ナツのドライブ

里見つばさ

ナツのドライブ

 ふらりと彼の部屋に来た。

 セミダブルベッドに眠る彼を覗えば安らかな寝息を立てている。顔色は大分よくなっていて体調は戻ってるみたい。

 コージとは一年前からいわゆる彼氏・彼女の関係だ。でも八か月前の一件以来ぎこちなくなってしまった。だけど彼から別れの言葉を告げられることもなく、私も彼とは別れたくはない。今朝のように突然部屋に来ても拒絶されることもない。


 デスクを見れば一冊の本が広げられている。本の奥のフォトスタンドには前と変わらない写真――昨年夏の二人の笑顔。あの日晴れた海辺で、うんと腕を伸ばしてスマートホンで撮ってプリントアウトしたもの。

 きっと言葉で伝えてくれないだけで彼も同じ気持ちのはず。

 本の内容をちらと眺めると歴史民俗学の教科書。ちゃんと勉強も頑張ってるんだ。よかったあ。

 私と彼はY県T大学の学生。後期からは学校にも通えるのかもしれない。前期は殆ど引篭もり状態だったからね。私の責任でもあるからすごく心配しているんだよ。


 ふと彼を見ると相変わらずベッドで夢の中のご様子。抱きついて驚かせちゃおうかな? 待って。それはまずい。彼をゆっくり休ませないと。

 寝起きの眠気覚しのため、コーヒーをれたら喜んでくれるかな? 寝起きがとっても悪いから。でもきっとひどく驚いてしまうだろう。

 なんとか衝動を押さえ込む。


 ピピピピ……ピピピピ……

 驚いたのは私。小さな1Kに電子音が響き渡る。電話が掛かってくると驚いてしまうからバイブレーションにして、と毎度言っていたのに。相変わらずだと苦笑する。

 ピピピピ……ピピピピ……

 電話ですよー! もう昼近いですよー! 起きて起きてえー! 

 コージは微動だにしない。これまた相変わらずで微笑みがこぼれてしまう。


 ピピ! ――「はい。ああ。今日? 俺なら大丈夫だ」

 ようやくコージが電話を取って、不機嫌な調子で応対している。相手は十中八九、親友のタツヤだ。タツヤぐらいしか彼に電話を掛けてこないから。

「うんうん。ふうーっ。起きた起きたぞお。寝てたけどさほど悪くない。そうかあ。久しぶりに……」

 タツヤにどこかに行こうと誘われているのだろう。


「I半島? よし。起きて準備しよう」

 クルマでI半島に行くつもりみたい。

 よかった。きっと引き篭もりから快方に向かっている証拠だね。それにI半島といえば、一年前にコージと親密に――いや非常に親密になった場所。

 私も楽しみで仕方がない。きっと見覚えがある場所にも連れて行ってくれる。タツヤも含めて三人で、もちろんコージと二人きりでも、色々なところに行ったよね。

 早く元気になって、また素敵な笑顔を見せてほしい。


 うーん、と伸びをして目覚めようとしている彼。もしもコーヒーを淹れていたならば――とてもタイミングが良かったのに。

 目覚めるためにシャワーを浴びた後、着々とコージは外出の準備。去年の冬まではよく見かけた彼の行動。

 私もあの頃と同じ。おとなしく彼の支度を待つ。

 

 彼がカーテンを開けたら、水彩絵の具をべたりと塗った青空に日差しが眩しい。

「すごいな。雲ひとつない快晴だぞ」

 八か月ぶりに見る彼の笑顔と明るい声に懐かしさを感じる。きっと最高のお出かけ日和。久しぶりのドライブは楽しみだなあ。私も精一杯に微笑み返す。




 手早く身支度を整えたコージの後について、アパートの駐車場へと向かう。T大学の学生は、殆どが彼やタツヤのように一人暮らしをしている。かなりの田舎なので、最寄のコンビニエンスストアすら歩くと一時間以上も掛かってしまう。そのため乗用車を使う学生も多い。

 彼のクルマはシルバーの小型ハイブリッド車。実家で買い換えをしたため譲ってもらったそうだ。

 何の変哲もなく大型駐車場に停めていると、間違えてしまいそうなありふれたクルマ。だけど大のお気に入りだ。もちろん、その魅力はドライバーによる。

 『いろいろな場所にキミと行ったね』

 心の中で久しぶりのクルマに語りかける。

 

 彼は運転席に乗り込んでエンジンをかけると、すぐ窓を全開にした。既に正午すぎで気温は高く車内は蒸し風呂のはず。

『ナツ、そろそろ出発だよ』

 彼は私をこう呼ぶ。お決まりの台詞が聞こえた気がして、クルマの後部座席に乗り込む。

 本当はいつもの助手席がいいけど、体格のいいタツヤに譲ってあげる。三人のときには、小柄な私はいつも後部座席だった。


 さあ、出発だ。久しぶりの長距離運転だから事故には気をつけて。車内はまだ暑いけれど、エアコンは掛けずに彼は窓を開けたまま運転している。

 彼は暑いのは大丈夫。いや大好きといっていい。

『ナツはおれにぴったりだよ。名前に大好きな夏が千個も入っているし』

 一年前の暑い日にも、わくわくするような嬉しい言葉を掛けてくれたね。私の名前には夏が入るけれど、実は雪国生まれの雪国育ちなのは、とりあえずおいておこう。

 夏は嫌いではないけれど、強い日差しが心配。このまま、後部座席で大人しくしていようっと。


 二分ほどで、親友タツヤのアパートに着く。「意外と早かったな。思ったよりは元気そうじゃないか」

 外で待っていたタツヤは、助手席に乗り込んできた。彼の横顔も見れず軽い嫉妬を覚えるが、やむを得ない。

 タツヤは彼とは同郷で古くからの親友だ。私が彼の部屋にいるときでも、幾度か訪ねてきたりと、私とタツヤも気心は知れている。控えめで信頼できる人間だ。


「ああ。なんとかな。とりあえず、出すぞ」

 開け放していた窓を閉めて、彼のクルマは一路I半島を目指す。時おり、彼とタツヤが一言二言会話をしているが、邪魔しても悪いし気が散るとまずいだろう。サイドウインドウから外を眺めることにする。


