後日譚
二十年後に、不死王ナーダは二百年余りに及ぶ長い在位に終止符を打ち、奇跡の王子ナーダに王座を譲った。
引退した父ナーダは、心静かに隠棲することを望んだ。山奥に洞穴を掘らせ、その中に居を移して、俗世の雑音が届かぬよう入口を大岩で塞ぐように息子へ命じたという。
若きナーダ王は命令通り、偉大なる父を洞穴の奥に見送った。穴を塞いだ大岩には、高僧ミッシカが封印の呪文を刻み、祝詞を捧げた。それが若き新王にとって最初の仕事であり、ミッシカにとっては最後の仕事だった。
ミッシカはその翌朝、跡形もなく姿を消したのだ。彼を頼りにしていた新王も、家臣たちも民たちも、誰もが驚き騒いだ。しかし王母ジニだけは驚かなかった。アジュラがミッシカのために、不死王ナーダが民衆のためにそうしたように、ミッシカもまた、不死王のために時を長らえてきただけなのだろうと思った。
幸いなことに、新王ナーダの御世になって以降も、高地の小さな王国は衰えなかった。何しろ英明なる不死王の血を継ぐ奇跡の子である。誰もが敬愛し、王もまた懸命に応えた。若い王をないがしろにするような横柄な王族も、もう残ってはいなかった。
ただ残念ながら新王ナーダは、長くは生きなかった。気立てのよい妃との間に一男一女をもうけた後、三十過ぎの若さで病死した。王位を継いだ幼い孫を支えるため、王母ジニは息子の妻とともに尽力した。特に恐ろしい「科学」の流入は厳しく禁じ、父祖伝来の暮らしを守るよう徹底した。その甲斐もあってか、国はますます栄え、民は安らいだ。
ジニはとうとう曾孫の代まで生き、晩年には聖母とまで崇められた。年老いて余命が案じられるようになると、夫がそうだったように不死身となり、故国を見守ってほしいと民衆から望まれるようになった。それが自分の役目だとすれば、当然受け入れるべきなのだろうとジニは思った。
しかしある早朝、ジニは不意に何かに衝き動かされるように屋敷を抜け出し、供もなくただ一人で山道を登り始めた。木陰を見ては休憩し、日暮れまでかかってようやくたどり着いたのは、夫である不死王ナーダの隠れた岩穴であった。
永久の余生を静かに暮らしたいという彼の望みに応えて、誰もこの場所に立ち寄ることが許されていなかった。洞穴を塞いだ岩には苔が生え、蔦が這っていた。
「ナーダ。あなたの妃、ジニです」
岩の奥にその声が届いているのかどうか、何の応えもなかった。それどころか鳥の声も葉擦れの音も、老いた耳にはほとんど聞こえなかった。
大男が何人もかかって運んだ大岩を、杖で自分を支えるのが精一杯の細腕で動かすことなどできるはずもない。老女ジニは、岩に刻まれた呪文を指でなぞってみた。高僧ミッシカが姿を消す直前に、皆の前で施した封印である。とは言えすでに風化して、文字として認識することはできなかった。
「わたしも、あなたのように、不死を背負うことになりそうです。大切な民たちがそれを望むなら、どうして拒む理由がありましょう」
そう微かな声で告げた次の瞬間、誰かが返事をしたような気がして、ジニはゆっくりと周囲を見回した。
――懐かしきジニ、心優しき
あの声だった。まだ若き母だったころ、静まり返った宴の席でアジュラの死を予言した、あの声。キギンの脅迫に屈しそうになった妊婦の体内に湧き上がってきた、あの声。そして、薬酒に酔った新婦の耳へおぼろげに囁きかけた声。
その声を聞かなくなってから、長い年月が過ぎていた。あれは誰の声だったのか、なぜ自分にだけ聞こえたのか。いや、そもそも、本当に聞こえていたのか。ただの空耳、思い込みではなかったか。そうした疑問すら、いつの間にか忘れていた。
しかし今その声は、遠くなった老女の耳に、はっきりと明瞭に語りかけてきた。
――それは、おまえの望んでいることか?
