彼女が存在する世界

 シルフリートはいまだに目覚めたときのまま真っ裸。財布には痛撃だが、彼女のために服を買ってこなければなるまい。最寄りのしむらやまで徒歩で十五分、他に移動手段はない。

 そして重要なことは、留守中に彼女がけがや粗相をしたり、人目に触れたりしないことだ。このアパートは基本的に単身者のための作りで、同居人やペットはNGなのである。


「シルフリート。これからここで生活するのに大切なことを教える。まずは――ご不浄トイレと浴室の使い方だ」


「浴室ですか!? このゴブリンの巣穴のような『げしゅく』にそんなものが?」

 

「うん、その例えはそろそろ勘弁して。帰ったら掃除するから」


 ……だいたいサイコロを一個振って出た目分くらいのダメージを精神に受けた気がする。

 現時点の精神力を参照すること。ダメージ分を引いてマイナスになったら14へ行かねばならない感じだ。


「フォレスティアのものとはずいぶん違うのでしょうね」


「そうだね」


 フォレスティアにおいては、浴室は村や城など拠店の全員が交代で使う、石造りのサウナ風のものが多い。個人の居室にあるなどということは考えられない贅沢なのだった。


 ザバーーーーー ゴボゴボゴボゴボ……


「こ、これは水の魔法なのでは……!」


 水洗トイレの作動を目の当たりにしたシルフリートが目をキラキラさせて便器を覗き込んでいる。いろいろと問題があるが次は浴室。初夜を経験した彼女としては切実に身を清めたいところだろう。俺も同様だ。


「こ、これはやはり、水の魔法なのでは……!!」


「どちらかというとドワーフたちの技術クンスツに近いものだと思うけど、魔法だとすれば火も必要な奴かな――ちょ、何をしてるんだ」


「ひゃあああああああああ?! ――ゲハッ」


 勢いよくほとばしるシャワーの水に感動し、水流を最大にしてシャワーヘッドを洗いたい部位に向けた結果。未知の刺激にさらされのけぞった挙句、後頭部をユニットバスの壁にぶつけてシルフリートはあえなく撃沈した。



「その。なんというかすみません。もう少し慣れればきちんと使えると思います」


 全身にバスタオルとタオルとタオルを巻き付けて即席の服にしたシルフリートが、申し訳なさそうにこうべを垂れた。


「うん。とにかくむやみに大声を出さないように。俺は君の服を買ってくる。さっき説明した通り、留守中火の扱いには特に注意すること。当面、俺がいないときはコンロもシャワーも使わない方がいい」


「わっ、分かりました」


 俺たちはコンビニで買ってきたパンと牛乳と、ブルーベリー入りのヨーグルトで簡単に朝飯を済ませた。ヨーグルトはいたく彼女のお気に召したらしい。ともあれ、これで数時間はテレビでも観て落ち着いていてくれるだろう。

 落ち着く、というか二十一世紀日本の映像文化に脳を蹂躙されておかしくなりそうな気もするが、早く順応してもらうしかない。


 

 コンビニのATMでなけなしの金を2万円ほど引き出し、十五分の道のりを歩いて目的のしむらやに到着。ここはよく知られた郊外型の衣料チェーンストアである。低価格の商品を安定供給し、堅実な商売をしている。実際安い。


 出かける前に巻き尺でシルフリートの体を採寸し、メモを取って来てある。買い物は最小限の時間で片付いた。

 下着コーナーをうろついてるときに中年くらいのご婦人方二人がものすごい目でこちらを見ていたから、時短を心掛けたのは大正解だ。あ、ちょっと奥さんスマホのカメラをこっちに向けるのは勘弁してくれ!


 安いショーツを三枚、彼女のサイズに合わせたブラを二枚。部屋着として薄い黄緑色のジャージ上下、それに靴下を二足と、大きめのニット帽一つ。

 これではとても外出はさせられないが、当面家の中で暮らすには何とかなろうか、いや、多分全然足りないか。




 帰り着いて彼女を着替えさせる。現代日本の服飾品は、彼女に非常な感銘を――やや好ましからざる方向の感銘を与えたようだった。


「スオウ様……この腰布と胸覆いはまるで、まるでその……ヒカリアの港で見た奴隷市場の女たちのようですね。もしや今宵はそういう趣向で……?」


 何で俺は初夜の翌日から新妻相手にそんなマニアックなプレイを強要する想定になってるのだ。大丈夫かこの王女。留守中に何の番組を見た。


「いや、その上からこのジャージを着るんだ。その下着類はこの世界ではごくおとなしい一般的なデザインだから、勘違いしないでくれ」


 そのあと午後はずっと、彼女のために部屋を片付けて時間がつぶれた。空になったペットボトルやコンビニ弁当のガラを片付けるとずいぶん足元がすっきりして、人間の住みからしくなった。


 米を炊き、レトルトのカレーを一袋ずつあけて夕食をすます。明日も早番だし、早めに寝なくては――




 公共放送の大河ドラマに見入っているシルフリートの背中を見ていると、なにやらもくもくと黒雲のように不安がわいてきた。今夜眠ったら俺はまた、フォレスティア王宮の王女の寝室に出現するのだろうか。


 彼女はあの世界へ帰ることができない。だとしたら、俺はエルフの大臣や戦士長、神官たちを前に、いったいどんな詰問を受け、どんな申し開きをすればいいというのだろうか?

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