すれ違い夫婦の日

暁烏雫月

言葉は大切

 すっかり気温も低下し、最低気温が1桁になり始めた11月下旬。朝晩の冷え込みが強くなり、街には枯れ葉が舞い落ちるようになる。いよいよ本格的な冬が訪れるのだと、気候が伝えてくれるようだ。


 10月はハロウィン、12月ならクリスマス。大きなイベントのある月に挟まれた11月は、雑に扱われがちだ。11月のイベントと言えば「いい夫婦の日」なるものがある程度。11月22日にテレビを付ければ、あちらこちらで「いい夫婦の日」の特集がされている。


 「おしどり夫婦」にちなんで、動物の方のオシドリの映像が流れる。チャンネルを切り替えれば「いい夫婦の日」に感化されてか、有名な芸能人夫婦のインタビューが流れた。そんな些細なことが、智樹を苛立たせた。食器を扱う手つきが乱雑になり、ガチャガチャと音を立てる。


 これほどまでに短気になっているのには理由がある。その原因は、智樹の目の前にいた。智樹が朝食を食べている真正面で、何も食べずにただ座っている。智樹の苛立ちの原因は、妻である美咲だった。結婚する前もしてからも、喧嘩なら度々した。しかし、今回のように苛立ちを引きずるのは初めてである。


 朝食の時間は、僅かではあるが仕事前に夫婦でコミュニケーションを取ることの出来る貴重な時間。昨日までは、朝食となれば二人で時間を確認しながらも仲良く談笑をしていた。だが今日は違う。智樹も美咲も言葉を発さないまま、時間だけが過ぎていく。


 夫婦の現状とは対照的なテレビ番組の特集がやけに耳障りだった。それでもなんとか特集に耐え、念願の天気予報と交通情報を確認。それを終えると、智樹は空になった食器を手に席を立ち上がった。それに気付いたのか、美咲も席を立ち上がろうとする。


「食器は私が――」

「お前は動くな!」

「食器洗いくらい私にも出来る!」

「いいからお前は座ってろ! 見送りも、しなくていいから。頼むから、休んでてくれ」


 智樹が声を荒げれば、美咲が智樹をにらみつける。「いい夫婦の日」だと言うのに、この夫婦のまとう雰囲気は険悪であった。怒声で美咲を怯ませると、智樹はササッと食器を洗い、身支度をしに部屋を移動する。全身から湯気が出ているかと錯覚するほどの怒りを見せる智樹を前に、美咲は動くことが出来なかった。


 仲の良さそうな芸能人夫婦がテレビに映る。互いに仲良く笑い合い、互いの身体に手をかける。そんな幸せそうな光景に、美咲の視界がにじむ。そうこうしているうちに、玄関の扉が大きな音を立てて閉められた。






 夫婦仲が悪化した原因は、昨日の夕刻にまで遡る。職場で黙々とパソコン作業を行う智樹の携帯電話に、一本の電話がかかってきた。発信者は妻、美咲の働いている職場。妻の身に何か起きたのかと、すぐに人の少ない場所に移動してから電話に出た。


 電話の内容は、智樹の予期していた通り、美咲についてだった。その日、美咲は朝から顔色が悪かった。それでも仕事を休む訳には行かないからと出社し、無理がたたったのか職場で倒れてしまったのだという。そのまま病院に運ばれ、現在は点滴を受けてこそいるが意識ははっきりしているらしい。


 美咲が無理して倒れた。その事実こそが、智樹を苛立たせる原因だった。倒れたことに怒っているわけではない。倒れた美咲を責めているわけではない。誰も悪くないのだ。悪くないからこそ、余計に智樹が不機嫌になる。美咲の気絶をきっかけに喧嘩をしたのは昨晩のこと。


「仕事、やめろ。もしくは休暇を取れ」

「なんで? 私は働きたい。働く権利は私にもある!」

「権利がないとは言ってない! 俺はただ、美咲が心配なだけだ。実際、今日倒れただろ?」

「どれくらい休めばいいかなんて私が一番わかってる! 私の体のことは、智樹より私の方が詳しいんだから」

「それで今日倒れたのは誰だっけ?」

「点滴してもらったから、治った。大丈夫、働ける。ねぇ、働かせて。お願いだから……」


 喧嘩の原因は、美咲が仕事を続けるかどうかだった。「続けるならしばらく休暇を取ってほしい」というのが智樹の言い分。「休まずに働きたい」というのが美咲の言い分。互いに妥協しようとせず、自分の意見を譲らない。そもそも、このような話題で喧嘩をするのにも、理由があった。


