第8話 ライト記者の報告
ライトは大いに満足したようで、大あくびを一つしながら、ズボンの裾をまくって靴下の中に入れた手帳を取り出した。
「いつもそんなところに?」
「一度、追剥に遭ってね、そん時、手帳を取られて、どうも、こいつは調べられちゃ困るようだと思って、こいつは一見すると、財布に見えるでしょ? 事務のエロイーズにどうすればいいかと相談したら、珍しい包装紙があるから、これでカバーをって、いやいや、そういう話は置いといて、……というかね、こういう無駄話でもしてないと、何とも、落ち着かなくて」
ライトはそういって手帳を指でこねくり回しながら、大きく息をした。
「いやぁ、こんな朝早くにすみませんよ。でも、ここまで調べて判ったことですが、やつは早朝の朝日を嫌う毛があるようなんでね」
「やつ? というと、犯人が解ったのかい?」
「いやいや、そうじゃないですよ。ただ、調べていくと、時々どうも監視されているような感じを受ける時があって、家に入ろうとした時などには、後ろから視線を感じて、でも誰もいなくてね、それが続くんで、ちょいと参ってて、」
「ということは、犯人に近づいているようだね」
ライトがのどを鳴らし頷いたが、
「そうですよ。と言いたいところですがね、本当に、どうも、何とも言えない事件ですよ。ほとんどが目撃者がいないんです。音をまず聞かないのでね、ただね、それでも、変なことがあったこと、事件に関係ないけれど不思議なことはないかと聞くと、何とか聞きだせたことが、どうも、相手にとって気に入らないことのようでね、被害者の家族にも会ってきて、何かおかしいことはなかったかと言ったらね、不思議なことが、と言うか、謎が深くなったというか」
ライトは手帳のページをめくった。ロバート、サミュエル、エレノアがそれを覗き込んだ。まったく意味をなさないような暗号めいたものだった。
「読めないでしょ、考えたんですよ。こっちもね」
そういいながら、ライトは手帳を読んだ。
「ともに共通する点は犯行時刻が午後11時から3時の間ってことです。だから、娼婦や、店をやっている女たちが狙われたようです。そして、共通点というかね、
惨殺殺人事件は今のところ20人、いや、昨日の夜もあったんで21人ですけど、最後の人に関しては調べてないんで解りませんがね……、
17人の娘には共通があって、何というものではないけれど、身に着けていたものが無くなっているって話しでしたよ。
それが解ったのが、四番目の被害者の娼婦の件で、娼婦仲間に聞いた話では、その日、上得意の客と会うことになっていたと。以前二度ほど相手をしたお客で、気に入ってくれたようだと、それで、彼女は一番の宝物である口紅を差し、それを持って行ったようだが、口紅が無くなってしまったという。現場にも、売春宿にも、家からも無くなってしまっていた。
とはいえ、口紅ごときだと思っていたんだが、10番目の娼婦もまた、大事にしていた扇子が無くなったという。そのあとも二人ほど、これはもう一度聞き直そうと思って聞けば、17人すべてが、大事にしていた何かが無くなっているという。ただし、金には一切手を付けていない。ただ、大事にしていた口紅、扇子、スカーフなどなどで、品物には共通はないけれど、大事なものが無くなっている点では共通している。と思う。
そして残りの三人なんだが、この三人は、大事なものも金もとられていない。そもそも、他の17人ほどひどい殺され方ではないんだ。確かに、背後から一気に首を切られているがね、この三人に共通するのは、容姿だけだね、茶色の髪に青い目。大人しそうな印象。実際評判もおとなしいものだった。
おいらが思うに、この三件は別だと思うね。」
ライトの手帳の暗号には全くそう記させている痕跡などないように思えたが、サミュエルは手帳の中身を理解しているようで、なるほどね。と短くつぶやいた。
