その秋風の向こうがわ
月ノ瀬 静流
その秋風の向こうがわ
ぴぴぴぴぴ……。
頭の上で、ひよこが行進している。
うるさいなぁ。
あたしは腕を伸ばして手探りでそいつを捕まえると、ぺしんと頭を叩いた。
ぴっ。
最後に一言そう鳴いて、ひよこ、じゃなくて目覚まし時計はおとなしくなった。そしてあたしは自分が起きてしまったことに気づいた。
あーあ。
毛布にくるまって丸くなる。最近寒くなってきたので、この前タオルケットを仕舞って毛布に替えた。柔らかくてふかふかしていて気持ちいい。ふわふわと空を飛んでいるみたいだ。
あたしはしばらく、ぬくぬくの空を漂っていた。
「ちょっと、いつまで寝ているのよ!」
お母さんの怒鳴り声が雷のように空を切り裂いた。
だって、と言うのも面倒くさくて、あたしは頭から毛布をかぶる。いつも朝は嫌だけれど、今日は特別に憂鬱なのだ。
「もう、七時半よ!」
「え!?」
さすがにあたしは飛び起きた。行きたくなくたって学校には行かなくちゃいけないし、やっぱり遅刻はしたくない。
「なんでもっと早く起こしてくれなかったのよ!」
「あんたが起きてこなかったんでしょう!」
台所に戻りながらお母さんが叫ぶ。ぷっとむくれたあたしに、目覚まし時計が「僕は七時に起こしたからね」と言わんばかりの澄ました横顔を見せていた。
食卓につくとお父さんはとっくに会社に行っていて、お兄ちゃんがデザートのりんごを食べていた。
このところ、デザートはりんごが多い。季節が変わったんだな、と思う。ついでに言えば、お母さんはお父さんが食べるときにみんなの分をまとめて剥くから、あたしが食べるときにはすっかり茶色くなっているのが嫌だ。
「奈々は、いっつも遅いけど、今日は特に遅いな。寝癖、直していけよ」
お兄ちゃんがへらへら笑いながら、りんごを一切れ口に入れて「ごちそうさま」と席を立った。
衣替えをした詰襟の制服姿は真っ黒で、腹黒お兄ちゃんにはぴったりだ。尖った尻尾でもついていれば完璧なのにと思いながら、あたしはべーっと舌を出す。あたしの髪は寝癖じゃなくて、くせっ毛だ。
「ふん、だっ!」
「今日はやけにご機嫌斜めだな。何かあったのか?」
「忘れたの? 今日はお兄ちゃんの中学でも『あゆみ』の日でしょ」
そう、今日は『あゆみ』の日。いわゆる成績表、通知表ってやつだ。
なんで『あゆみ』なんていう名前がついているのかよく分からない。席が前後になってから仲良しになった
お兄ちゃんは一瞬ぽかんと口を開け、それから馬鹿にしたようにげらげら笑った。
「それでお前、びびってんのか」
「悪かったわね!」
あたしは真っ白なご飯に、のりたまふりかけを盛大にぶちまけて、箸でぐちゃぐちゃと混ぜた。
「小学校の成績なんて『よい』『ふつう』『もっとがんばりましょう』の三つだけだろ? 気にしてどうする?」
「でも、あたしは気になるの」
あたしは勉強ができるほうじゃない。でも、すごくできないわけでもない。要するに『ふつう』が行儀よく一列に並んでいるのだ。
お母さんは怒らない。むしろ褒めてくれる。ただし、成績じゃなくて『生活面から』の先生のコメントのところだ。
この前の四年生後期のときは「真面目に掃除してたんだってね。偉いね」で、前期のときは「返事の声が大きくて立派です、だって」と言ってくれた。――父母懇談会のときに先生が「お子さんたちが『あゆみ』を持って帰ったら、どんなことでもいいから褒めてあげてください」と言っているのをあたしは知っている。
「お兄ちゃんこそ、なんで平気なのよ」
「だって俺、この前のテストの点、良かったもん。オール3は確実だな」
さすが、あたしの兄だけあって、お兄ちゃんも『ふつう』ばっかりみたいだ。
「ほら、奈々。早くご飯食べないと遅れるわよ!」
流しでお父さんの食べ終わったお皿やらお鍋やらを洗っていたお母さんが、水音に負けない声で叫んだ。あたしは黙ってふりかけご飯をかっ込んで、お兄ちゃんは洗面所に向かっていった。
「何をそんなにイライラしているのよ。『あゆみ』でお母さん、怒ったことないでしょ?」
一区切りしたのか、エプロンで手を拭きながらお母さんが食卓に現れた。あたしは黙って豆腐の味噌汁を啜った。お母さんが向かいの席に座る。
じっとあたしの顔を見るお母さんの目線に根負けして、あたしは豆腐を突付きながらぼそりと呟く。
「お母さんはもう成績なんて関係ないから、あたしの気持ちは分かんないもん」
怒られるとか、そういうことじゃない。ただの紙切れが、あたしのことを「こんな子です」って決めつけるのが嫌なのだ。それであたしの価値が決まっちゃうなんてあんまりだ。
……本当は、亜由美ちゃんみたいに『よい』ばっかりだったら嬉しいのかもしれないけど。
「わー、奈々。そんな可愛くないこと言うと、お母さん、『へへーん。お母さんはもう、成績なんか関係ないよーん』って自慢しちゃうよ」
お母さんがおどけても、ちっとも面白くない。あたしは何も言わずに、崩れてくしゃくしゃになった豆腐を味噌汁ごと喉に流し込んだ。
そんなあたしに、お母さんはちょっと口を尖らせる。
