散った甘香

淺羽一

〈掌編小説〉散った甘香

 前略

 姉さん。私は、あなたに告白しなければならない事があります。

 母が早くに死に、私はあなたの背に負ぶわれながら育ちました。

 父は厳しく、祖父は頑なで。

 私にはずっと、あなたの微笑みだけが唯一の安らぎであり、救いでありました。

 今でもたまに思い出す事があります。

 それはふと、窓に当たる雨粒の音を聞いた時。

 それはふと、彼方で響く雷鳴の余韻に触れた時。

 嵐が恐ろしく、稲光に怯え、けれど「男子たるもの」と震える事さえ許されなかった、あの幼い夏の夜。

 あなたがこっそりと、私の閨を訪れて、何を言う事も、何を問う事もなく、ただただそっと私の頭を胸に抱き締めてくれた事を。

 あの柔さを。あの香りを。あの甘さを。あの熱さを。

 かすかな衣擦れの音と、穏やかなあなたの呼気と、絶え間ない互いの命の鳴動を。

 私は本当に、私の日々の刹那に替える事があります。

 永久などと言うものを信じる事は出来ません。

 悠久などと言うものが無限だとも思えません。

 けれど、その有限の中に確かに在る、長き時の流れからすれば瞬く間ほどの一時が、今の私には本当に、何物にも代え難く、そして何よりいつまでもいつまでも無くしたくないと願ってしまえるものなのです。


 大人になる度に、数え切れないほどのものを得ました。

 しかし同時に、数えたくもないほどのものが消えました。

 それが人生に於ける絶対不可欠な代償だと言うのであれば、きっとそうなのでしょう。

 だからこそ、私は思います。時の流れは、優しくも儚く、そして温かくも残酷だと。

 けれど、何よりも最も愚かしく、そしてあまりにも無情なるものは。

 やはりきっと、無常なる世と、そしてそれに流されるしかない人の業でしょう。

 私は別に、父や祖父を恨んでなどはおりません。

 男の見栄と言うものは、きっとどうしようもないほどに滑稽なもので。

 だけど、それでもどうしようもないからこそ手放す事さえ出来ないもので。

 見栄すら張れなくなった男など、つまりはどうする事も出来なくなった成れの果てで。

 だからそれを認める事など到底出来るはずもなく。最後の最後まで、それはまるで罪人を捕らえる縄のごとく、硬く容赦ない思想に縛られていた事も、罪ではあれど、それはきっと詮無き事でもあったのでしょう。

 ですから、私は偽りなく、あのともすれば哀れだったのかも知れない父や祖父へ、虚しさ以外の感情を抱いた事などはほとんど無いのです。

 私が許せないのは、いえ、いっそ憎んでさえいるのは、他の誰でもない私自身だけなのです。


 姉さん。あなたは、知っていたのでしょうか。

 普段、弟である私の前でさえ、ほとんどその肌を晒す事の無かったあなたが。

 けれど父や祖父の留守だった、暑い暑い夏の日。

 のんびりと首を振る扇風機の前に座り、白い和紙に薄紫の花が咲いた団扇を片手に、ほんの僅かだけれども着物の襟をはだけさせ――

 そこから覗くあなたの肌は、私と同じ太陽の光を浴びていたはずなのに、私などとはまるで違う雪の様な美しさで。

 その上に透明な汗の珠を浮かべながら、やんわりと私を振り返り「内緒よ」と微笑んだあなたの姿は。

 いつもの淑やかで清麗だった「女らしい」あなたからは想像も出来ないほどに、艶めかしく、蠱惑的で、何よりもまさしく「女」そのもので……。

 あの強すぎるほどに眩しい陽光ですら、私の視界からあなたを消し去る事は叶わず。

 私はただただ、あなたに気付かれて悟られてはならぬと想いながらも、どうしてもあなたの嬌姿を見つめる事しか出来ず。

 ……あなたには全て、分かっていたのでしょうか。

 もしもそうであったのだとすれば、これは本当に馬鹿馬鹿しく、滑稽で。

 そしてそれ以上に、惨めで、哀れな話なのでしょうが。


 姉さん。私は、あなたに告白しなければならない事があります。

 私はずっと、あなたを愛していたのです。

 弟として、姉としてではなく。

 願わくは、男として、女として。

 密かにあなたの部屋から盗んだ髪留めを握りしめ、蒸し暑い眠れぬ夜に、卑陋なる私はそこへ仄かに残るあなたの髪の香りを感じながら、何度も何度も夢と現の狭間であなたを犯していたのです。