「僕も、三件は別な犯人だと思う。だが、」
「だが?」
ロバートが聞き返す。
「まったく関係ないとは言えないだろうね」
「模倣犯ではないと?」
ライトの言葉にサミュエルが口の端を上げる。
「僕はこう考える。……あー、エレノア、不快になるといけないから耳をふさぐか部屋から、」
「いいえ、大丈夫ですわ」
エレノアははっきりとそういうと、サミュエルに向かって座った。サミュエルは首を少し傾げ、
「では続けるが、僕はこう考えるんだ。もし僕が模倣をしようと思ったら、」
「サミュエル?」
ロバートが思わず立ち上がる。サミュエルはくすくす笑いながら両手を上げてそれを止め、
「例えばの話だよ、犯人の気持ちになるということさ、」
「そんなものになることはないと思うがね、」
「大事だよ。なぜ殺すんだろう? 怨恨は容易い動機を持っている。フラれた、浮気された、金を返さないなどなどね。だが、これほど多くの人を殺す動機は何だろう?」
「それは、殺したいからだろ?」
ロバートが言いにくそうに言う。
「そう、まさにそうさ。殺したいから。だがなぜ殺したいのだろう?」
「なぜ? そ、そんなのは、犯人しか、」
「そうさ、犯人しか解らないよ。だから、考えるんだ。
娼婦を殺しているところまでは、娼婦を買ったが、不能だと笑われたので殺した。怒り狂っての犯行ならば、惨殺は解るからね。だが、ライト君の調べでは、居酒屋の女将や、観劇場のそばの花売り娘までいる。主婦も一人いるね。彼女たちが副業を娼婦でない限り、先に言った理由は意味をなさない。
では、娼婦以外の人々を考えれば抵抗されたから、と浮かぶが、ほとんどが娼婦である以上、それは理由にならない。
では、なぜか? だけどね、いまのところよく解らない。
だから、三件の犯行について考えてみる。大人しい女性で、茶色に青い目。これは連続犯の行動パターンだよ。大人しい女性は声を上げないからね。容姿的特徴は犯人の好みだろう。
では、なぜこの三件だけが別なのか、模倣犯だと考えてみる。
そこで僕は模倣したいと思っている。と考えたとき、腑に落ちないことがあるんだ。この三軒の被害者は皆、17件よりも傷が深くない。確かに首は切られている。そしてそのせいで死んだようだが、胸を刺している傷は浅く、はらわたも出ていない。
もし、僕が模倣するらなね、……、ロビーそう怖い顔をするなよ」
「考えるだけで不快だからね、仕方ないよ」
「本当に君はいいやつだ。だが、今はそれをすっぱり忘れてくれたまえ。
模倣しようと思った時、ばれてはいけない。そして本家よりも優れていると思われたい。と思うものじゃないかな?」
全員が黙った。
「ご、ごめんなさい。よく、解らないわ」
エレノアが振り絞る様に言った。
「そうだな、一枚の絵がある。有名画家が描いたのではなく、たぶん、自分と同じくらいの才能の持ち主だ。それを見たとき、同じ題材で描かなきゃいけなかった場合、この絵よりはうまく描きたいと思わないかい?」
「僕は絵は、」
「例えばの話だよ、絵でも、なんでもいい、ロビーなら乗馬か、あー、近所の……いやな男だ。君の乗馬クラブの、あいつよりうまく扱える。自信はあるだろう?」
「そりゃね、ブラッドよりはうまいに決まっているさ」
「それだよ、同じことをするとき、自分があとからそれをする場合だが、先にやっていたものより上手でありたいと思うだろう?」
「なるほど」
「殺人において、犯行を隠すものと見せつけたいものがいる。
隠すときは、すぐに捕まるという不安から、隠す。だから怨恨の犯人は捕まりやすい。理由や原因を皆がよく知っていたりするからね。いわゆる証拠が出やすい。
だが、この件は違う。隠さず、これほど派手な殺し方をしている。そんなやつの模範をしようとするやつが、おとなしいと思うかい? さらに驚くほど残虐にすると思うんだ。
