粗砂層の夕暮れ

木古おうみ

第1話

 短くなった陽の下を、魚の死骸と洗剤のにおいがする川に沿って、少女は歩いていた。町境にある橋には近寄らないよう、大人たちに言われているが、今日は自分の家にも、友だちの家にも向かいたくなかった。少女は長く伸びる自分の影を踵から振り払うようにふらふらと歩いた。


 家に帰れない日、少女はいつも小学校の最上階の窓から眺めるのだ。町のはずれの古い太鼓橋を。

 最初は雨で濡れたような小さな黒い染みが浮かぶ。染みはゆっくりと広がり、海から上がる泳者のように奥行きを持って膨れていく。影は大きさを増し、凹凸が浮かび上がって、西の空が赤く染まりきるころには完全なひとの形になる。子どもほどの背丈のものも、腕や首が欠けているものもいる。上級生は、昔あの橋を作るとき生贄として埋められたひとびとの亡霊だという。彼らは橋から外には一歩も出ず、ただひしめき合い、日没とともに消え失せる。


 橋のたもとに着いた少女は、身体をゆすってずり落ちたランドセルを背負いなおした。友だちみなはキャラクターの絵がついたナップザックを使い始めたが、両親にそれをねだったことはない。


 夕日に照らされた橋の上、亡霊たちはもう完全なひとの形をしていた。今まで黒い影に見えたのは逆光のせいで、近くで見る彼らはみな病人のような白い肌をしていた。服が汚れている程度の者も、頭の半面が髪と一緒に毟りとられて露出している者もいる。なぜか恐ろしくはなかった。彼らの表情は虚ろで、橋の上を右往左往する姿は、花火大会で親とはぐれた子どものように感じた。


 彼らの中に、他の者たちにぶつかりながら少女の方に向かってくる亡者がいた。痩せた男だった。まだ成人していないようにも、子どもがいる歳にも見える。男はかがんで、橋の欄干に落ちているひしゃげた煙草の箱とマッチを拾った。この橋の近くでバイク事故を起こして死んだ少年への供え物だろう。もう枯れて腐った花束も落ちていた。男は箱から煙草を一本抜き取り、欄干でマッチを擦った。湿っているらしい。

「火、つけてあげようか……」

 そういった少女を、男は暗い目で一瞥した。少女はランドセルを下ろし、中を漁って、奥底から銀色のジッポライターを取り出した。

「しゃがんで」

 男は煙草を言われた通り、橋のきわに膝をついた。少女は火を灯した。男に目立った傷や欠けた部分はないが、服の襟元に血とも土ともつかない赤茶けた染みが広がっている。風が吹いて、火が少女の爪を炙った。煙草の先端が赤く輝いた。少女は急いで火を消し、風に晒されて冷えた自分の膝に手を擦り付け、熱を打ち消した。

「要るか?」

 男は立ち上がって、ひしゃげた紙の箱を差し出した。少女は首を横に振った。男は返事の代わりに、紫がかった白の煙を吐き出した。少女は父親を思い出した。

 父親はいつもベランダで、溺れた人間が必死に息をするように煙草を吸い、母親は閉めた窓の内側で冷たい目をしていた。この男のように、静かで長く煙を吐く父を見たことはない。忙しなく荷物をまとめ、名刺ケースと紺の靴下とジッポライターを忘れていった父。少女は母に捨てられないよう、ジッポを隠し持っていた。


 右手のない汚れた子どもが駆けてきて、男の足にぶつかって転んだ。男が視線を足元にやるより早く、子どもは片腕だけで立ち上がり、元来た方へ走り出した。

「みんな、死んでるの」

 男は深く息を吸い、首筋に自分の手をやってうなずいた。

「ああ、もちろん。みんなここで死んだ」

「災害とか戦争があったの」

 少女が聞くと、男は外国の言葉を聞いたように、せんそう? と繰り返し、掠れた声で笑った。

「人柱だよ。みんなこの橋を作るとき埋められた」

 少女が先ほど男がしたように、ひとばしら? と聞いた。男は欄干に手をついて、少女に横顔を見せる形になった。


「昔は橋を造るとき、生け贄に人間を生きたまま埋めたんだよ。ここは何度も崩落があって、造り直すたびに罪人を埋めてたから、いつの間にかこんな数だ」

 男は顎で橋の上のひとびとを指した。亡霊たちは欠けた部分を庇うように、ゆっくりと動いている。腰から下がない老婆が、布団から這い出すような仕草で力なく欄干に縋りついた。

