との間に人の顔が見えた。茂人だ。
「どうした。もう革命は成功したのか」
予想通り、しっぽを巻いて逃げ帰ってきたのだと思ったが、少し様子がおかしい。
「かくまってくれ」
「かまってくれ? 何言っているんだお前は?」
地上に上がってみて、明るい中で確認すると、茂人の顔は様変わりしていた。頬はこけ、くぼんだ眼窩の中では、充血した目がせわしなく動いていた。
「みつかったら殺される」
どうやら本当に非常事態のようだ。
永劫も楓も、心配そうに茂人を見ている。
錯乱状態に近い茂人は、永劫と楓に会うのが、久々だということすら気付いていないようだ。
「みつかったら殺されるって、誰に殺されるんだ?」
茂人は一度大きく息を吐いて、絞り出すように声を出した。
「だ、段野さん達にだよ。ついていけなくなって離脱した仲間を、粛清の名のもとに殺しているんだ」
茂人の言葉に、実感が伴わなかった。
「埼玉で警官が殺されて拳銃を奪われたのも、群馬の銃砲店が襲われたのも、俺達がやったことだ」
そういえば、そんな事件ラジオで流れていた気がする。
「警察に保護してもらえよ」
「捕まっちまうだろ。俺は殺してねえ」
「家には帰れないのか?」
「家族は巻き込みたくない」
自分勝手な泣き言を怒鳴るように言われ、こちらも困ってしまった。
茂人は、黎源郷まで逃げて来たものの、段野と通じている者がいるかもしれないと怖気づき、がき塚の方へ来たそうだ。
「茂人は段野に追われているが、段野達は警察に追われている。彼らも黎源郷に逃げて来るのではないか」
永劫の言葉に背筋が凍った。遠い国の出来事の様に聞き流していたラジオのニュースが、銃で武装した現実の敵として姿を見せようとしている。
空偉さん達に知らせる為、村へ走った。永劫と楓も、僕の後に続いた。
「一人にしないでくれよ」
茂人もついてきた。
血相を変えて走ってきた僕達を見て、空偉さんは驚いていた。
「どうした。がき塚の謎が解けたのかい?」
「そうじゃないのです」
そう言った僕の声は、一発の銃声にかき消された。
銃声がした方に目をやると、拳銃をこちらに向けた段野達の姿があった。
「この村は預からせてもらおう」
村中から悲鳴が上がり、人々が逃げ出そうとしたが、もう一発の威嚇射撃が村の動きを止めた。
「逃げようとした者は撃つ」
段野の手下が、猟銃を持って走り、村の中心部にいなかった者達も引き立ててきた。黎源郷は瞬く間に制圧された。
楓は青ざめ、僕に身を寄せてきた。
永劫は動揺している様子はない。視線を動かし、状況の把握に努めているようだ。
茂人の顔は、ほぼ死人だった。人は絶望した時、こんな顔をするのだろうか。
僕は、立ち位置を一歩ずらし、段野の視界に茂人が入らないようにしたが、そんなに効果ないだろう。
張り詰めた空気の中、空偉さんが段野の前に進み出た。
「段野。ここに災厄を持ち込まないでくれ。武器を捨てて、平穏な暮らしを作ろう」
段野は拳銃を空偉さんに向け言った。
「平穏で平等な理想郷を作れば、その心が伝播して日本中に広がっていくなど、出来る訳なかろう。革命は武力により、血を流してこそ成し遂げられるのだ」
「少ない人数で、武器も銃が数丁。こんな限られた兵力で何が出来る。すぐに拭い去れる小さな染みを作って終わりだ」
それを聞いた段野は、不敵に笑みを浮かべ、拳銃を構えたまま、もう片方の手で保冷箱を掲げた。
「銃弾だけで世界を変えようなんて思っていない。そこにいる茂人が、良いことを教えてくれた。旧日本軍が作った細菌兵器のことをな」
保冷箱の中には、瘧狼病ウィルスが入っている。幼き日の悪夢が甦ろうとしているのだ。
茂人の方を振り返ると、死人の方がましな顔をしていた。
「防疫研究所を襲撃し、この瘧狼病ウィルスを奪取した。このウィルスに感染すれば、人は妖怪の様な姿になり、他の人に噛みつこうとする。噛まれた人間は、また妖怪のような姿になる。治療法はみつかっていない。このウィルスを広めれば、都市に大きな損害を与えられる。陸の孤島であるこの村で、我々は感染を防ぎ、頃合いをみて日本を占拠する」
それは革命なのか。
空偉さんは、段野の過激な発言にも、動じた様子はなかった。
