パンの薫る休日
村上 茄子吉
第1話
パンの焼けた
何度
自宅から歩いて十五分、程よい運動となる距離にそのパン屋はあった。住宅街の真ん中にぽつんと立ち、一見隠れ家のようにも見えるその店は
店内にはイートインスペースがあり、焼き立てのパンがその場で食べられる。さらに、一杯百円という
もちろん、パン屋の最たる
さてと今日はどのパンを食べようか。なんて悩んでいると、
「いつもありがとうございます。今日も美味しく焼けましたよ」
花のように
「……あ、おはようございます」
いかん、今回も一瞬フリーズしてしまった。
彼女はこのパン屋の店長にして、最大の魅力である
いや、決してパンが美味しくないわけではない。先ほども言った通り、彼女の作るパンはどれも最高の一品だ。ただ、目が合った時には必ず向けてくれる、周りがパッと明るくなるようなあの笑顔には、いかなるパンといえどまったく
「クロワッサンとクルミのパン、あとコーヒーをください」
コーヒー一杯とパンを二ついただき、本を読みつつ午前中のひと時をこの店で過ごす。それがここ最近の休日の
初めてこの店を訪れたのは一年ほど前だ。社会人になって半年、今までは死んだように寝るだけの休日だったが、少し散歩しようかと思える程度には余裕が出てきたころだった。
入社とともに始めた一人暮らしだったので、家での食事はもっぱら
「いらっしゃいませ。ちょうど今、こちらのパンが焼き立てですよ」
「え、あ……はい」
店に入って早々、目の前にいた店員さんに声をかけられてしまった。ここのところ会社以外で人と会話することがほとんど無かったからか、まるで
そもそも、なんで自分はパン屋に入ってしまったのだろうか? いつもはコンビニのパンくらいしか食べないのに、ベーカリーと呼んだ方が
しかし、声をかけられてしまった
そう心に決めて、先ほど
「お買い上げありがとうございます。よろしければ、この焼き立てパンだけでもこちらで召し上がっていきませんか?」
さっきの店員さんだった。
「パンは焼き立てが一番おいしいので。少し
そう言われて棚の向こうを
「コーヒーもありますので、よろしければご一緒にいかがですか?」
「あ、ええと、いただきます」
……完全に食べていく流れになっていた。
昼時には少し早い時間だからか、たまたま自分以外のお客さんはいなかった。せっかくの休日だし、たまにはいいかと、流されるままに早めの昼食をとることにしたのだった。
「おいしく焼きましたので、しっかり味わってくださいね」
その時、初めて彼女の顔をちゃんと見た。まぶしいほどの笑顔がそこにあり、パンの香りがふわりと広がった。と同時に、自分の腹の音が大きく
「ふふ、パンは逃げませんから、ごゆっくりどうぞ」
それが香織さんを初めて見た日だった。
そんな
それからは毎週日曜日の朝、ここに
忙しく働いた平日のあと、ここでゆっくりと流れる時間に身を
「今日はちょっと冷えますね~」
お客さんが少ない時は、こうして話しかけられたりもした。
「そうですね。あ、夕方からは雨が降るそうですよ」
「え! そうなんですか! あちゃ~、洗濯物出しっぱなしだ~」
洗濯物という家庭の話が出て、一瞬どきりとする。
たまにしか話さない中でも、彼女についてわかったことがいくつかある。パンを焼く以外のことはからっきしであること。特に家事は(本人
「あとで
香織さんは最近
先日、勇気を出してそのことについて
つまりこれは、失恋だろうか? いや、そもそも彼女に恋心を抱いていたのだろうか? わからない……わからないが、このことを知った時は胸が苦しかった。食べかけていたパンが喉につまるほどに……
コーヒーを一気に飲み干してなんとか
そんなわけで、ただいま
「ふつうは嫁入り前にすることですよね?」
「いや~、お
なるほど、このパンの美味しさは旦那さんの
なんでも、学生時代から付き合っていたらしく、私と出会ったときにはすでにいつ結婚するかを話し合っている段階だったのだそうだ。
つまり、この恋らしきものは最初から負け試合だったということだ。
あのあと少々落ち込みはしたものの、私は
「ずっと自分のパン屋を持つのが夢だったんですよ。結婚したなら
この店には彼女の夢が詰まっている。ゆっくり流れる時間がある。美味しいパンがある。そしてなにより、香織さんの笑顔がある。それ以上に贅沢な環境なんて思いつかないだろう。だから私は今日も、本を片手にこの店を訪れるのだ。
「今日もおいしくパンが焼けましたよ。どうぞごゆっくりしていってください」
なにせ、彼女の笑顔とともに食べる焼き立てパンは美味しいのだから。
パンの薫る休日 村上 茄子吉 @Sakutarou
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