第6話 カロライン・スタンリー夫人
ロバートとエレノアを乗せた馬車が走り去った後で、サミュエルは機嫌よくめんどり亭へと向かった。
めんどり亭はまだ仕込み中らしく扉には「Closed」の札がかかっていた。だが中で音はしているようだった。
「マルソン嬢の家からここまでゆっくり歩いて十分とかからなかったね」
「時間が何か?」
ライトの質問にサミュエルはほくそ笑みながら、
「いやぁ、ロビーが別れが惜しかった。と言っていたからね、たしかに十分な距離。ではないね。と思っただけだよ」
と笑った。それからあたりを見渡した。
「あのやじ馬がいて賑やかそうなところが公園付近だね」
と、道が少しカーブしていて、そのカーブを抜けるあたりにいる人だかりをさしていった。ライトはそうだといった。
「君が立っていたのはあのたき火?」
「いや、おいらは向こうのほうさ」
「では、その前のあの、ピンク色の花があるアパートだね? 例の夫人の家は?」
ライトは、そうだ。と返事をした。
カーブの頂点辺りに窓にプランターで花を育てているアパートがあった。夫人の部屋は一階で、道路に窓が面していた。その道路向かいの歩道には街灯と、たき火の痕があった。この辺りは夜間工が多いと見えて、
サミュエルはロバートたちが歩いていた歩道―ライトが立っていたという街灯下の向かい、アパート側―に立ってみた。
「何かあるのか?」
ホッパーが襟をすくめてライトのそばに立つ。ライトは首を傾げてサミュエルを見た。
ロバートとエレノアを乗せた馬車がマクレガー縫製工場前で止まった。
「大丈夫だろうか? 間に合っているといいのだが、」
ロバートが不安そうに言うとエレノアは微笑んで見せた。
「その、もし、君がまだ会ってくれるというなら、また、食事でもどうだろうか?」
「え? あ、先ほどの方も一緒に?」
「え? あ、あぁサミュエルかい? あぁ、じゃぁ、サミュエルと三人で、どうだろう?」
「え、えぇ。日曜日は休みですから、」
「あ、じゃぁ、日曜日に」
エレノアは頷いて馬車を下りた。馬車で来る女工などいないから同僚たちが騒々しい、それに困った様子を見せたので、ロバートは馬車を出した。
約束を取り付けた。だけで十分だった。そのあといろいろとサミュエルにため息をつかれるのだが、今は、約束を取り付けただけで胸がいっぱいだった。
馬車でめんどり亭まで戻る手前、例の事件現場の公園前にサミュエルたちを見つけたのでそこで止まった。歩いていたらそれほど気にならないカーブも、馬車だと少し傾くと思いながら馬車から降りて料金を支払った。御者はチップ込みの料金に笑顔で礼を言って走り去った。
「送ってきたかい?」
「あぁ、間に合ったよ。それと今度の日曜に食事をしようと約束した」
「そうかい、君にしてはずいぶんと積極的だ」
「いや、サミー君も一緒だよ」
ロバートの言葉にサミュエル他、ライトもホッパーでさえも目を丸くしてロバートを見た。
「僕も、かい?」
「あ、ああ」
(だって、彼女は二人だけでは嫌そうだったから)とは言わなかった。ロバートが黙っているので、サミュエルが次の質問をした。
「それは、昼かい? 夜かい?」
「え?」
サミュエルはため息をついて頭を振り公園へと向かった。
たしかに何時にという約束は取り付けなかった。つまり、約束を取り付けた。とは言いにくいということだった。ロバートはがっくりと肩を落とした。それを同情したようにライトが肩を叩く。
「まぁ、いろいろありますって」
ロバートは苦笑いを浮かべた。
サミュエルは警官が棒立ちの目前まで行き、公園内を見た。
公園と言っても大きなハシバミの木が在って、その木陰になるであろうところにベンチが置いてあるだけの小さな場所だった。近所の人が自分の手狭な庭に置けない分のプランターを置いて花を育てているような、公園というか、有効活用されている空き地。と言ったほうがよさそうな場所だった。囲いはなく、歩道から丸見えで、周りに立っている家々の窓からも丸見えだ。夜と言っても家の明かりは漏れるだろうし、公園の奥、向こうの道の面した場所には街灯もある。真っ暗闇にはなりえそうもなかった。そんな公園の隠れる場所と言えば、木とベンチの、ちょうど警官たちがたくさん集まってその辺を探しているあの、一メートル四方の間だけだろう。