「段野。この村を作り始めた時、ここから世界が変わると信じていた。確かにこの先の世界は変わる。だが、始まりはここからではなかったようだ。もっともっと前から始まっていた。そして、僕と君が死んでも、この流れは終わらない。我々はただの通過点だ」
「お前は何を言っているのだ」
怒鳴った段野と同じ思いだった。空偉さんは、この危機的状況で何を言っているのだ。
空偉さんは、拳銃を構える段野に向かって、無防備に歩いていった。
「くるな! とまれ!」
段野の声にも空偉さんは歩みを止めず、両手を広げ近付いていく。見えているのは背中だけだが、恐怖など感じられない。むしろ、今にも空に羽ばたきそうだ。
「段野。僕も君もここで終わる。だが、心を澄ませば、生命の永続性を感じ取れる」
「だまれ!」
銃声が鳴り響いた。
空偉さんは羽ばたくことなく、その場に倒れた。胸には小さな穴が開き、そこから赤黒い染みが広がっていった。生命の光をかすかに残した目は、低くたれこめた雲をみつめていた。
一人の女性が悲鳴を上げて空偉さんに駆け寄った。空偉さんの恋人だ。女性が何回も空偉さんの名を呼んだが、再び起きることはなかった。
鼻先に冷たいものが当たった。水滴だ。雨が降り始めたのだ。
僕らは、何組かに分断されて家の中に閉じ込められた。
見張りの者が、銃を構える中、雨音だけが室内に響いていた。
永劫、楓、茂人と同じ家になったのは、不幸中の幸いと思えた。
「せめて鉄砲で殺してくれ。妖怪にはなりたくない」
茂人の独り言を聞くと、こいつとは別の建物でも良かったかなと思えてくる。茂人からの情報で、段野は防疫研究所を襲い、瘧狼病ウィルスを強奪したのだ。少しは反省しろ。
銃を持って僕らを見張る人間は、時間ごとに交代した。皆一緒に村を作った人達だった。僕らを監視する目に、段野程の熱はなかった。
何人目かの見張りの男が、くぐもった声で語り始めた。
「段野さんがおかしくなったのは、段野さんの女が、別の男と逃げ出した時からだな。逃げ出した二人をみつけ出して、処刑した。そこから闘争が外ではなく、内側に向き始めた。資本主義のブタ共と戦うつもりだったが、実際に殺したのは、同じ共産主義者の仲間だ」
段野は、言うなれば失恋で道を違えたのだ。完璧とも思えた男が、そんな俗な理由から崩れていくのか。
見張りの男の目は暗く、もはや未来は見えていないようだった。
「この先に俺達が望んだ世界はない。しかし、後戻りして利益だけを追求する歪んだ資本主義社会に染まる気もない。中産階級として生きて、その結果残すものは、自分の子供だけ。そんな人生は嫌だ。ここで革命に殉じて死ねば、小さな世界の伝説になれる。行き着く所まで行ってみるさ」
行き着く先に待つものは、革命ではなく、ただの破滅ではないのか。
更に見張りの交代が行われた。
起きていることを強制されてはいないが、眠ることは出来ず、神経がすり減っていった。
夜明けが近付き、雨音が弱まった。
音も無く永劫が動き、見張りを殴りつけた。力強い打撃とも思えなかったが、見張りは一発で昏倒し、床に倒れる。永劫はすぐさま銃を奪い取り、見張りを縛り上げた。
「逃げるぞ」
急なことで頭も体も固まっていたが、どうにか立ち上がった。
さるぐつわを噛ませ、手足を縛り上げた見張りを残し、僕らは外に出た。
雨はかなり弱くなっているが、暗闇でほとんど何も見えない。それでも永劫は進んでいく。僕らは永劫の背中を頼りに進んだ。
永劫の背中が止まった。永劫の視線の先を見れば、新しく造られた道の入り口付近に、銃を持った見張りが立っている。
先程見張りから奪った猟銃を、永劫が構えた。銃口は見張りの者に向いている。撃つつもりか。
永劫は銃を下ろし、別の場所へ移動し始めた。
「銃声を聞きつけられて、暗い中で撃ち合いになったら、お前らに弾が当たるかもしれない」
僕の疑問を見透かしたのか、永劫がつぶやいた。
幼馴染みの親友だと思っていたが、先程見張りを一瞬のうちに倒した身のこなしといい、銃を構える姿といい、一体何者なのだ。口に出す余裕はないが、楓も茂人も同じことを思っているだろう。
少し移動したが、天狗の曲がり松に続く旧道の前にも、見張りはいた。
雨はやみ、空が白んできた。もうすぐ見張りの交代時間がくる。僕らが逃げ出したことが知れ渡ってしまう。
