第2話 セミダブル

 正樹の彼女の服から、いつも犬の臭いが強烈に漂う。

 靴下に至っては、生暖かいカビだらけの雑巾の臭いがする。

 水虫だなと正樹は思った。

 ヨリのように、笑ってしまうくらいいい匂いがして、自然体でそこにいる、というのがない。

 正樹は、彼女との時間が終わって帰宅して、ヨリと抱き合うと、とても安心できた。


 ヨリのへその窪みからあふれて、つたいおちるくらい、いつも正樹は量を出した。ヨリは避妊具を着けなくても平気だった。たぶん、この二階のどこかにあるのだろうけれど、「ゴムある?」と正樹は聞いたことがなかった。

 彼女と違って、ヨリは頭のてっぺんからつま先まで清潔で、部屋も肉体も服も口臭も、いつも高級な建物のような匂いがした。それは正樹の服の繊維にまで浸食する芳香だった。あまりに匂いが浸透するので、寝ている間に香水を吹きかけられているのではないかと正樹が疑う程だった。防臭スプレーでは歯が立たず、ムシューダや、強烈なミント臭のする防虫剤で服の匂いを除去した。


 着替え終えて、父との食事を用意する。成城石井で買ったフォーをレンジで温めて、二つ並べるだけだ。ヨリの分はない。ヨリは、父や弟の前で、食事をしたことがない。トイレに立つ所も見たことがない。寝ている間に行っているのかも、わからない。


「ヨリが飯を食うところ、見たことあるか?」と父は言った。

 中小企業の社長をやっていて、だらしなく髭を生やしている。頭の禿具合は、性欲の強さを思わせる。

「ない」と正樹はぶっきらぼうに答えた。

「お父さんと同じく、だよ。ヨリがご飯を食べるところ、見たことない」

「同じくか。だよなぁ。俺もないんだ。もう二十年も一緒なのにな。はっはっは」

 父はシューと口元から音を出して髭を拭った。フォーの汁が髭につくので、それを空気を吸うようにして舐めて、二度味を楽しむのを癖にしている。

「トイレも、ご飯を食べているところも、見たことない。姉なのに」

「娘なのに、だな。俺の場合は。だが、親父は見ただろうな」

 父は祖父の話をするとき、必ず天井を見上げる。

「お爺ちゃんは彼女をどこから連れてきたんだろう」

「いやぁ、いろいろ調べたんだが、わからないんだ。お爺さんはな、賢い人だからな、証拠は何も残っていない。この家もヨリも、何もかも所持していたのは結局親父だけなんだよ」

 また父は天井に向かって話していた。


 父とこの話題で幾年月の夜を過ごしただろう。父が仕事で忙しく、家をあけている間、正樹はヨリの部屋に向かう。部屋の中から「はーい」と声がするまで、戸の前で待たなければならない。

 今は父と食事中なので、正樹は何もできない。一階から動けない。ヨリは父のものだ。

 一階は、父と母と正樹で住んでいた。かつては二階に祖父がいた。祖父は部屋を改装し、物置小屋代わりだった二階をワンルームマンションの一室のようにリフォームした。そこにヨリと共に住んでいた。祖父の足腰は死ぬまでしっかりしていたが、階段には滑り止めのステップや転落防止の手すりをつけた。トイレも風呂もキッチンも、一階と二階、それぞれにあった。一つの建物の中に、二つの家が入っている造りだった。


 食事を終え、正樹は自分の部屋に入った。父が階段をそっと上がっていく音がする。階段を上がると、扉があって、内側から鍵をかけられる。向かってすぐ左手にキッチンがあって、右は洗面所とバスルーム、その隣奥がトイレだ。突き当たりがリビング兼ベッドルームで、広く、無駄なものがいっさいない。白いソファの前にあるローテーブルのうえに、赤いノートパソコンが置いてある。いつも音楽再生ソフトが起動されていて、来る人の好みに合わせた曲が用意されている。一人で寝るにはやや大きい、セミダブルのベッドがある。いつも橙色のライトだけで部屋は薄暗く、カーテンは閉まったままだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る