「また倒れたらどうするの?」

「倒れないように頑張るから」

「それで、万が一のことがあったらどうするの?」

「それは……」


 智樹の問いかけに、美咲は言葉が詰まってしまった。涙目で智樹を睨みつけるも、その眼差しに迫力はない。少しずつ、視線が下へとズレていく。美咲には智樹の言いたいことがわかっている。理解した上でなお、働きたいと訴えているのである。


「万が一のことが起きた時のことまで考えた?」

「うー」

「美咲に働くなとは言わない。でもそれは、状況にもよるよね。そりゃ働きたい気持ちはわかるけれど――」

「わかったような事言わないで! 女性ってね、復帰するの大変なんだよ? だから、働けるうちに働かなきゃ……」

「今は、一人の体じゃないだろ!」


 働けるうちに働きたい。そう主張する美咲に、遂に智樹の怒りが限界を超えた。怒声を浴びせるだけでなく、美咲の肩を掴む。だがそれ以上のことはしない。代わりに、美咲の腹を優しく撫でる。その行為が、美咲の置かれた状況を示していた。


 美咲一人の体ではないと分かったのは、11月に入ってからのことだった。まだ安定期に入っておらず、無理をすれば流産する可能性もある。子供を授かっただけでも恵まれているのに、その子供を無理に仕事して流したとなれば、罰が当たる。そう、智樹は考えていた。


 妊娠初期における仕事の認識の違い。それが二人の喧嘩の理由である。さらに、美咲が無理をして倒れたことから、智樹は美咲の行動を過剰に心配するようになっていた。その結果が今朝の険悪な雰囲気の会話である。






 不機嫌な態度で家を出た智樹は、出社こそしたが気分が優れなかった。美咲の体調が心配であることと、昨晩から続く美咲との喧嘩が原因だ。しかし仕事にはそんな私情は全くと言っていいほど関係ない。お金を稼ぐためにも、思いをくすぶらせる物事を忘れるかのように仕事に打ち込む。


 行き場のない感情を仕事に向けた。しかし心が穏やかではないせいか、キーボードを打ち込む手つきが乱暴だ。さらにミスタイプも多くなり、結果的に仕事の効率が落ちている。それでも、少しでも早く帰宅するために仕事の手を休めるわけにはいかなかった。


 その日の昼休みのこと。智樹は同僚の和久と共に食堂を訪れた。本当はコンビニでおにぎりでも買ってオフィスで食べながら仕事をしようとしたのだが、和久が智樹を心配して外へと連れ出したのだ。


「嫁さん、結局どうなった?」

「今日は休ませた。無理がたたったらしい。心配だから落ち着くまでは休んで無理しないで欲しいんだけどな」

「理由は説明したのか?」

「したさ。『万が一のことがあったらどうするんだ?』って。で、そのあとに言葉の選択を間違えて、怒られちゃって」

「お前、何言ったの?」

「『働きたい気持ちはわかるけど』って言ったんだよ。そしたら『わかったような事言わないで』って言われちゃって、そのまま」


 和久は智樹の言葉を聞くと、顎に手を当てて考える仕草をする。話を聞く限り、智樹と美咲の喧嘩の原因の一つは会話のズレにある。それをどう智樹に伝えるべきか、悩んでいた。少なくともこの一件が解決するまでは、智樹の能率も下がったまま。だからこそ、どうにかしてやりたいのだ。


「お前はさ、どうして嫁さんが働きたいか知ってんの?」

「お金を稼ぎたいから、だろ? 他に働く理由なんて何があるんだ」

「…………決めつけは良くないぞ。多分、お前と嫁さんで会話がすれ違ってる。今日、早く帰って嫁さんの意見、聞いてやれ。そんで、とっとと仲直りしてこい」


 和久の意見に、智樹がハッと目を見開いた。智樹は自分の意見を押し付けているばかりで、何故美咲が働きたいかを聞いていない。美咲が仕事に拘る理由を知らないまま、その理由を聞こうともしなかった。それに気付いたところで、そう簡単に仲直り出来るはずもないのだが。