仕方なく、僕らはがき塚に避難することにした。
切頭村の語源が、霧壁だとするのなら、その語源通り、あたりは霧に覆われていた。
村から逃げることを考えれば、最良の策とは思えないのに、僕らは導かれるようにがき塚の方へ向かった。
泥や濡れた木々に阻まれながらも進み、がき塚の割れ目にたどり着いた。
割れ目の中に降り、置きっ放しになっていたおうせの鏡を一枚、がき塚の左側に設置する。もう一枚は、抱えて地上に上がった。
僕達が鏡を用意するのを待っていたかのように、霧が晴れ、朝日が光を放った。
地上を照らす光は、おうせの鏡に当たり、反射された光は、割れ目の下に設置された、もう一枚の鏡に当たる。そして、その光は、がき塚を斜め横から照らした。
僕は永劫に鏡を託し、割れ目の下に降りた。
細工された鏡によって光を当てられたがき塚は、意味を成さぬ部分部分ではなく、一つのかたまりとして影をうつし出した。禍々しい断片の中に隠された、扉を開く鍵が浮かび上がった。
壁に投影されたがき塚の影は、オルレアンス家の鍵の紋章の形を示していた。
鍵の紋章の先端に指を触れてみた。何か引っかかりがある。上だけでなく、鍵の形の影を指でなぞってみる。左端の先にも、引っかかりがある。
二か所に指を引っかけ、手前に引いてみた。大きな音を立てて、石の扉が開いた。
扉の向こう側には、それなりの空間が広がっているようだ。鏡に反射した光に照らされ、扉の向こうで何かが光った。
空間の中に入り、懐中電灯の光で、中のものを浮かび上がらせる。そこにあったのは、金や銀など、財宝だった。刀や銃など、武器もある。樽に入っているのは、火薬のようだ。
後ろから、永劫、楓、茂人の三人が入って来た。目の前の光景に目を奪われている。
「ずっとこの村について調べていた。調べれば楓の呪いの解き方がわかると思って。でも、わかったことは俺が求めていたものとは違った。、この村は、織田信長に滅ぼされた霧壁範聞の息子悌真が作った村だ。悌真は奴隷としてヨーロッパに渡り、おそらく日本侵略の先兵として戻って来た。この金塊はおそらく軍資金だ。間引きされた子供が埋められているという話は、故意なのか偶然なのかはわからないが、真実を覆い隠した嘘の話だ。割れ目の中に立っているのは、餓鬼塚ではない、宝への扉を開ける鍵塚だ」
がき塚は、間引きした子供を埋める塚ではなかった。村人同士が殺し合った形跡も、その肉を食べた形跡もなかった。この村が滅んだのは、飢饉の時に流行した疫病のせいだ。がき塚は、餓鬼塚でも、柿塚でもなく、鍵塚だった。がき塚のまわりで行う儀式は、呪いの為ではなく、財宝の場所を示す為の儀式だった。
僕は、輝く財宝の中から、一つの金細工を取り上げた。オルレアンス家鍵の紋章だ。黄金は時を経ても、光に照らされ輝きを放っていた。
呪いではない、だから楓の一族の症状は、遺伝性の病気だ。その病気は現代の医学では治せない。楓は死ぬ。輝く財宝が目の前にあるのに、幸せの象徴が目の前にあるのに、楓は死ぬ。本来ならば、これを手に入れて幸福な結末なのに、僕は絶望していた。
楓の顔を見つめた。彼女も僕を見つめていた。その表情からは感情を読み取れなかった。僕は泣きそうな顔をしているのだろうか。
「呪いはない。だから、呪いを解くことは出来ない。俺は楓を助けられない」
吐き出すように言葉をしぼり出した。
しばらく沈黙が続いた後、楓は笑った。
「わかっていた。私が助からないことは。でも嬉しかった。私の為に努力してくれるのは。それだけで充分。ありがとう。悲しくない死なんて無い。私の死も、小さな死の一つ」
楓が、僕の努力に対し、「ありがとう」と言ってくれた。本当は「助けてくれてありがとう」と言われるはずだった。楓が笑っているのに、僕だけが泣くわけにもいかない。必死で涙を堪えた。
「もう一つお願いがあるの。私と一緒に瘧狼病ウィルスが広がるのを止めて」
そうだ、感傷的な気分にひたっている場合ではない。今は危機的な状況にあるのだ。
「未来ある皆に対して、未来のない私が言うのは身勝手だと思うし、ウィルスを作った人間の娘だから、止める責任があるのは私だけ。でも、あなた達の協力が必要なの。私だけの力では、絶対抑えきれない」