「いいじゃない別に。あんなの担任の先生の主観よ。それに、『あゆみ』を貰ったら秋休みでしょ」
お母さんは『秋休み』と言ったけれど、それはあたしをからかっているだけだ。
お母さんが子供の頃は三学期制だったから『あゆみ』を貰ったら長い休みだっただろうけど、今は二学期制だから『あゆみ』と休みは関係ない。確かに行事予定表には明日から三日間が『秋休み』と書いてある。土日と体育の日の祝日の三日間だ。
つまり『秋休み』なんて名ばかりで、カレンダー通りに休みがあるだけ。「前期が終わった」って言うけれど、本当はいつもと変わらない。それなら『あゆみ』なんてなければいいのだ。
「奈々、金曜日はいつも六時間だけど、今日は『あゆみ』だから五時間でしょ。でも、お母さん、パートの時間はいつも通りだから、帰ってきたら自分で鍵を開けて家に入っていてね」
お母さんは近所のスーパーでレジ打ちのパートをしている。
あたしが『あゆみ』を持って帰ってくる日でも、いつも通りなんだ。
なんだか心臓がちくりと痛い。
「もう五年生だから大丈夫でしょ」
「当たり前じゃない」
あたしは言い捨てるように即答した。
それからすっかり赤茶けたりんごを口に放り込んで「ごちそうさま」と席を立った。
五時間目。体育館で全校集会があった。
校長先生が壇上から何かを話しかけてくるけど、あたしは壁際のバスケットゴールばかり見ていた。バックボードの後ろにボールが挟まっていたのだ。
あのボール、あのままなのかな。誰か取ってあげないのかな。
あたしは身動きのとれないボールが気になってずっと横を向いていた。
ボールが痩せたら抜けるのかな。お腹が引っかかって外に出られなくなった熊さんみたいに。
後ろから肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、担任の土田先生が眼鏡の奥からぎろりと睨んでいた。
全校集会が終わって教室に戻る。ついに『あゆみ』だ。
あたしは土田先生のいる教卓の前を逃げるように走り抜けて、自分の席に着いた。
みんなが席に着くと、土田先生が紙の束を出してきた。
とんとん、と束を立てて綺麗にそろえ、どすんと横にして置く。教室中に響くような音。
土田先生は、掲示物がちょっとでも曲がっていると、すぐに直すような几帳面すぎる性格だ。「だから嫁の貰い手がないんだ」と男子に陰口を叩かれていたりする。そんな先生が大事な『あゆみ』を乱暴に置くわけがない。つまり、それだけ教室がしいんとしていたのだと思う。
先生の目が教室をぐるりと見渡すと、あたしは魔法をかけられたみたいに背筋をぴんと伸ばしたまま石のように固まってしまった。
「みなさん、今から『あゆみ』を配ります。『あゆみ』には、みなさんが前期にどんなことを頑張ったかが書いてあります。おうちに持って帰って、必ずおうちの人に見てもらってください」
出席番号順に名前が呼ばれる。あたしの前の席の亜由美ちゃんは、『伊藤』亜由美ちゃんだから出席番号二番だ。あっという間に呼ばれて席を立つ。
亜由美ちゃんは顔を強張らせて席に戻ってくると、ぴったりと閉じられた二つ折りの『あゆみ』を控えめに開いた。
『あゆみ』は表になっている。横が科目。縦が評価。一つの科目の中でもいくつもの項目があって、例えば『国語』なら『関心・意欲・態度』とか『話す・聞く能力』なんて具合に五つくらいに分かれている。評価は三段階。左から『よい』『ふつう』『もっとがんばりましょう』。この言葉が表の一番上にだけ書かれていて、各項目の該当するところに『○』の判子が押される。
亜由美ちゃんは隠しているつもりなんだろうけど、あたしには『よい』が「ケンケン」しているのが見えてしまった。ほんのたまに『ふつう』が「パッ」だ。「ケンケン、パッ。ケンケンケン、パッ」と調子よく亜由美ちゃんの『あゆみ』が踊っている。
後ろの席のあたしは、亜由美ちゃんの二つに結わいた髪の向こうに、いつも百点の文字を垣間見ている。わざとじゃないけど、見えてしまう。
亜由美ちゃんは頭がいい。週に三日も塾に通っていて、難しい中学を受験するのだ。学校の勉強よりもずっと難しいことをたくさん知っている。
授業中は格好よく手を挙げるし、単元ごとの漢字テストはいつも一発合格だ。合格点が取れるまで何度でも再テストをする決まりで、不合格の人は合格するまで後ろの黒板に名前を書かれたままだ。あたしなんか、この前のテストでは四度目に『はね』が微妙なところをおまけしてもらってやっと名前を消すことができた。格好悪いこと、この上ない。
教室の温度がだんだん上がってきた。『あゆみ』を貰った人から興奮の湯気が出ているのだ。喜んだり、ため息をついたり、無表情だったり。隠したり、覗き込んだり、小競り合いになったり。授業中なのに休み時間よりにぎやかだ。
「三浦奈々さん」
あたしの名前が呼ばれた。あたしは熱気を掻き分けるように、机と机の間の狭い通路を進んだ。
「よく頑張りました」
たぶんみんなに言っているであろう労いの言葉を土田先生が言った。あたしはただ、ぺこりと頭を下げて賞状みたいに両手で『あゆみ』を受け取った。
