センパイから影法師を借りてみました
兵藤晴佳
第1話 合宿の夜、先輩と
月の明かりが差し込む教室で、僕は3年生の
「ねえ、
教室の椅子にもたれて、タンクトップにパーカーを羽織ったジャージ姿の先輩はまっすぐに僕を見つめた。
「は、はい」
そんな目をされると、背もたれに沿って身体をまっすぐに伸ばさないわけにはいかない。いかに1年生とはいえ、一応は三坂
僕の緊張を察したのか、先輩は名前の通り涼しく美しく微笑んだ。
「約束だったでしょ、本番までって」
「……はい」
よけいに堅くなって、うつむくしかなかった。
そう、本番が僕のゴールなのだった。だから、今夜がタイムリミットなのだ。
信じられないことだが、僕の通う高校は7月31日まできっちり授業がある。なんでもうちは公立でも偏差値最低レベルで、いつ統廃合に引っかかってもおかしくないらしい。そんなわけで、中学校で勉強できなくてここに何とか引っかかった僕たちは、義務教育でさぼりにさぼったきたことのツケを母校の存続のために支払おうと、汗を流しながらシコシコ登校しなくてはならなかった。
まあ、自業自得といえばそうなんだけど。
とはいえ、それは去年の話だ。今年は運よく土日に月末が来るので、本日めでたく終業式を迎えた僕たちは、やっとのことで授業から解放されたのだった。
あくまでも、授業だけだけど。
部活はそうはいかない。この炎天下に、野球部だのバスケ部だのは、外で夏の太陽を浴びたり、体育館の中でこもる熱気にさらされなくてはならなかった。
そして演劇部もまた、地区大会を明日に控えて、午後を会場設営と最後のリハーサルで全て潰したのだった。
さらに、ようやく日が暮れかかった頃には、学校に戻ってダメ押しの「通し稽古」。部員でもない僕にとっては、初めてのことばかりだった。
練習は夜遅くまでかかるので、合宿ということになった。明日は早いからさっさと寝ろということになって、部員たちは校内の各教室に敷いたブルーシートの上で、レンタルの布団にくるまって寝ることになった。
でも、僕は涼美先輩から、消灯前に囁かれていた。
甘い声で、「今夜、隣の校舎の端っこで」と。顧問は男女2人泊まり込みだけど、それも含めて、誰も聞きとがめる者はなかった。
そんなわけで、僕たちは月明かりの下で特別な時空の中にいた。
「だから、もう返して」
「でも」
先輩に口ごもるしかなかったのには、事情がある。でも、涼美先輩はそんなこと知ったことじゃない。
「私のシャドウ」
それは、ここにはいない。僕の代わりに、男子の合宿所で明日に備えて睡眠を取っている。その「シャドウ」の力を借りるのは、今日までの約束だった。
「確かにそうでしたけど」
その事実は認めるしかなかった。涼美先輩は涼美先輩で、まるで出したおもちゃを片づけない子供をたしなめるように言った。
「もう明日でしょ」
その明日が心配なのだった。僕はたどたどしく言い訳した。
「まだ……完全にできる……わけじゃ」
「セリフ入ってるでしょ」
きっぱりと言い切ったのは、励ましの意味もあるんだと分かってはいた。でも、なるべく期限は引き延ばしたかった。
「明日のリハ……まで」
慣れない用語を口にして、空しい説得を試みる。会場では本番前に、1時間のリハーサルが別室で認められている。
でも、涼美先輩は断言した。
「待てない」
「じゃあ、朝一番の稽古まで」
夜が明けたらすぐに、体育館で最後の稽古だった。それが済んだら朝食後にマイクロバスで会場まで移動することになっている。あとは、出番を待つだけだ。
僕か、「シャドウ」かは分からないけど。
いや、「シャドウ」でないと困る。
あくまでも僕個人のものだが、今回の大会全体に関わる事情だった。それでも、やはり切って捨てられた。
「今じゃないとダメなの」
「どうしてですか?」
先輩の声は結構追い詰められた感があったけど、それは僕も同じことだった。
「あいついないと、私困るんだ」
「そうは言っても」
僕だって、崖っぷちなのだ。僕の出番は涼美先輩の「シャドウ」が務めたほうがいい。
普通に考えたらそうなるはずなのだが、目の前でパーカーが脱ぎ捨てられたとき、僕は息を呑んだ。
別にいやらしい意味じゃない。
「これ」
見せつけられた白い肩の上には、蜘蛛が触手を広げたような黒い痣が広がっていた。深く息をついて、先輩は閉じていた目を開いた。
「何だかわかるでしょ?」
「これが……」
何となくわかってはいたけど、こんなことになるとは思ってもいなかった。涼美先輩は、そらした目を伏せた。
「今夜が勝負なの」
だから、ここに呼び出されたのだ。誰にも見られないようにして、誰も来ない場所に。それでも、僕は簡単に退くことはできなかった。
「それは分かります。けど……」
僕の目の前に、幼馴染の笑顔が浮かぶ。
小さいときから今までずっと一緒にいて、お互い隠し事なんかない仲だ。高校に入って出来た彼氏まで、真っ先に紹介されたんだから。
その舞歌は、向かいの校舎のどこかで静かに寝息を立てていることだろう。
寝顔まで想像してしまったけど、それも、涼美先輩の声が震えているのに気付いたときにはきれいに吹き飛んでしまっていた。
「負けたら、私……」
言葉が続かない。あまりに切羽詰まった様子に、聞かないではいられなかった。
「どうなるんですか?」
剥き出しの肩がひくっと震えたけど、答えは一言しか返ってこなかった。
「……言えない」
言いたくないことに無理をさせたくはなかった。僕は質問を変えた。
「今すぐ、ですか?」
涼美先輩は顔を上げて、無理やり笑った。
「そろそろ限界なんだ、あたしだけで戦うのも」
その一言は、僕の胸に突き刺さった。
「ひょっとして、毎晩……ですか?」
想像してもみなかったことだけに、先輩の答えはショックだった。
「朝も昼も夜も」
今日もそうだったことになるが、後ろめたさに、敢えて確かめないではいられなかった。
「……ずっと?」
月明かりの流れる黒髪をかき上げて立った先輩は、豊かな胸を押し上げるようにして腕組みすると僕を見下ろした。
「いなかったでしょ、私」
そうは言っても、涼美先輩はこれほどの美人なのに、その場にいてもいるのかいないのか分からない人なのだった。
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