楓の中に、これ程熱い部分があったなんて思わなかった。その熱さに応えられないのなら男ではない。
言葉を発しようとすると、茂人が先に口を開いた。
「何を言っているんだ。俺達だけで食い止めるなんて不可能だ。撃ち殺されるか、噛みつかれて怪物になるのが目に見えている。子供の時に一緒に見ただろう。絶対無理だ。それよりもこの財宝を持って逃げよう。これだけあれば、俺達は大金持ちだ」
「ふざけるな。ここで止めなかったら、日本は終わるそ。それに、さっきまで共産主義革命とかぬかしていたのに、金に目がくらんでどうするのだ」
思わず茂人を殴りそうになった。
「いや、だから、これを軍資金に革命しようかと…」
あきれてものが言えなかった。
「茂人。あなたは逃げて。今までありがとう。お金持ちになることは悪いことじゃないわ。生き延びて幸せになって」
楓の言葉に、茂人は更に決まりの悪い表情になり、言葉を詰まらせた。
「これを見ろ」
永劫が何かを拾い上げた。一本の刀だった。鞘から引き抜くと、刀身は鈍い光を放った。
この隠し部屋の壁は、石で造られていた。高温多湿な日本で、四百年近く前の刀が、錆びもせずに残っているなんて、どういうことなのだろうか。
「夜陰に乗じたかったが、仕方がない。すぐに動くぞ」
永劫の目つきが、穏やかな時と違っていた。時折見せる、鬼気迫った目つきだった。
刀の他にも、弓や火縄銃もあったが、老朽化していて、こちらは使用出来そうになかった。
僕も刀を持とうとしたが、永劫に止められた。
「下手に戦おうとするな。俺が段野達を引き付けておく。お前らは車を奪って逃げろ。電話のあるところまで行って、警察を呼んでくれ」
銃相手に、僕が刀を持っても意味がない。永劫の言う通り、逃げるしかない。
僕の動揺とは対照的に楓は腹の決まった顔をしていた。茂人は僕よりもうろたえている。
降ってわいたような危機的状況だが、こうなることは必然だったような気もする。
迷っている時間はなかった。もう行動するしかない。
僕らは隠し部屋を抜け出し、急いで割れ目から地上を目指した。ここで上から狙い撃ちされたら、一たまりもない。
地上に上がってみると、太陽がさんさんと降り注いでいた。僕らの姿がさらし出される。今は闇に隠れたい。太陽が恨めしい。
前を進む永劫が、僕らの動きを制し、茂みに隠れるように促した。
僕達が茂みの中に隠れると、村の方から二名の男達が走ってきた。手には猟銃を携えている。
男達が、隠れていた僕達の脇を通り過ぎた途端、永劫が茂みから飛び出し、後ろから二人の首を斬りつけた。二人は声も立てずに前のめりに倒れた。倒れた二人は、体を震わせながら、傷口から血を噴出させていた。
永劫は人を殺したのだ。目の前で起きたことを処理出来なかった。映画でも観ているような、はたまた異世界に迷い込んでしまったような気分だった。ぼんやりとしている僕をよそに、目の前の情景は動きを止めなかった。
永劫は、刀を鞘に収めると、猟銃を拾い上げた。
「行くぞ」
楓も茂人も僕と同じく、目の前で起きたことにのまれてしまっていた。三人共、思考回路がショートしていたが、どうにか永劫の後に続いて足を動かした。
人を殺したのに、永劫の落ち着きぶりは何なのだろう。しばらく会っていない期間、永劫は何をしていたのだ。
その問いを口にする前に村へ着いてしまった。
「俺が騒ぎを起こして、皆を引き付けておく。お前らは逃げろ」
「永劫は?」
「敵の人数も村の地形も把握している。俺が全員倒す」
「一人であの人数と戦うのか。無謀だ」
「永劫だけ戦わせることなんて出来ない。そもそも、あのウィルスは私のお父さんが作ったものだもの」
永劫は僕らを見て、少し微笑んだ。
「あんな素人集団、俺一人で充分だ」
そして声の音量を小さくして、口の中でつぶやいた。
「刑務所にいくのも俺一人で充分だ」
永劫の目から微笑みが消え、目はある一点をみつめていた。その視線の先には楓がいた。永劫は、楓のことが好きなのだ。子供の時からずっと。僕が楓に想いを寄せていた時間、永劫も同じく想っていたのだ。それでも、僕に気兼ねして、その想いを表には出さなかった。その想いを言葉にすることなく、死ぬかもしれない、生き残っても刑務所行きの戦いに向かおうとしている。父親が瘧狼病ウィルスを作ってしまったという楓の罪悪感を軽減する為に。
