最終話 最後の晩餐

 頭痛のまま、交わった。

「まだある」

「うん、キスマーク、まだあるんだ」

「つけられるのいや?」

「そ、そんなことないよ。う、うん」

「私にもつけて。この前、首にうっすらとついていたんだけど、喉仏のところだから人から見えにくいの」

 正樹は優しく首もとに口をつけただけだった。


 翌日、大学を休んだ。ヨリの姿はなかった。二階で眠っていたことを思い出した正樹はトイレに向かった。吐くためではなく、トイレの臭いをかぐためだ。いっさいの汚れはない。ヨリはトイレをしない。していない。確認してから用を足した。

 それから、冷蔵庫をあけた。飲みかけの白ワインが一本あった。きっと父と飲んでいたものだろう。小さなワインクーラーには赤が数本入っていた。相当高価なものらしく、あけられていない。祖父の代からあったものではないか。


 夜まで、一階でぼんやりと過ごしていると、父が六時頃に帰ってきた。

「ヨリはいないのか」

「いない。どこに行ってるかもわからない」

「そうか。おい、正樹、お好み焼きでも食べにいくか」

「お好み焼き?」

 駅前の百貨店の最上階にあるお好み焼き屋は、昔、母と祖父と父と正樹の四人で食べに来たことがあるらしい。正樹は四歳だった。ヨリはそこにはまだいなかった。

「おまえ、こーんなちいさかったんだぞ」

「ああ」

 正樹は無愛想に頷いて、豚玉を頼んだ。店員が鉄板に油をひいて、目の前で焼いてくれた。きれいな円に整えられていく間、父はずっとスマートフォンをいじっていた。

 店員は「どうぞ」と笑顔で言ってテーブルを離れた。綺麗な円に焼き上がったものを、父と二人で切り分けていると、「来ることになったから」とやや神妙な面もちで父は言った。それから二人とも、ぽつぽつと、祖父の話をした。


「おじいさんがヨリと会う前だ。あの人は立派だった」

 と、父は他人のように祖父を語った。

「東大でおじいさんは一番だったんだ」

「ああ」

「十三番目の成績だったんだが、十二人みんな戦争で死んだ。おじいさんだけが生きのこった。おじいさんはおばあさんを早いうちに亡くしてな。よく俺を育てたよ。ヨリがおじいさんと一緒に居着き始めたときはびっくりしたけどな」

「ああ」

「俺が四十五のときにヨリが家に来たんだよな。三十も年齢が違っていても、ヨリとは仲のよい姉弟みたいだった。ヨリは子どもだったけれど、とてもませていた。妹なのに、姉のような人でな。優しい人だ」

「ああ」

「おじいさんが、ヨリと呼べば彼女は二階に上がっていった。俺は一階でやきもきしていたよ。それでな、じいさんが一階に戻って寝ているすきに、ヨリに会いに二階に行ったものだ」

 父はビールを飲みほして、続けた。

「おじいさんが死んで、ヨリは俺の養女になった。だが、法律上でなく形だけの養女だ」

「ああ……ええ?」

 お好み焼きの濃く重く甘い匂いの中に、花の匂いが混じった気がした。

「これで、おじいさんも成仏だな」

 お好み焼きの味はまったくしなかった。父は祖父を超えたつもりらしかった。だが、この家の日々はこれからもまったく変わらないだろうと正樹は思った。これからも父がいない間、ヨリの所へ向かう。正樹はこれからもヨリの首を絞め続け、殺す殺すと優しく言いながらゴムを着けず、へそに白い液体を溜めていく。翌日、疲れた体で犬の臭いのする彼女とデートする。そして……いつかヨリは正樹の所有物となる。


 彼女を入手したのは祖父だ。僕の偉大な祖父。この家と、今の代まで金を残した祖父だ。父はその金を会社のために使い果たした。

 お好み焼き屋にヨリが遅れてやってきて、父は隣にヨリを座らせた。正樹の隣ではなかった。ヨリの髪の毛が、父の肩に少しだけ乗っていた。

「正樹はどうなんだ。彼女のほうは? できたのか。いただろう」

「ああ」

 ヨリは驚いた表情で言った。

「正樹、大丈夫? 女の子は放っておかずにいつも大事にしないとダメよ。ちゃんと会って、大切にしてあげてる?」


 正樹のヘラを動かす手が一瞬止まった。

 それからすぐに豚玉を二等分に切った。四等分が、六切れになり、八等分になる。豚玉をヘラで叩き切るようにする度、鉄板は激しい音を立てた。金属がぶつかり合い、更に十切れにしようとする正樹の手から、父は「もういい」と言ってヘラを奪い取った。

「髪の毛とかに油がついちゃいけない。ヨリの分もとってあげるよ」と父が言った。

「ふふ、ありがとう」

「正樹、まあ、俺もヨリを妻として幸せにしたいと思ってな。ちゃんと結婚することにした。やっと話し合えてな」

「ああ」

「近いうち、妹か弟ができたら、兄として振舞えそうか? お前は、まずは社会に出て、しっかり働いた経験を積んでもらわないと話にならないな。ヨリが一番不安に思っているのはそこだ。ヨリは起きる時も寝ている時も幸せな顔をしていてくれる。そんな顔を見たことがあるか?」


 正樹のキスマークが残っているはずのヨリの顎下。

 それがどうしても陰に隠れて見えなかった。

 そっとTシャツの襟を引っ張って、自分の左胸の上を見た。馬油とレモン汁のおかげで、部分的に黄色くなっているが、キスの痕は綺麗に消えていた。

 ヨリは分けられた皿に手を付けず、結局父が何も言わずに食べた。

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