「お前の仕事、少し引き受けてやるよ。これ、貸しな」

「和久……」

「今日は『いい夫婦の日』だろ? 土産でも買って、きちんと話してこい。お前の能率が下がったままだとこっちが困るんだよ。だから、とっとと仲直りして、いつもの能率に戻れ」

「俺、何も返せないぞ? しかも土産って何を――」

「土産くらい自分で考えろ。お返しなら……俺の結婚式のスピーチ引き受けてくれよ」

「ありがとう。――ってお前、結婚すんのかよ!」


 和久の有難い申し出に感謝を述べようとしたが、感謝の気持ちよりも驚きの気持ちの方が勝ってしまった。智樹の驚く様子に、和久は楽しそうに笑う。「悪いかよ」と言い返すその顔は、照れからか赤く染まっていた。


「そんなわけだから、とっとと仲直りしろ。お前のとこ、夫婦で招待するんだからな」

「お、おう」

「ついでに、お前の今作ってる資料が完成しないとこっちも何も出来ない。今の能率の悪さじゃ正直、迷惑だ。いいか? 俺は他の奴らの代わりに言ってるんだからな?」


 和久の言葉を聞いた智樹はその場で頭を下げる。今回は有難く、和久の世話になることにした。だが、頭を下げすぎてテーブルに額を勢いよくぶつける。ゴツンと鳴った派手な音に、和久と智樹は思わず笑ってしまう。顔を上げた智樹の額は赤くなっていた。






 智樹が仕事を終えて家から帰ると、家の中では目を疑うような光景が広がっていた。いつかのハロウィンのような、カボチャ料理三昧に美咲のコスプレ姿、という衝撃的な驚きでは無い。智樹が驚いたのは、衝撃からではなく嬉しさからであった。


 テーブルの上には、二人分のご飯が並んでいた。美咲お手製のなめこの味噌汁が湯気を立てている。それとは別に、市販ではなく手作りで家で揚げた鶏もも肉の唐揚げが皿に盛られ、テーブルの中央に肉じゃがと共に並んでいる。なめこの味噌汁も、手作りの唐揚げと肉じゃがも、智樹の大好物の料理であった。


「智樹、おかえりなさい」

「た、ただいま。……今日、何かイベントあったっけ?」

「え? どうして?」

「俺の好物ばっか並んでるじゃん」

「智樹のために作ったんですー。こういう時じゃなきゃ作れないからね」


 智樹から知らされた帰宅時間に合わせて夕飯を用意したのだろう。帰宅した智樹を出迎えた美咲はエプロン姿だった。幸いにも悪阻は今のところ全くと言っていいほどない。だからこそ、体調が優れなくなる前にと智樹の好物を卓上に並べたらしい。


 美咲の用意した夕飯に驚いた智樹は、手に持ってきた紙袋の存在をすっかり忘れていた。智樹が渡すより早く、美咲が紙袋の存在に気付く。しかし敢えて自分からその事について話そうとはしない。智樹が言葉を発するのを待っている。


「その……こ、これ……やる」


 よほど恥ずかしいのだろうか。耳まで真っ赤に染めながら紙袋を美咲に手渡すその姿は、どこか可愛らしい。夫の可愛い言動にクスリと笑いながらも美咲は紙袋を受け取り、中身を取り出してみた。紙袋から出てきたのは二つ折りにされたメッセージカードと、小さな立方体の黒い箱。箱の中身が予想出来ず、開けて確かめることにした。


 黒い箱を開けると、その中には一つの指輪が納まっていた。薄い水色の宝石――ブルームーンストーンの付いた銀色の指輪である。王冠を模した指輪の真ん中で、宝石が存在感を放つ。宝石を見た瞬間に、ブルームーンストーンの宝石言葉が美咲の頭に浮かんだ。


 ブルームーンストーンの宝石言葉は「恋の予感・健康と幸運・希望・長寿」。美咲の誕生月である6月の誕生石でもある。もっとも、男性である智樹には、誕生石であることしかわならないだろうが。驚いたまま、紙袋に入っていたメッセージカードを開く。そこには智樹からの手書きのメッセージが書かれていた。