早く中を見たいけれど走って席に戻るのは格好悪い。本当は誰もあたしのことなんか見ていないんだろうけれど。あたしは両手で『あゆみ』を持ったまま早歩きで席に戻った。
椅子取りゲームみたいに座って、あらためて『あゆみ』の表紙を見た。『あゆみ』という大きな文字の下にあたしの学年、クラス、出席番号、名前。最後に学校名が書かれている。中をめくろうとする指が震えていた。あんなに早く中を見たかったのに、いざとなると勇気がいる。
すうぅ。はあぁ。
一度、深呼吸をした。
そして、そろりそろり。泥棒が部屋の中を覗き込むかのように、あたしは少しだけ『あゆみ』を開いた。
「………………」
あたしの『あゆみ』は、真ん中の『ふつう』のところを上手に一本足で跳ねていた。
なんとなく、とんち話の「この橋を渡るべからず」の話を思い出してしまった。とととととっ……と、勢いよく真ん中を走って、最後に『音楽』の『創意工夫』と『図画工作』の『創造的な技能』の項目で『よい』に「ケンケン」していた。
ふぅ。
あたしはため息をついた。分かっていたけれど、改めてあたしは普通の子なんだと言われた。亜由美ちゃんみたいに特別な子じゃない。
『生活面から』には「保健委員としてみんなに優しくしてくれました」なんて、当たり障りのないことが書かれている。細く開いた『あゆみ』に顔を突っ込んで、あたしは目だけを上下に動かし、再び橋の真ん中を渡った。何度見ても同じだった。
「何、コソコソしてんだよ」
突然、声と共に視界が開けた。橋の真ん中を渡っていたはずなのに、あたしの目玉は橋から落っこちた。隣の席の植木が、あたしの『あゆみ』を取り上げたのだ。
「何すんのよ!」
あたしは真っ赤になって「返してよ!」と叫んだ。それなのに植木はあたしの『あゆみ』を大きく広げて見ている。
「へぇ。オマエ、結構、成績いいのな」
「からかわないでよ!」
あたしは植木の隙を突いて『あゆみ』を奪い返した。
「いや、マジ。オマエ、『もっとがんばりましょう』がないじゃん。お返しにオレの『あゆみ』を見せてやるよ」
結構よ、とあたしが言うよりも先に、植木があたしの鼻先に強引に突きつけた。だから、見たいわけでもないのに見てしまった。
植木の『あゆみ』は、亜由美ちゃんの『あゆみ』みたいに「ケンケン」していた。ただし、「ケン」のところが『もっとがんばりましょう』だ。
まともに授業を聞いていないし、ノートもとっていないもんね。
植木が授業中に何をしているかといえば、熱心にゲームカードを作っているのだ。市販のゲームカードは学校に持ってきてはいけない決まりだけど、手作りなら先生も見逃してくれる。それを使って休み時間に
植木らしい『あゆみ』に、あたしは思わず納得してしまった。
けれど、最後のほうの『体育』であたしは固まった。すべての項目が『よい』だった。
「植木、『体育』、すごいじゃん」
掠れた声であたしは言った。
そうだ。植木は陸上部で、走り幅跳びの選手だ。春の市内陸上記録会では五位だった。
うちの小学校の部活動は、いろんなクラブを選べるお兄ちゃんの中学なんかと違って、陸上部と器楽部と合唱部しかない。たぶん、市内の大会があるのがこの三つだからだと思う。五、六年生の中でやりたい人だけがやるという部活動で、あたしはどの部にも入っていない。
植木は、ちっこい。クラスの男子の中で一番背が低い。たぶん、あたしよりも低い。反面、身軽だ。猿みたいに木登りをして先生に怒られたこともある。枝に引っかかったバドミントンの羽根を取るためだったのだけど。
体育の授業で走り幅跳びをしたときは、ヒーローだった。
「見てろよ」と叫んで、弾丸のように助走した。
ためらうことなく、丁度ぴったりのところで勢いよく踏み切った。
大きく反らせた体を、空中で力強く反対向きに曲げ、しなやかに伸ばした。
ほとんど体重がないみたいに、軽やかに砂場に舞い降りた。
植木は鳥になっていた。
あたしもクラスのみんなも目を丸くした。
あんなふうに跳べたら何が見えるのだろう。
ちっこい体で誰よりも遠くへ跳んだ植木は、拍手喝采を贈るみんなにピースサインを返した。
その後の国語の授業で『山椒は小粒でもぴりりと辛い』という諺が出てきたとき、「これ、オレのことだな」と得意気だった。
植木も特別な子なんだ。
なんか裏切られたような気分だった。
あたしは悔しくなって、「あんた、幅跳びの選手だもんね」と言いながら植木の『あゆみ』を押し返した。
「――じゃねぇよ」
ざわついた教室の中で、植木が何かを言った。
押し殺したような声。何を言ったのか聞き取れなかったけれど、周りとは異質な響きにあたしは驚いた。植木は唇をきつく噛んでいた。
「なんて言ったの?」
おっかなびっくり、あたしは尋ねた。
「選手じゃねぇ、って言った。秋の大会、オレ、補欠になった」
そう言ったきり、植木は帰りの会が終わって「さようなら」になるまで一言もなかった。
帰りの挨拶と共に、植木は一番に教室を飛び出した。