「見晴らしのいい場所なのにね」
「だから、目撃していないか? と聞きに行ったんですよ」
「……、ここ、こんな場所だったか?」
ロバートがめんどり亭へ行くほうに体を向けたり、公園を覗いたりしながら首を傾げた。
「あの時、ここは本当に真っ暗で、ぞくっとしたんだよ。街灯がこんなに少ないなんて気味が悪いってね、ちょうどカーブであの街灯の明かりが影になったんだと思って、彼女と一緒に歩調を速めたんだ。そう、本当にこの一角に街灯の明かりはなかったし、本当に暗かった……よ」
そういってロバートがあたりを見渡すために首を振った。
(なんだ、いやな、感じだ)とっさに昨晩の黒い影を思い出した。黒い影に顔はなかったし、あれがものであるかどうか解らないが、あれに見られた時のようなあのいやぁな感じがしたのだ。
「どうした?」
「黒い影、」
ロバートがふと上を見上げた。
空は秋晴れで白い雲はまだ高かったが、雲が無く澄んでいるおかげで寒々しかった。その青い中に黒い雲が見えた。ロバートはぞっとした。
「あれ、だ」
サミュエルたちも見上げた。近くにいた人も同じく見上げたが、何もないわよ。と言いながら公園の警官のほうを見た。
ロバートが顔を戻せば、見上げているのはサミュエルとライトとホッパーだけだった。他の警官も見えていない。やじ馬も見えていないのだ。
「あれは、なんだ?」
ホッパーが聞きながら顔を戻した。ロバートの顔が異様に蒼くなっていた。
「大丈夫か?」
「えぇ。……昨日僕たちを襲った黒い影ですよ」
ホッパーが見上げるがもうそこにそれはなかった。
「確かに、透き通った黒い影だったな」ライトが身震いをした。「しかも、見えていたのはこの四人だけだった。どういうことだ?」
「ロバートに接触したからかもしれないね」
サミュエルの言葉に、ホッパーとライトは自分の手を見た。ホッパーはアパートに入ってきてすぐあいさつの握手をした。ライトは先ほどロバートの肩に手を置いた。サミュエルもロバートに触れた。
「男爵、あんたあれが何か知ってるんじゃないのか?」
ホッパーが聞いたがロバートは首を振った。解るわけがない。とつぶやくのが精いっぱいだった。
「とりあえず、あれに襲われた場所まで行ってみようか、」
サミュエルに促されて歩く、公園からだいぶ歩いた。警察分署の建物は見えるが警官の姿は見えない。七番の道に入ってすぐの場所だった。よく観察すればこの一角だけ建物の窓が路地に面していなかった。
「黒い影はどこから来た?」
「さぁ」
「そもそもなんでこんな道を?」
ホッパーに聞かれ、ロバートはなぜだかあの警察署前の屋台で軽食を食べていた。それ以前の記憶があいまいだがとにかくそこで食べて、帰ろうとした時、後ろのほうから
「ちゃんと調べてください。と懇願するマルソン嬢の声が聞こえて、別にどうってことはないと思いながら振り返って、彼女が帰っていくから、なんとなく後をつけて、」
「あとをつけた? なぜ?」
「なんとなく、行った方がいいような気がしたんですよ。別に、深い意味はなく、なんとなくです」
本当になぜ行ったのか自分でよく解っていなかったが、とにかくついていった。
「そしてここまで来て彼女が振り返って、なぜついて来るのかというから、なんとかそれらしい言い訳を言おうとした時、気味の悪い何かを感じてみれば黒い影がいて、最初は黒服の男だと思った。大きさは僕より大きかったからね、だが彼女の恐怖を感じて、たぶん、以前にも彼女はあれに怖い思いをしたのだろうと思って、彼女の前に立って盾になったんだ。そしたらそれが突進してきたが、ふわっとどこかへ行った。そんなんだから彼女に同行を申し出て、腹も空いたからめんどり亭で食事をして送ったんだよ」
「怖い思いをしてよく腹がすきましたね、」
ホッパーの嫌味にロバートは頭を掻きながら、