「昨日は、理由も聞かずにごめん。俺は美咲が心配で、少し過保護になっているのかもしれない。このムーンストーンは、『健康と幸運と希望』を意味する石だって、店員さんに聞いた。美咲が健康でありますように、子供が無事に産まれますように。そんな意味を込めて、この指輪を贈る。気休めでしかないけれど、お守りがないよりマシだろ?」


 メッセージカードに書かれた文面を読んだ美咲は、自然と視線が上に向く。照れくさいのだろう。口元を手で覆い、真っ赤になった横顔を見せる智樹の姿が、そこにはあった。智樹がアクセサリーショップで店員にあれこれ聞きながら指輪を買う。その様子を想像するだけで、可笑しさが込み上げてくる。


「その……今日は、『いい夫婦の日』らしいから、さ。その……な、仲直りしたくて。違う、お礼! お礼、言いたくて」


 言葉がすんなり出てこないことが、事前に考えておいた言葉でないことの証。必死に、顔を真っ赤にさせて、美咲のためにと言葉を紡ぐ。そんな姿が、美咲にはたまらなく愛しく思えた。






 せっかく作った夕飯が冷める前にと、ひとまず食卓を囲むことにした。智樹は朝の険悪なムードが嘘のように、ひと口食べる度に「美味しい」を連呼する。料理を食べて自然と笑みが零れる。そんな智樹の顔を見るだけで、美咲の心が温かくなる。その時だった。


「仕事、続けていいよ」

「え?」

「だから、美咲が納得するまで、続けていいって。その代わり一つだけ約束。今回みたいに倒れてからじゃ遅いんだから、体調を最優先にすること。美咲にとって仕事は……無理してでもやりたいくらい、大切、なんだよね? なら、それを奪う権利は俺にはない」

「昨日と全然態度が違う!」

「俺だって色々考えたんだよ! それに……お守りで指輪付けてれば少しは違うかなって」


 どうやら智樹が指輪を贈ったのは、半分は美咲を思ってであるが、もう半分はお守り代わりにしてもらうためだったらしい。確かに「健康、幸運」と言った宝石言葉はある。だがだからといって、指輪を身につけるだけで何かが変わることはないだろう。なのに、智樹は身につければ何かが変わると信じている。


「倒れたのは、謝る。職場に妊娠したこと、伝えてなくて。そもそも、安定期に入るまでは誰にも言わないつもりで。だからっていつも通りに仕事したら……うん」

「だろうと思った。俺に連絡くれた人が一番驚いてたんだぞ。ちゃんとお礼と事情説明、しときな」

「言われなくてもわかってるよ。それに、私、仕事が楽しいの。だから、子供がある程度成長したら復帰したいし、出来る限り働きたい。働いてると、気持ちが楽になるんだ」


 美咲はお金を稼ぎたくて働いているのではない。職場で誰かに必要とされるのが嬉しくて、やっている仕事内容が楽しくて、働いていた。ここが智樹と違うところであるとも言える。昨晩は言えなかった言葉が、今はすんなりと出てきた。


「……生きがい、に近いんだね。そうとは知らずにわかった気になってたなんて、俺、情けない」

「智樹が情けないのは今始まったことじゃないでしょ」

「それは酷くない?」

「誰だったっけ。私のコスプレ見てあっさりあおられたのは? あの時は確か――」

「そ、それは言うなー! 美咲が望むなら、俺が情けなくないとこ、見せてあげてもいいんだよ?」

「今はダーメ。我慢して、『お父さん』」


 軽口を叩き合う、言葉のやり取りを楽しむ。それまで普通にしていたことが、今回の喧嘩を通して嬉しいものへと変わる。智樹が美咲の胸へと手を伸ばせば、美咲が体を少しよじる。そのまま、智樹の言葉の裏に隠された意味に気付いてそれをやんわりと制した。そんなくだらないやり取りすらも、今は愛おしい。


 こうして楽しく会話が出来るのは当たり前のことではない。きっとこれからも、二人は喧嘩と仲直りを繰り返して、それを実感していくのだろう。子供が産まれたら今以上に賑やかになるだろう。そんな遠くない未来を思い浮かべ、二人は仲良く笑い合う。美咲の中指には、智樹が今日贈ったばかりのブルームーンストーンの指輪がキラキラと輝いていた。

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