いつかの話

酒の話

「いやこれは。私はな。これほどまずい酒は初めて飲んだぞ」


 顔を苦悶に歪めながらそう呟くヨルンを見て、いかにも愉快そうに黒衣に身を包んだ鼻の無い小男カンイーは言葉を返した。


「いやはや、この旨味がわからんとはさすが〈世間知らずのヨルン〉さまといったところだな。この味なんだよ、この味……。いいか先生、この酒の別名は〈若きビゴーの雫〉と言ってだな」

「ああ、ああ、いい。そなたのその益体もない薀蓄は懲り懲りだ……」


 手を振りながらそう言うヨルンの顔は酒気でほのかに赤く染まっており、それはカンイーもまた同様であった。

 先のカンイーの言葉はこう続く。〈若きビゴーの雫〉と呼ばれている柑橘の香るこの透明な酒は、本来半年をかけて木樽の中で熟成させるべき蒸留酒をわずか三十日で樽から出し、そこに好みの果実のエキスを加えて作られるものである。これは愚かだが極めて美しかった剣士ビゴーの初陣とその死にちなみ、皮肉と若干の下世話な冗談を込めて名付けられたのだという。この酒を飲むことで人々は、自惚れもほどほどにすべきこと、そして戦場には決して手鏡を持ち込まぬことを肝に銘じるのだった。

 ヨルンの病弱さよりもむしろ危うさを感じさせるその青白い肌は、見つめられたものをたじろがせるその鋭い瞳は、そして何よりも黒革の手袋に包まれたその名高い〈右手〉は、否応なく酒場の注目を集めていた。それを冷やかすカンイーに、ヨルンは冷たい一瞥をくれて、また〈ビゴーの雫〉に口をつけた。


「やあどうも。相席、よろしいですかな」

 

 そこへそう二人に声をかけながら近づいてきたのは、浅黒い肌をした背の高い口髭の男である。太い眉毛の下から覗く目は、いかにも親しげに二人を見つめていた。

 椅子を引き座りかけた男にヨルンは言い放った。

 

「そなた。どこの誰が座っていいと言った」


 それに答えて口髭の男は言った。


「おや。おや。おや。貴君、口を訊けたのですな。それはよかった。いやはや、何も返事がいただけなかったので私はてっきり──」

「よいか」


 ヨルンは男を睨みつけながら言った。

 

「我らは旅の途中だ。とても疲れていて、今それを癒やしている。そなたに用は無い。少しもだ。わかったらさっさと立ち去れ。もし私の言っていることがわからぬのなら、それこそ余計に今すぐ立ち去れ。わかったな、髭」


 これを聞いてカンイーは酔っ払った含み笑いを漏らしたが、すぐに小馬鹿にしたような生真面目顔を作った。

 口髭の男は言った。

 

「結構な物言いですなあ、〈忌み子〉さん」

「おっとこれは」

 

 口髭の男の言葉を聞いたカンイーはそう呟くと、さっとテーブルから飛び退り、そして酔客の中に紛れた。

 座ったままうつむき微動だにせぬヨルンに向けて、口髭は言葉を続けた。

 

「自己紹介させていただいて良いですかなあ。私の名はウェグジェイラン。由緒正しいキルジョイ家の三代目〈けもの狩り〉であります。あ、こちら免状です。あなた、あの〈銀のけものの子のヨルン〉さんで間違いないですよね」

 

 ヨルンは長く細いため息をつくと、顔を上に向け、大声で怒鳴った。

 

「カンイー、逃げるな! 出てこい!」

 

 すごすごと出てきて再び席についたカンイーには目もくれず、ヨルンはウェグジェイランに目を合わせて言った。

 

「何の用だ、髭」

「私の名は──」

「黙れ、髭」

 

 そう言うとヨルンはグラスに残っていた〈雫〉をウェグジェイランの顔にぶち撒け、そして立ち上がると、カンイーを引き連れて夜の街の中へ悠々と去っていった。

 あとには顔から酒を滴らせている口髭の〈けもの狩り〉が、ひとり残っているばかりであった。

 

 ◆

 

 ドエ大陸に世代を超えて伝わる〈銀のけもの〉伝説は、自然とそれを狩りそして名誉と褒章を得んとする者たちを産んだ。彼らは〈けもの狩り〉と呼ばれた。不確かな伝聞と記録そして当て推量を元に大陸中を旅して周る彼らの多くは、中小貴族や裕福な商家の無能な次男三男などで構成されていた。要するに穀潰しであった。時には徒党を組み、「これは〈銀のけもの〉を狩るためである」などと嘯きながら各地で狼藉を働く彼らのことを疎ましく思う者は少なくなかったが、なにせ金だけは持っているものだから余計に性質が悪かった。ウェグジェイランもその一人である。そしてヨルンが出会った〈けもの狩り〉はウェグジェイランが初めてではなかった。

 追いすがってきた怒れる口髭の〈けもの狩り〉の突きを交わしそして傍の小川へ投げ飛ばしたヨルンに、カンイーは言った。

 

「ああ、ああ、これは勿体無いことを。ちゃんと取るものは取ったのかい、ヨルンさんよ? 旅を続けるにも金ってもんがいるんだぜ」

「フン」


 ヨルンはそう一つ鼻を鳴らすと、言葉を返した。

 

「あんな輩の金に頼らねばならんのなら、見世物にでもなったほうがましというものだ。そうだろう」

「はあ。そんなもんかねえ」

 

 浅瀬で溺れかけるウェグジェイランとその見物人たちを後にして、ヨルンとカンイーはしばし二人の旅を続けるのであった。

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〈呪われしヨルン〉のその細い指 ズールー @zoolooninja

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