「いや、それほど腹は空いていなかったんだが、彼女は怖がっているし、その彼女を励まそうと思っていたら、そのね、なんていうかね、もう少し一緒に居たいと思ってね、」
「そう思ったのはあの公園の前? 通り過ぎた後?」
サミュエルの言葉に、公園を過ぎた後だと答えた。
「公園に入る前に嫌な感じが戻ってきて、二人して顔をしかめて歩いた。公園の前でぞくっとして、足早に通り過ぎた。カーブを抜けた瞬間街灯の明かりでほっとして、そしたらめんどり亭という文字が見えて、安どのため息をついたらこのまま帰るのは、と思ってね」
ロバートのはにかみにサミュエルは首をすくめながら、辺りを見間渡していた。
「何かわかるかい?」
ロバートの言葉に、さっぱりだ。とサミュエルは答えた。
「にしても面白いね、あの黒い影は何だろうね?」
「石炭を焚いた煙でもあんな感じではないな、」
「あれに似てますね、黒いベール」
ライトの言葉に全員が頷いた。
「それで、ホッパー警部、ロバートは重要参考人ですか?」
「……そうだとも違うとも言えないね、あの公園が真っ暗だったというのが、どうもね」
「そうですね」反論しようとするロバートをサミュエルが止めて続ける「あれだけ見晴らしがよく、明かりがありそうな場所ですからね、今晩、同時刻を見てみようじゃないですか、それでどうか解るでしょう」
たしかにそうだ。となったが、ロバートは、またあの道を通るのか。とげんなりした。
「マルソン嬢は毎日あそこを通っているのだろ? 昨日の今日だ、さすがに不安だと思うがね?」
サミュエルの言葉にロバートは、確かに。と背筋を伸ばした。それを見てライトは苦笑し、ホッパーは呆れたように鼻を鳴らした。
「どうでしょう、五時にあの警察署前で集まりませんか? そのくらいになればマルソン嬢も仕事から帰宅するのに間に合うだろうし、」
「いいっすね」
ライトは乗り気だったが、ホッパーは警察の仕事を優先すると言って参加はしないといった。そもそもよく解らない行事に参加するほど暇ではない。とまで言った。
「そうですか、それは残念。では、ライト君、それまでに関係ありそうな過去数カ月の殺人事件というのを調べてもらえますか?」
「おいおい、何をしようっていうんです?」
ホッパーがすぐに止めに入った。
「気になるじゃないですか、殺人事件があったそばを親友が通ったんですよ。無関係だとしても、関係があるとしても、その親友は奇妙なことに遭遇した。面白いじゃないですか」
ロバートはため息をついた。サミュエルが面白いことに遭遇してしまったのだ。だがそれは、サミュエルはしばらくは大丈夫だという証拠でもあった。(複雑だ)
サミュエルは面白いことがないと死人のようになる。興味の対象は面白いことなので、いくら流行りの本を差し入れしても、気が向かなければただずっと天井を見つけて呆けていたりする。だから面白いことがあるのはいいことなのだが、それにのめりこむとどんな違法な行動もしかねないのだ。過去に一度、彼は銃を手にして人を殺そうとしたことがあった。面白いことの結果なのだが、踏みとどまったのは、ロバートが、「僕が君の面白いことになってやるから、銃を下ろせ、そんなくだらないことをしては、今後の面白いことを見逃すぞ」だった。思い出したくもない事件だ。ロバートは短く息を吐きだした。
ロバートとサミュエルは二人と別れ、シティーからラリッツ・アパートへとかなりの距離を散策しながら帰った。その間黒い影のことを語ることなく、秋の短い日差しを惜しむような長い散歩を楽しんだ。
五時を十分ほど過ぎてロバートとサミュエルが警察署前に来たが、ライトは来ていなかった。代わりにハンティング帽をかぶった少年が、
「アームブラストさんはどなた?」
と声を上げていた。ロバートが返事をすると、少年は紙きれを渡して走り去っていった。
「少々立て込んでいるので今日は無理だ。後日家に行く。だってさ」
ロバートはメモを読んだ。サミュエルは、ふん。と返事をしただけだった。それから数分ののちにエレノアが歩いてきた。不安そうな緊張した顔をしていた。
「やぁ」
