コピーの世界

舞鶴

コピーの世界

ここは、モスクワ。

この日、ソビエトの最高司令官スターリンはアメリカととある交渉をしていた。

それは、アメリカの新型爆撃機B-69の供与であった。

この件については、以前からアメリカに供与してくれと言っていたのだがアメリカからの返答はなかった。

もちろん、と言っては何だがこの日の返答はNO。

この返答にスターリンは激怒した。


そして、この交渉から少し経った1944年のとある日。

ソビエトの町外れの飛行場に一機の飛行機が不時着した。

その機体の名前はB-69大型爆撃機、アメリカ合衆国の爆撃機である。

日本軍の攻撃によりエンジンが故障し不時着したのであった。

スターリンはこの機体の回収を緊急で命令、搭乗員と共に回収されたのであった。

このことを知ったアメリカの大統領はすぐさまスターリンに連絡をした。

内容は搭乗員と機体の返還であった。

スターリンの返答は搭乗員は返還するが機体は返さないというものだった。この返答に大統領は焦りを感じ始めていた。

なぜなら、日本本土を爆撃するために作った機体で、航続距離がとてつもなく

長くこの機体を使い、尚且つ片道切符の攻撃であればアメリカ本土でさえ攻撃することができるのだからだ。


交渉にスターリンは応じなかったので大統領は、B-69を何としても破壊せよと部下に命令した。

アメリカはソビエトに対しスパイ工作を仕掛けたがすべて失敗してしまった。

スパイ工作がすべて失敗に終わりアメリカ国防省などは、迎撃用戦闘機を開発するかについて議論していたある日。スターリンから一つの提案が出された。

それは、アメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦との不可侵条約である。

条件としては、不可侵条約を結ぶ代わりにB-69の返却を無しにすると

言うものであった。

本土防衛をしようとしていたアメリカ軍はこの条件を渋々受理した。

B-69の安全が確保され安心したソビエトは、この機体の調査を開始した。

そして、B-69のおおよその情報が確保できたとある日、スターリンから驚きの命令が発せられた。それは、B-69のコピーである。

スターリンのめいを受けた、ラヴォーチキン設計局は、さっそく

B-69爆撃機のコピーを開始した。製作過程でいくつかの問題が生じた。

それは、機体のサイズである。アメリカがヤード・ポンド法を採用していたのに対しソビエトはメートル法を採用していたのでサイズが合わなかったのである。

 その結果として、機体が通常より少し大きくなってしまったため重量が500㎏増加してしまった。他の問題もあった。B-69では、火器管制装置かきかんせいそうち(兵器が目標物を正確に射撃するために火器を制御するための機械装置の名)を搭載していたのに対し、ソビエトではいまだに技術の発達が乏しく火器管制装置はコピーできなかった。

ただ、この問題を除けばコピーは可能だったので火器管制装置については後々、解決することにしLaTu40ラボーチキンツポレフソルクという機体名で製造が開始されたのだった。(以下LT40)

 さっそく、スターリングラードの飛行機製造工場で製造が開始された。

製造は順調に進み1945年の終わりにはすでに1500機完成していた。

そして、1946年LT40に初任務が課せられたのであった大日本帝国への

攻撃である。日本へはすでに米軍のB-69爆撃機が飛来していたが、日本の残存している戦闘機・高射砲などの防空網が分厚くなかなか日本を攻撃出来ずにいた、そこで援軍としてB-69より武装を強くしたLT40が飛来すれば多少なりとはが与えられるのではないかという軍部の思いを背負い1946年4月27日日本に向けLT40の大編隊が発進した。

