右と左がわからない

 皆さんは幼い頃、いつ右と左という概念を習っただろうか。

 お箸を持つ手が右で、お茶碗を持つ手が左。日本人ならそんな風にご両親に教わるのが定番かもしれない。

 私自身もおそらく教わったことがある。いつどのように教わったのか覚えていないけれど、現在きちんと理解して生活しているわけだから、何かどこかで教わったのだろう。


 そこで、タイトルの話となるが。

 私は、たまに右と左がわからなくなってしまう。

 大抵の人にはこの意味がわからないと思う。いい歳の大人が、左右もわからないとはどういうことか。私も自分で意味がわからないことはわかっている。けれど、本当なのである。


 もちろん普段の生活では特に不便はない。

「右側の引き出し」とか「通りの左側にあるお店」とか、それは普通に理解できる。ただ、とっさに「右はどっち?」「左はどっち?」と訊かれると、一瞬、わからなくなるのだ。

 え、右?

 右はみぎだから、みぎ? 右って何だ。そうだ。お箸だ。お箸を持つ方だ。左じゃない方。左で箸は持たないから、こっちだ。

 というように頭の中で数秒考えて、ようやく答えを出せる。

 どうしても一瞬「右って何だ? 左って何だ?」と思ってしまう。


 一番ひどいのは車。自分が運転していたり、助手席でナビ役をしているときだ。

 自分が運転しているときは「次右ね」と言われると「え? 右ってどっち? どっち? こっち!?」と大慌てで方向を指差す。

 反対に自分がナビ役のときは「そこを左折して……」と伝え、相手が左車線に入った途端に「ごめん間違った! 右! 右折だった!」となる。どちらも非常に迷惑な話である。そういうときは、あらかじめ左右がわからないことを相手に伝えて配慮してもらうか、実際に方向を指差してもらわなくてはいけない。


 後は視力検査。欠けている部分を答えよ、と言われて、左右を間違えないか少々緊張する。その結果「えーと、右。……じゃなかったすいません、左」と看護師さんからすれば「どうしてそういう間違いをするのか」と意味不明の回答をすることになるのである。


 要するに方向がわかっていても、それを言葉に変換するときに混乱を生じてしまうのだ。だから反対に「左」「右」という言葉を投げかけられても、それをとっさに方向に変換できず、戸惑ってしまうのである。

 なので車の例でいえば、自分一人で車に乗っているときは問題ない。方向をわざわざ左右という言葉に変換する必要がないからだ。

 「フォーク」「スプーン」なら一瞬でわかるのに、なぜ「左」「右」がわからないのか、そこが謎である。

 私の父親も同じ症状を持っているので、遺伝の部分も多少あるのだろうか。


 毎話のことながら、子供の頃の話をしてみよう。

 恥ずかしながら、私は小学生くらいまで「指しゃぶり」の癖があった。赤ちゃんの頃の癖が抜けず、眠るときに右の親指をくわえてしまうのだ。母はこれにもかなり悩まされたという。毛やら何やら、どうも私は母を悩ませるばかりの子供だったらしい。

 指サックをつけるだの、苦みのあるものを親指に塗って口に含むのを嫌だと思わせるだの、色々と祖母と方法を話し合っているのを「別に他人にバレなきゃいいじゃん」と思いながら聞き流していたのを子供心に覚えている。

 それでもなかなかやめられなかったため、右の親指の背にタコができていた。ちょうど、親指を口に入れたとき、前歯が当たる部分だ。そしてそれは年々固くなっていった。


 その癖を改めることをもう諦めていたのだろう、母があるとき言った。

「左右は覚えやすくなったね。右は親指にタコができている方。左はその反対だからね!」

私はうれしくなり笑って同意した。母に言われるまでもなく、その頃には既に自分でもそうやって左右を確認する癖が身に付いていたからだ。

 左右はどっちだろう。そう思って人差し指を使って親指の背を触る。タコがある方。それが右。

 ――どうだろう。小学生の低〜中学年の頃、皆さんは左右という言葉と概念をきちんと結びつけて理解していただろうか。

 今思えば、親指を触ることで左右を確かめていた事実こそが、既にその頃私が左右という言葉と概念とをきちんと結びつけられていなかった証拠のような気がする。


 中学生に上がった頃にはさすがに「指しゃぶり」はなくなった(だろう、たぶん。寝ている間に無意識にくわえていた場合は自覚がないので何ともいえない)。けれど長年前歯が当たり続けた親指にはタコが残り続けた。尋ねられたことはなかったけれど、当時私の親指を見た同級生などは多少疑問を持ったことだろう。私自身は物心ついた頃からあるものなので気にも留めていなかったが、一目見てそれとわかる大きさではあったので。

 そしてそのタコは、すぐ左右がわからなくなる私の強い味方だった。

 親指を触る。右にタコがある。よし右。オッケー。

 それは繰り返すうちに簡略化され、「右の親指のタコを確認する」今度はこれが癖になった。


 けれど時が経つにつれ、そのタコも徐々に薄くなっていった。固く鋭い前歯に晒されることがなくなったのだから当然である。完全になくなったのは大学生の頃か、社会人になってからか……はっきりと覚えていないけれど、現在では何の痕跡も残っていない。母は「きれいになくなってよかったよねえ」と笑ってくれる。


 ただ、一つだけ残念なことは。

 とっさに左右を確認する術を、私は失ってしまったのだ。少し悲しい。


 それでも左右がわからなくなったとき、未だに右の親指を触る癖が抜けない。もうそこにはタコはなく、わかってはいても私は一瞬だけ戸惑うこととなる。

「左右どっちだ、(親指を触る)あれ? ない。いやもうないんだ。ないだろ。ないけど触ったからこっちが右だ。そうだな? ほら、考えてみろ、箸を持つ方だろ。反対は違うだろ。そう、だからこっちが右だ」

戸惑う間に今もだいたいこれくらい考えている。わざと文字に起こしてみたら上記のようになるというだけで、実際は言葉になる前の……「色」のような、思考回路の中で奮闘している、という方が近いか。

 考えてみれば、右の親指を触る時点でそれはもう「右」なのだけれど、タコがあるかどうかで真偽を判断している私は安心できない。左右に迷って戸惑い焦っているせいもある。

 たまに考えれば考えるほどどつぼにハマってわからなくなることもある。そういうときは一旦心を無にして考え直すか、もしくは恥を忍んで周囲の人に確かめるしかない。


 うーん。自分で書いていて意味不明だ。あの、こういう人間もいるんです。


 ここまで書いた後にネット検索をしてみたら「左右盲」という言葉が出てきた。「とっさに左右を指示されると自分の頭で理解できるまでに数秒かかってしまうという症状」とある。おお、正に私が抱えている症状である。

 一定数、そういう人間もいるらしい。なるほど安心した。原因らしい原因は不明とあるので、やっぱり遺伝かもしれないなあ。

 とりあえず、私の周囲には左右盲の人は父以外にいない。

 この気持ち、届け……!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私はステーキが苦手である 道半駒子 @comma05

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