ロバートが声をかけた。少し顔に赤みがさした。サミュエルの姿を見てさらに顔を赤くしたのでロバートはそれを見まいと顔をそむけた。
「警官に今日も頼みますか?」
サミュエルの言葉にエレノアは不思議そうな顔をした。
「毎日警官に何かを頼んでいるのでしょ?」
「えぇ。でも全く役に立たないんですよ。いつも、どうせ男とどっか行ったんだとか、家に金を入れるのが嫌になって逃げたんだとかいうんです。姉はそんな人ではないのに」
「居なくなったんですか?」
エレノアが頷き、「ええ」と短く答えた。
「……、昨日、たぶんね、このロビーは親切であなたの話を聞こうと誘ったのでしょうけど、きっとね、こんな感じですよ、僕の家族は女ばかりでねとか何とか」
サミュエルは明らかに馬鹿にしたようなロバートの口調をまねて見せた。エレノアはくすりと笑い、
「とてもいいご家族のようでしたわ」
とほほ笑んだ。サミュエルはそれに同感したが、
「でもねぇ……ロビーの三人の姉は僕にまで世話を焼きたがる。あ―いやなことを思い出したよ。そういえば、また見合いを世話をしたいと言っていたなぁ」
「またかい? まったくよく飽きもしないものだ」
「君の姉さんたちだからね。僕を放っておけないのだろうね」
サミュエルは微笑んだ。ロバートはその笑みに少し照れた。サミュエルを殺人犯にしたくなかったのは、あの事件の時、ロバートとサミュエルはそう大して親しい間柄ではなかった。ただ、親しくはないが、彼のそのきれいな顔につい止めに入ったのだ。(……僕はよほどの面食いなんだな)
「昨日のロビーに代わって、今日こそ相談に乗りますよ。彼にはいないが―真面目な男ですからね―僕には警察の人間に知り合いがいますから」
サミュエルの言葉にエレノアは少し考え頷いた。どうせ門番の警官に言ってもらちが明かない。誰かに愚痴りたくても同僚ではただの話のネタになって終わりだ。それならばと思ったのだろう。
「昨日行っためんどり亭へ行きますか?」
サミュエルの言葉にエレノアは顔をひきつらせた。同じ道を同じように暗くなった時間歩くことに恐怖を感じていたのだ。またあの変なものが襲ってきたらと思うとぞっとする、だが、帰り道として一番近いのはこの道だった。あとは、シティーを迂回する道、それだとゆうに一時間は時間がかかる。
「盾になるには心もとないだろうけれど、一応、男が二人いるのでね」
サミュエルの言葉にエレノアは頷いて歩きだした。サミュエルが先頭を歩き、その後ろをエレノアとロビーが並んで歩いた。
「確かに街頭の明かりが暗いね、シティーの電力をもう少しこちらに寄越せばいいのに、まったくケチだね、市長は」
サミュエルはよほど楽しいのか声に張りがあった。ロバートは緊張したような顔をエレノアに向けた。それに気づくとエレノアは少しほほを緩めた。
ざらっとしたものを感じた。心のどこかが落ち着かないそんなものだ。
「サミュエル」
ロバートが緊張した声を出し、エレノアの方を無意識で引き寄せていた。サミュエルは機嫌よさそうな顔をそのまま振り返り、ロバートのその行動と緊張した顔に近づいてきて、ロバートの肩に触れたが何も感じなかったのか、エレノアの手を軽く触って険しい顔を見せた。
「あれかい?」
ロバートは黙ってなずいた。
向こう側の歩道に黒い影がいた。空に浮かんでいるときには薄気味悪いと思っただけだが、今ではそいつから発せられているらしいすべての負の感情に奥歯を噛んでいないと立っていられなかった。
その時、ガラガラと馬車が走ってきた。黒い影の負の感情が治まった。だがそこにまだいる。
馬車が少し先で止まり、ドアが開き、
「ロビー!」
と絶叫に近い女性の声に三人がはじかれるようにして馬車のほうを見た。
見れば、この辺りには不似合いの四頭立ての立派な馬車だった。
「カ、カロライン?」
「あ、あなたってば」
立派な服を着たロバートに似たその人は路上でロバートが女性と抱き合っているとみて慌てて馬車を下りてきたようだった。
「い、いや違う、違う、えっと、だから」
ロバートがエレノアの肩から手を放す。エレノアは急に手を離されふらりと倒れそうになるのを再びロバートが抑えた。