 欲望のままに。本能のままに。心情のままに。愛と呼ぶにはあまりにも肉欲的で、情欲と断ずるには限りなく切実に。愚かなあなたの弟は、あなたに懸想し、妄想のままにあなたを汚し続けていたのです。

 そうする度に、ほんの僅かでも、あなたという存在が私に近付いてくれる気がして。


 だからこそ私は、父でも祖父でもなく、私自身を憎んでいるのです。


 まるで逃げる様に病に倒れた父と祖父に代わって、彼らが作った借金をたった一人で背負い込み、それを返す為にあなたはうら若き身空を犠牲とし。

 そして、そんなあなたを止めるどころか支えてやれるだけの力も無いくせに、欲しい玩具を前にした我が儘な駄々っ子さながらに、あなたをなじる事しか出来なかった、下らない私自身を。

 結局は全てをあなたに押しつけ、すがる事しか出来なかった自分自身を。

 最後には「仕方がないのだ」と物分かりの良い振りをして諦めるしか出来なかった、卑劣な弟を。

 そうして終いには、あなたを無視した勝手な苦しみから逃れたいあまり、わけも分からず髪留めを掴んで家を飛び出した最低の男を。

 私は今なお、どうしても許す事が出来ないのです。


 やがて、それから幾度もの季節が移り。

 自分自身の罪の重さを忘れたいが為に、何かを思考する余裕もないほどに必死になって働いた私は、ようやくですが、少しばかりの蓄えを持つ事が出来ていました。

 だから、なのです。

 私は本当はあの時、今度こそ私があなたを「救う為」に、あなたへ会いに行ったのです。

 あなたが売られた、あの色香に染まった妓楼へと。


 夏の間には見られはしない、紅葉色の絹が隣室で侍る、小さな部屋。

 慣れぬ私を気遣ってでしょう、香はたかれてなどいなかったのに、そこいら中に染みついた甘い香りは、あたかも阿片さながらに私の脳を狂わせてきて。

 おそらくはきっと、あの時もうすでに、私の心もそれに流され始めていたのでしょう。


 長らくの時を、あなたを裏切り続けていた私なのにも関わらず、あなたはとても優しく私を迎えてくれました。

 私はそんなあなたに、身勝手な安堵と、卑しい喜びと、そして抑えがたい懐古の情を覚えました。

 だけど同時に、あなたは昔と変わらずやはりとても美しかったけれど、やはり昔とは少しばかり違った雰囲気を纏っていて。

 私はかすかに、しかし無視するにはあまりにも明確すぎる、戸惑いを抱いてしまったのです。

 そう、それはまさしく、あの暑い夏の日、初めて「女」であるあなたを目にした時の様に。

 それは、「時は流れてしまったのだ」と言う、何よりも厳然たる証明でもありました。

 だから、なのです。

 私はあの時、どうしても再び、あの頃に帰りたくて、時を戻したくて、あなたに言ったのです。

 私と一緒に帰って下さい、と。

 ですが、あなたはそれに、首を横に振りましたね。

 お金の事なら心配ないと言う私に、申し訳なさそうに謝りましたね。

 何故かと詰め寄る私に向かって、少しだけ俯きながら、またしても季節変わって雪白の肌を桜色に染めて、「約束だから」と呟きましたね。


 あの瞬間、私の中で、今度こそ完全にあなたは「女」へと変わっていたのです。

 そして直後、私はあなたを押し倒してしまっていたのです。

 紅い紅い、まるであなたの心が吐いた血の様な、もしくは私の見知らぬ男にあなたが捧げたのでしょう破瓜の血の様な、鮮烈で扇情的な床の上へと。


 姉さん。やはり、あなたは私の想いの全てを悟っていらっしゃったのでしょう。

 だからこそ、あなたはあの時、ほんの一瞬だけ悲しそうな笑みを浮かべたきり、私を責める事も、止めようとする事さえせず、ただただ私を受け入れてくれたのでしょう。

 あなたに愛されていたと言う自信ならあります。

 しかしまた同時に、それは決して「男」と「女」のそれではなかったと言う確信もあるのです。

 なのに、あなたは私の一方的な想いを受け入れてくれました。

 それはまるで、かつて私が眠れなかった夜、私をそっと抱き締めてくれていた時の様に。

 芳烈なまでに甘美な異香と、妖艶なまでの彩色を除けば、あの頃と全く変わらないまま。

 そして私は、あの日、自身の歪んだ夢を叶えたのです。

 そして同時に、私はあの日、気付かされたのです。


 朱と黒と紺が絹の上で絡み合う着物を剥ぎ取り、仄かに桃色がかった襦袢を奪い取り、やがて晒された白い肌の何処にも。

