第5話 シャドウが見えて僕が見えない秘密
問題は、そこから始まった。次の日から、舞歌は人が変わったようにつらく当たるようになったのだ。
それまでは何をやっても全部OKだったのが、一言一言、足の一歩から指の上げ下ろしに至るまで、演出とタッグを組んで僕をこき下ろすようになった。
さすがに耐え切れなくなって、僕は稽古中にへたりこんだ。
「ちょっと、ごめん!」
こういうときは演出が手を叩いて劇の進行を止めるものらしいのだが、そこで駆けこんできたのは舞歌だった。
「勝手に止めないで」
僕を見下ろすその顔は、まるで鬼か悪魔のようだった。完全に嫌われたのを覚悟した僕は、全てを諦めてその場に寝転がった。
「もうダメ」
実を言うと、そこで何か舞歌に声をかけてほしかったのだ。だって、僕がいなければ地区大会には出られないのだから。確かに大きな口を叩いたのは僕だけど、舞歌だけはもっと優しくしてほしかった。
ところが、舞歌はおろか、演出も他のスタッフも、僕には声もかけなかった。何事もなかったかのように、みんな自分の持ち場に戻り始めたのだ。
何が起こったのか分からないで呆然としていると、ステージの端から呼ぶ声がした。
「朔くん!」
舞歌なら、呼び捨てにする。誰かと思って見れば、涼美先輩だった。
「でも」
それ以上言う前に、涼美先輩は首を横に振った。それでも気になってステージの中をみると、僕がちゃんと学者の役を完璧にこなしている。
「シャドウ……!」
その場から動けないでいると、涼美先輩が叱りつけた。
「下がって!」
令嬢役の舞歌が、僕に向かって走ってくる。いや、駆け寄る先はシャドウのほうだ。この勢いだと、僕につまずいてステージから転落する。
床を這いずるようにして慌てながら、ステージの端に滑り込んだ。危ないところで、舞歌は僕……の顔をしたシャドウの胸の中に飛び込む。本来なら都築の役なんだからザマーミロといったところなんだけど、舞歌を抱きしめるのが僕じゃないのはやっぱり面白くなかった。
「何で?」
別の意味でも、納得が行かなかった。さっきまで、誰もシャドウには気付きもしなかった。だいたい、あのとき学生服を着ていたってことは、うちの生徒ですらないはずだ。こんなこと、認められるわけがない。
それなのに今、シャドウは堂々と都築の代役をやっている!
その答えは、すぐに涼美先輩が教えてくれた。でも、その声には明らかな苛立ちが込められていた。
「今、あなたが影なの!」
頭の悪い僕にも、それで分かった。今、僕はシャドウと入れ替わっているのだ。ちょうど、舞歌が書いた台本のように。そして、アンデルセンが童話で書いたように。
そうと分かれば、話は早かった。何も僕が、暑い思いをして難しいことをする必要はない。むしろ、シャドウに任せておいた方が全て丸く収まるのだ。
僕はといえば、セリフが完全に入っているわけでもないし、本気を出した舞歌を満足させる演技もできない。求められてるのが都築の代わりと県大会出場だったら、僕がでしゃばることもないのだ。余計な意地を張って舞歌を悲しませるくらいなら、完璧なシャドウに代役を務めてもらった方がいい。
そんなわけで、僕はその日の午後いっぱい、何もしなかった。誰にも気にされないのをいいことに、ステージの端で高見の見物を決め込んでいたのだ。
シャドウは昼食時間が終わると、決められた時間通りにやってきて、滞りなく演技をこなした。演劇のことはよく分からないけど、演出は手を叩かなかったし、舞歌が一生懸命考えたらしいギャグシーンには、誰にも声を聞かれないで笑い転げることができた。
ただ1人、涼美先輩だけが僕に気付いた。ステージ横の暗がりから叫ぶ。
「何してんの、朔くん!」
ホウキやモップやバケツを持っているところをみると、することがなくて雑用を進んでやっているらしい。だから演劇部では目立たないのかもしれない。
叱られる前に、僕はちょっと開き直り気味に言い訳した。
「今替わると、ちょっと」
手にしたものをその場に置いて、涼美先輩はあぐらをかいた僕の隣に慌てて駆け寄ってきた。
「替わらないとたいへん!」
すべすべした手で僕の腕を掴んで立たせようとしたけど、それには抵抗してうずくまった。諦めた先輩が離した手を、ステージの中に向ける。
「替わったほうがたいへんだよ」
学者と影法師の前に、令嬢が厄介事を持ち込んだシーンだった。東北の山奥の秘湯にある温泉場のホテルで、重要な秘密の会議前に、機密の入ったUSBのパスワードが失われたのを相談に来たのだ。
シャドウがすらすらと謎を解いたときにはいなかった令嬢は、その成果を横取りして自慢げに語る影法師の話をはしゃぎまわって聞いている。それを演じている舞歌は、生き生きと輝いて見えた。
涼美先輩も、同じことを感じたらしい。ちょっとの間、何も言わなかったけど、やがてホウキとモップとバケツを手に取って言った。
「今日だけね、今日だけ」
仕方なさそうに念を押すのに、僕は生返事で答えた。目を離せないくらい、舞歌がかわいかったからだ。それを敢えて邪魔するように、涼美先輩は頭の上から一方的に説教した。
「あのね、今、私と朔くんは別の次元にいるの」
「……え?」
ステージに気を取られて、ちょっと理解できなかった。舞歌の出番が終わったので、やっと先輩の話を聞くことができたのだ。
「さっきも、シャドウはあなたのうしろでそこにいた」
いらいらとした声が、話を続ける。
「みんなのいる次元とは、ちょっとずれた世界。だから、今はみんなにシャドウが見えて、私たちが見えないの」
そういえば、いつもは聞こえる体育会の掛け声が聞こえない。
そこで僕は、前の晩のことを思い出した。
青白いコートの男、空飛ぶ爺さん婆さん、真っ青な馬……。
「あれ全部?」
「そう、もっと深い次元ね」
僕の言いたいことを、聞かずに察したかのように答えて、涼美先輩は姿を消した。その「深い次元」に潜ったみたいだった。
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