エピローグ


 二月十四日、首都圏の上空五千メートルの地点にやってきた彼は、空気中の電磁波を通して、都内から発せられた「あるメッセージ」をキャッチした。

 その瞬間、彼は自我に目覚め、意思を持った。

 低気圧が人の声を聞いたり意思を持ったりするなんてあり得ない。しかし、「世界を変えて欲しい」という、彼女の切実な思いがそれを可能にした。


 彼は、彼女の思いを自らのエネルギーに変えて、マイナス五十五度という、信じられないような寒気を作り出す。そして、一晩のうちに、東京を雪に覆われた真っ白な世界「Sugar Town」へと作り変えた。

 首都圏の上空にそんな寒気が存在するなんてあり得ない。しかし、「彼女の願いを叶えたい」という、彼の強い思いがそれを可能にした。


 二人の思いがシンクロすることで生まれた世界は「彼女が願った世界」であると同時に「彼が存在し得る時間」でもあった。


★★


『気温が上がってきた。小百合さん、そろそろお別れだ』


『ウォンスさん、私はあなたが好き。あなたが人間じゃなくても関係ない。もう一度、白い世界が続くことを願う。絶対に雪が融けない東京を願う。そうすれば、ずっとあなたといっしょにいられる。だから行かないで。私を独りにしないで』


『ありがとう。でも、同じような世界を作るにはエネルギーが足りない。

 残念だけど、これが最後のメールになる。

 小百合さんのおかげで、僕は自我に目覚め意思を持つことができた。

 こんな風に話をすることができて、すごく幸せだった。

 小百合さん、愛してる』


『ウォンスさん、そんなこと言わないで!』


『……』


『ウォンスさん! WONS!』


『……』


『返事をして! メールを返信して! WONS!』


『……』


『イヤだよ! 独りにしないで! お願い!』


『……』


 何度メールを送っても「送信完了」の文字は表示されなかった。

 全身の力が抜けてその場にへたりこんだ。

 

 やっと最良の人にめぐり会えた。でも、私の強欲な思いがそれを台無しにした。

 それ以前に、新しい世界の到来を望んだことで、たくさんの人に迷惑をかけた。私はその報いを受けたのだろう。

 私の願いごとが叶うと決まって誰かが不幸になる。それが巡りめぐって自分に返ってきたのだ。


「ウォンスさん、ごめんなさい。私は自分が幸せになれないだけでなく、他の人も幸せにすることができない。私がいるだけで周りを不幸にしてしまう。

 せっかくあなたに会えたのに……奇跡が起きたのに……そんな奇跡さえも不幸に変えてしまった……こんな自分が嫌い。消えてしまいたい。この世界から消えて無くなってしまいたい」


 涙といっしょに、やりきれない思いが一気に吹き出した。

 虚ろな眼差しを多摩川の方へ向けると、轟々ごうごうと音を立てて濁流が渦巻いている。「落ちたらまず助からない」と思った。

 フェンスの網を掴んで立ちあがった私は、吸い寄せられるように多摩川の方へ歩き出した。


 そのとき、真っ青に晴れ渡った空から雪が落ちてきた。


 ただ、降っているのは私のまわりだけ。ダイヤモンドの欠片かけらのような粉雪が、輝きを放ちながらひらひらと舞い落ちる――それは、見る見る間に人の形へと変わっていく。


 私の目の前に、美しい顔立ちの細身の男性が現れた。


「ウォンスさん……? ウォンスさんなの?」


 驚きと喜びがいっしょになったような表情を浮かべる私に、彼は「馬鹿なことはやめろ」と言わんばかりに手招きをする。


「ウォンスさん、私……私……」


 話したいことはたくさんあった。でも、言葉が出てこない。

 顔を涙でぐちゃぐちゃにして唇を震わせる私に、ウォンスは小さく頷く。それは、私が想像していた通りの穏やかで優しい笑顔。


 私の身体をそっと抱き寄せるウォンス。冷たい身体の感触と温かい何かが同時に伝わってきた。

 やっと会うことができた。やっと抱きしめてもらえた。

 奇跡を起こしてくれた神様に、私は心から感謝した。


 そんな時間ときが長く続かないこともわかっていた。

 ウォンスの気配が少しずつ薄れていく。


 息がかかるぐらいの距離で、ウォンスは私の瞳をじっと見つめる。

 私の瞳が閉じた瞬間、唇が重なる。彼と一つになれた気がした。幸せな気持ちが身体中を満たしていく。

 時間にすればほんの数秒の出来事。でも、私にはとても長く感じられた。


 ウォンスの気配が消えた。


 目を開けると、私のまわりを粉砂糖のような粉雪が舞っている。

 ふと不思議な感覚を覚えた。唇に上質のチョコレートを食べた後のような心地よい余韻が感じられる。


 思わず笑みがこぼれた。


「ホワイトデーにはまだ早いよ」


 そんな私の声に呼応するように、微かに声が聞えてくる。


「やっと笑ってくれた。小百合さんの笑顔はみんなを幸せにする。そして、みんなの笑顔で小百合さんは幸せになれる。僕が幸せになって小百合さんが幸せを感じてくれたように。これからもずっと笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。僕はいつも遠くで見ているよ」


 粉雪は風にあおられて消えていった。

 私は青い空に向かって満面の笑みを浮かべた。


「あなたのこと、絶対に忘れない。それから、約束する。笑顔でいる。幸せになれるようにがんばる。だから、ずっと見守っていて」


 都心の方には、雪化粧をした摩天楼が見える。明日になれば、雪はほとんど融けて消えてしまうのだろう。

 でも、絶対に消えたりはしない――私の中のSugar Townは。



 おしまい

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Endless Sugar Town 見知らぬあなたに恋をして RAY @MIDNIGHT_RAY

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