 しかし、日本側の防空網は軍部の予想より手厚く武装を強化しLT40でさえ次から次へと落とされていった。

しかし、そんな中一機だけ部隊からはぐれ無事だった機体がいた。

 ソビエト空軍第53航空団第8部隊第7爆撃小隊所属ペトリャコフ号である。

 日本に飛来する途中、厚い雲の中で編隊から外れてしまい本隊とは違う時間、違うコースで日本に飛来した。

 しかし、ペトリャコフ号が日本に着いた頃にはすでに本隊は壊滅しており、残存している航空機が居なくなるのも時間の問題であった。


ところ変わり、日本軍司令部。

新型機飛来の報告はすぐに司令部に伝えられていた。

新型機の飛来を聞いた司令部は不可能かと思われる命令を発令した。

それは、「」と言うものだった。

軍部の無茶な命令に戦闘機隊は「是非とも軍部の命令を成功させるぞ」

と敵機の鹵獲に動き出した。


場所は変わりペトリャコフ号機内。

ペトリャコフ号の搭乗員たちは本隊に連絡を取っていた。


 搭乗員「司令司令!応答願います!司令!応答願います!」


 司令官機「こちら司令官機、本隊は壊滅した。後は任せたぞ…

      ザーーー」


 搭乗員「司令!応答してください!司令!」


 無線手「機長、本隊は壊滅。残存機は本機のみと思われます…」


 機長「そうか…。ん?なんだあれは?前方に何か見えるぞ?」


 機銃手「あれは…敵機だ!総員戦闘準備!」


 機長「待て!バンクを送っているぞ!」

 ※バンク:ここでは、翼を左右に振り挨拶の様な挙動を示す。


 無線手「機長!敵機からと思われる無線が!」


 機長「何と言っている」


 無線手「我が軍は貴官達が搭乗している機体を欲している。

     機体を鹵獲させてくれるのならば投降せよ。

     拒否するのならば撃ち落とすまでだ。と言っております」


 機長「友軍もいなく、尚且つ敵機に囲まれているこの状況で

    選択肢を寄越して来たか」


 無線手「どうしますか、機長。」


 機銃手「自分は機長の選択に着いて行きます」


 機長「仕方ない、投降しよう」


 無線手「私達に戦意は無い。貴国に投降する。ただ一つだけ

     約束をしてくれ。我々を殺さないでくれ」


 日本軍「貴官達の協力に感謝する。貴官達の扱いについては

     心配するな。大丈夫だ」


こうしてペトリャコフ号と乗組員達は日本軍の厚木飛行場に降り立った。

乗組員たちは手厚くもてなされ、心配していた自分たちの扱いについても

パイロットが言ったとうり捕虜の様な扱いはしないと安全が保障された。

そして、日本軍は鹵獲したLT40の研究を始めた。


ペトリャコフ号が日本に来てから一年たった1947年4月47日LT40を

リバースエンジニアした、試作機が完成したのであった。

名前は「富士ふじ」LT40に瓜二つな機体であった。試験の結果は極めて良好なものだった。日本は「富士」を元に、新型爆撃機の開発に着手する。

 開発は簡単なものでは無かったが日本の技術者達はたった一年で試作機を完成させてしまった。

 機体名「青空しんくう」その姿はまるで、富士が二機横に繋がったような外見をしていた。

 しかし、性能はすごいものだった。航続距離・武装・爆弾搭載量

どれを取っても富士の二倍だった。

日本軍はこの「青空」を使い米軍本土を攻撃すべく量産を開始した。


しかし、現実は非情だった。青空の量産に入った半年後日本が降伏した。

そして、米軍の視察員が訪れた時、視察員は驚いた。

なぜなら、自分の国の爆撃機と丸っきり同じ飛行機が日本軍にあったからだ。視察員は尋ねた。「どうやってこの飛行機を作ったのだと」日本軍

の返答に視察員は納得した。しかし、自分の国で開発した機体が、ソ連に

渡りそれが、日本に渡り尚且つ自分の国が攻撃されようとしていたなど

誰が考えただろうか。


日本が降伏した一か月後、戦争が終わった。


アメリカ・ソビエト・日本の各技術者達は戦争が終わった後三人で集まったという。


「良くコピーしたな」、などと言う会話を交わしながら三人で飲みあったという。


世界に平和が訪れた証拠だった。


               -完ー

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