だからこそ、この三件はすごく心惹かれる。大事なものも取られていないことでも、特殊じゃないか」
ロバートとライトは理解したらしく頷いた。
「エレノア?」
エレノアが眉をしかめていたので声をかける。サミュエルが、やっぱり部屋を出たほうがよかったんだよ。という言葉に首を振り、
「エミリア、姉も、茶髪に青い目でした」
エレノアの就業が近づいてきたので、ロバートが送り、ライトはエミリアの件について調べると言って出て行った。
サミュエルは天井をぼんやりと見ていた。何も考えず、ただぼんやりとしていた。考えようと思えば考えられるが、少し考えるのを辞めたかった。それがなぜだかすぐに解ったので、思考を邪魔する奴がいると本能で判ったのか、と苦笑いをしてしまった。
それは電報だが、普通のものではなかった。電報会社の薄い電報紙ではなく、上質な紙にタイプされたものだった。
今日は土曜なので、エレノアたちは半日で帰ってきた。その時、ライオネル・ハイデン青年も一緒にやってきた。
こげ茶色の髪を短く切り、手には帽子を握りしめ、仕事終わりだと判る様相だった。
相変わらず、猫は工場まで行っていたようで、暖炉の部屋の戸が開いた途端、エレノアの腕から飛び降り、窓辺に置いた籠の中(マルガリタが気に入っていたバスケットに布を入れた簡易ベッドだ)に落ち着いた。
「あ、あの、ライオネルです。エレノアに言われて、」
ライオネルはサミュエルを上目遣いで見た。
「座りたまえよ。別に取って食いはしないよ」
サミュエルは笑い、ロバートがライオネルに椅子をすすめた。ライオネルは椅子に浅く座った。
「何か、エミリアのことで聞きたいことがあるって、」
「彼女のことをよく知りたいと思ったんだ。君の知る限りでいい。まずは、出会いは?」
ライオネルは怪しそうにエレノアのほうを見たが、話して。というエレノアに促され、
「出会ったのは、三年前の夏まつりです。彼女は休暇だと言ってました。エレノアとはぐれてて、探しているときに俺たちはぶつかって、よろけた彼女を支えて、でもそのせいで、彼女が持っていたホットドックのケチャップが俺の服について、彼女が一生懸命近くの水洗で洗ってくれて、そん時いろいろと話したのかきっかけで、職場が近くて、あぁ、俺そんときはシュガータウンのほうで煙突掃除してたんですよ。ただ、その一年後屋根から落ちて、足をやっちまって、で、今は印刷の仕事を。田舎者同士気が合って、自然と」
「彼女はどんな人でしたか? あなたから見て、」
「まじめで、優しくて素晴らしい女性だよ。あんな人、もう会えないだろうね」
「彼女の趣味や、日課など何かあったか知っているかね?」
「趣味は、どうかな、だが本を読むのは好きだとは言っていた。日課にしていたのは、日記を書いたり、散歩をするくらいだね、特に変わったことはないね」
「彼女の癖や、急に始めたことは?」
「くせ? ……そうだな、おくれ毛を指でくるくると回すんだ」
「そうね、エミリアの癖だわ」
「あと、急に始めたこと? ……居なくなる少し前、不安だとか、怖いだとか、そんな言葉を言うようになっていたな」
「不安? 怖い? 具体的にはどんな不安や恐怖が?」
「それが、すごくざっくりとしていたんだ。家の中が怖いとか、何かわからないが不安だとか。俺の同僚に聞いたら、そりゃ結婚したいという意思表示だって言った。そうやって弱っている様子を見せると、男は俺が守ると結婚を申し込むんだそうだ。だが、エミリアがそんなことで言っているとは思えないから、今度の休みにちゃんと聞くと、送り出したんだ。送り出さなきゃ、よかった」
ライオネルは最後の会見を思い出し俯き、声を出さずに肩を震わせた。
サミュエルは少し考え込んでいた。そして、