「罪人なの……」

「俺が? いや、俺は刑吏の一族だった。刑吏って言ってもわからねえか。罪人に罰を与える仕事だよ」

「不倫したひとの首を切ったり?」

 男は小さく目を見張って、

「怖いこと知ってる子どもだな」

 と、歯を見せた。


「まあ、そんなもんだな。何度人柱をやっても橋が壊れたんで、俺たちの責任だって一族郎党殺された。刑吏は嫌われるからな」

 夕日のせいで男の顔が焼かれるように赤く染まった。

「苦しかった?」

「いいや、穴に落とされとき首が折れて、埋められる前に死んだ。ほら」

 男はまた少女の前にかがみこむと、首筋に当てていた手を外した。首は今流れ出したばかりのような赤い水で濡れており、小さな黒い穴があった。少女がその穴に手を伸ばすと、男はぱっと立ち上がり、かぶりを振って笑った。指先についた血は冷たかった。

「俺は苦しまなかったが、俺の親や子どもはどうだったか……」

 子どもがいたのなら、やはりそう若くはなかったのだと少女は思った。

「聞いてみないの。埋められたひとはみんなこの橋にいるんでしょ」

「見つからん」

 男は足元に煙草を捨て、足ですり潰した。


「お前の親は……帰らなくていいのか」

「お父さんはもう私のお父さんじゃなくなるし、お母さんは今、お父さんとお母さんどっちが出ていくか話をしてる。たぶんお母さんが家をもらうの。お父さんは遠くに行きたいんだって」

 少女は橋のたもとに溜まった砂に、爪先で模様を描きながら答えた。男は何も言わずにそれを眺めていたが、少女の足が橋の上に乗ろうとすると、手で制すような素振りを見せた。少女はしばらく黙ったまま、足元に砂の渦を描いていたが、明るい声を作って言った。


「お父さんが結婚する前に住んでいたとこはね、すごく大きい橋を渡るんだよ。車で何時間もかけて走っても全然終わらないの」

「橋、か」

「そう、コンクリートで、竜を固めたみたいに見えるんだ」

「そうか、今はいいな。どんな橋を架けてもひとを埋めないで済む」

 今でも橋を作るのに人柱が必要だったなら、ひとびとはあの巨大な橋を造るのを諦め、父親も遠くへ行かなかっただろうか。そう思ったが、橋などあってもなくても父親がいなくなると、少女はわかっていたので、ただ、そうだね、とだけ答えた。


 西の空が、海に重油を流したように暗く陰鬱に陰った。

「もうそろそろだ」

 男が呟いた。日没とともに橋の上の亡者たちが消えていくのを、少女は遠巻きに見て知っていた。

「ここのひとたちは、どこに帰っていくの」

「帰るって言ってもな、もうとっくの昔に土の中だ。骨ももうなくなってるんじゃねえのかなぁ」

「地層になってるってこと……」

「地層?」

「学校で習ったの。地面はいろんな固い板でできていて、上から石の層、砂の層、泥の層があるんだって」

「石と砂の間くらいに、入ってるかもしれないな」

「そこは、粗砂層っていうんだよ」

 男は微かに目を伏せた。

「じゃあそこだ。俺たちは粗砂層に埋まってる」


 今度は両腕のない子どもが駆けてきて、男の足にぶつかった。子どもは立ち上がらない。頭の半分がない男が呻くような声を出した。

「元気でな」

「子ども、見つかるといいね」

 男は笑って、弱く手を振った。欠けたところのない男の輪郭を、沈む寸前の陽の赤が包み込んでいた。



 少女が家に帰ると、まだ温かいパンプスが玄関に脱ぎ捨ててある。母親の靴を揃えながら、廊下にただいま、と声をかけた。その向こうの部屋で、鏡面の前に座る母親は、ヒールの履きすぎで擦れた足の指の間に脱脂綿を挟んでいる。

「明日、学校お休みでしょ。お父さんの方のお祖母ちゃんの家に行くからね」

 母親はピンセットでつまんだ綿を、瓶の中の薬に漬けながら言った。

「橋を渡っていくの?」

「ううん、飛行機。車はまだお父さんのものだからね。その話もしに行くの。空港には地下鉄で行くからね」

 少女はランドセルを床において、母親の後ろに座った。


「地下鉄って、粗砂層は通る?」

「え、何? そさそう、って」

 少女は答えなかった。ただ母親が足の指股に詰めた脱脂綿が、薬のせいで夜闇のような色に染まっていくのを眺めていた。

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