楓も永劫を見つめていた。永劫の気持ちに気付いたのだ。それとも、昔から気付いていたのか。それで、僕の素直な求愛に応じてくれなかったのか。
楓が何か言おうとして口を開きかけた。その何かが言葉として固まる前に、永劫が背中を向け、刀と銃を持ち、歩き出した。そして、数歩進み背中を向けたままつぶやいた。
「俺、ベトナムに行っていたんだ」
日本は戦争を行わないと憲法で定められている。だが、永劫はベトナムに行った。そして戦争に参加したのだ。永劫の背中を見ていると、それが事実であることがわかった。昔からすぐ横にいた人間が、自分とはまるで違う人生を歩んでいた。時たま見せる恐ろしい目つきの訳がわかった。
永劫の姿が消えた。
しばらく静かな状態が続いた。水面下で事態は進展しているのだろうか。村外れからでは、良くわからない。
この村から逃げだし、警察に知らせなければならない。音を立てないように、木や茂みに隠れつつ、国道へつながる新しい道へ向かった。
どうにか道の入り口が見える場所まで来たが、近くには、銃を持った人間が立っていた。
唐突に一発の銃声が鳴り響き、辛うじて保たれていた均衡が崩れ、世界が急転し始めた。
更に銃声が轟き、怒声が飛び交う。見張り役の者が、騒ぎを聞きつけて走っていった。
今ならいける。道へ向かって走り出そうとした時、一人の男が走り去る姿が目に入った。段野だ。国道ではなく、山道の方へ向かって走っていく。手には何か持っていた。瘧狼病ウィルスだ。
逃げ出すなら今しかない。しかし、ウィルスが村の外へ出てしまったら、甚大な被害が出る。日本は終わってしまうかもしれない。段野のことは恐ろしいが、永劫に知らせている暇はない。
茂人と楓も、段野が逃げたことに気付いた。
「俺達じゃどうしようもない。逃げて警察に任せよう」
茂人の言葉が終わるより速く、僕は段野に向かって走った。村からは、戦いを繰り広げる音が聞こえてきていた。
後ろを振り返ると、楓は僕についてきていて、茂人は新しい道の方へ向かっていた。
楓も逃げろ、と言おうとした瞬間、銃声がして、茂人がその場に倒れた。撃たれたのだ。
楓もそれに気付き、茂人の元へ向かおうかと逡巡していた。
「戻ったら楓も撃たれる。行くぞ」
楓と共に段野が向かった方向へ走った。てんぐの曲がり松へ続く道へ向かっている。無我夢中で走った。
整備なんかされていない道だ。昨日の雨で足元が滑る。両脇から伸びている葉や枝が、顔や体に当たって痛いが、そんなことは気にしていられない。楓が無事についてきているかも気がかりだったが、段野に追いつくのが先決だ。気にかけている余裕はない。
しかし、僕だけでどうしようと言うのだ。段野は拳銃を持っているのに、僕が持っているのは、ポケットに入れてしまった鍵の紋章だけだ。しかし、ここで取り逃して、街で瘧狼病ウィルスを広められたら、大変なことになってしまう。引き返して武器を手にすることも出来ない。
とにかく走り出し、足を動かしながら考えた。
そうだ。段野は、天狗の伝承の正体を知らないはずだ。曲がり松の生えている崖沿いの道に誘い込んで、強風で崖の下に落としてしまうのはどうだろうか。駄目だ。夕方どころか、まだ昼にもなっていない。夕方でも確実に強風が吹く保証もない。
かわんとの淵に落としてしまおうにも、もう干上がってしまっている。禁足と彫られていた、河童の銅像で殴ってやろうか。僕の筋力では不可能だ。
その時、ひらめきが降りてきて、頭の中で、情報と情報がつながった。
違う。あそこの淵には河童はいない。石走錬造が残した記述、置かれた銅像、曲がり松の天狗、それらがもたらす先入観から思い違いをしていた。
僕の考えが正しければ、段野を止められる。だが、僕も死ぬかもしれない。
走って着いてくる楓に振り返った。
この人は、自分の父親が人体実験をしたことに心を痛めている。当然だ。親族ではない僕までが、何故か罪悪感を持ってしまう程の行為だ。ここでウィルスが広まったら、楓の罪悪感は更に増大する。日本国民の安全の為、楓の為に、この身に代えても段野を止めなければならない。