そのあとをクラスメートたちが一人、二人と、楽しそうにお喋りをしながら出て行く。『あゆみ』の緊張感が開放感に変わったのだろう。いつもより一時間分早く帰れる嬉しさもあると思う。
あたしはぼうっと、植木が去った扉を見つめていた。
どうしよう。
ちょっとした軽口のつもりだった。
喉が詰まって息苦しい。
じっとしたままのあたしに「奈々ちゃん」と声がかかった。亜由美ちゃんだ。
「……ごめんね。奈々ちゃんと植木君の話、聞いていた」
亜由美ちゃんは気まずそうな顔をしていた。
「植木君、補欠になっちゃったんだね……」
亜由美ちゃんが小さくそう言い、あたしは頷いた。
いつものお調子者とは別人のような低い声だった。
植木は傷ついたんだ。あたしのせいで。
けど、あたしは知らなかったんだ。仕方がなかったんだ。
そう思おうとした。
ぐるぐると頭の中をメリーゴーラウンドが回っている。どうせなら時計の針がぐるぐる回って時間が戻ればいいのに。
「……奈々ちゃん、植木君に謝ったほうがいいんじゃない?」
気遣うような亜由美ちゃんの言葉を聞いた瞬間、あたしは何故かカチンと来た。
亜由美ちゃんは優しくて、いい子だ。頭がよくて、いろいろと気が回る。
いつだって正しくて、何でもできる――あたしより上の存在。
あたしは、思わず口走っていた。
「そんな必要ないよ。それに植木、もう帰っちゃったし」
これは言い訳。分かっている。
「家に電話する、って手もあるよ」
「ええ!? そんなのできないよ」
男子の家に電話するなんて考えられない。そんな恥ずかしいことできるわけない。亜由美ちゃんたら、ひどいことを言う。
「でも……。奈々ちゃん、気になっているんでしょう?」
亜由美ちゃんはあたしのことを思って親切で言っている。ちゃんと分かっている。
けれど劣等感に支配された今のあたしには鬱陶しいだけだった。強く言われれば言われるほど、否定したくなる。
「もう、亜由美ちゃんたら、いい子ちゃんなんだから。大丈夫だよ。休み明けには植木もケロッと忘れてるよ」
言ってから、慌てて口を押さえた。
亜由美ちゃんの目には大粒の涙が浮かんでいた。
亜由美ちゃんは『いい子』『優等生』と言われるのが大嫌いだ。いつも先生に褒められるいい子。安心の優等生。そんなレッテルを貼られた亜由美ちゃんは、いつも学級委員を押しつけられていた。
「……うん、そうだね」
涙をこぼさないように、亜由美ちゃんは目を大きく広げて耐えていた。そのままの顔で「今日は塾の日だから」と小さく呟き、教室を飛び出した。
待って、と中途半端に上げかけた手が、亜由美ちゃんの水色のランドセルに届くことなく、
あたしは最低な子だ。考えなしの一言が、植木も亜由美ちゃんも傷つけた。
橋の真ん中を渡ったって落っこちちゃうのも当然だ。
何もかもが嫌になって、机に突っ伏した。
心配したクラスメートが何人か声をかけてくれたけれど、「放っておいて」と投げやりに返した。
ざわめく波を背中で拒絶して、強く目を瞑った。
布団に包まれたぬくぬくの空が恋しかった。あのまま眠っていればよかった。今日は学校に来なければよかった。
心に耳栓をしたあたしには、いつしか教室の潮騒も聞こえなくなった。
ぺちぺち。
背中に何かが当たる感覚がする。
「オイ」
誰かの声が聞こえた。
放っておいてよ。
「オイ、三浦。寝てんのかよ?」
寝てないわよ。
そう答えるのも煩わしくて、あたしは無視を決め込んだ。
すると、再び背中をぺちぺちと叩かれた。硬い感触で、明らかに人の手ではない。
「何すんのよ!」
顔を上げたあたしの目に、体操服姿の植木が映った。算数で使う三十センチの竹尺を手にしている。
「起きた?」
「なんで
「迂闊に女子に触ると、後で何を言われるか分かんねぇだろ」
確かに。そうだけど。
「でも叩かなくてもいいでしょ!」
「だってオマエ、寝てるから」
「考え事してただけよ!」
そう叫んだけれど、本当は夢の世界に逃避していたのかもしれない。ばつが悪くなって窓の外を見た。よかった。まだ外は明るい。
あたしは頭をフル回転させて現状の把握に努めた。
ここは教室。がらんとした教室。主のいない机と椅子はそっけない顔をしている。見知らぬ町みたいだ。
誰もいなかった。あたしと植木を覗いては。
「……なんで、とっくに帰ったはずの植木がいるのよ?」
「忘れ物。これ、取りに来た」
植木が白い袋をぶらぶらさせる。給食当番の白衣だ。当番になった人は週末に持ち帰り、おうちの人に洗濯、アイロンがけをしてもらって翌週持ってくる。そういう決まりだ。忘れると次の当番の人に迷惑がかかるので、たとえ上履きを持って帰るのを忘れても、これだけは忘れてはならない。忘れたら必ず取りに戻らなくてはならない代物だ。
「オマエこそ、なんでまだ残ってんだよ?」
半ば呆れたように植木が尋ねる。あたしは自分の顔が赤くなるのを感じながら「あんたには関係ないでしょ!」と強く言い放った。植木は不満そうな顔をしたけれど、あたしは無視した。
「それより、植木、なんで体操服を着てんの?」
