唯一のフォルダ

湯煙

唯一のフォルダ


――その日、僕は数年前に振られて別れた彼女に電話したんだ。


「はい。三峯です」


 あの日から変わらない懐かしい声。

 自分では嫌いなんだよねと言っていた、かすかに舌足らずな口調。

 でも少しハスキーな声は嫌いじゃないと言っていたね。


「遊佐です。久しぶり……ごめん、電話するつもりはなかったんだけど……」

「久しぶりだね。元気にしてる?」


 僕との昔のことなど気にしていないと判る……明るい返事。

 うん、彼女の中では僕のことはもうはっきり割り切られてるとすぐ判ったよ。


「ああ、元気さ。そっちはどうよ?」

「私も元気にやってるよ。仕事は面倒だけど、まぁそこそこ」


 彼女は相変わらずで、具体的に説明しない。

 そこそこって実際にどうなんだよと聞き返したい気もする。だけど、その答えを聞いたとしても、今の僕が何か言うのは筋違いな気がして昔のようには聞き返せなかった。

 

「そうか良かった」

「で、どうしたの? 用事があるとか?」

「ううん、特に用事はないよ。ただ、ちょっと……」

「ちょっと?」

「元気かなと思ったら、どうしても声聞きたくなっただけだよ」

「そっか、ありがと。相変わらず優しいよね。……んー、でも……長々と話すのも何か違う気がするから、これで切るね? それと……もう私に優しくするなよ。じゃあね」


 彼女の声がプツンと切れた。もう声は聞こえない携帯を耳から離すのが勿体ないような気がして、少し躊躇ためらったあと、その情け無い気持ちと別れるように目の前の机の上にコトリと置いた。

 

 うん、これでいい。

 ほんの一分ほどの会話だけど、彼女の声を聞いてはっきりと気づいたんだ。


 僕は今でも三峯のことが大好きなんだって。


 突然別れを告げられた。

 理由も教えてくれなかった。

 別れてすぐに、別の男と彼女は付き合った。


 二股をかけられたようではなくて、僕との関係にケジメをつけてからみたいだった。それだけが救いだった。

 

 だけど僕は、あまりに突然のことに考えも気持ちも乱れて、彼女を恨んだんだ。

 そしてつい先ほどまでは、三峯のことを嫌っていると思い込んでいた。


 何がいけなかったのかって今だって悩むときがある。

 あれから数年経った今でも、胸の奥でうごめくネットリとした感情の存在を感じることもある。突然、とても辛くなって、やりきれない気持ちをどう吐きだしていいのか判らなくなることもあった。


 だけど、彼女の声を聞いて嬉しかったし、やっぱり愛しいと感じているのが判った。


 ――振られても彼女のことが好き


 たったそれだけのことが、僕は納得できずにいたんだな。

 

 『女は上書き保存、男はフォルダ保存』なんて恋愛感情の性差が比喩されることがある。


 なるほど……と思ったな。

 僕の中には三峯への気持ちはまだしっかりと残っていたよ。

 

 


「ねえ? どうだった? 」


 正面に座って心配そうに僕を見つめている……好きだと言ってくれた女性に伝えなきゃいけない。いつまでも過去に縛られている僕に、三峯と話して自分の気持ちを確認しなさいと叱ってくれたこの女性と誠実に向き合わなきゃいけない。


「やっぱり彼女のことは今でも好きだって判ったよ」

「それで?」

「不思議だね。認めたくないのに、恨んでいたのに……スッキリしたよ。やっと自分を受け入れられる気がする」


 本当に不思議なんだ。

 振られた女に気持ちを残している自分を見つけた。

 そしてそんな自分を受け入れた。

 それだけのことで、ずっとわだかまっていた気持ちがすっきりしたんだ。


 どうしてなんだろう?

 ……判らない。


 でも、どうでもいいことだな。

 今でも好きなのは判ったけれど、昔とは違う。

 また付き合いたいとは思っていないのも確かなんだ。


「それで?」


 僕の情けない気持ちを聞いても苦笑もせずに、彼女は 僕から視線を外さずにいる。この女性のおかげで三峯への気持ちを素直に認め、そして自分の中の彼女を越えられそうだと思えた。だけど……。


「正直、どうしたらいいのか判らない」

「私だけを思うことができないから?」

「そうだね。本当に不思議なくらい気持ちはすっきりしたけどね」

「私は構わないよ? こっぴどく振られた相手でも今も大事なんでしょ? 振られた女の悪口言う男よりよっぽどいいよ。もし私と別れてもきっと悪く言わないと思うもの」

「今はまだ答えは出せないよ。でも、今日からは君島と、君と向き合っていける。もう三峯以外を見ないようにとか、考えないようになんてしない」


 君島はクスッと微笑んで、それまで硬かった表情を崩した。

 クリッとした目が細くなり、口元の柔らかな動きで安心を伝えてくれる。

 その表情がとても愛おしく大切に思えた。

 今は伝えられないけれど、この時感じた気持ちはいつか話そう。


「そう。じゃあ、スタートだね?」

「……そう……なるのかな……」

「だったらいい。今日はここまでにする。……ありがとうね。わざわざ彼女に電話してくれて……」

「いや、君島のおかげで救われたよ。こちらこそとっても感謝してる」


 僕は心から感謝を込めて、頭を下げた。

 自然と、ほんとに自然と頭が下がったんだ。

 

「あ~あ~、ここから見つめ合い、きつく抱きしめ合って熱いベーゼを交わし、そのまま押し倒されて~とかあってもいいシチュエーションなのよねぇ。残念」

「またふざけて……」

「今からでもいいわよ?」

「やめろって」




 この日から、君島のおかげで、三峯のことを徐々に忘れていった僕は幸せだったのだろう。三峯フォルダは、君島フォルダの一部になった気がする。いや、君島の良さを知るために必要なファイル集となって君島フォルダに取り込まれたんだ。僕にはそうとしか思えなくなっていた。



 半年後、僕達は付き合い始め、やがて結婚する。 

 この夜感じた感謝は、プロポーズの時に伝えた。


 彼女の返事は……


「別れなかったからって……これからずっと一緒だからって……私の悪口言っちゃ嫌よ?」

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唯一のフォルダ 湯煙 @jackassbark

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