2-4. 狼小僧、英国一の人気者、僕らの団長
Nemo
エドが目を覚ます数刻前。
バネ足ジャックがエドを抱え、すさまじい速さで木々を飛び越えていくのを、ニーモはぽかんとした顔で見ていた。はっとして走り出したが、すぐ見失ってしまった。
墓地を出て入り組んだ路地を抜け、ニーモは広場に出た。
みな貪欲な生気に溢れた顔つきで、誰一人、ニーモがうつむいて歩いているのに気をとめなかった。
「……わたし、何しに来たの?」
通りがかった雑貨屋の壁に手をつく。ガラス窓に映る、自分の姿をじっと見つめた。
「……わたしに、何ができるの?」
ふらふらと歩き出したニーモは、何か柔らかいものに頭から衝突した。慌てて身を剥がすと、豊満な体つきをした娘と目があった。背はニーモよりも頭一つ分高く、派手な顔立ちをしている。
娘はニーモを見つめて瞬きすると、無言のまま、ニーモの身体を抱きしめた。
「……へ?」
ニーモはとっさに悲鳴を上げようとしたが、娘の胸の中に押し付けられて声が出ない。娘は人ごみを掻き分け走り出し、広場に面した建物の一つ――金獅子邸という看板を下げた
二階の一室、広場に面した部屋のドアを抜ける。部屋の中には海賊の仮装をした少年がいて、その足元で、小さな子供たちが泣いたり喚いたりしていた。
「おかえり、
少年が娘に向けて狼の毛皮を投げつけると、娘はそれを頭からかぶってみせた。そのときになって初めて、ニーモはこの娘が誰かに気づいた。少年自警団
「……このパブは、ピンパーネルの拠点?」
さきほどの物言いから察するに、自警団はここで迷子を預かっているらしい。
海賊の姿をした少年が、両手を腰に添えて屈み込み、ニーモを見下ろした。
「お前、さっきエドの旦那と一緒にいた魔女娘じゃん。お前も迷子になったのか?」
「……わたしは、迷子じゃないです」
「へ?」
少年は
少年が困ったように頭を掻いた。
「ルーはぶっきらぼうなくせして子どもが好きでよ。助けを求めてる子に遠目からでもよく気づいて、片っ端から連れてくるんだ。悪いな、今回は何か間違えたか……」
「……いえ、多分、間違ってはいないです」
「ん? そーか、なんかよくわからんが」
ふと、ニーモの脳裏にアルバートの姿が過った。幼い容貌にそぐわない、冷たく冴えた目をした少年――彼が暴漢に放った言葉が、耳の奥に蘇る。
『ピンパーネルには独自の情報網がありますので』
ニーモがはっとして目を見開く。
――独自の、情報網。
――アルバートさんなら、バネ足ジャックの居場所に心あたりがあるかも――。
「……あの、副団長さんは今何処に……訊きたいことがあるんです」
「アルなら下の広場で歌うところだ」
「……歌う?」
「パレードを仕切るサーカス団の座長に頼まれたんさ。飛入りで歌ってくれって。アルは国王にも負けないくらいロンドン市民に人気があるから、盛り上がるんじゃねえかってよ。ほら、今なら窓から観れるぞ」
ルーと遊んでいた子どもたちが、悪戯のつもりか、ニーモの仮面を留めていた紐を解いた。ニーモの視界が開け、
広場は相変わらず混雑していたが、吟遊詩人の仮装をした小柄な少年――アルバートを遠巻きに囲む形で、人波にぽっかりと穴が空いていた。
着飾った貴族の娘も
群衆の輪に紛れていた道化がリュートを取り出し、祭りの夜にふさわしくない哀しげな音を奏で始めた。群衆が手拍子を合わせる。
アルバートの水晶のような声が、くすんだ空気を突き抜け、夜に伸びた。
恋人にあげよう 芯の無いリンゴを
恋人にあげよう ドアのない家を
恋人にあげよう 彼が入る宮殿を
彼が開けるのに鍵はいらない
突然、道化が原曲にアレンジを加え、軽やかなメロディを奏でた。ほとんど不意打ちのような転調だが、群衆の手拍子は乱れない。アルバートの歌声が、みなを導いていた。
私の頭は 芯の無いリンゴ
私の気持ちは ドアのない家
アルバートの声は甘美でなまめかしい一方、根底に揺らぐことのない力がある。がさつで芸術に疎く、自分勝手なことで知られるロンドン市民が、アルバートのため、心を一つにしていた。
私の心は 彼が入る宮殿
彼が開けるのに鍵はいらない
歌が止んだとき、しばらくの間、水を打ったような静寂が舞い降りた。やがてぱらぱらと拍手が送られ、ある瞬間、どっと喝采が湧いた。空気の震えを肌に感じるほどの歓声が、広場全体に広がっていく。
ニーモの傍に立った自警団員の少年が、誇らしげな笑みを浮かべた。
「すげえだろ? アルは団で一番弱っちくて口も悪いが、いつもみんなを
「もう一度!」「アンコール!」と叫ぶ声があちこちから飛んでくる。道化もリュートの弦を締めなおして準備している。
それなのに、アルバートはある一点をみつめたまま、動かない。彼の視線の先には金獅子邸の窓――ニーモの姿があった。
「え?」
ニーモの声と人々の声が揃った。アルバートが無言のまま、観客の輪へ飛び込んでいく。人ごみを盾に隠れて仮装を解き、混雑に紛れてしまった。
広場に大混乱が巻き起こった。サーカスや自警団の面々が、動揺した群衆をなだめている。
しばらくして、ニーモたちがいる部屋のドアを荒々しく開け、アルバートが飛び込んできた。人ごみを抜けるのに苦労したらしく、息を切らしている。
海賊の仮装をした少年が、呆れ顔で声をかけた。
「何してんだよ、アル。抜けて良かったのか?」
「……駄目だよ、あとで座長に叱られる。でも今はそんな場合じゃない……その人に、用があるんだ」
アルバートはニーモを目で示した。海賊の少年とルーは顔を見合わせ、お互いに首を傾げている。
「おい、アル。その女、何者なんだ?」
「そっか、君らはまだ、彼女と顔を合わせてなかったね」
アルバートがニーモに向き直った。アルバートは今年で19になるが、ひどく小柄で、見た目には12、3に見える。ニーモと目線が揃う背丈だ。
「どうしてあなたが金獅子邸に? それにその格好は……」
「……えっと」
「今日はまだ、あなたを出迎える準備が整っておりません。無礼をお許しください」
アルバートは一歩引くと、勲章を受ける騎士のように跪き、ニーモに向けて一礼した。
ニーモの心臓の鼓動が高鳴る。
――アルバートさんは、記憶を喪う前のわたしを知ってる。
――でも、どうして。
「……どうして、そんなに
アルバートはとんでもない冗談を聞いたという風に笑った。立ち上がり、優し気な眼差しを向けてくる。
「あなたは僕らスカーレット・ピンパーネルにとって、切り札となる存在なんです。当然の態度ですよ、団長」
鴉とひよこの解剖教室 橘ユマ @karamanero
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