第3話 初めて見た生キスシーンの衝撃

 そんなわけで、僕は暑い暑い10日間を耐え抜いて、ここにいる。部活の最中に過労で倒れた都築は手足を打ったり捻ったりしてしまい、医者から全治1か月の宣告を受けている。その頃に行われる県大会までは舞台に立てず、その前に出場のチャンスを失うことは、舞歌も他の部員も到底できない話なのだった。

 そこまでは、先輩も察してくれたようだった。

「ああ、そういうこと」

 もっともらしく頷くのに何か皮肉っぽいものを感じて、僕は問い返した。

「何ですか?」

 月の光を浴びながら、真剣な表情をした顔で先輩は告げた。

「でも、私には関係ないの」

「そうかもしれませんが」

 あの痣を見せられたら、そう答えざるを得ない。でも、涼美先輩の抱えた事情は、僕の理解を上回っていた。

「……命かかってる」

 自分の呼吸が止まるのを感じて、次の言葉がなかなか出なかった。

「どういうこと、ですか?」

 やっとの思いで尋ねると、先輩は怖い顔をしてみせた。

「覚えてるでしょ、あれ」

 その顔は、過去の悪事を引き合いにして子供を叱るときの母親そっくりだった。


 1週間前のことだった。

 たった3日、放課後3時間ずつの練習が続いただけで、僕は体力の限界に来ていた。とにかく暑い体育館のステージで、筋トレやったり、床に寝そべって力抜いたりヨーガみたいなポーズとったり、床が汗でべっとり濡れたところで発声練習だ。

 体育会の掛け声もあって、とにかく僕の声は聞こえない。たった10日で会場に響くようにしなくちゃいけないのだから、そりゃあもう、顧問の先生から部長から、特に舞歌がつきっきりのご指導で鍛えてくださったのだった。

 部活が終わると、舞歌はダウンした都築の顔を見にすっとんで帰った。

それも原因のひとつかもしれなかったけど、学校前からのバスを降りた帰り道にはもう、家までまっすぐに歩けないくらいだった。

 だんだんと、意識が遠のいていく。すれ違う人の姿が歪んでいく。帰宅途中のサラリーマン、塾へ急ぐ子供たち、ふらふら歩くバス停、夜空に影を映して行進していく電信柱……。

 カミシモつけて足袋を履いた福助とすれ違ったとき、僕の前に青白い影法師が長いコートを羽織って立ちはだかった。

 ……露出狂?

 男相手にそれはないだろうと思った時、ぬるりと長い手が伸びた。

 伸びるというより、宙を這う感じだった。

 あっと思った時、その指先が僕の喉元に触れた。

 ……冷たい。

 正直言うと、部活で火照った身体には気持ちよかった。怖いような、続けて欲しいような、不思議な気分だった。すうっと眠くなって、身体も軽く宙に浮いた感じだった。

 あの声が聞こえるまでは。


  震う心 震う魂

  盲いるなかれ、眼を開け

  汝が心に火を灯さん

  汝が身体にほむら立たせん

 

 全身を引き裂くような痛みで目が覚めた。

 いや、実際に何かが、僕の身体の中から這い出している。

「うわああああ!」

 叫んだところで現れたのは、背の高い学生服の影だった。

「涼美、どうする? こいつ身体乗っ取られんぞ!」

 尋ねながら、青白いコートの男に、ゆらり、ゆらりと左右に緩やかなステップを踏みながら迫っていく。相手もまた、それを牽制するように身体を揺らした。

 さっきの声が命じる。

「攻めよ!」

「おお!」

 学生服の方が先に動いた。すさまじい速さの足さばきで身体を回転させながら、振り上げた両手両足を叩きつける。コート姿のほうはというと、背中を丸めて跳んでかわす。

 声が鋭く叫んだ。

「討て!」

 後を追って跳んだ学生服が、コートの男の身体を抱える。そのまま逆さまになって、アスファルトの地面に落ちた。真っ青な火柱が上がって、2つの影をかき消す。だが、その一方だけは、炎を背にした黒い影法師となって現れた。

 その間、僕はどの辺まで立っていたのかよく覚えていない。気が付いたら、行進には参加しなかったらしい電信柱の根元で腰を抜かしていた。黒い影法師が立ち止まって、僕を見下ろす。

「で、こいつは?」

 その頭の向こうでは、白い衣をまとった爺さん婆さんがトンボの羽の生えた子供たちと輪になってくるくる飛んでいた。

「あ~あ、ここに迷い込んじゃったのね」

 さっきの声の主らしい人影が、足音をコツコツ立てて歩み寄ってきた。

 学生服の隣に立ったのを見上げると、ブレザーにリボンのスカート姿だった。どうやらうちの女子生徒らしい。

「大丈夫よ、シャドウ」

 シャドウと呼ばれた男は、しゃがみ込んで僕の手を取った。

「おい、立てるか?」

身体を抜けてきた影法師を思い出した怖さで叫び出しそうになる。でも、声がうまく出なかった。

「や……や……」

「やめてあげなさい」

 女子生徒が僕の言葉を引き取った。影法師の手は意外に温かい、というより熱かったが、するりと放してくれたので、いったん持ち上がった腰は電柱の根元に再び落ちた。代わりに僕の隣にしゃがみ込んだのは、女子生徒のほうだった。

「私を覚えてる? 三坂朔くん」

 思わず見とれるほど、きれいな人だった。諦めようと思っても、今まで心のどこかにあって消えなかった舞歌のかわいさとは、また別の何かがある。冷たいような、それでいてどこか優しそうな顔だちだった。

 答えられないでいると、その人は長い黒髪をかき上げて、静かに微笑した。

「あなたの先輩なんだけどな、この3日間ぐらいは」

 そうすると、この人は演劇部の2年生か3年生ということになる。でも、そんなに人数はいないはずなのに、どうしても思い出せない。

 ……いわゆる幽霊部員ってやつだろうか?

 先輩に見とれていたせいもあったけど、心当たりがないので、やはり返事できなかった。小さくため息ひとつついて、ブレザー姿の女子生徒が黒髪をなびかせて立ち上がる。

「覚えておいてほしいな、3年の風間涼美って」

 先輩の頭上を、何かキラキラしたものが群れになって飛んでいく。蛍なんか、この辺には出ないはずだ。

 まだぼんやりしていた僕に呆れたんだろう、暗い影になった風間先輩はつぶやいた。

「ずっとあなたのそばにいたんだから」

 全然気が付かなかった。

「頼むね、私の最後の大会」

 言われるまでもないけど、心当たりのない人にそう言われても実感がない。頷くことしかできない僕に、先輩は困ったように頭を掻いて告げた。

「ええと、私のことは涼美先輩って呼んでくれればいいし、わかんないことは聞いてくれればいいし、それから……」

 ぽんと手を叩いて、僕を指差す。

「やっぱりあなた、普通の鍛え方じゃ間に合わない。これじゃあ県大会まで行けないかな」

 はーッと深い息をつくと、真っ青な馬がその後ろを音もなく歩いていった。もう関係ないという感じで、学生服の影はそれを黙って見送っている

その顔を手で挟んで、涼美先輩は自分のほうを向かせた。

「しばらくついててやって。見てられない」

「俺が? こいつを?」

「本番までね」

 次の瞬間、僕はドキッとして息を呑んだ。

 男女のキスを目の当たりにしたのは、生まれて初めてだったからだ。

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