2-4. 狼小僧、英国一の人気者、僕らの団長

 Nemo


 エドが目を覚ます数刻前。

 バネ足ジャックがエドを抱え、すさまじい速さで木々を飛び越えていくのを、ニーモはぽかんとした顔で見ていた。はっとして走り出したが、すぐ見失ってしまった。

 墓地を出て入り組んだ路地を抜け、ニーモは広場に出た。

 大篝火の夜ボンファイアナイトの喧騒は衰えることを知らず、貴顕きけんから貧民まで、雑多な人々がひしめいていた。混雑は、露店商や歩き売りを呼び寄せる。鉛白を混ぜ込んで白くしたパン、チョークでとろみをつけたミルク、遠いオリエントからの輸入品と騙られた陶器や絨毯じゅうたん、持ち回りを決め徘徊する娼婦たちに至るまで、帝都を代表する商品たちが並んでいる。祭りの見物客を目当てに集まったのは、商人だけではない。掏摸すりに置き引き 、っ払いが 、雑踏の間をって稼ぐ 。

 みな貪欲な生気に溢れた顔つきで、誰一人、ニーモがうつむいて歩いているのに気をとめなかった。


「……わたし、何しに来たの?」


 通りがかった雑貨屋の壁に手をつく。ガラス窓に映る、自分の姿をじっと見つめた。


「……わたしに、何ができるの?」


 ふらふらと歩き出したニーモは、何か柔らかいものに頭から衝突した。慌てて身を剥がすと、豊満な体つきをした娘と目があった。背はニーモよりも頭一つ分高く、派手な顔立ちをしている。

 娘はニーモを見つめて瞬きすると、無言のまま、ニーモの身体を抱きしめた。


「……へ?」


 ニーモはとっさに悲鳴を上げようとしたが、娘の胸の中に押し付けられて声が出ない。娘は人ごみを掻き分け走り出し、広場に面した建物の一つ――金獅子邸という看板を下げた居酒屋パブに飛び込んだ。迷うことなく店内を突っ切り、階段を駆け上がる。

 二階の一室、広場に面した部屋のドアを抜ける。部屋の中には海賊の仮装をした少年がいて、その足元で、小さな子供たちが泣いたり喚いたりしていた。


「おかえり、狼小僧ルー。お、また迷子を連れて来たんか? 」


 少年が娘に向けて狼の毛皮を投げつけると、娘はそれを頭からかぶってみせた。そのときになって初めて、ニーモはこの娘が誰かに気づいた。少年自警団紅はこべスカーレットピンパーネルの一員。裏路地でエドを襲った酔っ払いを、私刑に処した娘だ。


「……このパブは、ピンパーネルの拠点?」


 さきほどの物言いから察するに、自警団はここで迷子を預かっているらしい。

 海賊の姿をした少年が、両手を腰に添えて屈み込み、ニーモを見下ろした。


「お前、さっきエドの旦那と一緒にいた魔女娘じゃん。お前も迷子になったのか?」

「……わたしは、迷子じゃないです」

「へ?」


 少年は頓狂とんきょうな声を上げ、ルーに目を向けた。毛皮を被ったルーは指を猫の手に曲げ振りかざし、子どもたちを脅かしている。さっきまで泣きわめいていた子どもたちが、はしゃいだ様子で駆け回っていた。

 少年が困ったように頭を掻いた。


「ルーはぶっきらぼうなくせして子どもが好きでよ。助けを求めてる子に遠目からでもよく気づいて、片っ端から連れてくるんだ。悪いな、今回は何か間違えたか……」

「……いえ、多分、間違ってはいないです」

「ん? そーか、なんかよくわからんが」


 ふと、ニーモの脳裏にアルバートの姿が過った。幼い容貌にそぐわない、冷たく冴えた目をした少年――彼が暴漢に放った言葉が、耳の奥に蘇る。


『ピンパーネルには独自の情報網がありますので』


 ニーモがはっとして目を見開く。

 ――独自の、情報網。

 ――アルバートさんなら、バネ足ジャックの居場所に心あたりがあるかも――。


「……あの、副団長さんは今何処に……訊きたいことがあるんです」

「アルなら下の広場で歌うところだ」

「……歌う?」

「パレードを仕切るサーカス団の座長に頼まれたんさ。飛入りで歌ってくれって。アルは国王にも負けないくらいロンドン市民に人気があるから、盛り上がるんじゃねえかってよ。ほら、今なら窓から観れるぞ」