僕は、段野よりもこの道には詳しい。何回も実際に通っている。それだけでもかなり違うはずだ。絶対に追いつける。
「俺が止めてみせる。ここで待っていろ」
かつて一人でのんびり下った道を、半ば転がり落ちるように駆け下りた。
走りながら、頭を整理する。自分の考えが正しいのか。上手くいくのか。とにかく、やるしかない。動くしかない。
てんぐの曲がり松を越え、さらに坂を駆けた。
銅像への分岐点に差し掛かる頃、ようやく段野の姿をとらえた。
僕の存在に気付き、段野が振り向いた。髪は乱れ、肩で大きく息をしていたが、僕の存在を認めると、不敵な笑みを浮かべた。
「そのウィルスを渡して下さい」
荒い呼吸の合間に、なんとか言葉をねじ込んだ。
「これは革命の希望だ。渡す訳にはいかない」
「そんな忌々しいものを希望なんて呼ぶな」
「見る位置によって、感じ方は様々だ。革命が成功した暁には、ソロモンの指環と並び称される偉大な道具と呼ばれるようになる。先程実験させてもらった。凄い効果だ。革命を行うにあたり、最高の武器になる」
かつての仲間に、ウィルスを投与したのか。もう、この男は、歯止めがきかなくなっている。
「しかし、君の友達の永劫君は、一体何者なのだ。僕の仲間が、次々と倒されていった。同じ人間とは思えない動きをしていた」
永劫がいる。僕は彼の戦闘能力を知らない。だが、あいつなら必ずウィルスの拡散を防いでくれる。だからこそ、僕はここで段野を止めねばならない。
「あいつは、俺の親友だよ」
「何だそれは、友達というのは、この世で一番不確かで、すぐに壊れる人間関係の形だ。利益や思想や目的など、人と人をつなぐものが、友達の間には介在していない。そんな役に立たないものを自慢げに語るな」
「俺の自慢の友達は、あなたの同胞ぐらい余裕で蹴散らすぜ」
「他人の褌で相撲を取って、良い気になるな。お前は、歴史を研究することは出来ても、歴史に名を残すことはない。ただの小石だ。ここで道を譲ることが、新しい扉を開くことになる。邪魔をするな」
「随分と大物気取りだな。あなたが名を残すのは、歴史ではなく、新聞の片隅だ。革命家気取りの犯罪者としてな」
段野の顔から、笑みが消え、冷たい憎悪が目に宿った。片方の手を懐に入れ、ゆっくり抜くと、手には拳銃が握られていた。
僕はゆっくり後ずさりした。
「どうしたさっきの勢いは。そんな価値も無い小さな命でも、失うのは惜しいか」
段野はゆっくりと歩を詰めてくる。構え方はぎこちないが、銃口はこちらを向いていた。
「病気持ちの女の呪いを解く為に、無駄な人生を更に無駄遣いして何が楽しいのだ。呪いなんてあるわけないだろう。嘘の言い伝えに騙されやがって、本当に無能な奴だなお前は」
僕は内面の恐怖を押し殺し、無理矢理口元に笑いを浮かべて言い返した。
「無駄とか勝手に決めつけないでくれ。言い伝えってものは、意味があるものなのだよ。がき塚におうせの鏡で光を当てたら、本当に次の道が開けた。隠されていた輝く財宝をみつけたよ」
僕はゆっくりとポケットから黄金の紋章を取り出して、段野に見せた。
「財宝を売り払って、その金で楓の病気を治すさ」
段野は輝く紋章に目を丸くしたが、すぐに元の顔に戻った。
「お前は本当に間抜けだな。言い伝え通り、次の道は開けたようだが、それもここで終わりだ。その財宝は、俺が革命の軍資金として使ってやるさ」
段野が持つ拳銃が、しっかりと僕の心臓に狙いを定めた。
僕は更に後退し、禁足の銅像を越え、窪地へと追い込まれていった。
「どうした。資本家に支配され、搾取されることに慣れ切った憐れな飼い犬。欧米が決めたルールを唯一のものだと思い込み、他の思想、価値観を流されるままに否定する。身も心も支配されているのに、そのことにすら気付こうとしない。自分で考え、行動することを放棄した家畜が。死ぬ間際まで、資本主義の象徴に踊らされて、惨めにくたばれ。貴様の死は、新聞の片隅にも載らんわ」
じりじりと追い込まれ、窪地の底に二人で立つ形になった。僕らの横には、樹齢がどのくらいかわからない程の巨木が立ち、僕らの争いを見下ろしている。
何かを踏んで、足元から乾いた音が聞こえた。動物の骨だ。
