第4話 バスタオル

 ふと、正樹はヨリとの性行為を思い出した。

「殺してほしいの私。首を絞めてほしい」と二階で彼女から何度も聞かされた。

 怠いキャンパスライフも、臭い彼女も、この一言で正樹から消えていく。ヨリの身体が、正樹は好きだった。達成感が湧いてくる。また支配できた。また支配できた。また支配できた。ソファに腰掛けていると、ヨリはわざわざ床に座ってこちらを見上げる。


 正樹の太腿の上に、手を置いて顔を乗せる。ヨリはそのあと、右手でズボンを撫でる。長い時間、正樹を見つめたまま微笑する。正樹のために飲み物を取りに行こうとするとき、そのまま立ち上がるのではなく、必ず四つん這いになって腰のラインが見えるようにした。


 ヨリの首を絞める力をゆっくりと強めつつ、殴りたくなるくらい綺麗だとか、言葉をたくさんかける。殺してほしいと言われるので、殺したいと言う。


「姉ちゃん、ほんと酒、ゆっくり飲むよな」

「姉ちゃん、じゃなくて、ヨリだよ」

 トイレになぜ行かないの? とは、ずっと聞いたことがない。父も聞かなかった。祖父だけが知っている気がした。

 そこに触れてしまうとヨリを祖父の手に戻すような感覚になるので、正樹も父もあえて聞かないでいたのかもしれない。

 祖父を消していきたい。これは父と正樹の共通の課題だった。だから、この親子はうまくバランスがとれていた。親子でヨリを巡って怒鳴りあった記憶がない。ヨリはおつまみにもいっさい手をつけなかった。同じ屋根の下で生きてきて、お酒を飲むところ以外、見たことがない。

 だが、どうしても「食べないの?」と言えない。


 正樹はバーの天井を見上げて「そういえば、じいちゃんも大学の話してた。東大だもんなーじいちゃん」と、通る声で言った。

「ほんと、頭の良い人だったね」

 姉の髪は相変わらず正樹の腕にかかったままだった。祖父とはどこで知り合ったのか分からなかった。役所での偉い人間だったので、部下の女性の娘だろうか。隠し子だろうか。どうしても聞きたかったが、聞けば、ヨリが去っていきそうな気がした。探ることが怖かった。父もそうなのだろうか。


 曾祖父も、東大だった。父から学歴が下がった。父は、ヨリの兄のように振る舞っていた。祖父が死んで、葬式が終わって、すぐに目立って二階に上がるようになった。

 父は、ヨリに十万円以上もするワインを買ったこともあった。


 会社が儲かっているのかいないのか、父は正樹に一度も漏らしたことがない。ヨリを大学に行かせようと、正樹に相談してきた事があった。祖父とは違う育て方をしようと頑張ったが、結局祖父と同じように二階でワインとおつまみを食べて過ごしている。名家は没落し、その果ての世代が正樹だった。父の会社はこれから大企業になるはずもなく、先は見えていた。二人にヨリは残され、祖父を思う。


 大村家の当主はいま、ヨリを抱いたあとの心地よさと共にいびきをかいている。

 田舎の家は、父の借金で土地もろとも売り払われていた。


「じいちゃんはたくさん本を読んでいる人だったなあ」

「いろいろお話した。ぜんぶ、忘れちゃったけど」

 それを聞いて正樹は笑った。笑ったのを確認してからヨリも笑った。

 ビールを飲み干したとき、目の前が暗くなりはじめた。頭が収縮するように痛く、瞼をあけていられない。

 チェックをすませて、店を出た。マスターが店の外まで送ってくれて「おやすみなさいっ」と言ってずっと手を振っていた。

 道すがら、ヨリはコンビニに立ち寄ることを告げて消えていった。正樹は道ばたに座り込んで、生け垣に倒れ込んだ。

 しばらくして、ヨリが正樹の前に笑顔で立っていた。立ち上がって、千鳥足のまま、玄関の戸をくぐる。そのまま、手を引かれて、二階にあがった。父は一階で寝ていた。ヨリの周到さが快かった。だが、いびきが二階まで聞こえる。


 正樹はバスルームに駆け込んだ。ヨリの歯ブラシを借りる。咥えたままシャワーを浴びる。乱暴に磨き、排水溝に白い泡を流していく。お湯が髪にしみこむと、目が覚めていく。身体のアルコール分が抜けていく気がする。頭痛がごまかされる。バスタオルで身体を拭く。一階のタオルと違って柔らかく、ジャスミンの香りがする。拭うと、水を吸い込んでいるのか吸い込んでいないのかわからない冷たい感触がある。

 橙色の明かりと室内に充満する匂いの中、正樹はベッドに倒れ込んだ。ヨリが上に乗ってくる。「キスマーク」とヨリは言った。

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