「ひどく一般的な女性が、不意に消えなきゃいけない理由は? 不安と恐怖。どんな不安や恐怖があれば消えるというんだ?」
サミュエルはつぶやいた。
翌、日曜は晴れていたが、空気が冷たく、どことなく物悲しい気持ちになる天気だった。
汽車は定刻に出発し、時刻通りにシュガータウンの最寄り駅に着いた。人の往来があるのは、週末をここですごく貴族目当ての行商が多いせいだろう。
「あの丘に建っている茶色いお屋敷です」
駅のロータリーを抜け、大通りに出て北にまっすぐに伸びる道の先にある家をエレノアが指さした。
街はとても賑わっていて、人も多く、活気があった。出かけの不穏な気分を忘れるような陽気にも見舞われ、少し遠かったが歩いていこうという気にさえなるほど気分は軽やかだった。
タイラー邸へ行く坂道の中腹までは家があって、人がいたが、中腹を過ぎたあたりから家はあれど留守のようだし、人もいなくなった。
タイラー邸はエレノアが言ったとおり、少々独特な雰囲気に包まれているようだった。
門を押し開けると錆びた音がし、庭は荒れていた。日当たりもよい庭にするにはうってつけのように感じるが、雑草が冬の到来に逆らえず枯れているばかりだった。
玄関のベルを鳴らす。ひどく家の中に響き渡る音だった。音はどこにも吸収されずずっと響いているかのような気さえした。
しばらくすると奥から立派な紳士が出てきた。これぞ紳士という格好をした人だった。
「やぁ、エミリア……どなたですかな?」
「いいえ、タイラーさん、私はエレノア、エミリアの妹です。この方は私がお世話になっている、」
「アームブラスト男爵です」
ロバートは名刺を差し出した。男爵を名乗るのは嫌いなのだが、サミュエルからぜひ男爵だと名乗るよう言われていたのだ。
タイラーはロバートをいぶかしがっていたが、男爵と聞き笑顔を見せ、
「このところ社交界には出ていませんでね、疎くて、ですが、男爵を引き継がれたとかで、」
「ええ、ついこの前ですよ」
「それで、男爵がエミリアとどういう?」
タイラーはどうしてもエレノアをエミリアと呼びたいのか、エレノアのほうを見た。
「その、エミリアさんのことをおたずねしたくて来たんですよ。エレノアが必死で探しているので、私も手伝うことにしましてね。よければ少し質問をしたくて」
タイラーはエレノアを見つめていたが、少しして、
「あぁ、なるほど、なるほど」と身を中に入れ「では、どうぞ」と扉を開けた。
玄関は大きくて天井を高く取っていた。装飾の立派な絵画が四点対照的に飾られていた。右に二階へ行ける階段があり、左にある応接室に案内された。
「静かですね」
ロバートがそういうと、タイラーは暖炉上に置いてあるシェリー酒のふたを開けながら、
「そうなんですよ。妻と子供は親戚の子供の洗礼式へ、まぁ、そういうわけなので、家政婦たちにも休みを取らせてましてね、今日は私一人悠々自適に本を読もうとしていたんですよ。だからって、来られたことは歓迎しますよ。私だって、エミリアのことが心配ですからね」
タイラー氏がシェリー酒を進めたが、鼻を突くようなにおいに断りを入れ、
「ところで、庭はどうかしたんですか?」
「庭?」
「えぇ、すごい状態だ。もしよければいい庭師を紹介しますが?」
「本当ですか? もう、これがばかばかしい話でね、庭師として雇った男が、芸術家だとか言い出して、庭に山を作るとか、湖を作るとか言い出して、あっちを掘って土を積み上げたかと思うと、ひどく不格好な、あの木を見てくださいよ、枝どころか幹までも曲がった木を植えようとしたんですよ。一体何のためだ。と聞きますとね、これは聖なる道です。とか言い出して、挙句には、散々な状態にして、私からの入金を確認すると居なくなったんですよ」
「警察には?」