土で薄汚れた、もとは白いはずの体操服。
紺の短パンは逆に砂埃で白くなっている。
植木のこめかみからは汗が一筋、垂れていた。
「……
あたしは息を呑んだ。補欠のことを思い出し、心臓にどすんと重いものが
「今日は『あゆみ』の日だから陸上部は休みなんだ。けど大会が近いから練習したければ校庭を使っていいって。顧問も来てくれるし」
流れてきた汗を腕で拭いながら、植木が説明する。
でも――。
植木は補欠なのだ。練習しても大会には出られない。
そう思った途端、あたしは勢いよく立ち上がった。がたん、と大きな音を立てて椅子が倒れる。
「植木……。ごめんね!」
あたしは頭を下げた。
ごめん。あんたのこと、ちょっと運動のできるお調子者だと思っていた。
あたしは上履きに書かれた自分の名前をじっと見る。
「はぁ? ごめん、って……?」
間の抜けた植木の声。恐る恐る顔を上げると、植木は目を丸くしていた。
「五時間目のこと。植木、怒ってたでしょ? 帰りの会の間も黙ってたし、すぐに教室を出て行っちゃったし」
瞬間、植木の顔が強張った。
「……別に怒ってねぇよ。早く
そう言いながら、目線を逸らした。
「嘘、怒ってる」
「怒ってねぇよ! ……怒ってねぇけど、オレ、スッゲェ、悔しかった! ……補欠だ、って言わなくちゃなんねぇこと! 森山に負けた、ってこと!」
きつく奥歯を噛み締めた植木の顔は、不自然に歪んでいた。あたしはそんな植木の顔を見てしまうのは悪いような気がして、反対方向に体を向けた。
「森山の奴、ズルイんだ……!」
名前くらいなら知っている。三組の森山。植木と同じ陸上部で走り幅跳びをやっている。丈夫な壁みたいに大きな奴で、クラス対抗ポートボール大会のときは散々だった。森山が出てきたら、必ずと言っていいほど三組にボールを取られた。
「アイツ、夏休みの練習にほとんど来なかった。オレなんか皆勤賞だったのにさ。――テレビじゃ毎日、熱中症、熱中症ってうるさく言ってても、オレは休まなかった。体温と同じくらいの暑さで、体中から汗が噴き出してた。目や口に入った汗が塩辛くてさ。『オレたち、ちゃんと塩分摂ってるから倒れないんだぜ』って一緒に練習してた奴らと冗談、言ってた」
背中の向こうから植木の思いの激流が押し寄せる。あたしはそれをしっかり受け止めなきゃいけないと思って、呼吸すら止める思いで耳を澄ませた。
植木の思いは、堰を切ったように止まらない。
「夏休みが終わって久しぶりに森山を見て驚いた。アイツ、スッゲェ背が伸びてた。もともとガタイのいい奴だったけど、手とか足とか長くなってて。ちょっとデブっちかったのがすらっとしてて。で――、オレの最高記録をあっさりと抜きやがった」
そうして植木は選手の座を奪われた。
あたしは両手を拳にしていた。爪が掌に食い込んで痛かった。
「『山椒は小粒でもぴりりと辛い』なんて、嘘だ。オレは山椒なんか嫌だ」
そう言って、植木は一つ、大きなため息をついた。それきり黙ってしまった。
胸が一杯だった。あたしは何も言えなかった。
もともと二人しかいない教室は、しいんと静まり返った。
日直が閉め忘れた窓から秋の風が入ってきて、あたしたちの間を抜けていく。
「よしっ! スッキリした!」
突然、植木がいつもの調子に戻った。
あたしはその変化に付いていけず、小さく「へ?」と間抜けな声を上げてしまう。
「な、ちょっとカッコよかった?」
植木はあたしに同意を求めるかのように、あたしの正面に移動する。軽い身のこなしでダンスでも踊っているかのようだ。
いつも通りの植木。
でも、必死に悔しさと戦っている。
ちっこくて、猿みたいな顔で、成績だって『もっとがんばりましょう』の「ケンケン」で。そんな奴だけど――。
あたしは頷いた。
「しゃくだけど、格好よかったよ」
植木は一生懸命だから。
「え? マジ?」
「本当」
「ええ!? スッゲェ、嬉しい」
植木は飛び上がらんばかりだ。やっぱり小猿みたい。
「ホントは馬鹿にされると思った。……家じゃさ、『将来、陸上選手になるわけじゃないのに、なんで暑い中、馬鹿みたいに運動してんのよ。倒れてからじゃ遅いんだからね。それより少しは勉強しなさい』ってオフクロがうるさいんだ。オレの靴下、『汚くて洗いたくない』なんて言うんだぜ。だからオレは毎日、風呂場で自分の靴下を洗ってる」
あたしは思わず、ぷっと噴いてしまった。
最近、男子の間では、お母さんを『オフクロ』と呼ぶのが流行っている。中学生のお兄ちゃんでもそんなふうには言わないのに。大人ぶっていきがっているくせに、すねた様子が子供っぽかった。
「植木は幅跳びが好きなんだね」
あたしがそう言うと、植木は困った顔をした。
「あー。実は分かんねぇ。だって幅跳びなんて砂まみれの競技だぜ? 靴ん中、スッゲェ砂だらけになるし」
「えー? 体育の授業のとき、気持ちよさそうに跳んでいたよ? 鳥みたいに空まで行っちゃいそうだった。跳んでるとき何が見えるのかな、なんて、あたし思った」
「跳んでるとき? 何も見えやしねぇよ。砂に落ちて初めて、自分が跳んでいたことに気づくんだ。で、やったぜ! オレってカッコいい、って思う……」