「ま、まぁ、あなた大丈夫? どうでしょ、顔色が悪いわ、馬車に乗せて屋敷に帰りましょ、そうしましょ……あら、サミーご機嫌いかが?」
サミュエルにいまさらながら気づいたように声をかける。
「ごきげんよう、スタンリー夫人」
「よしてよ、あなたはロバートの親友で私たちの第二の弟だと思っているのだから、……それよりも、この人の看病が先よ、……そうね、この辺りならば、あなたのアパートが近いわね? どうせ部屋の一つや二つ空いているでしょ? あぁ、久しぶりにマルガリタの食事も食べたいし構わないわよね?」
カロラインはそう決めたが早いか素早くエレノアを馬車に乗せ、さっさと乗り込み、四人を乗せると馬車はこの不快な場所を走り去った。
「なぜここを通っていたんですか?」
ロバートの質問にカロラインは簡単に答えた。
「屋敷に帰るのに近いからよ」
たしかにそうだが。と思ったが、この人に、でも治安が悪いでしょうに? や、しかし道はいくらでもあるわけですし。の類の説得が難しいことは長年弟をしているので解っているので辞めておいた。
サミュエルのラリッツ・ホテル前に着くと、ジェームズが玄関を開けた。
ロバートはあの黒い影の気配を感じて振り返った。だが、だいぶ離れた場所に立っていた。しかも、ギリギリと悔しそうな印象を受けた。近づかないのはカロラインがいるからだろうか?
「あら?」
カロラインが珍しいものでも見つけたような声を出した。
「ジェームズ、この柵は銀?」
「さようでございます、スタンリー夫人」
「珍しいわね銀なんて、でも銀は錆るじゃない」
「さようでございます。ですから錆止めを頻繁に塗っております」
「でもきれいだわ。銀の柵ね、サミュエルらしい変わった趣向だわ」
カロラインはそういって中に姿を見つけたマルガリタに飛んで行った。
恐縮して馬車を下りたエレノアにロバートは手を差し出し、
「あれが二番目の姉です。カロライン。かなり、」
「強引でにぎやかな人。でしたわね?」
ロバートは頭を掻きながら笑った。
「何しているの? マルガリタの食事が冷めちゃうわよ」
「でも、私、」
「不思議だけどね、ここの執事夫婦は急な来客分の食事を魔法の用に用意する手立てを知っているんだ。本当に驚きだよ。さぁ、どうぞ」
ロバートはとにかく早くエレノアを中に入れてから、通り向こうの黒い影を睨んだ。あの影はなぜだかあそこからこちらには来なかった。悔しそうな感じが伝わってくるので、本当にこれ以上近づくことはないのだろう。つまり、彼女にとってこの家は安全なようだった。
食堂には人数分の料理が温かいまま乗っていた。本当に不思議なことだった。帰るかどうか解らない主人分が用意されているのならまだしも、客の分まで、しかもすぐに食べられる状態なのが本当に不思議だった。
「もう、マルガリタの食事を食べられるなんて何て幸せなのかしら」
カロラインは外套を脱いでその豊満な体を優雅に椅子に沈めた。自分の姉ながらこの人の豊満な体は―誰に似たんだ?―と思ってしまう。母親は小柄で細身だ。長姉は父親の長身を受け継いだが細身だ。三女は母親に似て小さく痩せた人だ。
「ロビー、あなた今、カロはいったい誰に似てそれほど太ったんだ? と思っているわね?」
「太っているとまでは思っていませんが、またスタンリー伯爵はカロに贅沢をさせているのだろうと気の毒には思っていましたけどね。また、チョコをねだったんでしょう?」
カロラインは知らないわ。と言いながらグラスに注いでくれるジェームズに微笑みかけた。
ロバートは呆れながらも、エレノアのほうを見てほほ笑んだ。エレノアはその笑みに笑みを返した。
サミュエルは帰ってきてコートを着たまま窓際に立って外を見ている。きっと黒い影を見ているのだろう。
「サミー? 何してるの?」
カロラインの言葉にサミュエルはおどけて、
「いや、カロがいるんだから、他にも来るのじゃないかと思って、用心したんですよ、」
「まぁ、用心なんて、見合い、」
「はしませんからね」
素早い。ロバートとエレノアはそう思って顔を見合わせてくすりとほほ笑みあった。