「届けてますが、まぁ、捕まらないでしょうなぁ、という話で、そしたらもう冬が来ます。どこの庭師もこの時期に庭の整備をしたくないらしくて、本当にみっともないことですよ」
タイラー氏はシェリー酒をくいっと空けて、イスに深く座り、
「それで、お聞きになりたいこととは? 居なくなった日のことは以前話しましたよ?」
「いえ、その前の話です」
「その前?」
タイラー氏は眉をひそめて首を傾げた。
「そうです。あなたが言ったように汽車に乗って出発した。しかしどこへ? エレノアの家へ向かったのか、はたまた別な場所か。それを考えるためにも、彼女を、エレノアが知らない彼女の姿を知っているあなたに聞いたほうがいいだろうと思いましてね。妹とはいえ、住み込みの仕事をしている間、休みには会っていたと言っても、毎日の様子で人はどのようにも変わりますからね、エレノアが知らない好みの変化も知っているかもしれないと思いましてね」
「なるほど、確かにうちに住んでくれていましたからね。休日を連休にしてもいいと言っていたのですが彼女はめったに連休を要求してこなかった。本当に、今どきの若いメイドにしては珍しい人でしたよ。そして、とてもきれいでした」
ロバートは一瞬眉をひそめたが、「それで、何か日課にしているようなことはありませんでしたか? 例えば、毎日散歩に行くとか、この時間には本を読むとか、日記を書くとか」
「……、そうですね、私の知る限り、朝の十時から昼まで子供の勉強を見る、三時から四時まで子供たちに本を読み、四時には妻とお茶をする。夕飯の八時には決まって席を一緒にしてました。それ以外は自由で、目立って何かをしているようなことは気にならなかったな。いや、そう、天気が良ければ庭を歩いていましたね、鼻歌を歌いながらね、私が見ているのに気づくと少し頬を赤らめて向こうへ行ってしまったが、とても美しい光景でしたよ」
「日記などは?」
「さぁ、夜は全く会いませんからね。書いていたかもしれないし、書いてないかもしれない」
「部屋を見ることはできますか?」
「それが、彼女の部屋はあの塔にあってね、新たにメイドを増やすために増改築中で、業者から立ち入り禁止が出てるんだ。さっきも言ったが今日は一人で居たかったから業者も休みなんだ。あと一か月はかかるらしくってね、大変だよ」
タイラー氏は申し訳なさそうに言った。確かに、塔と呼んでいる場所には足場がかけられているので、嘘ではないのだろう。
タイラー氏との会談はさほどの情報は得られなかった。恋人の様には注意をしていないし、主らしく使用人について無頓着な感じも受けるが、褒める態度は使用人に対するそれとはかけ離れているように感じた。
「最後に、エミリアに恋人は居ましたか?」
「恋人? いなかったでしょうな、」
「……婚約者がいたようですが?」
「婚約者? はっ、あの頭のイカれた青年のことを言っているのならば、あれはあの男が勝手に言っているのであって、エミリアは本当は迷惑していたんですよ。あいつは、自分はエミリアの婚約者だ、隠しているのなら出せと言ってきた。この私にだ、失礼も甚だしい。婚約者だ? あんな何もない男を選ぶと思っているのか」 タイラーはそういうと、と手にしていたグラスを握りつぶした。
ぎょっとするエレノアのほうを見て、ロバートは頷き、
「解りました。では、もう一度問い詰めてきますよ。では、エミリアには恋人はいなかったんですね。でしたら、どうして居なくなったんでしょうね? 居なくなる前に何か変わったことはなかったですか? 誰かに恋をしていたとか? あるいは誰かを恐れていたとか?」
「恋? そんなことは……恐れ……恐れることなどあるものか、ふ、不愉快だ。非常に不愉快だ。出ていったもらいたい」
タイラーはそういうと血だらけの手を振り回した。ロバートとエレノアは急いで玄関を出る。