植木が急に目を輝かせた。
「あー、そうか! オレが、オレらしくカッコよくあるために、オレは幅跳びをするんだ」
植木は納得したように、うんうんと頷いたけれど、あたしには今一つ、ピンと来なかった。ただ、植木の笑顔がすごく嬉しかった。
「オレ、練習に戻るから」
白衣の入った袋をぶんぶん振り回しながら、植木は元気に言った。
「そうそう。オマエ、勘違いしてるみたいだから言っとくけど、オレにはまだ選手になれるチャンスはあるんだ。オレは補欠登録されてんだから、いつだって選手に代われる。大会の当日だって、だ。あ、別に靴に画鋲を入れたりなんかしないぜ。実力でだ! ――大会までに、実力で森山に勝ってやる!」
植木の迫力に押されて何も言えないあたしに、「今の台詞、カッコよかっただろ?」と言い残して、植木は教室を出て行った。
秋らしい爽やかな風が教室を通り抜けていった。
決してぬくぬくの温かさではないけれど、あたしを包む柔らかさは心地よかった。
日直が閉め忘れた窓をそのままにしておくわけにもいかないので、あたしは窓際に寄る。
植木が砂場に向かって校庭を横切る姿が目に入った。白衣の袋は持っていないから、昇降口に置いていったのだろう。陸上部の子のランドセルがよく並んでいる辺りに。
家に帰ろう。
窓を閉め、きちんと鍵もかけて、「よし」と頷く。
お母さんはまだ帰ってこない時間だけど、道草しないで真っ直ぐに帰ろう。そして、亜由美ちゃんに電話しよう。
あたしはランドセルを背負って、教室の扉をくぐった。ピンクのランドセルは階段を下りるたびにカタカタと元気に歌う。昇降口を出ると校庭が見渡せた。
遠くの砂場で植木らしき人影が、ガッツポーズをとるのが見えた。
ひょっとして、いい記録が出たのかな。
そうだといいな、と思いながら、コスモスの花壇の脇を通り抜けた。
もうすぐ校門、というところで、あたしは自分の目を疑った。
校門に寄りかかるようで、寄りかからずに、ぴしっと立っている亜由美ちゃんの姿。でも顔だけは少しうつむき加減だ。
あたしを待っていたんだ。
足が、止まってしまった。
今すぐ走っていって謝らなくちゃ、と思うのに、足が地面に糊付けされてしまったみたいに動かない。ううん。糊なんかじゃなくて強力接着剤だ。全身がかちこちに固まってしまっている。
なんて言って謝ろう。
亜由美ちゃんに対する嫉妬から、あたしは酷いことを言った。悪い心で傷つけた。
あたしは臆病者だ。くるりと引き返して裏門から逃げたくなる。でも、もちろん、そんなの駄目だ。最低だ。
あたしが動けないでいると、何のいたずらか、亜由美ちゃんがふと顔を上げた。
「奈々ちゃん!」
亜由美ちゃんが目をぱっと見開く。そして、こちらに向かって走ってきた。
走りながら、亜由美ちゃんが叫ぶ。
「奈々ちゃん、ごめんね!」
心臓がきゅうっと飛び跳ねた。
どうして亜由美ちゃんが謝ってくるのか分からなかった。あたしのそばまで辿り着いた亜由美ちゃんは「ごめんね」を繰り返す。
「奈々ちゃん、ごめんね。私、自分の考えを押し付けていた。いい子ちゃんぶった、嫌な子だった!」
亜由美ちゃんは肩で息をしていた。水色のランドセルが上下するのを見ながら、あたしは「そんなことない、亜由美ちゃんは嫌な子なんかじゃない」と心で叫んだ。
「私、奈々ちゃんとあんな別れ方をして、三日間もお休みで会えないなんて耐えられない。気になっちゃって何もできない。だから奈々ちゃんと話そうと思って待っていたの」
亜由美ちゃんはいつも生真面目だけれど、今はいつも以上に思いつめたような真剣な表情だった。何も言えないあたしとは反対に、息を切らせながらも言葉を止めない。
「奈々ちゃんを待っている間に気づいたの。私は誰かと気まずくなったとき、すぐに仲直りしたいと思うけど、誰もが私と同じだとは限らないんじゃないのかな、って。奈々ちゃんと植木君は、時間を置いたら元通りになるのかもしれないな、って。――だから、つまり、私は自分の考えを奈々ちゃんに押し付けていたの。奈々ちゃんが私の言うとおりに行動しないからって、いろいろ口やかましく言う、自分勝手で我侭な、嫌な子だった」
そう言って「ごめんね」と、また頭を下げた。
亜由美ちゃんは思い込んだら一直線なところがある。時々、誰も思いつかない方向へすっ飛んでいってしまって、あたしは何度も唖然としたことがある。けれどそれは、ものすごく深く何かを考えた結果で、悪い気持ちや嫌な気持ちなんてこれっぽっちも入っていない。
正直に言うと、あたしは亜由美ちゃんと席が前後で同じ班になったとき、『はずれ』だと思った。真面目な学級委員で、頭もいいから班活動は楽ができるだろう。だけど、やりにくそう。何を話したらいいか分からないし、困ったなぁ、と思った。
でも、それは違った。
