傘の主

 四年と少し前のこと。

 新卒間もない橘川瑠奈は、同じ会社の先輩である竹村誠(たけむら・まこと)に恋をした。だが竹村にはすでに妻、美和子がいた。二人の交際はやがて美和子の知るところとなり――



 ――調べによれば美和子容疑者は事件当日、帰宅途中の瑠奈さんに傘で顔を隠して近づき、違法に入手したスタンガンを用いて――


 音量を絞られたTVの画面には、事件の経緯を伝えるテロップが流れ続けていた。犯行の際に使われた傘は、あのエスニック柄の女物だった。ベルリップ社製・Azamon取り扱い商品番号KC5719003321。


 ――瑠奈さんをあらかじめ現場の近くに停めてあった車に押し込み、殺害現場へ運んだ、と供述しているものの、使用されたとされるものと同型のスタンガンの威力では成人を長時間無力化できないことなどから、警察は共犯者がいるものとみて――


 上半身を上着で隠され、警察官に護衛されて歩いていく竹村美和子の姿は、確かにどちらかと言えば小柄で非力そうに見えた。単独での犯行は難しいだろう。


「こりゃあ、しばらく新聞やTVはこれ一色になりますね。遺体はこれから掘り返すみたいですし」


 大上氏が声を震わせながら、僕の顔と画面を交互に見比べた。画面はどこかの山中、立ち入り制限のテープが張られた藪の中に青いビニールシートが持ち込まれ、そこでうごめく険しい顔の警官たちをロングショットで映していた。


「ということは、竹村美和子が自首したのは……」


「出たんでしょうね。橘川瑠奈が、美和子のところに」


 ――傘から傘へと無数の出現を繰り返して、ついに。


 だが、なぜ彼女はこれまで直接、美和子のところへ出現できなかったのか。再び画面に大写しになった橘川瑠奈の顔を見て、僕はその理由を理解したような気がした――橘川瑠奈は、美しすぎた。


 おそらく彼女は、自分の美貌が持つ力と価値を知っていた。知りすぎていた。天秤の反対側に何を載せることになろうと、男は必ず自分を選ぶ――だから、ライバルが何をしようと一顧だにする必要はない。


 そう思っていたのではないか? 


 その驕りが油断となり、美和子に報復のチャンスを与えた。たぶん最後まで、瑠奈は自分が誰に殺されたかも認識していなかったに違いない。 


 


――事件当日まで二人の間に直接の面識はなかったとみられ……


 画面のテロップは僕の推論を端的に裏付けていた。

 僕の前に現れたとき、彼女は見えた。おそらく傘を媒介にして、あてずっぽうに方々へ出現せざるを得なかったのだろう。



 竹村美和子は法の裁きを受けることになる。復讐は遂げられたのだ。それが正当なものかどうかは別として。


 僕は画面に映し出された瑠奈の美貌に向かって、心の中で手を合わせて祈った。

(もう十分だよな? このうえは迷わず成仏してくれよ……)

 そうだ。どこの傘にだろうと、瑠奈が現れることは二度とないはずだ。 

 

 僕はその後大上氏と別れ、ラーメン屋を出て駅前へと向かった。

 北口の様子は以前に来たときとずいぶん変わっていた。駅ビルの正面に交差する巨大なパイプ状のアーチ。その下を木材で舗装されたペデストリアンデッキが走り、少し離れたモノレールの駅まで路面に降りずに歩いて行けるようになっている。幽霊になった橘川瑠奈が最初に目撃された、件のコンビニはすでになくなっていた。


         * * * * * * *


 それからまた、一月ほどが過ぎた。ニュースは次々と新しいものに移り変わり、世間は急速にあの事件を忘れていくようだった。

 切ない話だが仕方がない。どんな美人でもしょせんは死者だ。この世を去ってしまえば、あとは日々の堆積の中にうずもれていくだけだ。



 その日、僕は朝から新作の原稿に取り組んでいて、それに集中しきっていた。作業中のPC画面の片隅に、小さくメール着信のアラートが出ていることに気づいてはいたが、後回しにしていた。

 大上氏は何か緊急の連絡があればだいたい直接電話をくれる。メールで来るのはほとんど、さして緊急性のない定時連絡的なものだ。


 気が付けば昼の十二時をまわっていて、僕はにわかに空腹を覚えた。同時に、なだれ落ちるように集中力も切れた。

 近所のコンビニまで出かけようと身支度をして玄関を出る。ドアを施錠したその途端に――ばらばらと音を立てて、にわかに大粒の雨が降り出した。


「まいったな……」


 ジーンズのポケットに放り込んだ鍵をもう一度取り出して玄関を開け、中にある黒い蝙蝠傘を――そう思ったとき、僕の目に入ったものがあった。あの日以来ずっとドアの前の手すりに掛けられたままだった、エスニック調の女物の傘。