 ルーと遊んでいた子どもたちが、悪戯のつもりか、ニーモの仮面を留めていた紐を解いた。ニーモの視界が開け、きらびやかな祭の景色が目に飛び込んでくる。 

 広場は相変わらず混雑していたが、吟遊詩人の仮装をした小柄な少年――アルバートを遠巻きに囲む形で、人波にぽっかりと穴が空いていた。

 着飾った貴族の娘も中産階級ジェントリ風の紳士も、ぼろをまとった浮浪児や物乞いも――ついさっきまでけたたましい声で商品を喧伝けんでんしていた露天商や歩き売りさえ――みな押し黙り、広場はしんと静まり返っている。誰もが少年の一挙一動を見逃すまいと固唾を飲んで見守っていた。その眼差しは、期待に輝いている。

 群衆の輪に紛れていた道化がリュートを取り出し、祭りの夜にふさわしくない哀しげな音を奏で始めた。群衆が手拍子を合わせる。

 アルバートの水晶のような声が、くすんだ空気を突き抜け、夜に伸びた。


 恋人にあげよう 芯の無いリンゴを

 恋人にあげよう ドアのない家を

 恋人にあげよう 彼が入る宮殿を

 彼が開けるのに鍵はいらない


 突然、道化が原曲にアレンジを加え、軽やかなメロディを奏でた。ほとんど不意打ちのような転調だが、群衆の手拍子は乱れない。アルバートの歌声が、みなを導いていた。


 私の頭は 芯の無いリンゴ

 私の気持ちは ドアのない家


 アルバートの声は甘美でなまめかしい一方、根底に揺らぐことのない力がある。がさつで芸術に疎く、自分勝手なことで知られるロンドン市民が、アルバートのため、心を一つにしていた。


 私の心は 彼が入る宮殿

 彼が開けるのに鍵はいらない

  

 歌が止んだとき、しばらくの間、水を打ったような静寂が舞い降りた。やがてぱらぱらと拍手が送られ、ある瞬間、どっと喝采が湧いた。空気の震えを肌に感じるほどの歓声が、広場全体に広がっていく。 

 ニーモの傍に立った自警団員の少年が、誇らしげな笑みを浮かべた。


「すげえだろ? アルは団で一番弱っちくて口も悪いが、いつもみんなをとりこにするのさ」

 

 「もう一度!」「アンコール!」と叫ぶ声があちこちから飛んでくる。道化もリュートの弦を締めなおして準備している。

 それなのに、アルバートはある一点をみつめたまま、動かない。彼の視線の先には金獅子邸の窓――ニーモの姿があった。


「え?」


 ニーモの声と人々の声が揃った。アルバートが無言のまま、観客の輪へ飛び込んでいく。人ごみを盾に隠れて仮装を解き、混雑に紛れてしまった。

 広場に大混乱が巻き起こった。サーカスや自警団の面々が、動揺した群衆をなだめている。

 しばらくして、ニーモたちがいる部屋のドアを荒々しく開け、アルバートが飛び込んできた。人ごみを抜けるのに苦労したらしく、息を切らしている。

 海賊の仮装をした少年が、呆れ顔で声をかけた。


「何してんだよ、アル。抜けて良かったのか?」

「……駄目だよ、あとで座長に叱られる。でも今はそんな場合じゃない……その人に、用があるんだ」


 アルバートはニーモを目で示した。海賊の少年とルーは顔を見合わせ、お互いに首を傾げている。


「おい、アル。その女、何者なんだ?」

「そっか、君らはまだ、彼女と顔を合わせてなかったね」


 アルバートがニーモに向き直った。アルバートは今年で19になるが、ひどく小柄で、見た目には12、3に見える。ニーモと目線が揃う背丈だ。


「どうしてあなたが金獅子邸に? それにその格好は……」

「……えっと」

「今日はまだ、あなたを出迎える準備が整っておりません。無礼をお許しください」


 アルバートは一歩引くと、勲章を受ける騎士のように跪き、ニーモに向けて一礼した。

 ニーモの心臓の鼓動が高鳴る。

 ――アルバートさんは、記憶を喪う前のわたしを知ってる。

 ――でも、どうして。


「……どうして、そんなにかしこまるんですか?」


 アルバートはとんでもない冗談を聞いたという風に笑った。立ち上がり、優し気な眼差しを向けてくる。



  

「あなたは僕らスカーレット・ピンパーネルにとって、切り札となる存在なんです。当然の態度ですよ、




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鴉とひよこの解剖教室 橘ユマ @karamanero

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