「僕のことに世話を焼かず、実の弟、ロバートのほうを世話をしたらどうですか?」
「ロビー? ……ロビーは大丈夫なようだからいいのよ」
カロラインはエレノアを見てほほ笑んだが、その視線をロバートに向けたとき、やけに鋭くにらむのでロバートは咳払いをした。
「ともかく食べましょうよ」
カロラインは食前の祈りをきっちりとあげてからその体同様に豪快に食事を始めた。エレノアも最初は遠慮していたが、マルガリタの魔法の食事にすっかり夢中になった。
「なんておいしいんでしょ」
「そうでしょ? それなのにサミーのあの細さを見て、まったくもって信じがたいでしょ?」
カロラインはマルガリタの食事を毎日食べられる幸福を無駄にしすぎだとか、なんとか、かんとか言いながら、エレノアからいろいろと聞きだし、すっかり深い話まで聞きだしていた。
食後、暖炉そばでココアを二人は並んで飲んでいた。
「それでは、お姉さんは一か月前に居なくなったのね? 住み込みの家庭教師をしていたところから、休暇の水曜日に帰った後で?」
「そうです。タイラー氏のお屋敷を朝の九時に出たと、タイラーさんが駅まで送るというのを姉は気持ちがいい朝なので歩くと言ったのが最後だったと言っていました。いつも姉は昼過ぎに町に着く列車で帰宅します。
少し買い物をしていると私の就業時間の工場前まで来てくれるんです。でも、食事を用意したり、疲れたりしたらアパートで待っているので特に気にせず帰ったんですけど、来なくて。
まぁ、お子さんが具合が悪かったりしたら帰ってこない時もあったのでそれかとも思ったんですけど、でも、なんだか、気になって。
翌日タイラーさんのお宅に電報を打ったら、帰ってきていないが具合でも悪いのか? って逆に聞かれて、またすぐに、水曜日には帰ってきていない。と電報を打つと、ちゃんと水曜日には出掛けたと言われて、週末には夫婦がパーティーに行かなきゃいけないから、それまでに戻らなければ契約を破棄すると言われて、でも、姉は見つからないし、週末に戻ることもなく、契約違反だ。と姉がいないのに姉あてのクビを宣告されて、」
「警察にはいつ届けたの?」
「木曜の昼です。列車の事故がなかったか駅へ行って聞いたり、街で知り合いが……姉の恋人です。彼のところかもしれないと思ったので行ったんですが、来ていないと。私たちは田舎から出てきたものですから、知り合いと言えば、姉の恋人のライオネル以外居なくて、警察に捜索依頼を出したんですけど、」
「警察は適当な処理をしたのね?」
「ほかに恋人を見つけて逃げたとか、借金をして逃げたとか、使い込みがばれそうだから逃げたとか、とにかくひどい理由ばかりをつけられて、でも私は姉がそういう人でないことを知っています。姉はお金以上に大事なものの存在を知っている人です。貧しくてもよそ様のものを取ったりすることはありません」
カロラインはエレノアの手を握り頷いた。
ロバートとサミュエルは少し外れた椅子に座っていた。
ロバートは、さすがカロライン。と感服していた。確かにカロラインは三人姉妹の中でひときわにぎやかで強引な性格だが、誰もかれもが彼女に悩みを打ち明け、そしてその悩みをカロラインは解決してきた。彼女の何がそうできるのか不思議だったが、彼女には特別行動的であるということと、愛情深さがにじみ出ていたのだろう。みんなが彼女になら何でも話してしまう。というのだ。だから、カロラインはいろんな人の秘密を知っていたけれど、そのどれも口外はしなかった。
エレノアもカロラインのその愛情豊かさに落ち着き話をすっかりしてしまったのだろう。
ロバートがサミュエルのほうを見た。サミュエルは先ほどから身動きをしなかった。何か、考えているようだった。
「サミー?」
サミュエルは少し顔を向けた。
「何か、気になることでも?」
「いろいろあるが、今はまだ何とも、形になってないんだよ」
サミュエルはそういってエレノアとカロラインの会話を遠目で見ていた。
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