新釈 狼少年

淺羽一

新釈 狼少年

 その昔、温暖な気候に恵まれた山間の村に、焦げ茶色の髪の毛と瞳が愛らしい牧童の少年が住んでいました。

 少年は毎日昼の決まった時間になると、腰に角笛を携え、村で飼われている羊や山羊、牛などの家畜を丘の上の草地へと連れて行きました。そして家畜たちがのんびりと草を食んでいる間、丘の真ん中に立ち、周りを囲む森から狼が現れないかどうか見張っているのが彼の仕事でした。

 ただ、その仕事はとても退屈なものでした。だって、狼なんて滅多に現れず、家畜はのんきに鳴いたりげっぷをしたりしながら草を食べているだけで、少年はいつも一人でぼんやりと空を見上げているくらいしかすることがなかったからです。

 しかし、そんなある日、普段と同じように少年が家畜を引きつれて丘の上で過ごしていると、いつもは大人しい子ヤギが何故だか急に大きな声で鳴き始めました。するとたちまちその声は他の家畜にまで広がって、途端に丘の上は動物の合唱でうるさくなりました。

 今日もやっぱり暇だなぁと草の上に寝転がっていた少年は、思わず飛び起きて、何があったのだろうかと最初に鳴き始めた子ヤギの所へ駆けていきました。

 実は、好奇心の旺盛な子ヤギは群れから離れ、勝手に森の方へ歩いていき、そこで枯れて地に落ちていた木の枝に足を引っかけ、傷つけてしまっていたのです。

 だけど、やがて少年が子ヤギを見つけた時、彼は足から血を流している子ヤギを見るやいなや、それは狼に襲われたせいだと勘違いしてしまいました。ただ痛くて鳴いていただけの声も、本当は狼に食べられそうになって助けて欲しくて鳴いていたのだと思い込みました。

 するとどうでしょう、それまでは恐いなんて感じた事の無かった昼間の森が、一転して凶暴な狼が餌を狙って潜んでいる危険な狩り場に見えてきました。

 少年はもういつどこから狼が飛び出してきてもおかしくない危機感に、一刻も早く村人達を呼ばなければならないと思い、とにかく村へ向かって力一杯に角笛を吹き鳴らしました。

「大変だーっ、狼が出たぞーっ、狼が出たぞーっ」

 角笛を「ぷぁ~、ぷぁ~、ぷぁ~」と鳴らしながら、少年は一所懸命にそう叫びました。

 やがて、少年の耳に「狼は何処だ、狼は何処だ」と村の男達の声が届いてきました。

 手に鍬や鉈、猟銃などを構えた男達は、少年に向かって「狼は何処だ」と尋ねました。

 少年は震える指先を森の奥へと向け、「森の中だよ。見て、狼がこの子ヤギの足にかじりついたんだ」。

 そうして、村の男達による狼狩りが始まりました。皆、とても緊張した顔をしながら、いきなり襲いかかってくる狼にも後れを取らないように、慎重に森の中を捜しました。

 ですが、一向に狼は見つからず、結局、日が暮れる頃になっても狼が出てくる事はありませんでした。

 遂に男の一人が少年に聞きました、「狼なんか何処にもいないじゃないか。見間違えたんじゃないのか」。

 少年は慌てて答えました。「そんな事無いよ。だって、この子ヤギだって足を怪我しているんだから。それに、僕はこの目でしっかりと狼を見たんだ」。少年はいつしか、こんな大騒ぎになってしまって、もしも単なる見間違いだったりしたらきっと怒られてしまうに違いないと恐くなっていたのです。

 大人達はしばらく考えたものの、あんまり真剣に少年が言うものですから、これは本当の事なのだろうと納得し、そうであればむしろ狼が別の場所まで行ってくれて良かったと安心する事にしました。少年もまた、狼に対する不安よりも、大人達に叱られずに済んだ事への安堵感に胸を撫で下ろしました。

 翌日、いつも通り丘の上へ家畜をつれてきた少年でしたが、その状況はそれまでと幾分か異なっていました。なんと、少年は一人でなく、他にも何人もの子供達が彼の話を聞こうとやって来ていたのです。

 少年は思いがけない事態に、驚きながらも嬉しくなりました。そして足を怪我した子ヤギを抱えて、「見て。この子が狼に襲われたんだよ」と言いました。

「狼が森から出てきて、大きな口を開けて子ヤギを食べようとしていたんだ。そこで僕は大変だと思って、傍に落ちていた太い木の枝で狼を追っ払いながら、この角笛でみんなを呼んだんだ」

 そう言って少年は全員に見えるように角笛を掲げ、「でも、今は吹かないよ。これは本当に大事な時にだけ使うものだからね」。

 少年の話を興味津々な表情で聞いていた子供達は、口々に勇敢な少年を褒めそやしました。「何て勇敢なんだろう」、「僕ならきっと逃げ出してるよ」、「私、あなたを誇りに思うわ」、少年は自らへの称賛を聞きながら、とても愉快な気持ちになっていました。

 それからしばらくの間、代わる代わる子供達が少年の下を訪れては、狼との戦いの話を聞きに来ました。その度に少年は、少しずつ話の中身を変えては、彼らからの尊敬の眼差しに浸っていました。

 けれど、数日が経って、子ヤギの怪我もすっかり良くなった頃になると、狼の出てくる気配もまるでないあまりの平和さに、子供達は少年の話にも飽きてしまって、もう彼の所へ話を聞きに来る子供は一人もいなくなってしまっていました。それどころか、いつしかみんな、やっぱりあれは少年の見間違いだったのだろうと考えていました。