亜由美ちゃんは確かに真面目だ。あるとき、植木が冗談であたしの筆箱を隠したことがあった。真剣に一緒に探してくれて、犯人を見つけたとき、亜由美ちゃんはあたし以上に植木を責めた。そして、泣いた。「植木君にとってたいしたことがなくても、三浦さんにとっては違うのよ!」そう、叫びながら。あたしは確かに困っていたけれど、泣くほどではなかった。だから、泣きながら叫ぶ亜由美ちゃんに唖然とした。いつもなら調子よく「ごめんよぅ」と言うだけの植木も、このときは「本当に悪かった!」と両手を合わせた。
亜由美ちゃんは、自分があまりいい意味でなく『いい子』『優等生』と言われているのを知っている。それでも、誰かのために『いい子』になるのを厭わない。
あたしは、そんな真っ直ぐな『いい子』の亜由美ちゃんと、名前で呼び合う仲になったのだ。
「ごめんね!」
やっと、口が動いた。
言っている言葉は「ごめんね」なのに、涙が出るほど嬉しかった。
「あたしのほうが悪かったの!」
あたしの気持ちが伝わるようにと思ったら、自然と大きな声になっていた。
亜由美ちゃんが首を横に振る。二つに結わいた髪がぶんぶん揺れる。
「違う、違う! 私が悪かったの」
「ううん、亜由美ちゃんはあたしのために言ってくれたんだもん。悪くない。あたしこそ、嫌なことを言った」
「違う、私が……」
二人で「ごめんね」の言い合いっこ。
しまいには「ごめんね」のデュエット。
そして、どちらからともなく笑い出した。
あたしたちは友達なんだ、って感じた。
頭のいい亜由美ちゃんに嫉妬しちゃうこともあるけれど、あたしはやっぱり亜由美ちゃんが大好きだ。
気持ちが落ち着いて、あたしは「あっ」と気がついた。
「まだ、言ってなかった! あのね、あのあと植木と話したの! あたし、ちゃんと謝れたよ」
亜由美ちゃんが「え?」と、目を見開く。
「植木、白衣を忘れて取りに戻ってきたんだ」
「そうだったんだ。よかった」
亜由美ちゃんは安堵のため息をついた。少し間があって、あたしを見る。気になるけれど、詳しく聞いていいのか悩んでいるのが伝わってくる。そんな亜由美ちゃんらしい様子が温かかった。
「植木ね、部活は休みだけど自主練習でまだ学校にいたんだ。あたし、植木に謝って――植木はあたしに怒ってるわけじゃなかったけれど、補欠になってすごく悔しかったんだって教えてくれた。それから、いろいろ話してくれた。補欠になったのは三組の森山に記録を抜かれたからだとか。しかも森山は夏休みの練習をサボってばかりで、植木は皆勤賞だったとか。森山がいい記録を出せたのは急に背が伸びたからだとか。……それでも植木、すごく頑張っているんだ」
あたしが言ったんじゃ植木のあの強い思いは伝わらないだろう。でも、あたしは亜由美ちゃんに言いたかった。ううん。世界中の人に言いたい。
「あの植木に言うのはしゃくだけど、ちょっとだけ格好よかった」
さっき見た砂場の人影を思い出す。きっと植木は選手として大会に出場する。あたしは絶対そうだと信じている。
そんな、清々しい気持ちで亜由美ちゃんを見ると――。
何故か亜由美ちゃんの顔が翳っていた。あたしは何か変なことを言っただろうか。首をかしげて訊こうする前に、亜由美ちゃんのほうから思いがけないことを教えてくれた。
「私、森山君が夏休みの練習に出なかった理由、知っている。――森山君、私と同じ塾で夏期講習を受けていたの」
「え……?」
森山は暑いのが嫌で、練習に出ないのだと思っていた。
「森山君とはもともと親しくないし、塾のクラスも違ったから話したことはないの。だからどういう人なのかよく分からないけど、ひょっとしたらサボりたくてサボったんじゃないかもしれないよ」
あたしはたぶん、とっても変な顔をしていたんだと思う。亜由美ちゃんが慌てたように付け加えた。
「あ、もちろん、私も森山君より植木君が選手になるべきだと思う。だって、植木君はずっと頑張っていたんだもの。ただ、森山君のことを悪く言うのはちょっと可哀相だな、って思ったの」
あたしは森山を悪者にして、すべてがはっきり区切られた塗り絵の世界に納得していた。けれど本当の世界は、何度も重ね塗りされた複雑な色合いでできている。森山も森山で、頑張っていたり、悔しかったりするのかもしれない。
あたしは振り返って校庭の方角を見た。ここからは見えないあの砂場には、森山の姿もあるのだろうか。
風があたしを撫で、早くも色づき始めた葉っぱを巻き込んで流れていく。
「……うん。そうだね……」
口の中で転がした言葉はあまりにも小さくて、すぐそばにいる亜由美ちゃんにすら聞こえなかっただろう。
キーンコーンカーンコーン……。
六時間目の終了を告げるチャイムが静かに響く。
「そろそろ、帰らなくちゃ」
はっとしたように亜由美ちゃんが言った。
「そういえば、亜由美ちゃん、塾は?」
亜由美ちゃんは教室を出る際に、塾があると言っていたはずだ。あたしを待っていたせいで遅れてしまったんじゃないだろうか。
心配顔になったあたしを安心させるように、亜由美ちゃんは小さく微笑んだ。
「確かに金曜日は塾の日だけど、今日は『あゆみ』で一時間早く下校だから、大丈夫」
よかった。