問いかけられた瞬間、ジニの両目から涙がこぼれた。しずくは痩せこけた頬を伝い、封印の岩へと落ちた。
人生はいつも、彼女自身の意思とは無関係に進んでいた。自分の望みなど、考えたことはなかった。そのことに、疑問も不満も感じていないはずだった。しかし、祝言の日のこと、アジュラのこと、ミッシカのこと。次々と思い出されて、涙はとめどなくあふれてくるのだった。
――おいで、ジニ。
声が優しく招いた。
――おまえは私の子を産んだ。それで十分に、人々に尽くしたはずだ。
すると大岩にすがっていたジニの手が、細かに震えだした。震動は彼女自身ではなく、洞穴を塞ぐ岩盤から伝わってくるのだった。思わず手を離すと、封印の文字が砂になって崩れ落ちた。
岩の隙から光があふれ、ジニは後ずさった。大岩がひとりでに動いて、洞穴の中が露わになる。
穴の中は奇妙に明るく、温かな空気が満ちていた。小さな太陽のような行灯が一つ置かれ、岩壁の隅々までを照らしていた。
足元には絨毯が敷かれ、中央に王座が設えられていた。不死王が隠棲する折に運び込んだものとは違う、立派な布張りの椅子。そこに、一人の男が腰を下ろしている。秀でた骨格と引き締まった筋肉、張りのある肌。笑みを含んだ口の周りには豊かな髭をたくわえ、褐色の瞳に穏やかな輝きを湛えていた。
「あなたは……?」
不死王ナーダ。直感はそう告げていたが、それはありえないことだった。どう見ても四十そこそこの、精気に満ちた生身の男が彼だとしたら、洞穴の中だけ時間が逆戻りしたとしか思えない。
「科学、ですよ」
不意に別の、しかしやはり聞き覚えのある声がした。王座の陰から顔を見せたのは、僧衣をまとった若々しい青年だった。
「残されたDNAをもとに、まったく同一人物を新たに誕生させる技術が、海の向こうにはあるのです。どんなに古い細胞からでも、それを取り出すことができれば、人を再生することができる。私たちは、長い時をかけてそれを学んできました」
「私たち?」
「そう、私と、彼女で」
彼の隣に、若い女が寄り添うように立った。
「アジュラ先生……」
侍医として再会したときの衰えた彼女ではなかった。艶やかな黒髪の美しい、ジニの大好きだったアジュラの姿がそこにあった。
「ジニ。会えて嬉しいわ」
アジュラはそう言って歩み寄り、ジニの手を取った。滑らかで温かい手だった。
「不死身になんてならなくてもいいのよ。クローン技術を使えば、あなたは何度でも生まれ直せる。そうして何度でも、新しい人生を生き直せばいいのだわ。大切な思い出はちゃんと外部メモリに保管して、次のあなたに渡してあげるから」
「アジュラ……それではあなたも、生まれ直して、新しい人生を生きているの?」
彼女の肩越しに、ジニは後ろに控える美形の青年僧を見やった。
「ミッシカと一緒に?」
「ええ、そうよ」
アジュラはミッシカを振り返り、微笑んだ。ミッシカもまた、かつて見たことのない柔和な笑顔を浮かべていた。
改めて、ジニは椅子に座っている男を見つめた。その面差しは、自らの息子である奇跡の王子ナーダの在りしころと非常によく似ていた。
「ジニ」
その男が、初めて口を開いた。だがその声を、ジニは何度も聞いている気がした。
「今度こそ、自分の望む人生を歩んでよいのだよ。教師になってもよい、外国へ旅に出てもよい。けれどもしも、いつか気が向いたら、もう一度、私の妃になってはくれないか?」
ジニは賢い老女であった。目の前に起こっているこの信じがたいやりとりが、死期を迎えた自らの幻覚に過ぎないと悟っていた。
しかし恐ろしいとは思わなかった。今、初めて耳にしたナーダの声。若き日の彼女に囁いてきた謎の声は、やはり夫のものだった。とすれば、とうの昔から、彼女は幻に導かれて生きてきたのだ。
「わたしの望みは、もうすべて叶っています。ただ一つを除いては」
ジニは口に出してみた。自分の声が若返っているのがわかった。
「おそばに上がってもよろしいでしょうか?」
今やジニは十六歳の娘であった。白く肌理の細かな手の甲に赤みがさして、夫の方へおずおずと差し出される。ミッシカとアジュラが道を空け、夫ナーダもまた、愛する妃を迎えようと手を伸ばしていた。
一歩、前へ進み出ようとしたとき、足首から力が抜けて、膝から地面に崩れ落ちた。
ジニの体を、たくましい腕が抱き留めた――彼女にとって真の初夜であり、最後の夜の記憶であった。
(了)
不死王の妃 二条千河 @nijocenka
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