 そうして以前までの退屈な時間に戻っていた少年は、いつものように丘の上で寝転がって空を眺めながら、ふと思いました。

「この前は大変だったなぁ。あんなにも大勢がやってきて、僕の話を聞きたがるんだ。もしも、また狼が来たって言ったら、どうなるんだろう」

 勿論、少年はそんな事はいけないと分かっていました。だけど、さらに数日が経ち、もう完全に皆が少年の活躍を忘れてしまうと、彼は何だか寂しい気持ちと悔しい気持ちで胸が一杯になってしまいました。

「みんなの家畜を守ってやっているのは僕なのに。どうして誰も、僕の仕事の大変さを分かってくれないんだ」

 少年は迷いませんでした。彼は角笛を高々と掲げ、それを思い切り吹きました。

 「ぷぁ~、ぷぁ~、ぷぁ~」、笛の音が村に響き渡り、さらに少年の声が重なります。「大変だ~。狼が出たぞ~。狼が出たぞ~」。

 果たして、またしても大勢の男達が「狼は何処だ」と走ってきました。

 少年はその光景を楽しい気分で受け入れながら、顔だけは真剣に「あっちだよ。あっちの木の陰に狼がいたんだ」と、いもしない狼の事を話しました。

 勿論、狼なんて見つかりませんでした。でも、少年の心はとても面白い遊びを発見した喜びで満たされていました。

 こうして少年は退屈だったり、何かつまらないと思う事があったりすると決まって、笛を鳴らしては「狼が来たぞ」と叫ぶようになりました。

 だけど、そんな少年の嘘は、決して長続きしませんでした。

 それもそのはず、どれだけ村人達が大騒ぎをして飛び出していっても、狼はただの一度でさえ現れないのです。疑問は段々と疑心になり、それはやがて不信へと変わり、ついには少年の言葉を真に受ける村人は誰一人としていなくなってしまいました。

 「ぷぁ~、ぷぁ~、ぷぁ~」と少年が笛を鳴らしても、もう誰もやって来てはくれません。「狼だ~。狼が出たぞ~。家畜が全部、丸飲みにされちゃうぞ~」。どれだけ叫ぼうとも、少年を助けに来てくれる人間は一人もいません。いえ、それどころか、村で誰かとすれ違う度に、少年は嘘吐き呼ばわりされるようにまでなってしまっていました。

「やい、嘘吐き。お前に羊を任せておけば安心だよ。何たって、お前がいれば狼は絶対に現れないんだからな」

 そう言って笑う村人達に、少年がすぐさま何かを言い返そうとしても、彼らはそれすらまともに聞いてくれませんでした。

 少年は悔しくてたまりませんでした。でも、それ以上に寂しくて仕方がありませんでした。少年は丘の上だけでなく、村の中でも、独りぼっちになってしまいました。

 と、そんなある日の昼下がり、またしても丘の上からいつもの笛の音が村へと響いてきました。けれど村人達は「あぁ、またあの嘘吐きが笛を吹いているぞ」、「ふん、二度とあいつの嘘に騙されてやるものか」、「放っておけ、放っておけ。そうすればじきに諦めるだろうさ」と、みんな笑うばかりで相手にしませんでした。

 結局、笛の音はそれからしばらく鳴り続けていましたが、やがて息が切れたようにぷっつりと聞こえなくなってしまいました。

 そしてその日の夕暮れ前、普段なら帰ってくる時間をとっくに過ぎているのに、いつまで経っても帰ってこない少年を村人の一人が変に思い、丘の上へ行ってみると、そこにはもう何の姿もなく、ただ彼の持っていた角笛だけがぽつんと草の上に落ちているだけでした。

「大変だっ。本当に狼が出ていたんだっ」

 村人は角笛を拾い上げると慌てて村へと引き返し、皆に事情を説明しました。「大変だぞっ。あの嘘吐きも、家畜も、全部狼に食べられてしまったようだぞっ」。

 驚いたのは他の村人達です。まさか、本当に狼が現れていただなんて誰も考えていませんでしたから、その衝撃は凄まじいものがありました。

「あぁ、あいつも今回ばかりは本当の事を言っていたんだな」

「まさか狼に食べられてしまうなんて。本当に可哀想な事だ」

 それまでは少年に対して怒っていた人間も、この時ばかりは心から彼の不幸を悼み、また彼を信じてやれなかった自分達を後悔しました。

 だけど、そんな村でただ一人、彼らとはまるで違う明るい表情を浮かべている人間がいました。それは少年です。

 そう、少年は生きていたのです。しかも彼は村の外れにある木の陰から、こっそりと村人達の様子を窺っていました。

「あはは、みんな馬鹿だなぁ。最後の最後まで僕の嘘に騙されるんだから。でも、いい気味だよ。僕の事を散々悪く言ったんだから、少しは反省すれば良いんだ」

 そして少年はひとしきり彼らが自分の話をしている事を確かめて満足すると、やがて夕暮れ間近の森の中へと入り、その奥の方にある僅かに開けた場所へと戻ってきました。するとそこには、紐で繋がれた沢山の家畜が少年の帰りを待っていました。

「さぁ、お前達。日が暮れてしまわない内に、この森を抜けて別の村へと行くんだぞ」

 そう言って少年は家畜の紐を引き、意気揚々と歩き出しました。

「僕の話をちゃんと聞きもしない奴らとはお別れさ。今度は、もっとマシな連中がいる場所で楽しく暮らすんだ。大丈夫、お金だってこいつらを売れば手に入るから、もう狼の見張りなんて仕事をする必要も無くなるんだ。そうしたら嘘を吐く事も無くなるさ」

 徐々に暗くなりつつある森の中、それでも一向に明るさを失わない少年の後ろで、何も分かっていない家畜たちがのんきに鳴きながら綺麗な列を作っていました。


〈了〉

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