あたしは胸を撫で下ろしたけど、亜由美ちゃんの顔が曇ったのに気づいてしまった。亜由美ちゃんは月、水、金と週に三日も塾に通っている。学校から帰っても勉強漬けだ。あたしなら耐えられない。
「亜由美ちゃん、塾に行きたくないんじゃない?」
「え?」
「だって、暗い顔をしてる」
あたしがそう言うと亜由美ちゃんは無理に笑おうとした。けれど、みるみるうちに瞳に池ができて、ぽろりと溢れ出した。
え? と思った。あたしは言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。
焦ったのはあたしだけでなかった。亜由美ちゃんも「あれ?」と言いながら両手で必死に目をこすっていた。
「ご、ごめんね、奈々ちゃん」
亜由美ちゃんはポケットをごそごそやって、ハンカチを出す。
やっぱり亜由美ちゃんは塾になんか行きたくないんだ。大変で、つらいのだろう。
「亜由美ちゃん……」
なんて言ってあげればいいんだろう。大丈夫? 大変だよね? なんか白々しい。うまい言葉が浮かばない。
困っていると、亜由美ちゃんが涙の残る震えた声で、だけどしっかりとこう言った。
「あ、あのね、奈々ちゃん。間違えないでほしいんだけど、私、塾が嫌いじゃないの」
「ええ!?」
「私は難しい問題を解くのが好き。パズルみたいで楽しいの。『できた!』って瞬間がすごく嬉しい。『やったぁ!』って思う。面白くてもっと解きたくなる。だから塾は嫌いじゃない。でも誰かと順位を争うのは嫌……」
亜由美ちゃんは純粋に勉強したいんだ。あたしにはちょっと理解できないけれど、『やったぁ』が嬉しいというのは分かる。
……あれ?
誰か同じようなことを言っていた気がする。誰だろう。
あたしは記憶の辞書を急いで繰っていく。わりと最近見たページに載っていたはずだ。あたしは、ぱらぱらと一生懸命に探す。
――――思い出した。
植木だ。
あたしが「植木は幅跳びが好きなんだね」と言ったときだ。
幅跳びが好きかは分からない。けれど跳んだあとに『やったぜ、オレってカッコいい』って思う、と。
植木はとても楽しそうに言っていた。なのに亜由美ちゃんは、つらそう。何が違うんだろう。
「オレが、オレらしくカッコよくあるために、オレは幅跳びをするんだ」
植木の言葉が耳に響いた。植木は目を輝かせて言っていた。
あ……。
聞いたときにはピンと来なかったけれど、なんとなく分かった気がする。
自分で自分のことを『すごい』って思えるようになりたい。誰かに言ってもらうとかじゃなくて、自分が満足したい。誇りたい。
「亜由美ちゃん、勉強が好きなんだよね?」
「え……? うん……」
「だったらさ、順位なんて気にしなければいいんじゃないかな。難しい問題が解けて『やったぁ!』って思って、自分で自分に花丸をつければいいと思う。だってね、たとえテストで一番になっても簡単な問題を間違えていたら、亜由美ちゃんはやっぱり悔しいって言うと思うよ」
結局、『自分』なのだ。自分が納得できなければ嬉しいとは思えない。
植木は森山をライバル視していたけれど、大事だったのは『選手である自分』。
……そしてあたしは、自分がなんの取り柄もない普通の子だってことに納得できなくて、ずっと駄々をこねていた。自分自身が何もしていないくせに。
亜由美ちゃんは真面目な顔で考えていた。ちょっと難しい顔だった。けど最後に花がわっと開くみたいにほころんだ。
「『自分に花丸』……素敵だね!」
亜由美ちゃんが笑った。
頭上の青空のような、のびのびとした笑顔だった。
それから、「本当に、もう塾の時間だから」と手を振って走り出した。あたしと亜由美ちゃんの家は校門から左右に分かれて反対側だから、ここでバイバイ。あたしも手を振る。
水色のランドセルは、すぐに小さくなっていった。
あたしの頭の中で風が吹いて、薄っぺらな『あゆみ』が、ひゅるりと吹き飛ばされた。
ひらひらと流されて、あたしの顔をした閻魔大王がキャッチする。閻魔大王は『あゆみ』を開くと、どこから出してきたのか巨大な消しゴムで書いてあることをゴシゴシと綺麗に消してしまった。そして、またまたどこに持っていたのか巨大な筆を出してきて、真っ白な『あゆみ』に向かう。
閻魔大王はあたしを見て、なんて書いてやろうかとでも言うように、にやりと笑った。
あたしは大きく舌を突き出して「あっかんべー」をしてみせる。
あたしはまだまだ、これからだ。あたし自身にだって、あたしのことは分からない。
亜由美ちゃんも、植木も、ひょっとしたら森山だって、花丸を目指して頑張っている。
あたしは置いてきぼりにされているみたいで、すごく悔しかった。
だから、負けるもんか、と思った。
あたしは走り出す。
秋風が前髪を吹き上げ、おでこが丸出しになる。かなり間抜けな顔になっていると思うけれど、気持ちよかった。
あたしはこれから走り出す。
どこへ向かうかはまだ決めていないけれど、あたしは走り出すと決めたのだ。
その秋風の向こうがわ 月ノ瀬 静流 @NaN
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