闇娼楼ーヤミショウロウー
冷一の目覚めは早い。ここでは朝や夜の区別が無いので、明確に時間などは決まっていない。そもそもに時間の流れ自体があやふやなのだから、気にする必要もない。目が覚めたら務めを果たす。それだけの事である。
冷一は寝間着を脱ぎ捨ててさっさと仕事着である舟底袖の着物の帯を締め、送りの法被に袖を通した。
詰所から草履で地面を擦り歩き、舟着き場で付添人を待つ。その日送る彼方人(かなと)の事は、前もって付添人から"渡し"にも伝えられているので、冷一は大抵の事は知っている。だから、冷一は呑気に鼻歌混じりでその小柄な身を縮ませて舟を足で揺らしていた。
冷一は14の子供であった。だが、その歳で死んだにしては、歳には似合わず大人びている。
冷一の生まれは士族の家に奉公していた女に主が手を出した末に出来た奉公人の子である。その経緯から公に育てることもできず、日陰の内で育ったためか病弱であった。生まれもった病は骨を蝕み、時たま全身に激痛を走らせた。
死期が近づいた14の春である。母の奉公先の主が跡取りが出来ずに四方を駆け巡っていると、ひょんな事から冷一に白羽の矢が立ったのだ。己と血縁のある者に家を継がせたかったのだろう。しかし、死期が近いと知った主は跡取りには無理だと悟り、母に気持ちばかりの金をよこして里に帰らせた。その金があれば母と冷一が一生食べていけるほどの額であったが、その道中、追剝ぎに遭い、金目の物を剥がれた挙句、目の前で母が乱暴されるのを見つめる羽目になった。
冷一は母がもがきながら助けを求めてくるのを目の当たりにしたが、泣かなかった。何故かは解らない。不思議と泣けなかったのだ。
それからしばらくして近くに住む老夫婦が助けを引き連れて来た頃には既に母は息絶え、冷一も息絶えだえの有り様であったから、その後間もなく後を追うように死んだ。
みすみす殺されていくのを何も出来ず見つめていた無力感を胸に秘めて尚、泣くことのなかったその歪な心は、死後に冷一が付添人になれなかった一因である。
ふらりと闇の底から明かりが見えた。冷一はよいしょと勢いよく立ち上がり、舟に乗り込んで松明に火をつける。すると、そう経たない内に桐夏が歩いてきた。
桐夏の姿が黄色く浮かび上がる。
「冷一殿、お早いですね。お待たせしましたか?」
「いえいえ、俺も先程着いたばかりです」
そう言って笑う。このよく笑う癖も、こちらに来てから当人の知らぬ間に身に付いた変な癖である。
「今日送る方は"生名(きな-生前の名前-)"が山川藤右衛門、彼方名(かな-死後の名前-)が山神(やまがみ)と言う方です」
「ええ、聞き及んでおります。たしか、その山川家というのは俺が生きていた時に聞いたことある。随分な旧家で、最後は家督を継ぐ者が生まれず御家断絶、でしたな」
言いながら冷一は舟から降りて桐夏の斜め後ろに控えた。送りの仕事は長くとも、立場上は付添人の方が上であるので、冷一は桐夏が見つめる暗闇の向こうを同じように見つめた。
「よくご存じですね。ええ、そうなんです。で、山神殿は生前の行いに目立った悪事はなく、人柄も温厚との事でした。まあ、話してみなければ判りませんが」
桐夏は付添人になってから10回彼方人を送ったので、だいぶ落ち着いて段取りよく役目を果たせるようになっていた。
「慣れたものですね、桐夏サン。しかし、初心を忘れてはなりませんよ。説教なんてのは厚かましいですけど、付添人には人の心が必要です。彼方人に慣れてはいけない。それは是非とも覚えておいて欲しい。私と組んでいた前の付添人は、人の心を忘れて、お役御免となったのですから」
冷一は言うと、見つめる先を指差した。
「来たようですな」
冷一の指す方には恰幅の良い齢50かそこらの男が、ひとりポツンとこちらに歩いてくる姿があった。やはり、暗闇で目が覚めるので大抵の彼方人は明かりを求めるのが普通である。だから、彼方人を船着き場に迷いなく来させるために、送りは松明を灯すのである。
しかし、歩いてくる人影は明かりの随分前で立ち止まり、黒い水の流れを見つめ始めた。
この時ちょうど天界の口がぽっかりと闇の虚空に開いて、白い光があるはずのない月のように闇の底全体を照らしていた。それでも上の方で立ち込める黒煙のような霧が光を薄めて、底は暗いままである。
仕方がないので、桐夏は山神であろう人影を迎えに行った。
「お初にお目にかかる。貴殿、名は」
桐夏が呼び掛けると、彼方人は少し驚いてから背の高い桐夏を上から下へ観た。
「鬼、ではないのだな」
そう言うと、安堵したように深く息を吐いた。
「山神と言うらしい。可笑しなものだ。自分の本当の名が思い出せない」
桐夏はやけに落ち着いている山神を見て、嫌な胸騒ぎを覚えた。
「ここが何処なのか、貴殿はご存じですか?」
ふと、夜見成の事が頭を過(よぎ)ったからだった。
「三途の川の畔(ほとり)なら、服を脱がねばならぬが、そなたも死人(しびと)か?」
どうやらここの事は知らないらしい。桐夏は少し安心した。
「ここは、貴殿を彼方(あちら)側へ渡す船着き場です。心配なさるな。脱衣婆は居りませぬよ。さあ山神殿、こちらへ」
桐夏は山神を舟まで導いた。ふと桐夏は、山神が舟に乗るときに冷一を2度一瞥したのが見えた。だが、冷一がニコリと笑い軽く会釈して挨拶だけしたのを見ると、気のせいと割りきって山神の後を追った。
山神が舟に乗って座ると、桐夏が軽く頷くのを確認して冷一は舟を出した。
「」
屍人の付添人 佐々城 鎌乃 @20010207
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