グランドファーザー

猿川西瓜

第1話 正樹

 馬肉を押しつけて効果があるだなんて信じられない。


 人の身体はそこまで敏感に反応するものなのだろうか。


 大村正樹はあばらが少しういた青白い胸に馬油を塗り込んだ。


 肌の荒れやすい母が乳液代わりに顔に塗っていたものと同じだ。


 正樹が七歳の頃に、母は失踪した。今も連絡は途絶えたままだ。もう死んでいるかもしれなかった。

 馬油は薬箱の奥で十年以上使われずにあった。それを捨てて、同じ製造元の新しい馬油を買った。

 母がかつてよく使っていたその新品の馬油を、自分の左胸の上に塗る。入念に塗り込む。うっすらと記憶に残る母が、荒れた皮膚にそうしていたように。

 さらにレモンをもう一度胸にかけた。デパートで買った天然のレモン。まるまる一個分の汁。それを一滴一滴大切に扱う。搾って、指先を十分濡らして、塗る。貧相な胸板を揉む。上半分三つ、下半分二つ、点々と青紫のあざがある。とうてい取れそうにないキスマークだ。


 正樹は大学で「キスマークの消し方」を検索し、ヤフー知恵袋から馬肉を肌にあてるのが一番だということを知った。牛肉や豚肉ではだめなのか。デパートで馬肉を買うより、馬油のほうが効果があるように思えた。

 何より、馬肉をわざわざ一切れだけ買うということが困難だった。胸の上に馬肉を乗せて寝転ぶ姿が滑稽すぎて実行できなかった。


 クーラーをつけっぱなしにして、二階のヨリの部屋で寝た。喉の渇きはなかった。

 二階のシャワーは使い慣れていなくて、いつもカランからお湯を出してしまう。ぬくもった体は血行が良くなり、キスマークの痕が、よけいに鮮明になる。父にどんな冷やかしを受けるかわからないから、若い女のように胸を隠して階段を下りた。


 素早くTシャツを着る。キスマークは一週間では消えなかった。乳首の上で、タトゥーのように刻み込まれていた。大学生活に支障はなかったけれども、早く消えてほしかった。


 今付き合っている彼女の誘いを、レポートを理由に断り続けた。直感が鋭いので、会ったら、必ずヨリの存在がバレる。忙しいフリをした。


 いなくなった母は、ヨリについて、何も言わなかったし、仲良くしていた。ヨリは正樹の姉であり、父方の祖父のお気に入りで、一心同体のようにいつも共にいた。このキスマークはそのヨリにつけられたものだ。ヨリはキスマークをつけるのに慣れている。つけた瞬間、正樹の顔をずっと見ていた。


 ヨリは腰まで届く長い髪をしていた。一本一本がとても細く、どんな照明の下でも艶やかだった。ヨリの眉の間にはほくろが一つあった。小柄で、胸の大きさがないことを申し訳ないと思っているようだ。ことが終わると吸い込まれるように眠ってしまう正樹の寝顔を、ヨリは何度も携帯のカメラで撮影していた。撮ったことを目覚めた正樹に必ず告げた。


 ヨリの身体はしなやかで、柔軟だった。

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