魔法

 荒らされて無残な花壇。

 生き残った植物を鉢に一時避難させて、花壇を元に戻していく。

 その間、彼は黙々と作業している。

 もまた彼の作業を見ながら見よう見まねで手伝った。

 原因の首謀人であるまつりを邪険にすることもなく、

 まつりが困っていたり、間違っていたら優しく教えてくれる。彼の優しさが逆に苦しくのし掛かった。


 一応、荒れた花壇は元通りになった。といっても、綺麗に植わっていた植物はない。

 数鉢、生き残った植物は理科準備室に運び込まれた。

 ひとつひとつ話しかけながら水を遣る彼の後ろ姿。

 まつりはどう声をかけていいものか、考えあぐねている。

 そんな彼が植物に水を遣り終えると、まつりに向き直った。その顔は優しく微笑んでいるが目は腫れている。

「ごめんね。なんか格好悪いところ見せちゃって」

 そう、頬を掻きながら照れ隠しする彼に、

「私が原因なのに……」としか言えず二の句が重い口を開かせない。

 重鈍な空気が二人の間に広がる。

 その時、ポケットに入っていたクッキーを思い出した。

 まつりはポケットに閉まっていた袋を取り出して彼に渡した。

「上手く、出来てはいると思う。ちゃんと味見はしたから。えっと、昨日のお礼」

 だが手元にあった袋をみて青ざめた。

 走り回ったせいだろうか、それとも喧嘩に割って入ったのが原因か。

 まつりの手にした袋の中で、クッキーは無残に粉々だった。

 手を引っ込めようとする、まつりの手から彼はクッキーの袋を奪い取る。

 そして袋から取り出したクッキーを口へと入れた。

 美味しそうに食べる彼の笑顔とピースサインでまつりの方が励まされていた。

 彼が全てのクッキーを平らげたあと、

 差し出された手には一枚の細長い紙ーームエットと言うらしいを持っていた。

 まつりは彼に促されるまま鼻を近付け、

 自分でも驚くほど、素っ頓狂な声を荒げていた。



                      ❇︎


「はうっ!? な、なに?」

 だみ声になるまつりをみて少し、いたずらっ子のような表情を浮かべる彼。

「やっぱり、そんな表情になるよね」

 そういって、まつりの目の前で、ムエットーー香りを試すために用いる細長い紙をチラつかせた。

 ムエットから漂ってくる悪臭は、さっき大隈から漂ってきたものだ。

 まつりが鼻を摘んで苦悶していると、彼はもう一枚のムエットを取り出す。

 思わず身構えてしまうまつりを安心させるように、自分で匂いを嗅いで危険がないことを証明してみせる。

 ジト目になった顔を彼に向ける。彼は苦笑しながら「ほら、嗅いでみて」とばかりにムエットを鼻に近付ける仕草を見せた。


 おずおずと鼻を近付ける。

 飛び込んできたのは、すっきりとした甘さを含んだ花の香りだった。

「私、好きかかも……」と、独り言ちる。

 まつりの反応にそうだろうと満足げに腕組みしながら頷いている。

 彼は綺羅星のごとく瞬いた瞳で饒舌に語り始めた。

「実は、さんが初めに嗅いだものと、今、嗅いだものは同じものです」

 人差し指を立ててのドヤ顔。

 それよりもまつりの脈が一瞬、速くなったのは彼が名前を呼んだからだ。

 男子に名前を呼ばれるくらいどうってことはない。ない筈なのに……

「えっと、どういうこと?」

 まつりが疑問符を顔に浮かべる。待ってましたとばかりに彼は楽しく話し始めた。


「インドールっていってね。本当は糞尿のような匂いがするんだけど、希釈するとお花のような、フローラルっていうんだけど、香りに変化する優れもの」

 聞き慣れない単語に首を傾げながら、まつりは頭に浮かんだ言葉を思わず口にした。

「なんだか……魔法使いだね」

「まあ、おじいちゃんは調香師だったから、作ってる姿は確かにそれっぽかったね」

「チョウコウシ?」

「パヒューマーっていって、香水を創れる人のことかな。僕はパフューマーに将来なりたい」

 将来の夢を語る彼の瞳は綺羅星のように輝いている。普段は物静かでも誰でも得意なことには饒舌になる。彼もその例には洩れずにいた。

「すごーい! だからこうして練習してるんだ。へえー」

 感心と、感嘆の言葉がまつりの口から次いで出た。

「で、今回作ったのはこれ。ボトルがかわいいものがなかったんだけど、試してみてくれるかな?」

 四角い、長方形の小さな小瓶の中で納められた液体が揺らめいている。

 おずおずと緊張した手で、香りを少量だけムエットーー匂いを試す細長い紙に浸ける。

 まつりはゆっくりと鼻に近付けた。

「すごい、なあにこの香り? 甘い蕩けるような香り。お花の匂いだと思うけど」

「中心は、花の香りかな。それだけじゃないけれど、ハートの部分はさんに関係してる」

 また、心臓が弾む。耳に心地よく彼の声がこだました。

 まつりは眉間にしわを寄せて考えてみても、答えなんて浮かばなかった。

 恥ずかしいことに花なんて育てたことは一度もない。全く分からなかった。

「んーダメだ。よくわかんない」

「そうだね、ヒントは名前にある」

「私の? えっと、私の名前は——月下茉莉つきしたまつり。んーわかんないなあ」

 彼は少し間を置いて人差し指を立てて答えた。

「白いお花でね。とっても甘くてどこかフルーティな香りなんだ、ってねジャスミンっていうんだよ」

 彼は、はにかみながら「僕の好きなお花で作ってみようと思って」と付け足して、頬を掻いた。

「茉莉さんの名前を初めて聞いたとき、すぐに覚えたんだよね。香水には欠かせない花の香りのひとつだって」

 彼は理解してそんな言葉を口にしているのだろうか。

 そんな言葉が女子に、響かない筈がない。

 しかも淡い好意が一気に熱を高めるほどの効果があることに。


 茉莉は一瞬、これは香水ではなく惚れ薬なのではないかと。

 彼が本当に魔法使いなんだと思えてならなかった。

 

 手渡された小さな香水瓶は、ほんのりと彼の手の温もりを伝えてくる。

 茉莉は胸に引き寄せて小さな香水瓶に願った。

 

 


 彼はこちらを不思議そうに見やる。

 茉莉は飛びっきりの笑顔を彼に送った。



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彼は、魔法使い 発条璃々 @naKo_Kanagi885

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