「残念だったな。その他大勢の一人。お前はここで終わり、俺はこのウィルスを使って、歴史を作る」
そうだ。歴史を作り出すのは、あなたのような野心にあふれた男なのだろう。僕は流れに翻弄されるだけの小さな存在だ。歴史を作り出すことは出来ない。だが、終わらせることは出来る。
「今僕を殺したら、財宝の場所はわからないままだ。本物の黄金だぞ」
僕は段野の足元に向かって、黄金の紋章を投げた。
段野は訝し気な顔をしたが、黄金が本物か確かめようとでもしたのだろう。銃をこちらに向けたまま、体を屈めて、地面に落ちた黄金の紋章を拾おうとした。
言い伝えは、意味があるものだ。
元々、今立っている窪地に池なんて無かった。河童なんていなかった。石走錬造も、僕も、先入観から誤解していた。ここにいる妖怪は、カワント。霧壁悌真が、西洋で知ったムーア人の間に伝わる樹木の妖怪だ。僕達の横に立っている、巨木が妖怪なのだ。森の中でひっそりと犠牲者を待ち伏せ、下を歩く人に枝を伸ばし、首に巻き付けて窒息死させる。日本では馴染みが無いが、西欧では有名な妖怪だ。スペイン語の資料を翻訳している際にも出てきたのに、その時はかわんとの淵と結びつかなかった。
この西欧の伝承を記憶していた霧壁が、この窪地の危険性を知らしめる為に、カワントの名を使ったのだろう。
しかし、実際に枝が伸びて首を絞めるのではない。この窪地にひそむ危険、カワントの正体は、火山ガスだ。硫黄ガスの様に臭いがするものではなく、動物が吸い込むと死に至るが、植物には害はない。それは、二酸化炭素だ。無味無臭で空気より比重が重いので、窪地に溜まりやすい。吸い込むと、めまい、頭痛、動悸息切れを起こし、濃度が高ければ、一瞬で意識を失い、死に到る。西欧の人は、何も危険なものが見当たらないのに、死んでいく人間を見て、横で元気に立っている樹木の仕業だと考えたのだろう。実際は火山性二酸化炭素の影響だ。
あそこに立つ禁足の銅像が赤銅色なのも、二酸化炭素のせいだろう。野ざらしの状態で、長い期間放置されていたら、黒く酸化するはずだ。
あなたを挑発し、窪地に誘い込んだ。怒りと興奮で、体調の変化に気付かなかったはずだ。僕が銃に怯えて、押し黙っていると思っていただろう。二酸化炭素を極力吸い込まないよう、呼吸を抑えていたのだ。無味無臭の妖怪が待ち受ける場所へ、頭を下げさせる為に黄金の紋章を放り投げた。カワントの枝は、あなたの首に絡みついている。
黄金の紋章を拾おうとした段野は、一度手にした紋章を地面に落とした。足元がふらついている。体調の異変に気付き、こちらを見た目は、焦点が定まっておらず、顔が青白く変わっていた。下に溜まっていた二酸化炭素を吸い込んだのだ。そのまま段野は前のめりに崩れ落ち、動かなくなった。
それを見て、倒れた段野の横を駆け抜け、窪地の外を目指した。肺、心臓、脳、体中が酸素を求めていた。思わず外気を吸い込んでしまった。視界がぼやけ、体に力が入らなくなった。それでも勾配を登り、上を、酸素を目指した。意識が遠のいてきた。それでも足を動かす、ここで膝をつくことは、死を意味する。焦っているのに、ゆっくりとしか動かない体を、何とか前進させた。
朦朧とする意識の中で、銅像の向こう側に立つ楓が見えた。
最後の力を振り絞り、楓のもとへ歩いた。後少しで楓に触れられそうな時、意識が途切れた。
足元に開いた、大きく真っ暗な穴に吸い込まれそうになっていた。やけに寒く、寂しい。
そんな凍えた体に、暖かいものが吹き込まれた。胸に入った暖かさは、全身に広がり、吸い込まれそうになっていた穴から引き戻された。
気が付くと、目の前に涙を浮かべた楓の顔があった。
体と唇に温もりが残っていた。
「俺達、今キスしていたよな」
楓の目から涙がこぼれ、もう一度唇を寄せてきた。
村に戻ってみると、村は死体の山だった。段野のグループの者、ウィルスに感染した者。全て永劫が殺したのだ。
永劫が、戦闘態勢のまま、僕らを迎えた。段野を止めたことを告げると、ようやく安堵の表情を見せた。村のどこかに潜伏していると思って捜していたのだ。他の段野派は、全て戦闘不能にしたそうだ。
少しすると、何台かの車が、村へ入ってきた。白と黒のパトカーではないが、警察車両のようだ。