 この道は一年前に通った記憶がある。富士山が良く見える道。

『ずっとまっすぐ行くと海にぶつかるんだ』

 コージが教えてくれた。

 彼が覚えていてくれて、同じ道を選んでいるのだろうか。それとも単に都合がいい道なのだろうか。判断はつかないけれど、彼も懐かしさを感じてくれていると嬉しい。


 小さな段差が時折あるが路面の状態はいい。心地よい振動に眠気を感じてきた。

 もし、眠ってしまったらごめんなさい。ああ、そうか。今日は助手席でないから、そこまで気にしなくてもいいのかもしれないね。

 こうしていつしか、意識が薄れていった。




 目を刺すのは海面の輝きだった。眩しいっ!

 そうか。もう海岸沿いまで来ているらしい。だいぶ走ったんだ。お疲れさま、と

 彼に感謝する。

 サイドウインドウに流れる景色は、記憶の片隅に残っている。そうだ。この道を走りながら、彼と会話を楽しんだ。どのような話をしたっけ。

 内容は定かではないけれど、軽くステップを刻みたくなるような高揚した感情だけは覚えている。


 次の信号を右に。

 右に行けば、一年前に長い間話した海辺があるはず。ぜひともあの気持ちを思い出すために、右へ行ってほしい。

 願いが届いたのだろうか。彼はハンドルを右へ切って、しばらくクルマを走らせた。空き地に車を停めると、コージはあの時と同じベンチに腰掛けて、独り海を眺め始める。

 タツヤは彼を一人にさせようとしているのだろう。堤防を歩きつつ、時折立ち止まっては海面を覗き込んでいる。


 きっと、彼も私のことを、考えているはず。そうでなければ、あのときと全く同じ場所に来る意味はないだろう。

 今ならば、彼と二人きりになれる。横に座りたい。そう。一年前は、ベンチでキスをして、素敵な時間を過ごした。思い出すだけで鼓動が早くなってしまう。

 もう一度、彼もあのときと同じ気持ちになれば――いや、だめだ。彼の横に飛んで行きたい欲望を必死に抑える。

 彼の私に対するスタンスは、彼自身に決めさせなければ。私は彼の気持ちを強制できる立場ではない。

 掛け違えたボタンのような二人の気持ちは、元に戻るのだろうか。


 防波堤を歩いていたタツヤが、こちらにやってくる。おそらく、帰りを促すのだろう。タイミングがいい。私も少し落ち着かないと。

 気づけば、白っぽかった陽光がオレンジ色に変化して、彼とタツヤの影も長く伸びている。

 行きと同様にクルマの後部座席に収まる。

 助手席に乗り込んだタツヤが、ハンドルを握るコージに問いかけている。

「気分転換になったか?」

「ああ。少しはな。さあ、帰ろう」

 彼が北へとクルマを走らせ始めた。すでに空は黒くなりつつあり、対向車のヘッドライトが時おり眩しい。

 感情が昂ぶってしまったせいか疲労を感じる。目を閉じているうちに、またもや意識が薄れていった。




「千夏さん、どうだい?」

 タツヤの声で目が覚めた。彼が首を横に振っている。

 辺りには見知ったスーパーの看板が光る。ここまで戻ってくればタツヤのアパートもすぐそこ。ごめんなさい。長距離の移動で、私も少し疲れたのかも。


「まだだ。でも、そっとしておいた方がいいのかもな」深い息を吐いて、彼が呟くように言う。

 ほどなく、タツヤのアパートの前まで来た。タツヤもお疲れさま。

「じゃあな。誘ってくれてありがとう。礼がわりにやるよ」

 クルマから出た彼が、後部の荷物室からスノーボードを取り出して、同じく助手席から外に出たタツヤに渡す。

「おまえ……。気に入ってずっと使ってたやつだろ?」

 コージのボードは、ゲレンデで見ている。大事にしていて不要とは思えないし、タツヤが驚くのも無理はない。

「ああ。いいんだ」

「雪崩、思い出すのか?」

「ああ。そして、ナツのこともどうしても思い出す。だから……」

「わかった。預かっておく。また使いたかったら言ってくれ。じゃあな」

 二言三言、彼とやり取りすると、タツヤは手を上げて帰っていった。

 ここまでくれば、彼のアパートももう少し。


 アパートの駐車場にクルマを停めて、彼は自分の部屋へ歩みを進める。後を思わず少しついて行きかけて、やめた。

 ありがとう。今日は楽しかったな。

 彼との仲を修復して、また二人でドライブに行きたいよ。

 でも、私は山へ飛んで行かないと。ふう、と息を一つ吐いて滲む星空を見上げた。

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