 私は、縄の跡を見つける事など出来はしなかったのです。

 父と祖父を縛り、私が逃げた、あまりにも残酷な呪縛の痕を。

 あなたの心に強く残されていただろう傷痕を、私の二つの目はどちらも、その一片ですら見つける事が叶わなかったのです。

 私の脳裏に焼き付けられていたのは、ただ、網膜を焦がさんばかりに輝いていたあなたの裸身だけで。

 私の意識が貪っていたのは、ただ、あなたの心を気遣う余裕さえ失った私を受け止めてくれる、あなたの柔らかな快楽だけで。

 全てが終わり、私が正気に戻った時。

 私はどんな表現を用いても足らないほど強烈に、己の無様さを思い知らされたのです。


 姉さん。私は、あなたに真に告白しなければならない事があります。

 それは愚蒙なる私の独善的な愛の事ではありません。

 そんなものよりももっと悪辣で、何よりも卑怯な事なのです。


 姉さん。私は、人を刃物で刺してしまったのです。

 あなたを身請けしてくれるはずの人を。

 あなたが「女」として愛した「男」を。

 私は、刺してしまったのです。


 姉さん。あなたはきっと、私を許してはくれないでしょう。

 何故なら、あの人は本当に“いい人”でしたから。

 あなたに愛されるに相応しい、本当に素晴らしい男でしたから。

 ほんの数刻しか話をしてはいないのに、それでも嫌になるくらい明確に自分との違いを私の心に悟らせてくれた人でしたから。

 だから、姉さん。

 あなたはきっと、私を恨む事でしょう。

 いえ、それどころかいっそ殺したいほどに憎んでくれる事でしょう。

 そして私は、姉さん。

 あなたに、憎んでもらいたいのです。

 弟として許される事も。

 姉として慰められる事も。

 私は望んでなどいないのです。

 本当に、最低男の穢れた願望である事は承知しているのです。

 しかしそれでも、そんな事をされるくらいならば、私は姉と弟としての安らぎを代償にしても、二人の男と女として、一対一の別個の人間として、私を認めて欲しいのです。

 愛される事がないのならば、せめてその対極である憎悪の対象として。

 そして、それこそが唯一、私の卑しい罪悪感を、私に忘れさせず、誤魔化す事さえさせず、決して変わる事もなく、私に刻みつけてくれる術なのです。

 決して永遠ではないし、絶対に無限でも有り得ないけれど。

 それでも単なる夢幻ではなく現実として、私に、私が消え去ってしまうその瞬間まで、私に「今」として感じさせ続けてくれる道なのです。


 だから、お願いです。

 姉さん。私を、憎んで下さい。

 あの人と二人で、私を憎み続けて下さい。

 常に心の表層で憎んでくれとは言いません。

 それよりも、私の事などほとんど思い出す事もなく、あの人と幸せな日々を過ごして下さい。

 けれど、姉さん。

 決して完全に忘れ去ってしまう事はなく。

 心の奥底、自分でも知覚できないほどの片隅では、私をずっと憎み続けて下さい。

 あなたを見捨てて、あなたを裏切り、あなたを犯し、あなたを傷つけた。

 最低で最悪で、本当に自分勝手で救いようのない男の事を。

 酷い酷い男の事を……


 ……姉さん。私は、こんな愛し方しか見つける事の出来なかった愚か者なのです。

草々


 追伸

 あの髪留め以外の全てが、もう私にとって何の価値も持っていないものばかりです。

 ですから、最後の最後まで勝手なお願いですが。

 どうか、せめてあの髪留めだけは、私が手に握る事を許して下さい。

 それ以外の形あるものなど全て、私にはもう必要のないものばかりなのです。





 松波まつなみ弘雄ひろお。享年、三十五歳。

 死因は、自宅の寝台の上で横たわったまま、一切の飲食物を摂取しなかった事によるであろう餓死。

 また、解剖後の追加事項として、鼻の粘膜細胞の変性を確認。おそらく死亡する遙か以前から嗅覚が完全に麻痺していたものと思われる。ただし、生前の生活状況を推察するに、本人だけはごく最近までその異常に気付いていなかった可能性も考えられる。

 そしてまた、その手の中には、

 古びた髪留めが一つ、折れるほどに強く、最後の最後まで握られていた。



〈了〉



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