「もう来てほしくない、いいか、エミリアは私のものだ」
タイラー氏は戸を激しく閉じた。
ロバートとエレノアはあっけにとられながら通りに出た。
通りから屋敷を見れば、確かにカーテンが引かれていなくて、窓が暗く、屋敷の白が異様に白く浮き出していた。幹の曲がった木が数本奇妙に立っているのが更に恐怖的だった。
「とりあえず、帰ろう。それから、サミュエルに相談しよう」
エレノアは頷いた。
二人が帰ろうとすると、様子を見ていたらしい近所の婦人がいぶかしげに見ている。ロバートが帽子のつばをつまんで会釈をすると、婦人が、
「タイラーさんところへ行って、あんたたち大丈夫だったのかい?」
と聞いてきた。
「大丈夫だったとは?」
ロバートの聞き返しに手を振って中に入るのをエレノアが近づき、小声で話し始めた。
「どういうことですか?」
「いや、なに、おかしいんだよタイラーさん、」
「おかしい?」
「奥さんと子供の姿が見えないし、雇人もすべて首にしてしまったし、かといって新しい誰かがいる様子もないし、夜だって明かりはついてないしね。でも、タイラーさんが庭を徘徊しているのは知ってるんだよ」
「奥さんとお子さんて、親戚のお子さんの洗礼式に行っているんじゃ? それに合わせて、今日は使用人は休みを?」
「いいや、だいぶ前からいないよ。それまでは庭を走ったりして、本当に元気のいい子供たちと、そう家庭教師がいたね、あまり見栄えのいい人じゃなかったね、地味な感じ。でも、子供にはしっかりとしつけをしていて、そうね、見栄えの地味さに比べるととても品のある人だったわね」
「私の姉なんです」
「あら……そう? そうだったかしら? そんなに印象的な人じゃなかったから」
エレノアは少し微笑み、「あの、奥さんやお子さんが居なくなったのって、だいたいいつぐらいですか? 一週間前?」
「いいや、……そうねぇ、そうそう、水曜日。一か月前の水曜日よ。その日は月に一度の市が立つのよ。お金持ちの奥さんたちが集まって、自分たちで作った刺繍したハンカチとかをね、売るのよ。金持ちの道楽、チャリティーバザーの日。ほんと、気分の悪い日よ。だから覚えてるのね。ものすごい勢いで、妻が、子供が、って大声上げてタイラーさんが車でどっかへ行ったのよ。そのあと、しばらくして戻ってきてからよ。あんな取り乱した様子見たの初めてだったのよ」
「戻ってきたときも取り乱していましたか?」
ロバートの言葉に、少し怪訝そうな顔をしたが、
「いいえ、なんかすっきりした顔をしていたわね。だから、何か問題は解決して、戻ってきたんだろうって、でもそれくらいからだわね、奥さんも子供も見なくなったの」
「あの塔の修繕工事はいつから?」
「……、あれ? あれ何してるんだろうね? 足場を組み立てるよう言われたらしいけど、工事をするとも、何も言われなかったって」
「業者がきていない? 庭は? 庭師が逃げたと、」
「庭師? そんなもの見ないわよ」
「ですが、あの庭、」
「あれはタイラーさんが自らやったのよ。言ったでしょ、夜になると徘徊してるって、そん時、掘ったりしてるのよ」
ロバートとエレノアは顔を見合わせた。
「一か月前」
「工事はしていない」
なぜこんな解りやすい嘘をついたのだろう。という気はしたが、ともかくこれをもう一度タイラー氏に問い詰めるためには、あの常軌を逸した姿に二人で立ち向かうのは無理だと、ロバートは帰ることを選択した。もっとも、エレノアに危険が及ぶのを避けたかったのだが。
帰りの汽車の中で二人は黙ったままいろいろと考えようとしたが、まるで考えが浮かばなかった。ずっと「なぜだろう」という言葉しか出てこなかったのだ。
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