車から背広姿の男達が飛び出してきた。
「動くな」
そう言って、僕らに拳銃を向けてきた。
永劫は持っていた武器を捨て、両手を上げた。
「元気でな」
殺気をはらんでいた目ではなくなっていた。昔からの友達の目だった。その目が、楓に移った。そして最高の笑顔で言った。
「幸せに」
永劫は警察に囲まれて、連れ去られていった。
続いて僕と楓も拘束された。
「楓ちゃん」
そう呼ぶ声の方を向くと、どこか見覚えのある初老の男がいた。
「静沢さん」
楓の声で記憶が甦った。日比谷生命館事件の時、早乙女を止めた人だ。事件の後、口止めに家まで来たのもこの人だった。段野達に奪われたウィルスを取り返しに来たのだ。車に乗って現れたのは、警察ばかりではないようだ。
「何故楓ちゃんがここに。それにこちらの彼は、あの時いた子供じゃないか?」
静沢さんは驚いていたが、僕は驚く気力も残っていなかった。
生き残った空偉派の人達と共に、車に乗せられ、どこかの施設に収容された。楓と永劫とは引き離され、体中を調べられ、事情聴取された。
細菌兵器瘧狼病ウィルスの存在も、ベトナム帰りの永劫の存在も、触れてはいけないものだと言われた。
数日間軟禁された後、僕らは解放された。当然、その時もきつく口止めされた。
ちなみに撃たれた茂人は、服の下に忍ばせていた財宝のおかげで軽い怪我を負っただけだった。悪運の強い男だ。
事件のことは、テレビでもラジオでも新聞でも報道されることはなかった。革世黎源郷も、ウィルスも、至嶋永劫も、財宝も闇に葬り去られた。
結局散々苦労した挙句、僕には楓を救えないことがわかった。
永劫は姿を消した。刑務所に入ったのか、殺されたのかもわからなかった。実家に行っても、何も教えてもらえなかった。
茂人も僕の前からいなくなった。元々そこまで親しみを感じていなかったので、自分から探そうとはしなかった。
学業にはやる気が失せていたが、どうにか大学は卒業して、就職した。
そして、楓と結婚した。
楓のお父さんに、結婚の挨拶をしにいった。
呪いという観点から、楓を救ってみようとしたこと、それは失敗に終わったことを告げ。その後に、娘さんを下さいと頭を下げた。
お父さんは、僕の失敗には何も触れず、
「賢吾君と楓が結ばれることは、ずっと前からわかっていたような気がする」
と、静かに言った。
結婚して程なく、新しい命が宿った。大きな歴史は作れないが、小さな歴史をつなげたようだ。
就職、結婚、出産が重なり、目が回るような毎日だった。それでも残り少ない楓との一日一日は、手に入らなかった財宝より輝いていた。
日に日に楓のお腹が大きくなっていった。二人きりの時間が終わるのが寂しくもあり、新しい命に出会えるのが嬉しくもあった。
子供が産まれた。女の子だった。
赤ん坊を抱いた楓は、昔からは想像も出来ないような優しい顔をしていた。血塗られた歴史の中にいて、先もすぐ崖だが、今だけは暖かい日差しが降り注いでいた。
一日働いて帰宅して、食事をして、風呂に入った。後は三人で布団に入って眠りに落ちるだけ。そんなありふれた瞬間が、やけに愛おしく感じられた。川の字が崩れる未来が迫っていることが、より現在の幸福を際立たせていた。
楓が初奈の寝顔を見つめながら、語りかけてきた。
「私の人生は間違えていた。自分の病気や、父さんの行いで、幸せになってはいけないと、殻に閉じこもっていた。もっと図太く生きれば良かった。もっとたくさん笑えば良かった。小さな幸せをたくさん集めれば良かった。初奈には、私のような人生送って欲しくない。短い人生でも、笑って生きて欲しい。賢吾、この子のそばにいてあげて」
助からないのはわかっているから、見えないところで努力するより、そばにいて欲しい。それが、愛する者の言葉だとしても、何もしないで終わりを待つのは、あまりにも辛い。徒労に終わろうとも、何か行動を起こしたい。初奈を助けたい。しかし、僕に求められているのは、そういうことではないのだ。
「そうだな。初奈には、たくさん笑って、少しも泣かない、密度の濃い人生を送らせよう。俺がこの子のそばにいる」
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