 すっかり忘れていた。まだここにあったのだ。

 見上げてみれば雲はそんなに厚くなかった。おそらく買い物を済ませてコンビニを出るころには、降りやんでいるだろう。


(ちょうどいい、コンビニの傘立てに放りこんで、そのままこれっきり厄介払いにしよう)


 にわか雨の中で傘立てからくすねてきた傘を、にわか雨の後で傘立てに置いてくる。そうすれば、この傘にまつわる顛末はきれいに完結する――そんな怪しげな、呪術的ともいえる思考にとらわれながら、僕は傘を手に取った。


 ポン、と小気味の良い音とともに、長い間雨ざらしになっていたはずのその傘が、ひどく滑らかに開く。


「へえ。さすがにお高い傘は耐候性が段違いだな」


 声に出してそうつぶやき、雨の中に一歩踏み出したその時。

 右手で差した傘の、心棒の向こう側――つまり僕の右隣り、目線より少し下に黒くつややかなものが現れた。長い黒髪を肩甲骨のあたりまで垂らした、僕より頭一つ低い位の上背のある、すらりとした女。ハーフコートに包まれた、細い肩。


(き、橘川瑠奈……!?)


 ばかな。竹村美和子は殺人の報いを受けた。もう、瑠奈が傘から傘へさすらう必要はないはず――だが、目の前に彼女はいた。

 こちらへ向き直った顔はやはり美しかったが、そこにはもう、なんの表情もなかった。


 ふっと膝の力が抜け、僕はまたしてもその場に尻もちをついてへたり込んでいた。ジーンズの布地ごしにしみこんで来る冷たい雨水の感触は、前に彼女を見た時とそっくりで――だが、今回は彼女はその場で消えたりはしなかった。


 さかさまになって地面に放り出された傘へ瑠奈が手を伸ばすと、僕の目がまばたきをするその一瞬の間に、傘は最初からそこにあったかのように瑠奈の手に収まったのだ。彼女は生きているときもそうであったであろう優雅なしぐさで、傘を自分の上に差しかけて歩き出した。


「そんな……成仏してなかったのか……?」


 その時。僕は不意に、思いもかけなかった想念に襲われた。


 恨みの相手が人間の社会で制裁を受ける――そのことと、霊が現世への執着を断ち切って成仏なり昇天することの間に、果たして本当に因果関係が成立し得るものだろうか?

 僕たちにとってはごく自然で当たり前なその観念は、あくまでも生きている僕たちの論理であり、倫理だ。葬儀や供養も、生きている人間が折り合いをつけるためのものなのだ。

 霊的なものに全く不感で、心霊スポットへ行っても何の影響も受けない人間だって世の中にはいる。そのくらい、生者と死者――霊との間には隔たりがある。いったい、霊にとって人間の社会で起きたことが、きちんと認識できるものなのだろうか?


 ――そんなわけは、無いではないか。


 予想に反して雨はすぐには止まず、僕は尻もちをついたままびしょぬれになった。決して雨のためだけではない体の震えの中で、僕はその答えをかみしめ、飲み下した。

 彼女は、橘川瑠奈は、これからどうなるのだろうか。この先もあの傘とともに、どことも知れない雨空の下を歩き回るのか。



 気を取り直してアパートに戻り、身体を拭いてもう一度自分の傘を差してコンビニへ――行く前に、ふと気が付いてPCに表示されたメールのアラートを確認する。


 それは、僕が傘の怪異について情報を収集していた時に設定した、検索エンジンのアラートメールだった。指定のキーワードについて新たな検索結果があれば知らせてくるというものだ。

 メールを開いて確認する。傘の女には今や「キッカワルナ」の名が冠され、先日の殺人事件の情報とともに語られるようになっていた。大きく報じられたし当然と言えば当然だったろう。


 だが、どうも様子がおかしかった。アラートの通知音が数分に一回鳴り響きツールバーに表示された新着メールの件数が、見る間に二件、三件と増えていく。

 呆然と見守る五分ほどの間にそれは百件を超えていた。僕は慌ててアラートの設定を削除した。


 ようやく通知音が止んだ部屋の中で、僕は出かけることも執筆を再開することもできないまま、最後に見た彼女の後姿を頭から追い払おうと日暮れまでむなしい努力を続けた。

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傘の内 冴吹稔 @seabuki

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